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春風をもって人に接し、秋霜をもって自らを粛(つつし)む。


〜心の経営コンサルタント白倉は、こんな日々を送っています〜

2006.10.31(火)

昨夜寝たのは23時前。3時半ちょっと前にセットした目覚ましの音で目が覚め、3時半過ぎには布団から出ることができました。早起きと言えるでしょう。有り難うございます!新たな一日が始まります。湯の盤の銘に曰わく、「苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」。誠に有り難いことです。感謝、感激また感謝。有り難うございます!
事務所の縁側に出て、東の空を背景にした愛宕山に向かい「おはようございます。今日も良い一日でした。誠に有り難うございます」と過去形で合掌 しました。有り難うございます!蹲いの横で微笑んでいるお地蔵さまに合掌しました。有り難うございます!事務所の仏様にお線香を立てて合掌し、神様に水を入れて柏手を叩きます。神仏習合。正しい日本人の習慣です。有り難うございます!和室でお茶と梅干しを頂きます。有り難うございます!
今日もまた無事に一日を迎えることができました。有り難いことです。有り難うございます!


【論語意訳】述而篇


四.「述而第七、第四章」

子之燕居、申申如也。夭夭如也。

子の燕居(えんきょ)、申申如(しんしんじょ)たり。夭夭如(ようようじょ)たり。


孔子先生が家でくつろいでいる時は、のびのびとして、にこにこと楽しげでおられた。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

燕居、申申如、夭夭如

燕居:何もせずにいること
申申如:ゆったりしてのびやかであること
夭夭如:笑いをたたえ楽しげであること


この章の解説:

金谷治著「孔子」には、次のように書いてあります。

世俗の富貴にとらわれない孔子の日常は、とりわけてそのくつろぎの場では、のどかであった。「のびのびとして、にこやかであった」といわれる。徂徠は「和順の気が内に積まれて外に光彩を発したもので、盛徳の至りだ」と称賛している。


五.「述而第七、第五章」

子曰、甚矣吾衰也。久矣吾不復夢見周公。

子曰く、甚だしきかな、吾が衰えたるや。久しいかな。吾復(ま)たは夢に周公を見ざるや。


孔子先生が嘆いて言われた。

「わしもすっかり衰えた…。夢に周公を見なくなって久しいからのぉ」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

周公:姓は姫(き)、名は旦。周王朝を創建した武王の弟。魯国の始祖。周の文化の開拓者であり、孔子が理想とした人物(吉田公平著「論語」より)。


この章の解説:

安岡正篤著「論語に学ぶ」には、次のように書いてあります。

ああ自分は衰えたなあ、もう夢に周公を見なくなって随分になる、という孔子の慨嘆であります。周公とは、周の国を興して、支那古代に於ける一つの理想国家を創造した周公旦の事であります。孔子は若い時からその周公を理想像として、常に夢に見ておったわけである。この慨嘆は誠に意味深遠で、無限の感慨が含まっている。
人間は熱烈な理想に燃えておれば、自ずから理想像を抱く様になるものでありまして、これは実に人間らしい尊いことである。それがなくなるというのは、要するに単なる情欲とか、とりとめのない仕事に追われてしまうからで、本当に真剣な生活をし、充実した生き方をしておれば、いろいろと具体的な目標、理想像というものがある筈であります。
如何なる時代でも、人間味豊かな、人道的精神に純な人ほど、理想というものを描く。そういう理想の形態を、この悩みの多い人生・世の中に対して、ユートピアと言う。しかしこれは西洋人の言うことです。東洋民族と西洋民族、アジア人とヨーロッパ人とでは、それぞれに特徴があって、理想に対する考え方も大分違います。ヨーロッパ人は理想というものを前にかける、未来に描く。これがユートピアであり、イメージ・ビジョンというものです。
ところが東洋人は、勿論われわれ日本人もその傾向が強いのでありますが、特に東洋人の代表である漢族は、ただ単に理想を前にかける、次代に望む、というだけでは満足出来ない。ユートピアであればあるほど、イメージ・ビジョンであればるほど、それはすでに自分達の偉大な祖先によって実現されたもの、試験済みのもの、と観念したい、そういう要望を持つ。これをよく復古主義などと言うのでありますが、しかしこれは単に過去に憧憬(あこが)れるとか、懐古趣味とか、いうものではない。その実は後ろを向いて前を見ておる。過去を通して未来を考えておるのです。
孔子はその理想を周公に見た。孔子が周公を論ずる、あこがれるというのは、如何に熱烈にユートピアというものを自分自身に持っておったかということに外ならない。これは孔子の熱烈なユートピアであり、イメージ・ビジョンである。それが分からなければ、孔子の周公にあこがれたことが分からない。しかも始終周公を夢に見ておったというのですから、そのあこがれ方は推して知るべしであります。
そういう点から考えても孔子という人は、本当に真剣な理想追求の人であり、又真剣な求道者であった、ということがよくわかる。何事であれ、人間は真剣になると、夢に見る。夢に見るくらいでないと真剣でない。

金谷治著「孔子」には、次のように書いてあります。

孔子は周公を理想としていつも夢にみていたのである。まことに夢多き青年時代、そして、その燃えつづける理想とともに、夢はいつまでもつづいた。しかし、それがいつのころから絶えたのである。「ひどいものだ、わたしの衰えも、久しいことだよ、わたしがもう周公を夢に見なくなってから」。孔子はそれを自らの衰老のせいだと考えた。いつのまにか忍びよる身の衰え、理想を求めつづける孔子自身の意識とは別に、こんな形で忍びよる衰えを、孔子は淋しく感じたのである。周公にささげる熱い思慕とそして身の衰えと、ここには一つの詩があると思う。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

孔子はたいへんなロマンチストであった。若い時分は、毎日のように理想の人物の周公に夢で会っていたのであるから、そして老人になると夢をあまり見なくなるものであるが、周公の夢を見ないことから老衰を感ずるのも、老いてもロマンチストであることを実証する。もちろん、彼の晩年の述懐である。


六.「述而第七、第六章」

子曰、志於道、拠於徳、依於仁、遊於芸。

子曰く、道に志し、徳に拠り、仁に依り、芸に遊ぶ。


孔子先生がおっしゃった。

「正しい道を目指して、(修めた)徳を根拠とし、(徳のなかで最も重要な)仁によって、芸(教養のなか)に遊ぶのさ」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

道、徳、仁、芸

道:古注では、道には一定の形がないから、ただ志向できるだけだと説く。朱子の新注は、人間の日常行うべき道だと説くが、ともに的はずれである。孔子の道とは「先王の道」である。古代の聖人、とくに周公を模範とし、その道つまり周公の作った礼の精神をあきらかにしようというのが、孔子の理想であった。
徳:先王の道、周公の道とはいったい何か。それは徳を根本としている。それは権力ではなく、人間がよき行動によってつみ上げてきた徳の精神的な力がもとである。
仁:道徳のなかでも、とくに人間らしい道徳、つまり人間の社会的な自覚にもとづいた仁を実現することが、中心とならねばならない。
芸:孔子の時代の貴族の教養は、礼・楽・射・御・書・数の六芸(りくげい)であった。ここにいう芸は六芸にあたる。学問と、ときに礼儀作法ならびに武芸のようなスポーツも含まれる。
(以上、貝塚茂樹著「論語」より)


この章の解説:

吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてあります。

「道」という言葉、「徳」という言葉には、いろいろの解釈があるであろうが、宇宙の法則、またその一部分としての人間の法則が、万物に普遍し、万物をつらねて存在すると意識したときに、それを呼ぶ言葉が「道(どう)」であり、そうした法則が、なにか一つのものの上に顕現したものが「徳」であると、私は理解している。そうした理解によってこの条を解すれば、めざし志すものは大きな「道」であるが、先ずよりどころとするのは、自己の上に顕現し獲得された「徳」である。また依りそうものは「仁」、すなわち人間愛、それは(中略)、道なり徳なりのもついくつかの側面のうち、最も重要な側面であるが、それをもっとも身近なものとして依りそい、そうして「芸に游ぶ」、芸とは教養であり、礼楽射御書数の六つが、六芸の名のもとに、もっとも重要な教養であると意識されたようである。人間への愛情によりそいつつ、そうした教養の中にあそんで、人格のはばを広げる。游の字は、元来は「およぐ」という意味であるが、転じて「游ぶ」と訓ぜられるのは、自由な気もちで、その中に身をゆだねる意味である。

吉田公平著「伝習録『陽明学』の真髄」の「三章.黄修易の記録」「四十.住宅建設の喩え」には、次のように書いてあります。

おたずねします。「『論語』の『道に志し、徳にもとづき、仁によりそい、芸に遊ぶ』(述而篇)の一章についてお教え下さい」と。
先生がいわれた、「冒頭の『道に志す』の一句は、以下の三句の努力と関連するから、これだけを切り離すことはできない。家屋を建設することにたとえるならば、『道に志す』とは、土地をえらび資材をあつめてきりもりして住宅を完成させようといつも意欲を持ちつづけることであり、『徳にもとづく』とは、計画がすべて完成し、生活の根拠ができたことであり、『仁によりそう』とは、毎日その住宅にすみついてもはや立ち去らないことであり、『芸に遊ぶ』とは内装を施して住宅を美しく仕上げることである。『芸』とは正義ということであり、道理にかなうことという意味である。詩を朗誦(ろうしょう)し書物を読み、琴をつまびき射的を習うということなどは、実践主体を調教して道に習熟させる方法である。もしも、道を志向しないで芸にうつつをぬかすようでは、もののわからぬ子供が、先に住居をつくることもしないで、やみくもに絵画を買いこんでは正門に掛けようとするようなもので、いったい、どこにかけようというのかね」と。

さすが、王陽明です。わかりやすく的確な譬えで、論語を解説してくれています。


以上の論語意訳は昨日仕上げておいたものです。助かりました。有り難うございます!
朝風呂と洒落込みます。サッパリしました。有り難うございます!本日の早朝勉強会の準備をします。実にやり甲斐のある仕事です。有り難うございます!
日経と山日に目を通します。
6時15分前に事務所を出ます。クライアント先に到着したのは6時。6時15分から早朝勉強会を開始します。さっそく温かいコーヒーを頂きました。ご馳走さまです。有り難うございます!みなさん、大変熱心に勉強会に取り組んでくださいました。有り難うございます!

事務所に戻ったのは9時前。庭に来る雀のために餌(ご飯粒)を投げます。有り難うございます!
事務所和室の御錀をチーンと三回大きく鳴らします。仏間の仏壇にもお線香をあげ、御錀をチーンと鳴らし、「ご本尊様、ご先祖様、今日もみんな幸せでした。長生きすることもできました。有り難うございます」と合掌しました。有り難うございます!台所の神棚に二礼二拍手一礼をします。有り難うございます!朝ご飯を頂きます。コープやまなしの白米に昆布の佃煮とお茶漬けの素を入れお茶漬けを頂きます。これもまた正しい日本人の朝食です。ご馳走さまです。美味しかったです。有り難うございます!食後はちょっと横になります。早朝勉強会は結構疲れるのです。しかし心地よい疲れです。有り難うございます!お昼は、金融機関で用足しをして、そのままエクランに向かい、あのらあめん屋さんに入ります。今日は本当に久しぶりに塩らあめん(○葉らあめん)を頂きました。塩らあめんは、美味しさがはっきりと表れます。やっぱり美味しい、やっぱり最高のらあめんでした。有り難うございます!
午後からはお客様がいらっしゃいました。お土産を頂きました。ご馳走さまです。有り難うございます!その後は、読書をしてのんびりと過ごしました。安岡正篤著「十八史略 上」を読み始めました。思っていたよりもずっと善い本でした。勉強になります。有り難うございます!さて、今日で十月も終わりです。明日からは十一月。湯の盤の銘に曰わく、「苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」。誠に有り難いことです。感謝、感激また感謝。有り難うございます!

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2006.10.1(日) 昨夜寝たのは21時頃。2時半にセットした目覚ましの音でパッと起きることができました。今日はちゃんと早起きできました。有り難うございます!
新たな一日が始まります。湯の盤の銘に曰わく、「苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」。誠に有り難いことです。感謝、感激また感謝。有り難うございます!
事務所の縁側に出て、東の空を背景にした愛宕山に向かい「おはようございます。今日も良い一日でした。誠に有り難うございます」と過去形で合掌 しました。有り難うございます!蹲いの横で微笑んでいるお地蔵さまに合掌しました。有り難うございます!事務所の仏様にお線香を立てて合掌し、神様に水を入れて柏手を叩きます。神仏習合。正しい日本人の習慣です。有り難うございます!和室でお茶と梅干しを頂きます。有り難うございます!
今日もまた無事に一日を迎えることができました。有り難いことです。有り難うございます!


【論語意訳】里仁篇


六.「里仁第四、第六章」

子曰、我未見好仁者、悪不仁者。好仁者、無以尚之。悪不仁者、其為仁矣、不使不仁者加乎其身。有能一日用其力於仁矣乎、我未見不足力。蓋有之矣。我未之見也。

子曰く、我は未だ仁を好む者不仁を悪(にく)む者を見ず。仁を好む者は以て之に尚(くわ)うるなし。不仁を悪む者は其の仁を為すや、不仁なる者をして其の身に加わらしめず。能(よ)く一日其の力を仁に用うるあらんか、我は未だ力の足らざる者を見ず。蓋(けだ)し之有らん。我は未だ之を見ざるなり。


孔子先生がおっしゃった。

「わしは未だに、心から仁を好む人や、心から不仁を憎む人を見たことがないのじゃ」。

「仁を好む人は、仁と一体の人であるから、これ以上のものはない」。

「また、不仁を憎む人は不仁なことがわが身に起こらないように気をつける。(不仁を憎む人は、不仁がわが身に起こらないようにする〔悪いことはしない〕が、積極的に仁道を実践する〔善いことをする〕わけではない。しかし、)仁道を今日から実践しようとすれば、力が足りなくて実践できない人はいないはずじゃ」。

「(志さえ立てれば仁道は必ず実践できるのであるが、)世の中には志があっても力が足りない人がいるのかもしれない。しかし、わしはまだそのような人を見たことがないのじゃ(。ということは、誰もがその気になれば今日から人道を実践できるのじゃ)」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

尚(くわ)うる、加わる、一日、蓋(けだ)し、之有らん

尚(くわ)うる:勝る、これ以上のものはない、最上
加わる:影響する、及ぼす、起こる
一日:今日から、すぐに、一日、一朝
蓋(けだ)し:あるいは、しかし
之有らん:之(力の足りない人)がいるかもしれない


この章の解説:

孔子は、「人は誰も志を立てれば仁道を実践する力があるが、真に仁道を実践している人を見たことがない。真に仁道を実践するためには志さえ立てればいいのであり、志があっても力が足りない人を見たことがない。したがって、誰もが真に仁道を実践することができるはずであるが、そのような人を見たことがない」と、「誰もが志しさえ立てれば真に仁道を実践することができるにも関わらず、そういう人を見たことがない」と嘆いているのです。「良知に到る(致知)」ために「志」を立てて、その方向に向かっていくことが「仁」であり、それを概念で理解している人は少なくないが、行為として実践している人はほとんどいない、ということでしょう。

吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてあります。

この章のはじめの部分は、私にはよくわからないものを含んでいるが、しばらく字を追って説けば、我れ未まだ見ず、我未見、とは、私はまだお目にかかったことがない、ということである。いかなる人物にあったことがないかといえば、一つは仁を好む人間、また一つは不仁を悪(にく)む人間。この二つはたいへん価値をもつ人間であるが、価値をもつ人間であるだけに、まだあったことがない。うち仁を好む人間は、以て之に尚(くわ)うる無き、つまり注文のつけようのない、最上の価値である。また不仁を悪む人間も、それは仁の道徳を行為するものであるといえる。何となれば、不仁者をはねつけて、不仁者の害毒を、自己の身の上に、加えさせないからである。
以上、ことばの表面の意味をひろうだけであるが、以下はややよく理解しうる。もし能く、ただ一日の間だけでも、仁の行為に努力しようというものがあれば、それだけの力量にさえ不足する人間はいない。それだけの力量さえもたないという人間を、自分はまだ見たことがない。つまり仁の行為は、やろうと思えばだれだってできる。できないはずはない、という強い断定であるが、蓋し之れ有らん、我れ未まだ之れを見ざるなり、という最後の二句は、いや、そうした人間も、あるいはいるかも知れない、しかし少なくとも私は、まだ会ったことがないと、まず人間の多様性に思いをはせて、一度下した断定をゆるめるように見せながら、実は、自分にとっては何よりも信頼しうる自分自身の知見の範囲で、さらに断定を強めるという、含みの多い、いいかたで終わっている。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、「我いまだ仁を好む者、不仁をにくむ者を見ず」を「我いまだ仁を好む者の不仁をにくむ者なるを見ず」と読み、次のように訳しています。

わたしはね、正義の実践者と、不正を憎む者とは、似ているけれども、明白な相異があると思っているんだよ。正義の実践者に関してはつけ加えることはないが、不正を憎む者について一言いっておこう。不正を憎む者も不正が広がるのを防いでいるのだから、正義を行っていることに違いはない。しかし、一日でもいいから他人の不正を責めるというマイナスの情熱を自らの正義を実践するというプラスの情熱に転換してみるといい、そうすれば、異(ちが)いが分かるはずだ。他人の不正を憎むエネルギーを持っているのに、自らの正義を実践するエネルギーがないなんて言う者はおるまいよ。そんな者がいると思うかい?おるまいよ。


七.「里仁第四、第七章」

子曰、人之過也、各於其党。観過、斯知仁矣。

子曰く、人の過ちや各(おのおの)其の党に於いてす。過ちを観て斯(ここ)に仁を知る。


孔子先生がおっしゃった。

「人の過ちに、その人の人間性が現れるのじゃ。過ちを観察すると、その人徳の程度がわかるのじゃよ」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

党:なかま、たぐい、種類、人間の程度(人間性)


この章の解説:

安岡正篤著「論語の活学」には、次のように書いてあります。

党は類といってもよい。人は善かれ悪しかれ、その人らしい振舞いをするものである。ことに善功よりも、むしろその過失の方によくその人柄が現れる。仁を仁義の仁と解するのが普通であるが、私はそれほど穿鑿(せんさく:細かい点まで根掘り葉掘り知ろうとする、引用者注)せずに、仁を人と解してよいと思う。善事や功業は人が意識してそのために己を矯める(悪いものをよくする、引用者注)が、不用意の間に暴露する過失というものは自己を露呈するものである。酒の上での失礼などというが、実はその場合が真実なのである。平生は矯めているから出さなかった心事も、酒に酔った紛(まぎ)れに理性が弛(ゆる)んで、ついその矯められていたものが猛然と躍動したのである。しかしそう明らかしてしまえばひっこみがつかなくなるから、世の中を円滑にするために、逆に酒の上は咎めぬことになったので、人間生活の間に自然にでき上がった味のある美習というべきであろう。

吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてあります。

人間が過失をおかす場合は、それぞれその範疇において過失をおかす朱子の注が具体的に説くのによれば、君子は人情に厚いためにあやまちをおかし、小人は人情に薄いためにあやまちをおかす。君子は愛のためにあやまちをおかし、小人は残忍のためにあやまちをおかす。だからその人の過失の種類を見れば、その道徳の程度なり方向がわかる。

渋沢栄一著「『論語』の読み方」には、次のように書いてあります。

明治維新の豪傑で、西郷隆盛は仁愛に過ぎて、過ちを犯した。彼はあくまで人に親切で、部下の青年に対しても仁愛に過ぎ、一身を同志仲間の犠牲として捧げて明治十年の西南戦争は起こったものである。(中略) 仁愛に過ぎるのと残忍に過ぎるのと、どちらがよいかといえば、仁愛に過ぎて過失をする人のほうがよいことは論をまたぬが、本項に孔子が「人の過ちやおのおのその党においてす。過ちを観てここに仁を知る」と言っているのも、この意味だと思う。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、「過ちを観れば相手が仁かどうか分かる」というのが従来の説だが、それではあまりに傍観者的に過ぎるだろう」と解説して、次のように訳しています。

人間の過ちというものは、捉(と)らわれの気持ちから生じるものだ。だから、自分や他人の過ちをつぶさに観察すれば、何に捉らわれているかが分かり、それだけでも一歩善に近付くことができるものなんだよ。


論語意訳を書き終えたのは4時前。朝の日課をやり終えました。有り難うございます!届いたばかりの日経に目を通します。 まだ時間があるので、坐禅を三十分弱組みました。これから坐禅会に行きのですが、慣らし運転です。落ちつきました。有り難うございます!坐禅の後は山日にも目を通します。さて今日は坐禅会の日です。5時半過ぎに家内と一緒に円光院に向かいます。いつものように木板を叩かせて頂きました。有り難うございます!前半、後半とも落ちついて坐れました。有り難うございます!坐禅の後は茶礼です。 お茶を頂きました。有り難うございます!無門閑を勉強しました。有り難うございます! 空手のH先生が参加しており貴重なお話を聞くことができました。やはり名人と言われる人は違います。有り難うございます!

帰宅したのは8時半を回っていました。まず庭に来る雀のために餌(ご飯粒)を投げます。正しい日本人の清々しい朝です。有り難うございます!事務所和室の御錀をチーンと三回大きく鳴らして仏間の仏壇にお線香をあげ、御錀をチーンと鳴らし、「ご本尊様、ご先祖様、今日もみんな幸せでした。そして長生きできました。有り難うございます」と合掌しました。有り難うございます!

それから台所の神棚に二礼二拍手一礼をします。有り難うございます!朝ご飯を頂きます。 坐禅会の後に頂く朝ご飯は本当に美味しいのです。有り難うございます!食後は横になって読書を するなど、ひとやすみです。そして月刊コラム、週刊メッセージを仕上げました。やるべきことはやりました。有り難うございます! 午後からは夢甲斐塾Hさんの送別会に行きました。

とても楽しい一時を過ごすことができました。またHさんから素敵なものを頂きました。そしてMさんに送り迎えしてもらいました。有り難うございます!

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【論語意訳】里仁篇


八.「里仁第四、第八章」

子曰、朝聞道、夕死可矣。

子曰く、朝(あした)に道を聞かば夕(ゆうべ)に死すとも可なり。


孔子先生がおっしゃった。

「(人生の目的は、道を悟ることにある。だから、)朝、道を悟ることができたら、その日の晩に死んでもいい」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

朝夕、聞く、可なり

朝夕:時間の甚だ短いことの譬え
聞く:耳で聞くのではなく、心で悟ること
可なり:心安んずる、満足である、悔いがない


この章の解説:

金谷治著「孔子」には、次のように書いてあります。

道を求めることの強さ、厳しさが伝わってくることばである。「朝ほんとうに正しい道を聞くことができたなら、その晩に死んだとしてもかまわない」。死んでもよいというのは、『論語』のなかで、珍しく厳しくひびくことばである。しかし、死ぬことを重くみて勇ましく解釈するのは孔子の本意ではなかろう。古注はその点を配慮したとみえて、これを孔子晩年の嘆きだとみている。ついに死期の近づいた今日まで、正しい道が世上で語られるのを聞かない、自分の終生の努力にもかかわらずである。もしそれが聞けたなら、自分はいつ死んでもよいと思うのに…。ただし徂徠(そらい)は古注の説を誤りとする。死んでもよいとは甚だしすぎるなどと思うのは、詩を解しないでことばの性質を知らないためであって、要するに道を求める心がこれほどにも激しいということを形容したものであるという。

緑川祐介著「孔子の一生と論語」には、次のように書いてあります。

「朝に道を聞かば」の言葉は、「孔子の最も偉大な言葉の一つで、道を求める情熱の表れである」と吉田賢抗氏は解説している。ここでいう道とは「仁」へ至る道筋(道徳)である。「道」は、論語に沢山でてくる。例えば「何ぞこの道に由ることなきや」(雍也6-15)「道に志し、徳に依り」(述而7-6)「道の将に行われんとするや命なり」(憲問14-38)等々。二番目は、人と「仁」の道との関係を述べたものである。仁に至る道は、人が努力してなし得るものである。人はそのことを自覚して行動することが大切だ、と言うのが儒家の教えである。

渋沢栄一著「『論語』の読み方」には、次のように書いてあります。

道を求めるのに時間を惜しんで励めと、孔子は説いている。人として人たる道を知らなければ、人ではない。自分はすでに老いて余命いくばくもないなどと言って、学問を捨ててしまった者に説き聞かせる。

「人は必ず学ぶことで道を知ることができる。朝に真実の人の道を聞いたら、その日の暮れに死んだとしても後悔しない。その死は、人の道を全うして死んだのである。禽獣(鳥や獣)と同じではない。まして、必ずしもすみやかに死ぬわけではなく、すでに聞いた道を事物に応用できる」。
朝夕というのは、時間の短さを極言して人を勧める言葉である。孔子が死を好んで厭世観を述べたものではない。

わが国の尊皇攘夷に奔走した人とか、維新で国事に尽くした志士は、たいてい自分の信奉する主義を、士道すなわち孔子のいう人の道と信じ、この主義を実行するためには、たとえ一命を捨てても意に介さずと、この「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」の語句を金科玉条として遵奉し、活動したのである。

吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてあります。

宋の朱子の新注に従って、その日の朝、正しい道を聞き得たら、その日の晩に死んでもよろしい、と読むのが、むしろ普通の読み方であり、またそれでよろしいであろう。

古注では、道とは、世に満ちあること、つまり道徳的な世界の出現を意味するとし、そうしたよい便りを聞かずに、自分は死ぬであろう、という孔子の悲観の言葉として読むが、何となくそぐわない。もっとも陶淵明が、「貧士を詠ず」と題する詩に、「朝に仁義と与(とも)に生くれば、夕に死すとも復(ま)た何をか求めん」とうたっているのは、古注の意味でこの句をふまえているようである。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

この短い孔子のことばには、いつもの温厚な調子とは似つかぬ激しい感情がこめられている。古注では、「道を聞く」の道は真実の道というような抽象的なものではなくて、現実に道徳的な社会が実現していることをさすとみる。そして道徳的な理想社会は、自分の一生のうちには実現することはなかろうという絶望に近い感情をあらわしたのだと解する。これにたいして、朱子の新注には、道を真理と解し、朝、真理が知り得たら、夕(ゆうべ)に死んでもよいという、真理を求める積極的な意志を示していると説いている。孔子がこのことばをどんな状況で、どの弟子にむかって話したのかよくわからないけれども、春秋末の乱世のことであるから、、「朝に道を聞いて、夕に死する」ことは、朱子の新注などが説くように、たんに真理を求める気構えをあらわすだけではなく、生命が朝にして夕をはかれない緊迫した社会における、もっと切実な発言であった。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、「孔子のいう『道』とは、抽象的な『真理』ではなく、慈愛と寛容の政治を意味している」と解説して、次のように訳しています。

わたしはね、朝、わが国が慈愛と寛容の政治を採用すると聞いたなら、昼間にそれを確かめ、その日の夕方に死んだって悔いないね。


九.「里仁第四、第九章」

子曰、士志於道、而恥悪衣悪食者、未足与議也。

子曰く、士、道を志して悪衣悪食を恥ずる者は未だ与(とも)に議するに足らざるなり。


孔子先生がおっしゃった。

「士(おとこ)たるもの、道(仁)に志しながら、粗衣粗食を恥じているようでは、ともに道(仁)を語ることなどできない」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

士、議す

士:自立した人間、所謂「おとこ」である。春秋末期の列国では、自由民である卿(けい)・大夫(たいふ)・士・庶人(しょじん)の四つの身分の一つ。最下の貴族階級であり、日本の戦国時代の武士のように、武勇にすぐれた庶人、つなり一般自由民からの出身者が多かった。孔子の弟子は、たいてい武芸とともに学問で身を立てて、士からさらに大夫に出世しようという希望をもっていた(貝塚茂樹著「論語」から)

議す:道(仁)を語り合う


この章の解説:

貝塚茂樹著「論語」には、「弟子をはげましたことばらしいが、だれにむかっていったのかわからないのは残念である」と書いてあります。緑川祐介著「孔子の一生と論語」には、「『士』とは、『卿・大夫・士』の士で、官職に就いている者を言うが、学問修養をしている者も『士』という」と書いてあります。

安岡正篤著「朝の論語」には、次のように書いてあります。

子供でも、健康で純良なものは、うまいの、まづいの、ねむいの何のと、ごねたり、着物や持物のことなどかまうものではない。それより夢中になって、何かやりだすものです。飲食や身辺のことをぐづぐづ言うのは、たいていどこか身体に故障のある子供であります。同じように、大人でも熱烈な理想や仕事を持つ者ほど私事に無頓着なものであります。そうでないのは、やはりどこか不健康児と同じものがあるわけで、談ずるに足りないと申してよいでありましょう。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

自分は士として清く正しく生きるんだ!と宣言しておきながら、衣服や食事が粗末なのを恥じ入るようでは、とてもとても、そんな人物とは語り合う気にもなれないね。


論語意訳を書き終えたのは7時ちょっと前と大変遅くなってしまいました。今日も何とか朝の日課をやり終えました。やれやれ…です。有り難うございます!

庭に来る雀のために餌(ご飯粒)を投げます。日本の清々しい朝です。有り難うございます!

事務所和室の御錀をチーンと三回大きく鳴らして仏間の仏壇にお線香をあげ、御錀をチーンと鳴らし、「ご本尊様、ご先祖様、今日もみんな幸せでした。そして長生きできました。有り難うございます」と合掌しました。有り難うございます!台所の神棚に二礼二拍手一礼をします。有り難うございます!そして朝ご飯を頂きます。コープやまなしの白米にアサリのみそ汁、焼き鮭に大根おろしに白菜の漬け物、昆布の佃煮という正しい日本人の朝食です。ご馳走さまです。美味しかったです。有り難うございます!食後は読書をします。 有り難うございます!

その後、明日の論語意訳を仕上げてしまいました。明日は朝早くから仕事があるのです。これで明日の朝が楽になります。有り難うございます!午後からは甲府商工会議所に行って、企業の相談に応じました。温かいお茶を頂きました。有り難うございます!一旦帰宅して報告書を作成し、今夜開催するクライアント先の勉強会の準備などをします。17時半前にクライアント先に向かい18時から20時過ぎまで勉強会を開催しました。 温かいコーヒーを頂きました。ご馳走さまです。有り難うございます!みなさん熱心に取り組んでくださいました。有り難うございます!

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2006.10.3(火) 昨夜寝たのは22時頃。4時ちょっと前にセットした目覚ましの音でパッと起きることができました。一応早起きできました。有り難うございます!
新たな一日が始まります。湯の盤の銘に曰わく、「苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」。誠に有り難いことです。感謝、感激また感謝。有り難うございます!
事務所の縁側に出て、東の空を背景にした愛宕山に向かい「おはようございます。今日も良い一日でした。誠に有り難うございます」と過去形で合掌 しました。有り難うございます!蹲いの横で微笑んでいるお地蔵さまに合掌しました。有り難うございます!事務所の仏様にお線香を立てて合掌し、神様に水を入れて柏手を叩きます。神仏習合。正しい日本人の習慣です。有り難うございます!和室でお茶と梅干しを頂きます。有り難うございます!
今日もまた無事に一日を迎えることができました。有り難いことです。有り難うございます!


【論語意訳】里仁篇


十.「里仁第四、第十章」

子曰、君子之於天下、無適也、無莫也、義之与比。

子曰く、君子の天下に於けるや、適なく、莫なし、義と之与(とも)に比(したが)う。


孔子先生がおっしゃった。

「君子が天下の物事に対処するときは、『このようにすべきだ』と決めてかかったり、『このようにすべきでない』と決めてかかってはいけない。ただ義に照らして適否を判断し、義に従うだけである」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

君子、適、莫、比(したが)う

君子:理想的な為政者、立派な人格者、道徳人、教養人
適:必ずこのようにしようと心に決めつけること
莫:必ずこのようにしないでいようと心に決めつけること
比(したが)う:従う


この章の解説:

このようにすべきだ、すべきでない、というのは、ある種の色眼鏡、偏りといえるでしょう。したがって、君子たる者、天下を治める場合には、自分の偏った考え方に囚われることなく、大義に従って判断せよ、ということです。仏教的に解釈すると、自我に囚われずに、おおもとの生命(真理、法)に従って判断しなさい、ということです。おれがおれが、という気持ちを抑えて、みんな(生きとし生けるもの、山川草木)のために、と考えることです。

王陽明は次のように解説しています。(吉田公平「伝習録 『陽明学の真髄』」より)

黄勉(こうべんし)問う、適無きなり、莫無きなり、義にこれ与に比うと。事事(じじ)此(か)くの如くするを要するや否なと。先生曰く、固(もと)より是れ事事此くの如くするを要す。是れ箇(こ)の頭脳を識(し)り得(う)るを須(ま)ちて、及(すなわ)ち可なり。義は即ち是れ良知なり。良知は是れ箇の頭脳なりを暁り得て、方(はじ)めて執着無し。(以下省略)

わたりなりに現代語訳すると次のようになります。

黄勉(こうべんし)が「(論語に)適無きなり、莫無きなり、義にこれ与に比うとありますが、何時でもこのようにしなければいけないのでしょうか」と(王陽明先生に)質問した。王陽明先生は、「もちろんである。何時でもこのようにしなければいけない。そのためには、(適無きなり、莫無きなり、義にこれ与に比うという言葉の、)本質を捉える必要がある。(その本質とは、)『義』とは、すなわち『良知』であるということである。『良知』が、(わたしたち人間の)本質であると体得できて、はじめて執着(色眼鏡や偏り)がなくなるのである。

王陽明は義を良知と解釈して、良知を体得することが偏りを無くすことだと言っています。義とはすなわち仁であり、仁を達成した人のことを君子というわけです。

金谷治著「孔子」には、次のように書いてあります。

君子のあり方である。君子が天下のことに対する態度は、それに逆らうこともなければ、執着することもない。自分の主観を去って正義に親しんでいくばかりだ。君子が何事にも正義を標準とするということばは、英霊公篇十八にも「君子は義以て質と為す」とあり、陽貨篇二十三にも「君子は義以て上と為す」とある。

貝塚茂樹著「論語」では、「君子の天下に於けるや、適もなく、莫もなく、義をこれ比(したし)む」と読んで、「りっぱな人、すなわち君子が、天下の人に対するとき、仇敵もなければ、馴れ合いもなく、ただ正義の人とだけ親しみあう」と訳しています。そして、「《適もなく、莫もなく》適・莫については、善・悪、厚・薄などいろいろの解釈があるが、鄭玄(ていげん)が『適』を匹敵の『敵』と同意と読み、莫を貪慕(どんぼ:慕を貪る、引用者注)としたのによった」と解説しています。


十一.「里仁第四、第十一章」

子曰、君子懐徳、小人懐土。君子懐刑、小人懐恵。

子曰く、君子は徳を懐(おも)い、小人(しょうじん)は土(ど)を懐う。君子は刑を懐い、小人は恵を懐う。


孔子先生がおっしゃった。

「君子(教養人)は道徳的に生きたいと願うが、小人(知識人)は富貴に安楽でありたいと念ずる。君子(教養人)はその行動が法律を犯さないことを念ずる(犯したときは責任を取る覚悟をする)が、小人は(法律を犯したときに責任を取らずに)恩恵を与えられることを念ずる(願う)」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

土、刑、恵

土:安楽なこと、土地に安住すること
刑:法律(に基づく刑罰)、規範
恵:恩恵、ご利益


この章の解説:

呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。

先生がおっしゃった。君子は徳に思いを致すが、小人は安住の土地に思いを致す。国家社会についても、そうだ。君子は規範に思いを致すが、小人は受ける恩恵にのみ思いを致す。

小人は、共同体に無批判に安住することしか考えない、しかし、君子は、人間が具えるべき徳について、社会のあり方について考えるのだ。孔子は、こう言っているのである。原文では「徳」と「土」、「刑(規範)」と「恵」に韻が踏んであり、対比が聴覚的な効果を上げる。

吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてあります。

この条には二種の読み方がある。何にしても懐の字は、それをつねに心に懐(いだ)きつづける、それを懐かしむ、それに懐(やす)んずる、という意味であるが、道徳者であり支配者である君子が、なつかしみ安んずるのは、道徳、それに対し、一般人である小人が、なつかしみ安んずるものは、土地。また君子が心がけるものは、刑すなわち法則であるのに対し、小人が心がけるものは、恩恵であると、二種の対比を説いたのであると、古注も新注も、ひとしく説くが、徂徠は別説を立て、君子が、道徳を心がければ、その結果として、支配下の小人は土地に安住する。つまりそれはよい政治である。それに対し悪い政治では、君子が刑罰を心がける、そうすると、その結果として、支配下の小人は、偶然の恩恵ばかりを心がける、と、二句ずつ原因結果でつらなっているとする。つまり、君子徳を懐えば、小人は土を懐い、君子刑を懐えば、小人は恵を懐う、というのが徂徠の説であるが、おそらく徂徠の説の方が、すぐれるであろう。つまり為政篇(三章、引用者注)の、「之れを道びくに政を以てし、之れを斉(ととの)うるに刑を以てすれば、民免れて恥じ無し。之れを道びくに徳を以てし、之れを斉うるに礼を以てすれば、恥じ有りて且つ格(いた)る」と、似た言葉となる。

貝塚茂樹著「論語」では、次のように訳しています。

先生がいわれた。

「貴族である君子は道徳の世界を忘れない。庶民である小人は生まれ故郷を忘れない。貴族である君子は法の制裁を忘れない。庶民である小人は主君の恩恵を忘れない」。

そして、次のように解説しています。

君子が道徳の世界にひかれるということは、故郷を去ってどしどし有徳の君主や大臣のもとにつかえねばならないことを意味する。『論語』のなかには、「士にして居を懐うは、以て士と為すに足らず」(憲問篇第三章)とあり、故郷にひかれ、そこから出られないのは、小人すなわち一般の庶民のことで、士たるもののなすべきことではないといっている。これが孔子時代の士の通念であり、孔子が弟子たちにさとした主眼点であって、第三・四句(「君子は刑を懐い、小人は恵を懐う」、引用者注)は、むしろ付加的部分であろう。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

優れた人物は道徳的世界に安住するが、凡人は土地のような物質世界に安住するものだ。優れた者は、こんな行為をしてはまずくないかと社会的影響に気を配るが、凡人はこうすると得じゃないかと利益にばかり気を配るものさ。

いつもながらの名訳です。さすが。


以上、論語意訳は昨日書き上げたものです。助かりました。有り難うございます!その後朝風呂と洒落込みました。サッパリしました。有り難うございます!庭に来る雀のために餌(ご飯粒)を投げます。日本の清々しい朝です。有り難うございます! さて今日はクライアント先での早朝勉強会です。準備をして6時15分前に出掛けます。6時に到着しました。さっそく温かいコーヒーを頂きました。ご馳走さまです。有り難うございます!勉強会ではみなさん、本当に熱心に取り組んでくださいました。いつも本当に有り難うございます!事務所に戻ったのは9時頃です。事務所和室の御錀をチーンと三回大きく鳴らして仏間の仏壇にお線香をあげ、御錀をチーンと鳴らし、「ご本尊様、ご先祖様、今日もみんな幸せでした。そして長生きできました。有り難うございます」と合掌しました。有り難うございます!それから台所の神棚に二礼二拍手一礼をします。有り難うございます!そして朝ご飯を頂きます。コープやまなしの白米 で作った鮭と昆布の佃煮入りのお茶漬けにアサリのみそ汁という正しい日本人の朝食です。今日はサッパリと頂きました。ご馳走さまです。美味しかったです。有り難うございます!食後は しばし読書をし て、ひとやすみしてから、ちょっとした仕事と雑事をこなしました。有り難うございます!午後からは甲府商工会議所の窓口相談を務めました。相談者は熱心に話を聞いてくださいました。有り難うございます!

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2006.10.4(水)  昨夜寝たのは20時半頃と早かったので。3時ちょっと前にセットした目覚ましの音で目が覚め、3時に布団から出ることができました。早起きです。有り難うございます!
新たな一日が始まります。湯の盤の銘に曰わく、「苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」。誠に有り難いことです。感謝、感激また感謝。有り難うございます!
事務所の縁側に出て、東の空を背景にした愛宕山に向かい「おはようございます。今日も良い一日でした。誠に有り難うございます」と過去形で合掌 しました。有り難うございます!蹲いの横で微笑んでいるお地蔵さまに合掌しました。有り難うございます!事務所の仏様にお線香を立てて合掌し、神様に水を入れて柏手を叩きます。神仏習合。正しい日本人の習慣です。有り難うございます!和室でお茶と梅干しを頂きます。有り難うございます!
今日もまた無事に一日を迎えることができました。有り難いことです。有り難うございます!


【論語意訳】里仁篇


十二.「里仁第四、第十二章」

子曰、放於利而行、多怨。

子曰く、利に放(よ)りて行えば怨み多し。


孔子先生がおっしゃった。

「自分の利益ばかりを追求すると、人から怨まれることが多くなるのじゃ」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

利、放(よ)る、怨み多し

利:『易』文言伝の「利は義の和なり」の「利」は公益・公利(社会・国家のため)であり、ここでは私利私欲の「利」
放(よ)る:依る、放縦(ほしいまま)
怨み多し:多く怨みを受けること
(以上、加地伸行著「論語」と宇野哲人著「論語新釈」から)


この章の解説:

安岡正篤著「朝の論語」には、次のように書いてあります。

利というものは各人自己に都合のよいことでありますから、どうしても他とどこかで衝突するわけであります。否、自分自身の場合でもやがて矛盾が起こる。すべて自然は自律的統一体で、各己が他己と相関連し、そのまま全体に奉仕するようにできておるものですから、自己のわがままを許しません。利はちっとも利にならないのです。

世にいう資本主義的弊害というものは、あらゆる価値の標準を利己的・享楽的な金融的成功とでもいうべきものに置いたことであります。そのために、富めるものよりむしろ貧しい者に物質主義・利己主義を育てました。利一点ばりの考え方を育てたのです。資本家階級の考えること、することは、できるなら自分もやりたい。少なくとも心ひそかに真似たい生活として、貧しい者から羨望されたわけであります。かくして彼等の思想もほとんどまったく物質的になりました。彼らはより多い利潤の配分を要求しましたが、それはより善い生活のため、より道徳的な生活のためではなくて、実はより享楽的な生活のためでありました。その上、労働階級のもつ不幸な分子の絶望的ともいうべき貧困は、〜中略〜およそ精神的な事柄の意味や価値を信ずることを困難にいたしました。

そこで、資本主義の実際の結果は、社会のあらゆる階級の人々に単なる経済的・物質的生活、すなわち利の生活、利ばかりを求める考え方を養ってしまったのであります。それがだんだん悪質な無秩序と革命とを養成したと申すことができましょう。

こういう唯物主義、利一点ばかりの行き方に理論の武器を与えましたものの一つは、世に流行しております唯物史観であります。これによって、多少とも近代的知識を身につけたつもりの人々は、歴史の過程は、人間の物質的・利己的動機に支配されて進んで来たものと解釈しまして、人の世の中のいっさいの出来事を、経済関係に帰して、飯が食えないからこんなことをしたんだ、食うに困らぬからあんなこともできるのだというふうに割り切って説明しまして、歴史上の重大な問題もその決定的な原因を、その時その所における経済状態に帰そうとするような傾向を強くいたしました。これはとんでもない偏見であります。歴史を通観して参りますと、算盤勘定などでは絶対に解釈できない人間の犠牲的精神によって遂行され、それが大きく歴史の進行に影響した問題は枚挙にいとまがありません。われわれ自身の生涯にも同様のことが少なくありません。

伊與田學著「『人に長たる者』の人間学」には、次のように書いてあります。

利を表にした場合は、必ず裏に義がなくてはいかん。義を表にしたときには、その裏に利というものを忘れてはならないということであります。


十三.「里仁第四、第十三章」

子曰、能以礼譲為国乎、何有。不能以礼譲為国、如礼何。

子曰く、能(よ)く礼譲(れいじょう)を以て国を為(おさ)めんか、何か有らん。能く礼譲を以て国を為めずんば、礼を如何。


孔子先生がおっしゃった。

「他人に譲るという礼の根本を以て国を治めれば、何の困難もなく成功するであろう。もし、礼と譲(他人に譲るという礼の根本)を以て国を治められなければ、礼が形式的に整っていても、それでは何の意味もないから、国は治まらないのである」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

譲、何か有らん、礼を如何

譲:心の謙遜なことで礼の根本である
何か有らん:何の難いことがあろうぞという意味
礼を如何:礼を如何ともすること無しという意味


この章の解説:

渋沢栄一著「『論語』の読み方」には、次のように書いてあります。

「虚礼では国を治めることができない」ことを説いている。礼譲で国を治めることを示しているが、この場合、「礼」より「譲」の字のほうに重点をおいて考えるとよい。礼譲は国の幹である。その礼譲を捨てて政治をすれば、人々は利欲をほしいままにしてお互いに奪い合う。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

先生がいわれた。

「礼によってたがいに譲りあう気持ちで国家を治めることができるであろうか。そんなことはいとたやすいことだ。万一、礼によって譲りあう気持ちで国家が治められないとしたらどうだろう。そうなったら、そもそも礼そのものがなんの役に立つだろうか」。

孔子は、謙遜し、譲りあう礼の精神でじっさいに政治を行ったら、かならずうまくゆくと確信している。もし万一、それで政治がうまくゆかないという例がでてきたとしたらどうだろう。そんなことは、礼そのものの存在、その本来の効用を否定するもので、そんなことは絶対にありえないといって、前の説をさらに力強く肯定したのである。孔子は、自問自答しているようにみえるが、たぶん弟子に礼の効用についてきかれて、こたえのたであろう。


十四.「里仁第四、第十四章」

子曰、不患無位。患所以立。不患莫己知、求為可知也。

子曰く、位(くらい)なきを患(うれ)えず。立つ所以を患う。己を知るものなきを患れず、知らるべきを為すを求む。


孔子先生がおっしゃった。

「自分に地位のないことなど気にしないで、どうしたらその地位に相応しい実力を養うことができるかを考えるべきじゃ」。

「自分を理解してくれる人がいないことなど気にしないで、人から理解してもらえるような成果を上げるべく努力するべきじゃ」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

立つ:位に立つをいう(宇野哲人著「論語新釈」より)


この章の解説:

吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてあります。

地位のないことが悩みではない。地位をうるだけの実力がないことこそ悩みである。自分を認めてくれる人がないということは悩みでない。人から認められうべき行為をするように心がけよ。つまり、人間には遇不遇があるが、それは問題でない。あくまでも、自己の実力に自信をもちうるように、実力をつちかえ、というのであって、学而篇第十四の、子曰く、人の己を知らざるを患えず、其の能くせざるを患うるなり。英霊公篇第十五の、子曰く、君子は無能を病(なや)みとす、人の己を知らざるを病とせず、と同趣旨の言葉である。

渋沢栄一著「『論語』の読み方」には、次のように書いてあります。

君子の学問は己に求めて、他人に求めないことである。

人はみな自分が認められず、地位を得られないことを気にやむけれども、これは間違いだ。地位というものは人が認めてはじめて授けられるもので、自分の力ではどうすることもできない。これを悩むのは無益なことだ。

だから君子は地位のないことを悩まず、地位を得てその職についたときは、認められた力を十分発揮するにはどうしたらよいかを常に研究して、自分にその力が不足していないかどうかを考える。また世間が自分の実力を知らず、推挙してくれる者がいなくても、けっしてこれを気にやまず、さらに自分に力をつける努力をするとよい。このように自ら励んで、人を責めるようなことはしないこと、すなわち『論語』開巻第一の「人知らずして慍(いきどお)らず」の精神である。


論語意訳を書き終えたのは5時ちょっと前です。今日もまた朝の日課をやり終えました。やれやれです。有り難うございます!日経と山日に目を通します。 今日も朝風呂と洒落込みました。サッパリしました。有り難うございます!新聞記事をスクラップして、HPを途中まで更新します。

庭に来る雀のために餌(ご飯粒)を投げます。雀が数匹寄ってきました。実に風情があります。正しい日本人の清々しい朝です。有り難うございます!

事務所和室の御錀をチーンと三回大きく鳴らして仏間の仏壇にお線香をあげ、御錀をチーンと鳴らし、「ご本尊様、ご先祖様、今日もみんな幸せでした。そして長生きできました。有り難うございます」と合掌しました。有り難うございます!それから台所の神棚に二礼二拍手一礼をします。有り難うございます!そして朝ご飯を頂きます。コープやまなしの白米に 大根と油揚げのみそ汁、大根おろしに卵焼き、ハムに昆布の佃煮と胡瓜とキャベツの糠みそ漬けに梅干しという正しい日本人の朝食です。ご馳走さまです。美味しかったです。有り難うございます!

食後はしばし読書をし て、仕事の準備をしました。午前中は市内へ出張。診断した企業に出向いて診断報告書の説明をしました。企業で温かいコーヒーを頂きました。ご馳走さまです。有り難うございます!終了後、本当に久しぶりに、吉野家の牛丼を食べました。大変混んでおり、交通整理員が車を誘導していました。もちろん、大盛を食べました。つゆだくです。美味い、やっぱり牛丼は吉野家です。アメリカ産の牛肉だからこそ、この味が出せるのです。よくここまで牛丼抜きでやってきました。吉野家は偉い!経営理念を貫くすばらしい企業です。これもまた、心の経営と言えるでしょう。有り難うございます!午後からは事務所で仕事をこなします。

19時半から「生き方塾(安岡正篤篇)」を開始しました。今日の参加者は五人でした。みなさん、とても熱心に取り組んでくださいました。有り難うございます!

Sさんが写真を撮ってくださいました。有り難うございます!和やかで楽しい一時を過ごすことができました。有り難うございます!参加者のみなさま有り難うございます!

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2006.10.5(木)  昨夜は「生き方塾(安岡正篤篇)」がありましたので、寝たのは24時半を回ってしまい、4時ちょっと前にセットした目覚ましの音にまったく気がつかず、目が覚めたのは5時。布団から出たのは5時ちょっと過ぎと寝坊してしまいました。一応、睡眠時間は確保できました。有り難うございます!
新たな一日が始まります。湯の盤の銘に曰わく、「苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」。誠に有り難いことです。感謝、感激また感謝。有り難うございます!
事務所の縁側に出て、東の空を背景にした愛宕山に向かい「おはようございます。今日も良い一日でした。誠に有り難うございます」と過去形で合掌 しました。有り難うございます!蹲いの横で微笑んでいるお地蔵さまに合掌しました。有り難うございます!事務所の仏様にお線香を立てて合掌し、神様に水を入れて柏手を叩きます。神仏習合。正しい日本人の習慣です。有り難うございます!和室でお茶と梅干しを頂きます。有り難うございます!
今日もまた無事に一日を迎えることができました。有り難いことです。有り難うございます!


【論語意訳】里仁篇


十五.「里仁第四、第十五章」

子曰、参乎、吾道一以貫之。曽子曰、唯。子出。門人問曰、何謂也。曽子曰、夫子之道、忠恕而已也。

子曰く、「参(しん)よ、吾が道は一以て之を貫く」。曽子曰く、「唯(い)」。子出(い)づ。門人問うて曰く、「何の謂(いい)ぞや」。曽子曰く、「夫子の道は忠恕のみ」。


(仁を概念としてしか理解出来ない三期の弟子たちを前にして、)孔子先生がおっしゃった。

「曽参(そうしん)よ、わしの道(天地の法則である道理に照らして義を立てて礼を通じて徳を発するという仁のサイクル)は、ただ一つの原理原則で貫かれているのだよ」。

(他の弟子には分からんかもしれないが、お前なら分かるだろう…)。

曽子が言った。「はい(もちろん分かっています)」。

(しかし、曽子の周りにいた他の弟子たちには、何の事やらさっぱり分からなかった)。

孔子先生が出て行かれると、(他の)弟子たちは曽子に向かってたずねた。

「(さきほど、孔子先生は)何を言わんとしたのでしょうか」。

曽子が答えた。

「孔子先生の仁の道は、忠恕という原理原則に貫かれている、そういうことです」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

一、之、唯(い)、忠恕

一:一つの道理
之:全てを、あらゆる事物
唯(い):「はい」という返事(敬意がこもっている)
忠恕:己の心を尽くして(まごころ)、人の心を推しはかる(思いやり)こと


この章の解説:

孔子の弟子は、大きく分けると一期・二期・三期に分けられるそうです。一期とは、孔子が二十代のころに弟子となった古い弟子で子路がその代表格。二期とは、三十歳を越えた孔子が開いた学校に入学した者たちで、顔回や子貢がその代表。これに一期の先輩も加わります。この学校は、その後、孔子が失脚して流浪の旅に出て、十四年後に魯国に帰国するまでの間、巡回しながら(実に約四十年間)続いていたそうです。そして三期とは、魯国に帰国して落ちつき、七十四歳で亡くなるまでの約五年間であり、短期間ですが、若い学生が多く入門してきて、年齢の順でこの三期の弟子が孔子の学問を継承してゆくことになりました。このように、孔子の弟子は約五十年にわたって出入りしていたので、一・二期グループと三期グループとの間には意識の微妙な相違があった。最も大きな相違は、三期の弟子は流浪の旅という最大の事件にして最悪の状況を体験していないということです。孔子と辛く苦しい流浪の旅を続けた一・二期の弟子たちにとって、孔子は単なる師ではなく、志を同じくする同志という感覚もあったでしょうが、三期の弟子たちは孔子の学校を通じて為政者として就職することが大きな目的であったようです。(以上、加地伸行著「すらすら読める論語」(講談社)を参考にしました)

安岡正篤著「朝の論語」には、次のように書いてあります。

この参と申しますのは、言うまでもなく曽参。孔子より四十六若かったと言われておりますが、まづ孔子門下の最年少者であります。非常に篤実な性格で、能く師の教を信じ、能くこれを実践し、孔子の教学の伝導に非常に功徳のあった人であります。七十になって学名天下に聞ゆと言われておりますから、長生きをして、年と共にますます天下に重きをなした人のようであります。この曽参のことを孔子は参は魯なり(先進篇)と言っておりますから、頭の回転は悪かったのでしょう。秀才肌ではなくって、篤実な人であったのです。私心・邪心無く、師を信じ、直観に豊かであった人と思われます。この曽参に向って、ある時孔子は吾が道一以て貫く、この貫という文字を一に「行う」とも読みます。一以て之を行う、どちらでもかまいません。すると曽子曰く唯と。唯というのはハイという丁寧な返事であります。礼儀ぬきの親しい狎れた返事は阿と申します。「うん」というようなところ。ここはハイという丁寧な返事です。

門人が曽子に、あれは一体何のことですかと問うた。吾が道一以て貫く。ハイじゃ分からない。しかしこれは千言万語よりも味の深いことであります。曽子は答えた、先生の道は忠恕に外ならない。忠とは理想を追求し、進歩向上を求めてやまぬ精神・努力を申します。恕は、それに伴って、一切を包容し育成してゆく仁愛の寛容であります。恕によって忠はますます偉大になります。恕をゆるすと読むのが普通であります。ゆるすというのは寛容のことであります。自然は・造化は・天は、大いなる愛であり、大いなる生育の努力でありますから何物をも捨てません。一切を包容し、一切を育成して行くものです。忠は恕の中に収めることもできます。そこで時によっては恕という一字でも孔子の教を説くことがあります。恕は文字そのものの成立が非常に面白い。「如」と「心」の組合せで、造化そのまま(如)の心です。如はまた女性の領域を表し、女性の天分が仁と恕にあることを明らかにしています。

仁とは忠恕であり、忠恕は恕の一文字で表される。恕とは造化そのまま、天地人(この世)の道(真理)のことです。三期の弟子のなかで、最も孔子の教えを体現していたのは曽子でした。その曽子は孔子に「参や魯(曽参は鈍い)」と言われており、けっして頭の切れる人ではなかった。おそらく、同じ三期の弟子である子夏や子張といった秀才に比べると理解力は劣っていたのだと思います。しかしその曽参が最も孔子の教えを体現していた、というところに、孔子の教えの本質があるのです。孔子が求めたのは「知ること」「理解すること」ではなく、「知ったこと」「理解したこと」を実践して、徳を発すること(道徳を実現すること)だったのです。

吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてあります。

孔子の行動なり思想は、現象としては、さまざまのあらわれ方をするが、その根柢には、統一したものがつらぬき流れている。統一したものの内容は、忠と恕である、ということが、曽子には、よく分かっていたので、ひびきに応ずるごとく、ただ「唯(い)」、はい、とこたえた。「唯」の字の意味は、「はい、さようでございます」という丁寧な返事であって、ただいまの中国語で、「是(し)」というのにあたるであろう。〜中略〜要するに曽子が、このただ一語だけでこたえたというのは、曽子のおちついた、しかし、鋭敏な人がらをよくうつし得ている。(中略)

一以て之を貫く、という言葉は、英霊公篇第十五にも、子貢と孔子の対話として、

子曰く、賜や、女(なんじ)は予(わ)れを以て多く学びて之を識る者と為すか。
対えて曰く、然り。非なるか。
曰く、非なり。予は一以て之を貫く。

と全く同じ表現が見え、両者考えあわせて、孔子の思想と行動は、一つのもので統一されている。


十六.「里仁第四、第十六章」

子曰、君子喩於義。小人喩於利。

子曰く、君子は義に喩(さと)る。小人は利に喩る。


孔子先生がおっしゃった。

「教養人は義に目覚め、知識人は利に目が眩(くら)む」


この章に出てくる重要な言葉(概念):

喩(さと)る:奥深くまで知る、敏感である、素早く理解する


この章の解説:

安岡正篤著「朝の論語」には、次のように書いてあります。

すべて物事は人相応に理解するもの、さとるものである。ただの人間はいつでも算盤をはじいて、なるほどこれが得だというようなことでないとわからない。できた人は、これは得だというようなことではなく、なるほど人はこうなければならぬ、こうしなければならぬという、すなわち義にさとる。

渋沢栄一著「『論語』の読み方」には、次のように書いてあります。

君子と小人とはその心ばせがまったく違う。君子は事に臨んで、それがはたして正しいことか、道理に合っているかということを考え、それを行動の判断基準とした。すなわち道義に従って行動した。これに反して小人は常に私利私欲を考え、万事につけて利害を目安に行動する。すなわち利益にさえなれば、たとえそれが道義に反することでも、いっさい無頓着だ。

私はどんな事業を起こすにあたっても、またどんな事業に関係する時でも、利益本位には考えない。この事業こそは起こさねばならない、この事業こそは盛んにしなければならないと決めれば、これを起こしこれに関与し、あるいはその株式を所有することにする。私はいつでも事業に対するときには、まず道義上から起こすべき事業であるか盛んにすべき事業であるかどうかを考え、損得は二の次に考えている。

このように同じ物を見、同じ言葉を聞いても、君子はこれによって道義を行おうと思い、小人はこれによって儲けようと思う。その思想には天地の差が生じ、その行為もまた雲泥の差が出てくるのである。

加地伸行先生は君子を「教養人」、小人を「知識人」と訳しておられますが、この章ほどその訳が適している章はないでしょう。


論語意訳を書き終えたのは7時ちょっと過ぎ。寝坊するとこういう時間になってしまいますが、何とか朝の日課をやり終えました。やれやれです。有り難うございます!

日経と山日に目を通し、庭に来る雀のために餌(ご飯粒)を投げます。雀が数匹寄ってきました。実に風情があります。正しい日本人の清々しい朝です。有り難うございます!

事務所和室の御錀をチーンと三回大きく鳴らして仏間の仏壇にお線香をあげ、御錀をチーンと鳴らし、「ご本尊様、ご先祖様、今日もみんな幸せでした。そして長生きできました。有り難うございます」と合掌しました。有り難うございます!それから台所の神棚に二礼二拍手一礼をします。有り難うございます!そして朝ご飯を頂きます。コープやまなしの白米に 大根と油揚げのみそ汁、大根おろしに昆布の佃煮、アスパラとベーコンの卵炒め、白菜の漬け物に胡瓜の糠みそ漬けという正しい日本人の朝食です。ご馳走さまです。美味しかったです。有り難うございます!

食後は ちょっと横になります。寝不足なのです…。9時から仕事をします。一つの仕事を仕上げました。有り難うございます!昼前に出掛けます。途中吉野家によって牛丼を食べます。二日連続です。やっぱり美味しい!満足です。有り難うございます!13時から17時まで富士吉田商工会議所で窓口相談を勤めました。相談者に感謝されました。有り難うございます!

帰宅したのは19時前。明日の朝は駅前掃除ですから、早く寝ます。有り難うございます!

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2006.10.6(金)  昨夜帰宅したのは19時前。風邪のひきはじめのような頭痛がしたので、HPを更新して20時頃には布団に入りました。グッスリ寝て目が覚めると、頭痛も治っていたので4時半には布団から出ました。よかった、よかった。有り難うございます!
新たな一日が始まります。湯の盤の銘に曰わく、「苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」。誠に有り難いことです。感謝、感激また感謝。有り難うございます!
事務所の縁側に出て、東の空を背景にした愛宕山に向かい「おはようございます。今日も良い一日でした。誠に有り難うございます」と過去形で合掌 しました。有り難うございます!蹲いの横で微笑んでいるお地蔵さまに合掌しました。有り難うございます!事務所の仏様にお線香を立てて合掌し、神様に水を入れて柏手を叩きます。神仏習合。正しい日本人の習慣です。有り難うございます!和室でお茶と梅干しを頂きます。有り難うございます!
今日もまた無事に一日を迎えることができました。有り難いことです。有り難うございます!


【論語意訳】里仁篇


十七.「里仁第四、第十七章」

子曰、見賢思斉焉、見不賢而内自省也。

子曰く、賢を見ては斉(ひと)しからんことを思い、不賢(ふけん)を見ては内(うち)に自ら省みる。


孔子先生がおっしゃった。

「徳のある人を見れば、自分もまたこの人のようにありたいと思い、徳のない人を見れば、自分もまたこの人のようではないかと反省する」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

賢、不賢、内、省みる

賢:徳のある人、(才能徳行の他人より)すぐれた人物、人格者、教養人、君子
不賢:徳のない人、徳のない知識人、小人
内:心
省みる:反省する、省く


この章の解説:

吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてあります。

すぐれた人物にあったら、自分もそれと同じようになりたいと思え。つまらない人間にあったら、自分も同じ条件をもたないか、内に向かって自ずから反省せよ。「かしこい」という日本語は、必ずしも、賢という漢字の意味をつくさない。すぐれた人物、えらい人物が、賢である。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

自分よりまさる人を見ると、劣等感を抱いて嫉妬し、自分より劣った人を見ると、優越感を覚えて安心するのが人情であるが、孔子はそれとは逆に、すべてこれを鏡として自己反省を行う。


十八.「里仁第四、第十八章」

子曰、事父母幾諫。見志不従、又敬不違。労而不怨。

子曰く、父母に事(つか)えては幾諫(きかん)す。志の従われざるを見ては、又(また)敬して違(たが)わず。労して怨(うら)みず。


孔子先生がおっしゃった。

「父母につかえるときは、もし父母に過ちがあっても、心を穏やかに、それとなく諫める。父母がその諫めを聞き入れてくれない場合でも、敬意をもって慎み、その意見には逆らわない。父母が無理難題を言って、そのために苦労するようなことがあっても、決して父母を恨んではならない」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

幾諫(きかん)、志、従われざる、違(たが)わず、労す

幾諫(きかん):心穏やかにそれとなく諫めること、幾は微(わずか)という意味
志:父母の志、父母の気持ち
従われざる:父母が自分の諫めに従わないこと
違(たが)わず:父母を敬する心に変わりのないこと
労す:父母から無理難題を言われて苦労すること、辛くても父母に事えること、心の中で憂慮すること


この章の解説:

吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてあります。

幾(ようや)くに諫むとは、「幾は微なり」と、古注、新注とも説くように、おだやかに、遠回しに勧告進言することである。「志の従われざるを見ては」の志とは、父母の志、気持ちであって、父母の気持ちが、こちらの勧告に、従いそうもないと観察した場合には、「又た敬して違わず」、さらにもう一度、敬虔な態度を示して、その気持ちにさからわない。以上が一つのいましめであり、また一つのいましめとして、父母から労働を課せられても、やすんじて労働にしたがい、怨みがましく、いやそうな様子、気持ちをもってはならぬ、と読むのが普通の読み方であるが、清朝の最もすぐれた古代言語学者の一人である王弘之は、ここの労の字は、憂、うれえるという意味であって、「労(うれ)うれど怨まず」も、上の一連のものであると説く。すなわち父母の行為に何か賛成しがたいものがあり、いくら勧告してもきかれない場合は、そのために心配はするが、怨みがましい気もちはもたない、というのだとする。なお「礼記」の「内則」篇に、「父母の過ちあれば、気を下し色(かおいろ)を怡(おだ)やかにし声を柔らかにして、以て諫め、諫若し入らざるときは、起(あらた)めて敬に起めて孝なれ。説(よろこ)べば則ち復た諫むりなり」云云、といい、同じく「礼記」の「曲礼(きょくらい)」篇に、「子の親に事うるや、三たび諫めて聴かざれば、則ち号泣して之に従う」というのは、この条と似た教えであるとされる。


十九.「里仁第四、第十九章」

子曰、父母在、不遠遊。遊必有方。

子曰く、父母在(いま)せば遠く遊ばず。遊ぶに必ず方あり。


孔子先生がおっしゃった。

「父母が存命中は、あまり遠くまで出かけるものではない。万一やむを得ず遠くまで出かける場合は、必ず自分の行き先をはっきりさせておくことじゃ」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

遠く遊ぶ、方

遠く遊ぶ:遠い他郷へ旅に出ること
方:方向、方角、常


この章の解説:

古川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてあります。

父母在世の間は、遠い旅行をしない。旅行をしても、きっと一定の方角だけにゆき、別の方角へ、勝手にゆかない。以上が新注の説であり、「方は猶お常のごとくなり」として、必ず規律のある旅行をする、というのが古注である。いずれにしても、「礼記」の「曲礼」篇に、「夫(およ)そ人の子為(た)る者は、出づるときには必ず告げ、帰れば必ず面(め)どおりす。遊ぶところ必ず常あり、習うところ必ず業あり」といい、同じく「礼記」の「玉藻(ぎょくそう)」篇に、「親老いたるときは、出づるに方を易えず、帰るに時を過ぎず」というのと、似た教えである。


二十.「里仁第四、第二十章」

子曰、三年無改於父之道、可謂孝矣。

子曰く、三年父の道を改めるなきを孝と謂うべし。

これは、既に学而第一、十一で次のように述べられています。

「子曰く、父在(い)ませば其の志を観(み)、父没すれば其の行いを観る。三年父の道を改むるなきを、孝と謂うべし」。


二十一.「里仁第四、第二十一章」

子曰、父母之年、不可不知也。一則以喜、一則以懼。

子曰く、父母の年は知らざるべからず。一は則ち以て喜び、一は則ち以て懼(おそ)る。


孔子先生がおっしゃった。

「(お前たち、)父母の歳を忘れてはいけないぞよ。一つはその長生きを喜び、一つは年老いたことを心配するために…」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

知る:記憶して忘れない


この章の解説:

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

若くして父母を失った孔子が、まだ父母が健在な若い弟子たちにむかっていったことばであろう。諸君の父母が生きていられるだけでも、大変な幸福なのだ。孝行をしようにも父母のない自分には、羨ましくてならない。年とった父母をもった君たちは、せめて父母の年を覚えていなくてはならぬと諭したのである。二十余年前に父母を失った私も、このごろ時々、父母が生きていたら何歳になるかと考えることがある。しかし、父母の生前には、めったに父母の年を考えなかったものであった。孔子の父母にたいする感情は、われわれ凡人の父母に抱く感情と少しも変わったところがない。その平凡な感情を自然に表現するところが、孔子の孔子たるところであろうか。


以上の論語意訳は昨日書き上げたものです。助かりました。有り難うございます!日経と山日に目を通します。 さて、今日は駅前掃除の日です。6時ちょっと前に家を出ます。甲府駅前に到着したのは6時ちょっと過ぎ。すでに某塾5期生のOさんが掃除を始めています。雨が降っているためわたしもOさんと一緒にトイレ掃除をしました。やがて5期生のAさん、3期生のMさん夫妻、3期生のSさんが合流しました。いつものメンバーが揃いました。有り難うございます!

Oさんに5期生農園で採れたさつまいもを頂きました。ご馳走さまです。有り難うございます!掃除の後は、いつものファミレスで和やかで楽しい一時を過ごしました。有り難うございます!今日も華ちゃんが可愛かったです。有り難うございます!一足先にファミレスを出て帰宅したのは7時半過ぎ。事務所和室の御錀をチーンと三回大きく鳴らして仏間の仏壇にお線香をあげ、御錀をチーンと鳴らし、「ご本尊様、ご先祖様、今日もみんな幸せでした。そして長生きできました。有り難うございます」と合掌しました。有り難うございます!台所の神棚に二礼二拍手一礼をします。有り難うございます! そしてHPを途中まで更新しました。有り難うございます!

今日は、午前中韮崎市に出張、午後からは富士吉田市に出張でした。温かいお茶や冷たいお茶を頂きました。ご馳走さまです。有り難うございます!

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2006.10.7(土)  昨夜は寝たのは20時ちょっと前に寝たので。1時半前に目が覚めてしまい、そのまま布団から出てお風呂に入りました。お風呂から出たのは2時ちょっと前と、実に久々の超早起です。有り難うございます!
新たな一日が始まります。湯の盤の銘に曰わく、「苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」。誠に有り難いことです。感謝、感激また感謝。有り難うございます!
事務所の縁側に出て、東の空を背景にした愛宕山に向かい「おはようございます。今日も良い一日でした。誠に有り難うございます」と過去形で合掌 しました。有り難うございます!蹲いの横で微笑んでいるお地蔵さまに合掌しました。有り難うございます!事務所の仏様にお線香を立てて合掌し、神様に水を入れて柏手を叩きます。神仏習合。正しい日本人の習慣です。有り難うございます!和室でお茶と梅干しを頂きます。有り難うございます!
今日もまた無事に一日を迎えることができました。有り難いことです。有り難うございます!


【論語意訳】里仁篇


二十二.「里仁第四、第二十二章」

子曰、古者言之不出、恥躬之不逮也。

子曰く、古者(いにしえ)言(げん)をこれ出(い)ださざるは躬(み)の逮(およ)ばざるを恥ずればなり。


孔子先生がおっしゃった。

「昔の人々が道徳的な言葉を軽々しく口に出さなかったのは、自分がまだその言葉を実行できずにいることを恥じたからである」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

逮(およ)ぶ:及ぶ


この章の解説:

渋沢栄一著「『論語』の読み方」には、次のように書いてあります。

昔の人は実践を重んじて、できないことは口にしなかった。そして言葉をつつしみ人を批評せず、自分の志をむやみに表明しなかった。これは「言うは易く行うは難きもの」だからである。もし自分の行動が言葉に追いつかなかったら、これほど恥ずかしいものはない。ところが今の人はこれを恥とせず、放言放論してはばからず、行動がまるでだめである。
孔子の時代にすでにこの放言の悪習があり、以来二千余年を経た今日にいたっても、世界各国言論の世となり、言葉の責任を尊ぶとはいいながら、はなはだしくい乱れている。これでは言論の権威は失われ、二との信用を得ることはできない。
やはり孔子の言うように、自分で実行できないことは口に出さないようにしたらよい。口先だけの人はいやしく実行の人は尊い。これは昔も今も同じである。


二十三.「里仁第四、第二十三章」

子曰、以約失之者、鮮矣。

子曰く、約(やく)を以て之を失う者は鮮(すくな)し。


孔子先生がおっしゃった。

「何事も慎ましく行き過ぎないようにすれば、失敗することは、滅多にないのじゃ」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

約、之を失う

約:心を引き締めること。物質的には倹約、精神的には行いの検束(抑制)
之を失う:過失、失敗


この章の解説:

貝塚茂樹著「論語」には、「古注ではこれを驕奢(きょうしゃ)にたいして倹約の意にとっているが、新注ではひろく人間の行動が控えめなことをさすとしている」と書いてあります。

渋沢栄一著「『論語』の読み方」には、次のように書いてあります。

何事をするにしても、心を引きしめてつつましやかにやれば失敗は少ない。
一家でも一国でも、その経営すべき事業に節度とつつましさがなくてはとても成功するものではない。
私は元来倹約を旨として機会あるごとに倹約の大切さを説いている。〜中略〜 だが一歩進めていえば、倹約ということはただ物を節約するという消極的な一方ではよろくしない。〜中略〜 倹約・節度は国家でも会社でもまた一個人でも必要な美徳であるが、極端に走るのはよろしくない。


二十四.「里仁第四、第二十四章」

子曰、君子欲訥於言而敏於行。

子曰く、君子は言に訥(とつ)にして行いに敏ならんことを欲す。


孔子先生がおっしゃった。

「教養人は、口下手でも実践者でありたいと願っている」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

訥、敏

訥:訥弁の訥、口ごもるさま
敏:敏捷なこと (以上、貝塚茂樹著「論語」より)


この章の解説:

孔子は、為政第二、第十三章で「先(ま)ず其の言を行いて而(しか)る後之に従う」と、里仁第四、第二十二章では「古者言(いにしえげん)をこれ出(い)ださざるは躬(み)の逮(およ)ばざるを恥ずればなり」と言っております。有言実行よりも不言実行であれ、ということでしょうか。

安岡正篤著「朝の論語」には、次のように書いてあります。

言葉に出して言うことは思うに任せずとも、行動の方はキビキビとやりたいという意味です。勿論言葉も自由に立派に使いたい。しかし言葉というものの性質が、人間相互の意思の疎通の必要上発達したものでありますから、独自のもの、他に通じがたいものほど、この言葉というものにはのせにくいものでありますから、真実を愛するほど、言葉というものにはあきたりません。孔子と並んでよく知られております老子の中にも、「これを知る者は言わず、これを言う者は知らず」という名言があります。尚また、言葉というものは内心或いは真実を離れて駆使することもできるものであります。どこを押したらあんなことが言えるか、ということも言えるわけでありまして、論語にも「巧言令色鮮いかな仁」(学而篇)とあることが世の中に知られております。どうも言い廻しを上手にしたり、顔色を人の感じの好いようにするというような人間に限って、肝腎の誠が少ないものだという、この嘆息はいつの世も変わらぬことであります。

渋沢栄一著「『論語』の読み方」には、次のように書いてあります。

君子は弁論を商売とする人間ではなく、言葉よりもまず実行を本分とする。自ら実行できないことをベラベラしゃべり立てたところで、その弁舌には何の権威もないではないか。弁論の権威はこれを自分の身体で実行してみせることによってはじめて生じるのである。一言一句をも軽々しく発せず、言う以上は必ずこれを実行するということである。


二十五.「里仁第四、第二十五章」

子曰、徳不孤、必有鄰。

子曰く、徳孤(とくこ)ならず、必ず鄰(りん)有り。


孔子先生がおっしゃった。

「人格者は孤立しない。必ず、共感してくれる(慕ってくれる)人が現れる」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

鄰(りん):隣と同じ字(吉川幸次郎著「論語 上」より)


この章の解説:

貝塚茂樹著「論語」には、「道徳者として孤高の道をゆきながら、ほうぼうで自然によき理解者を獲得した、孔子の体験を述べたものであろう」とあります。

呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。

徳孤(とくこ)ならず、必ず隣(りん)有り。…意味は明解であるが、平板な聖句ではない。論語全体の劈頭(へきとう)、学而篇第一章に「人知らずして慍(うら)みず」…が出、その後、論語全篇に四回も五回も同旨の言葉がくり返される…。例えば、憲問篇には「人の己を知らざることを患えず、己の能なきを患う」(14-32)とある。…こういう言葉がくり返されるのは、実は孔子が自分自身に言い聞かせていたのであり、人の知らざるを慍んでいたことの反面なのである。
だが、それでも徳は孤立することはない。必ず同志はいる。徳は個々の能力を含んで、それを超えたものだからだ。
「子曰く、驥(き)はその力を称せず、その徳を称す」(憲問篇14-35)。
名馬は、その能力によって称賛されるのではなく、その徳によって称賛されるのだ。馬に徳というのは、少しわかりにくい。持って生まれた能力を十分に生かした、人間で言えば人格に相当するものだろう。そうした徳こそが称賛されるべきだというのである。そして、また、徳は孤立することはない。徳は人間の普遍性の象徴でもある。それ故に、徳は共同体の軛(くびき)を超える。
「子曰く、郷原は徳の賊なり」(陽貨篇17-13)。
ものわかりのよいだけの善人は、村では立派な人(郷原)とされているだろう。しかし、そんな輩こそ、実は徳の賊なのだ。孔子は、孝に代表される共同体的・血縁的な徳目を重視したけれども、無自覚に因習に従ったのではない。伝統を自覚的に組みなおすことによって新しく思想を創出したのである。その時、旧来の共同体的・血縁的な徳目は普遍的な徳になり、共同体を超える広がりを持った。


二十六.「里仁第四、第二十六章」

子游曰、事君数、斯辱矣。朋友数、斯疎矣。

其の一…
子游曰く、君に事(つか)えて数(はや)からんとすれば、斯(すなわ)ち辱しめらる。朋友に数(はや)からんとすれば、斯(すなわ)ち疎(うと)んぜらる。

其の二…
子游曰く、君に事(つか)えて数(しばしば)すれば斯(こ)れ辱しめらる。朋友に数(しばしば)すれば斯(こ)れ疎(うと)んぜらる。


其の一…
子游が言った。
「主君に仕えて、すぐに親しくなろうとして、敬意を払うことを忘れると、無礼な奴だと怒られて恥ずかしい思いをする。また、友人と付き合って、すぐに親しくなろうとして、馴れ馴れしくすると、うるさい奴だと思われて、避けられてしまう」。

其の二…
子游が言った
「主君に仕えて、何度も口やかましく意見すると、うるさい奴だと思われて、その意見が取り上げられないどころか、揚げ足を取られて恥ずかしい目に遭う。また、友人と付き合って、何度も口やかましく忠告すると、ウザイ奴だと思われて、その忠告が聞き入れられないどころか、もう二度と会ってもらえなくなってしまう」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

斯:「すなわち」というような意味に解する(宇野哲人著「論語新釈」より)


この章の解説:

この章は、二種類の解釈をしてみました。いずれも、わたしの独断と偏見による意訳です。おそらくこの章は、子游の経験に基づいて語られたのではないか、と思います。子游が仕官したときに経験したことや友人との付き合いで経験したことを弟子に向かって語ったのではないでしょうか。


論語意訳を書き終えたのは4時前。書き始めたのは2時ですから随分時間がかかりました。これで朝の日課をやり終えました。やれやれです。有り難うございます!

日経に目を通してから坐禅を組みました。三十分以上坐りました。落ち着きました。その後、般若心経を読経しました。さらに落ち着きました。やはり、坐禅と読経はいいものです。有り難うございます!それから山日に目を通して、庭に来る雀のために餌(ご飯粒)を投げます。日本の清々しい朝です。有り難うございます!
7時前に事務所和室の御錀をチーンと三回大きく鳴らします。そして仏間の仏壇にもお線香をあげ、御錀をチーンと鳴らし、「ご本尊様、ご先祖様、今日もみんな幸せでした。長生きすることもできました。有り難うございます」と合掌しました。有り難うございます!台所の神棚に二礼二拍手一礼をします。有り難うございます!朝ご飯を頂きます。コープやまなしの白米で雑炊を作ってもらいました。これもまた正しい日本人の朝食です。ご馳走さまです。美味しかったです。有り難うございます!食後はしばし読書をして、ちょっと寝てから、朝の論語意訳を仕上げてしまいました。これで明日の朝が楽になりました。有り難うございます!

今日は午後から甲府木鶏クラブの例会があります。内容は山梨産業文化研究所の坂本宏先生の「日本にとっての東洋と西洋」と題する講演会と親睦会です。20時過ぎには帰宅する予定ですが、明日の朝、坐禅会があり早起きするので、今日の日記はここで締めることにします。

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2006.10.8(日)  昨日の甲府木鶏クラブでは、坂本宏先生のとても勉強になる話を聞くことができました。有り難うございます!お世話になっているSさんにお土産を頂きました。恐縮です。有り難うございます!親睦会では沢山の料理とお酒を頂きました。有り難うございます!

山梨産業文化研究所・代表の坂本宏先生は、「日本にとっての東洋と西洋」と題して、森鴎外、夏目漱石、芥川龍之介、横光利一など明治の文豪の小説から見えてくる東洋思想と西洋思想の精神的な葛藤。織田信長の天下統一への戦略から見えてくる西洋の影響。西郷隆盛、大久保利通、坂本龍馬の思想から見えてくる東洋と西洋の融合。日清・日露戦争、第一次世界大戦、アジア戦争、太平洋戦争という明治以降の戦争の歴史から見えてくる入亜脱欧、入欧脱亜の動き。聖徳太子による「和」という宗教、石田梅岩の経済思想、儒学の王道主義、国体と天皇制、北一輝と石橋湛山にみる東洋思想と西洋思想の融合などから見えてくる日本人にとっての東洋と西洋の融合。以上のことから導き出される二十一世紀の日本の進路。という、大変遠大で奥深いお話をしてくださいました。大変勉強になりました。有り難うございます!

昨夜寝たのは21時半頃。3時半ちょっと前にセットした目覚ましの音で目が覚め、3時半はに布団から出ることができました。早起きできました。有り難うございます!
新たな一日が始まります。湯の盤の銘に曰わく、「苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」。誠に有り難いことです。感謝、感激また感謝。有り難うございます!
事務所の縁側に出て、東の空を背景にした愛宕山に向かい「おはようございます。今日も良い一日でした。誠に有り難うございます」と過去形で合掌 しました。有り難うございます!蹲いの横で微笑んでいるお地蔵さまに合掌しました。有り難うございます!事務所の仏様にお線香を立てて合掌し、神様に水を入れて柏手を叩きます。神仏習合。正しい日本人の習慣です。有り難うございます!和室でお茶と梅干しを頂きます。有り難うございます!
今日もまた無事に一日を迎えることができました。有り難いことです。有り難うございます!


【論語意訳】里仁篇


一.「公冶長第五、第一章」

子謂公冶長、可妻也、雖在縲絏之中、非其罪也。以其子妻之。
子謂南容、邦有道不廃、邦無道免於刑戮。以其兄之子妻之。

子、公冶長を謂う、「妻(めあ)わすべし、縲絏(るいせつ)の中(うち)に在りと雖(いえど)も、其の罪にあらず」と。其の子を以て之に妻(めあ)わす。
子、南容(なんよう)を謂う、「邦に道あれば廃(す)てられず、邦に道なきも刑戮(けいりく)を免(まぬか)る』と。其の兄の子を以て之に妻(めあ)わす。


孔子先生が公冶長の人物を論じて、「彼は娘と縁組みさせてもよい人物である。かつて罪を受けて牢獄に入っていたが、無実の罪であった」 と言い、自分の娘と結婚させた。

孔子先生が南容の人物を論じて、「(彼は平日言行を慎んでいるから)国がよく治まっている時は、退官させられることもなく、国が乱れている時にも、刑罰を問われることもない(治世と乱世とに処して進退を間違わない人物である)」と言い、自分の兄の娘と結婚させた。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

縲絏(るいせつ)、邦に道あり、邦に道なし

縲絏(るいせつ):縲(るい)は黒い索(さく、なわのこと)、絏(せつ)は「つなぐ」こと、古は獄中では黒縄で罪人を繋いだという(宇野哲人著「論語新釈」より)
邦に道あり:国がよく治まっているとき、治世
邦に道なし:国が乱れているとき、乱世


この章の解説:

金谷治著「孔子」には、次のように書いてあります。

「公冶長」は門人。姓は公冶、名は長。斉の人、また魯の人ともいう。〜中略〜 公冶長について、自分の娘婿にするだけの値うちがあると認定したのである。「妻どりさせてよい」。ただ、彼はかつて獄中につながれたことがあった。人はそれをとかくの噂にしがちであるが、それは彼の犯した罪ではなかったと、孔子は釈明する。そして、そのことばどおり娘を嫁入らせた。公冶長のことは『論語』中ここに見えるだけで、くわしいことは不明である。皇侃(おうがん)の『義疏(ぎそ)』によると、彼は鳥語を理解したために死体の場所を知り、そのために殺人の嫌疑をうけたのだというが、もちろん仮託の伝説であろう。門人の人物をはっきり見ぬいて、世間の風評などにとらわれることのない孔子の態度に、注目すべきである。
国家が正しいあり方をしているときには必ず重く用いられ、国家が乱れて無秩序なときにも刑死にあうようなことはない。南容はそういう人物だという。先進篇六では「南容、白圭(はくけい)を三復す」ということがいわれている。白圭は『詩経』の句で「白き玉のきずはなお磨くべし、ことばのきずはつくろいもならず」というのである(大雅・抑篇)。それをいつもくりかえして歌っていたというから、南容はことばづかいに慎重な人であったのだろう。この章のことばはもちろんそれと関係している。寡黙で信頼できる人、国家有用の人材であるうえに口禍をまねくこともない。孔子は兄の娘を嫁がせた。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

孔子が弟子の公冶長を見込んで、かつて罪人として獄につながれていた男に娘をとつがせた。このほかに『論語』をはじめ古典には、公冶長について何も史料がないので、彼がじっさいどんな人物であったのか、まったくわからない。〜中略〜 どちらかといえば無名の弟子のほうに属することは疑いない。万事に慎重であった孔子が、どこか見どころがあると思うと、その前歴にかまわず、娘をとつがせたとは、じつに意外な話である。この突飛な孔子の行動が他の弟子たちにひじょうなショックを与えたので、これが人物論を集めた公冶長篇の第一章におかれることになったのである。〜中略〜
南容の場合は前の公冶長とは正反対である。孔子の時代は列国対立の乱世で、諸国のなかには内政も乱脈なのが多かった。孔子は、弟子の南容は名君のもとでよく治まっている国にいれば捨てられずに用いられるし、乱れた国にあっても、刑罰にかかるようなことはないという。こういうそつのない男である南容は、さきの公冶長とは正反対の人物であった。孔子は、前科者にされた公冶長でも、本人に見どころがあれば自分の娘をこれに嫁がせた。ところが兄の娘となると、公冶長がどんなにりっぱな人物であっても、その妻には世話することはできないと考えたのであろう。そこで南容のような貴族の子で、間違いのない男を婿として推薦したのである。


二.「公冶長第五、第二章」

子謂子賤。君子若人。魯無君子者、斯焉取斯。

子、子賤(しせん)を謂う。君子なる哉若(かくのごと)き人。魯に君子なくば、斯(こ)れ焉(いずくんぞ)斯(これ)を取らん。


孔子先生が門人の子賤について、次のように言われた。

「このような人こそ、真に君子というべきである。魯の国に君子がいなかったら、子賤がどうしてあれほど立派な徳を身につけたであろうか」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

若(かくのごと)き人:はっきりこれと指さない言い方


この章の解説:

諸橋轍次「論語の講義」には、「子賤は孔子の門人であり、かつて単父(たんぼ)という土地を治めたことがあるが、琴を弾き、身、台を下らずして単父を治めた。ある人から、どうして、そのように無為にして治められるのかと質問されたところ、人に任じて治めた。人に任ずる者は楽をし、力に任ずる者は骨を折ると教えたという。この一つを見ても、子賤の人物が知られる。また、孔子が子賤にその交際範囲を質問したところ、子賤は、父として事(つか)える者三人、兄として事える者五人、友として交わる者十有二人、師とする者が一人あると答えた。これを聞いて孔子は、父事(ふじ)する三人によって孝を教えられ、兄事する五人によって弟を教えられ、友とする十二人によって己の蒙(もう)を開き、師とする一人によって失策を防ぐ。かくの如くであるならば、単父を治めるに足るのみならず、天下を治めるに足ると言ったという話が、古書に出ているが、この章で孔子が魯の君子といっているのは、おそらくこれらの人々を指したものであろう」とあります。

吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてあります。

子賎とは、弟子の宓子斉(ふくしせい)であり、孔子より四十九歳若かったと、「史記」の「弟子列伝」に見える。それに対する孔子の批評である。君子なる哉、若くのごとき人よ。かれのごとき人こそ紳士である、というのであって、若の字は、一字で若此(カクノゴトキ)の意味である。孔子はそう賞賛した上、つけ加えていった、かれのごとき紳士が出たのも、かれの模範となるべき紳士が、魯の国にたくさんいたからである。もし、魯のくにに、君子がいなかったとすれば、斯(こ)れ焉(いず)くにか斯れを取らんや、上の斯は、斯の人、すなわち子賎であり、下の斯は、斯の道徳、すなわち君子たる道徳であると、朱子の注にいう。つまりかれも、どうして、この地位を取得しえたであろう。先輩として多くの君子がいたればこそ、子賎のごとき君子が出たというのである。


三.「公冶長第五、第二、三章」

子謂子賤。君子若人。魯無君子者、斯焉取斯。
子貢問曰、賜也何如。子曰、女器也。曰、何器也。曰、瑚l也。

子、子賤(しせん)を謂う。君子なる哉若(かくのごと)き人。魯に君子なくば、斯(こ)れ焉(いずく)んぞ斯(これ)を取らん。
子貢問うて曰く、「賜は何如(いかん)」。子曰く、「女(なんじ)は器(き)なり」。曰く、「何の器(き)ぞや」。曰く、「瑚l(これん)なり」。


下村湖人著「論語物語」を参考にして、物語風に訳します。

孔子先生が、(子貢の前で、子貢よりも十八歳も後輩である)子賤(しせん)のことを讃えた。
「子賤は君子じゃ、あれでこそ真の君子といえるのじゃ」。
(子賤は、このごろ魯の単父〔ぜんぽ〕という地方の代官になったが、いつも琴を弾じて堂を下らない。それでよく治まっている。子賤の前に代官をしていた巫馬期〔ふばき〕は、その地を治めるのに随分と骨折ったが、子賤ほど治めることはできなかった。巫馬期〔ふばき〕が子賤にその秘訣を聞いたところ、子賤は「私は人を使うが君は自分の力を使う。だから骨ばかり折れるのだ」と答えた。この答えが世間の評判になり、孔子先生の耳にも入った。孔子先生は子賤が若いのに徳をもって治めていることを、心から喜んだのである。しかし、子貢にしてみると、自分の前で若造の子賤が、そんなふうに誉められるのはあまりいい気持ちではなかった。孔子先生は、そんな子貢の気持ちなどには、まるで無頓着なように、下髭〔したひげ〕を撫〔な〕でながら、目を細くして独り言のように言葉を続けた。)
「だが、子賤のような立派な人物が磨き出されたのも、もともと魯に多くの君子がいたからじゃ。もし魯に多くの君子がいなかったら、子賤がここまで人物を磨くことはできなかったであろう。(子賤はいい先輩や友人を持ってしあわせであったのぉ…)」。

(子貢は目を輝かした。彼は子賤の先輩として、その指導には、これまでかなり力を入れてきたつもりでいる。だから孔子先生が先輩といったなかには、むろん自分も入っているはずだと思ったのである。そして、孔子先生は子賤のことを君子と誉めるのだから、自分はそれ以上の讃辞を与えられるかもしれない、という期待に胸をふくらませた。)
子貢は(孔子先生に)たずねた。
「先生、私についても何か一言いっていただきたいものでございます」。
孔子先生は、(無造作に)答えた。
「お前は器じゃ」。
(子貢は自分の耳を疑った。「器」という言葉は孔子先生が人物を批評する場合、これまでもおりおり使った言葉である。それは「才人」とか「一芸一能に秀でた人」といった程度の意味であり、「君子は器ならず」といって、門人を戒めたこともある。その「器」といわれたのであるから、子貢の気持ちは落ち込んだ。しかし、孔子先生は、あくまでも平静であり、当たり前のことを、当たり前に言ったに過ぎない、という顔をしておられた。)
(かなり、長い沈黙が続いた…。)
子貢は、(とうとうたまりかねたように、膝を乗り出して、どもりながら)たずねた。
「先生、器というのは、な、…何の器ですか」。
孔子先生は、(子貢のただならぬ様子に、はじめて気がついたかのように、かすかに眉をひそめた。しかし、次の瞬間には、微笑してしずかに)答えた。
「瑚l(これん)じゃな」。
(瑚lは宗廟を祭る時に、供物〔くもつ〕を盛る器である。玉〔ぎょく〕などをちりばめた豪華なもので、あらゆる器の中で、もっとも貴重なものとされている。「瑚l、瑚l…」と子貢は何度も胸の中で繰り返し、宗廟の祭壇に燦然と光っている一つの器を思い浮かべた。「器の中の器、人材の中の人材、一国の宰相」と子貢の連想は輝かしいものに向かい、いつの間にか、宰相の衣冠〔いかん〕をつけて宗廟に立っている自分の姿を心に描いた。その瞬間、孔子先生が言われた。)
(「瑚lは大器じゃ。しかし、なんといっても器は器じゃ…」。)
(「…子貢、なによりも自分を忘れる工夫をすることじゃ。自分のことばかりにこだわっていては君子にはなれない。君子は徳をもってすべての人の才能を生かしていくが、それは自分を忘れることができるからじゃ。才人は自分の才能を誇る。そしてその才能だけで生きようとする。むろんそれでひとかど世の中のお役には立つ。しかし自分を役立てるだけで人を役立てることができないから、それはあたかも器のようなものじゃ」。)
(孔子先生はしんみりとした調子で子貢を戒めた。)
(子貢は喪心〔そうしん〕したように、ふらふらと立ち上がった。そして顔に手を当てたかと思うと、息ずすりして泣いた。)
(孔子先生も目にいっぱい涙をためていた…。)


この章に出てくる重要な言葉(概念):

瑚l(これん):夏の時代には瑚(こ)といい、殷の時代にはl(れん)という。宗廟の祭で用いる器で玉で飾ってある。器物のなかで貴重で華美なもの(宇野哲人著「論語新釈」を参考にした)


この章の解説:

吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてあります。

子貢問うて曰く、賜や何如。賜とは子貢の実名であって、子貢が、「わたくしはどうでございましょうか」、先生わたくしをどうお考えになります、とたずねたのである。前の条で孔子が宓子斉(ふくしせい)をほめたのとつらなって、子貢がいささかやきもちしながら、では私はどうなのでしょう、といったのだと見るのは、皇侃(おうがん)、朱子、仁斎である。
それに対する孔子の答えは、女は器なり、子貢よ、お前は器である、というのであった。


以上の論語意訳は昨日書き終えたものです。助かりました。有り難うございます!日経と山日に目を通します。今日は坐禅会の日です。家内と一緒に5時半過ぎに円光院に向かいます。いつものように坐禅が始まる合図の木板を叩かせていただきました。有り難うございます!坐禅は、前半、後半とも落ち着いて坐ることができました。有り難うございます!坐禅会の後は茶礼です。坐禅の後に頂くお茶は本当に美味しいのです。有り難うございます!引き続き無門関の法話の本を勉強しました。有り難うございます!長老のMさんに塩を頂きました。有り難うございます!

帰宅したのは8時半頃です。まず事務所和室の御錀をチーンと三回大きく鳴らします。そして仏間の仏壇にもお線香をあげ、御錀をチーンと鳴らし、「ご本尊様、ご先祖様、今日もみんな幸せでした。長生きすることもできました。有り難うございます」と合掌しました。有り難うございます!台所の神棚に二礼二拍手一礼をします。有り難うございます!朝ご飯を頂きます。ご馳走さまです。美味しかったです。有り難うございます!食後はしばし読書をしてから一休み。午前中はのんびり過ごしました。有り難うございます!午後からは「孔子の弟子たち」を校正して、「論語意訳」の一部をワープロに変換しました。その後は家内と買い物に行きました。久々の休日を満喫することができました。有り難うございます!

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2006.10.9(月)  昨夜は20時頃寝たので2時ちょっと前にセットした目覚ましの音で目が覚め、2時半前に布団から出ることができました。超早起きといえるでしょう。有り難うございます!
新たな一日が始まります。湯の盤の銘に曰わく、「苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」。誠に有り難いことです。感謝、感激また感謝。有り難うございます!
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今日もまた無事に一日を迎えることができました。有り難いことです。有り難うございます!


【論語意訳】公冶長篇


四.「公冶長第五、第四章」

或曰、雍也仁而不佞。子曰、焉用佞。禦人以口給、屡憎於人。不知其仁。焉用佞。

或(ある)人曰く、「雍(よう)や仁にして佞(ねい)ならず」。子曰く、「焉(いずく)んぞ佞(ねい)を用いん。人に禦(あた)るに口給(こうきゅう)を以てし、屡(しばしば)人に憎まれる。其の仁を知らず。焉(いずく)んぞ佞(ねい)を用いん」。


あるお方が言われた。

「雍(仲弓の名)は仁者(徳のある人物)であるが、惜しいことに口べただなぁ」。

(これを聞いて)孔子先生は言われた。

「どうして口達者である必要があろうか。口先だけでべらべらとまくしたてるような人間は、(誠意に欠けるから)人から憎まれることが多いものじゃ。わしには雍君が仁者かどうかはわからないが、口達者である必要はないのじゃ」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

佞(ねい)、禦(あた)る、口給(こうきゅう)、人に憎まれる、其の仁

佞(ねい):口上手、弁が立つ、弁舌が巧み、口才
禦(あた)る:応対する、応答する、接する、人に対する
口給(こうきゅう):口先でべらべらとまくしたてる、口がよくまわる、口先だけで実行が伴わない
人に憎まれる:人とは正しい人、心ある人(正しい人、心ある人に憎まれる)
其の仁:其のは「仲弓」をさす


この章の解説:

仲弓(字)は、姓は冉(ぜん)、名を雍(よう)といいます。 孔門十哲の一人で、顔淵、閔子騫、冉伯牛並んで「徳行」に秀でた弟子の一人に挙げられています。呉智英著「現代人の論語」によると、史記には「仲弓の父は賤人なり」と記されており、仲弓の家庭は最下層に属していた。洗練された教養も身につけておらず、口の利き方も下手で粗野な印象さえ与えたらしい、とあります。

諸橋轍次「論語の講義」には、「佞(ねい)は、口才、弁才の意であって、元来は悪い意味には用いなかった。従ってここである人が佞(ねい)ならずといって、佞(ねい)のないことを惜しんでいるのも肯かれる。しかし、それが口にまかせて言うことになると、わざわいの原因となることは孔子のいう通りである」とあります。「巧言令色鮮し仁」(学而第一、第三章)、「言に訥にして行いに敏ならんことを欲す」(里仁第四、第二十四章)とあるように、孔子は口先だけで中身(行動)の伴わないの人間を心から憎んだのでした。また、「質、文に勝てば則ち野。文、質に勝てば則ち史。文質彬彬として然る後に君子なり」(雍也第六、第十六章)とありますが、孔子は文(表面)が勝る史の人よりも、質(内面)が勝る野の人を愛したのです。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

冉雍(ぜんよう)、すなわち仲弓は、師孔子の推薦で季氏につかえて、宰(家令)となったらしい。この「或る人」つまり「さるお方」は、仲弓を「雍」と呼びつけにしているから、主君である季氏の一門、たぶん当主の季康子(きこうし)であろう。孔子の推薦で仲弓を雇ってはみたものの、なるほど人柄はりっぱだが、口下手で、たぶん主君である季氏へ、話し上手にとり入ることをしない。それが不満で孔子に文句をいったのを、孔子はふだんの温和さとうってかわってはげしく反駁した。孔子の反撃が手きびしかったので、初期の弟子は季康子の名を出すのをさけて「或る人」と書いたのであろう。孔子の弟子思いの面がよく出ている章である。

吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてあります。

ある人が孔子に対し、お弟子の雍さんは、りっぱな人がらながら、惜しいことに弁舌が立たない、といったところ、孔子はこたえた。弁舌というようなものは何の役に立つか。口給、すなわち口さきの機転で、人を禦(ふせ)ぎ、つまり便宜的一時的に人をごまかし、そのために人から憎まれるだけだ。雍が仁者であるか否かはわからぬとして、弁舌というものは、何の役に立つか。(略)
この条での孔子の反撥は、たいへんはげしい。いささか想像を加えよう。「史記」の「弟子列伝」に、仲弓の父は賤しいと見え、この弟子は微賎な階級の出身であったらしい。しかし孔子は、自信をもって、彼をはげましつづけ、ある時には、雍や南面せしむべし、大名にしてもよい男だ、と極端な賞賛をも与えている。あるいは毛なみがよくないために、エレガントな言葉を、毛なみのよい人物のように、流暢にしゃべることができなかったのかも知れない。そうして、そうした人物に対する孔子の特別な愛が、俗人の批評に反撥して、この条になったのかも知れない。

渋沢栄一著「『論語』の読み方」には、次のように書いてあります。

本項は弁舌(佞)を過大評価してはならないことを教えている。当時の人は弁の立つ人を賢者のようにもてはやした。そして雍(仲弓)が寡黙なのを見て、
「彼は仁者ではあるけれども、弁が立たないのは惜しいことである」と評した。
孔子はこれに対して、
「どうして弁が立つ必要があろう。いたずらに口先のうまさで世をわたれば、一時的に成功することもあろうが往々にしてこれがために人から憎まれるだろう。雍が仁者かどうか私は知らないが、弁舌が立たないことは、かえって美徳であり、けっして短所ではない。どうして弁が立つ必要があろう」と人々を戒めたのである。
仁は徳の中心であり、基本である。孔子は[憲問篇]でも管仲が桓公をたすけ、諸侯を統一して兵馬を用いさせるようにしたのが仁であると説いている。また[雍也篇]でもひとく民に施して大衆をすくうのが仁であると言っている。
仁者はその言行が親切で、言葉やさしく、自分の意見を述べるときも穏やかに説明して、たいへん人あたりのよいものである。だから仁者は往々にして弁舌の徒のように誤解されたり、反対に弁舌で世渡りしている人が、いかにも仁をそなえた人であるかのように見られたりすることがある。
ところが弁舌の徒はその胸底に一物があり、私利私欲をとげるために他人に取り入り、表面を取りつくろい、人の意見に付和雷同して味方をつくり、自分の欲望をとげるのに邪魔になる人を陥れようとする。

諸橋轍次著「孔子・老子・釈迦『三聖会談』」という本には、孔子が嫌いなタイプの人間に「便辟(べんぺき)、善柔(ぜんじゅう)、便佞(べんねい)」があり、便辟(べんぺき)とは、ものなれた態度で人にへつらい、人の意を迎える者、善柔は、人ざわりはよいが、じつは誠意のない者、便佞はくちさきばかり達者で、うちに忠信のない者のことだと書いてあります。


五.「公冶長第五、第五章」

子使漆雕開仕。対曰、吾斯之未信能。子説。

子、漆雕開(しっちょうかい)をして仕えしむ。対(こた)えて曰く、『吾斯(これ)を之れ未だ信ずる能(あた)わず』と。子説(よろこ)ぶ。


孔子先生が、(門人の)漆雕開(しっちょうかい)を就職させようと推薦した(時のことである)。

漆雕開が次のように答えた。

「私はまだ修行中の身でありますからで、仕官することにまだ自信がもてません」。

孔子先生はその言葉を聞いて、(その慎み深い態度を)うれしく思われた。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

斯(これ)を之れ:「斯」は仕官することを指す、「之れ」は語調を整えているだけ


この章の解説:

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

《漆雕開》姓は漆雕、名は開、字は子開。魯国の人といわれる。名は啓、字は子若という説もある。孔子より十二歳年少という。
官吏になれというすすめを、自信がもてないからと断った弟子も弟子であるが、断られてかえって喜んだ孔子も、まことの師であったというべきだ。

吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてあります。

さて孔子は、この漆雕啓ないしは漆雕開に、役人になれとすすめた。すると弟子はこたえた。私はその点では自信がありません。孔子はそのこたえをうれしがった。
自信とは自分の学問なり道徳に対する自信であって、それらに対する自信がないから、とても仕官などは、と見る説もあるが、そうではなく、役人になることそれ自体に、自信がない、と読んだ方がよいように、私は思う。公務員になりたい人は、いつの世にも多いが、その責任の重さを思えば、良心のある人は、躊躇の気もちをもつのが当然である。

伊與田學著「『人に長たる者』の人間学」には、次のように書いてあります。

孔子の門に入る者は、学問をして、そして就職する。その就職の手段として孔子のところで学んだ者が多かったんでしょう。これは今とあんまり変わりません。大学になんで入るかといえば、就職をするためだ。大部分はそうでしょう。
だから、孔子も、「随分勉強もして実力もついてきたから、もうぼつぼつ就職してはどうか」といわれた。すると、「いや、私はまだ仕官するだけの自信がございません。今暫く先生の許で勉強させてください」と答えた。仕官というのは今でいうと就職ですね。それで孔子が喜んだというのです。本当に純粋に自分のために学問をしようという人は、孔子の時代にも少なかったんでしょうね。だから孔子は喜んだ。


論語意訳を書き終えたのは4時を回っておりました。これで朝の日課をやり終えました。やれやれです。有り難うございます!
日経と山日に目を通すと、日経の一面に日中首脳会談の記事が大きく取り上げられています。その中に、温家宝首相が阿部首相に「言必信、行必果」と述べたとあります。これは論語の子路13-20にある有名な言葉で、かつて田中角栄首相が日中国交回復の時に周恩来から贈られた色紙に書いてあった言葉と同じです。それにしても中国人というのはしたたかです。この言葉の意味は非常に深いのです。その意味を知りたい方は論語を勉強してみてください。さて、庭に来る雀のために餌(ご飯粒)を投げます。日本の清々しい朝です。有り難うございます! まず事務所和室の御錀をチーンと三回大きく鳴らします。そして仏間の仏壇にもお線香をあげ、御錀をチーンと鳴らし、「ご本尊様、ご先祖様、今日もみんな幸せでした。長生きすることもできました。有り難うございます」と合掌しました。有り難うございます!台所の神棚に二礼二拍手一礼をします。有り難うございます!朝ご飯を頂きます。コープやまなしの白米にアサリのみそ汁、大根おろしに焼き海苔に沢庵と昆布の佃煮という正しい日本人の朝食です。ご馳走さまです。美味しかったです。有り難うございます!食後は「論語塾(基礎篇)」の準備をしました。有り難うございます!
9時半から「論語塾(基礎篇)」を開始しました。今日の出席者は三名でした。今日から某塾5期生のSさんが参加してくださいました。有り難いことです。有り難うございます!

みなさん、熱心に取り組んでくださいました。誠に有り難うございます!午後からは、ちょっと一休みして読書をしました。読書研究会の課題本を読み始めました。実に素晴らしい本です。有り難うございます!朝からは連日の出張です。有り難いことです。有り難うございます!

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2006.10.10(火)  昨夜寝たのは21時半頃。4時ちょっと前にセットした目覚ましの音で目が覚め、パッと布団から出ることができました。今日も早起きできました。有り難うございます!
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【論語意訳】公冶長篇


六.「公冶長第五、第六章」

子曰、道不行。乗桴浮干海。我従者其由与。子路聞之喜。子曰、由也好勇過我。無所取材。

子曰く、「道行われず。桴(いかだ)に乗りて海に浮ばん。我に従う者は其れ由か」。子路、之を聞きて喜ぶ。子曰く、「由や勇を好むこと我に過ぎたり。取り材(はか)る所なし(あるいは、材を取る所なからん)」。


孔子先生が言われた。

「それにしても、この今の世の中は、なかなか道(道徳や倫理にもとづく政治)が行われないなぁ。(こんなことなら)桴(いかだ)に乗って海外に亡命してしまおうか。(そんな無茶なことを考えている)わしに従ってくれるのは、子路以外にいないだろうなぁ…」。

(根が単純な)子路は、これを聞いて喜んだ。

(その様子を見て)孔子先生が言われた。

「お前は、わし以上に勇を重んじており、また勇に長けておるが、(根が単純で、物事を深く考えることをしないから、)物事を実現するための段取りができない。(だから、わしは、お前と共に筏に乗って海外に亡命することはできないのじゃよ)」。

(あるいは、)

「なるほど、たしかにお前は、わし以上に勇に長けておるが、はたして桴(いかだ)を作る材木を調達できる見込みがあるのかね」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

桴(いかだ)、海に浮ばん、勇、材(はか)る所なし

桴(いかだ):いかだには大小があり、大を筏、小を桴という。
海に浮ばん:外国(海外)へ亡命すること
勇:決断力、このようにせねばと思う勇気
材(はか)る所なし:図ることができない、段取りができない


この章の解説:

かなり乱暴な意訳かもしれませんが、わたしなりに解釈してみました。この章を、安岡正篤先生は次のように訳しています。(安岡正篤著「論語に学ぶ」PHP文庫から)

「孔子が、道が行われないので海に浮かびたいが、その時に自分に勇ましくついてくる者は、恐らく子路であろう、と言われたものですから、それを聞いた子路は喜んだ。すると孔子は、『子路や、お前は勇を好む事についてはわし以上だが、どうも餘(あま)り素朴で、道具にならん、使いものにならん』とこう言われた。つまり最初は勇敢についてくるが、すぐ悲鳴を上げるのはお前ではないのか、と言う孔子の評であります。『材を取る所無し』については、筏の材料を取るところがないなどという風にいろいろ解釈がありますが、(中略)亡命というものは、細やかな心情を持って、自分の内面生活に生きられるような人には、持ちこたえられるが、ただ本能的な勇気・気概というものだけでは、却ってもろいものである。だから(中略)そう解釈しても少しも誤りではない、と私は思う。そういう風に『論語』というものは、現代の世の中、又現代の諸国、或いは哲学や文芸というようなものに、いろいろ思いを馳せることができる」。

なるほど、わたしの乱暴な意訳もそれほど見当違いではなさそうです。

吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてあります。

はなはだ有名な一章である。ある日、孔子が、ふといった。私の理想とする道徳は、この世の中に行われそうにもない。いっそのこと、この中国を見捨て、桴(いかだ)に乗って、東の海に乗り出したく思う。そのとき、おれについて来るのは、まあ由、すなわち子路だろうかな。(中略)
孔子のこの言葉を聞きつけた子路は、わが意を得たりと、おどりあがって喜んだ、すると孔子はまたたしなめていった。由よ、お前は私以上に勇ましいことが好きだ。いったいどこで、そうした大きないかだをつくる材木をとって来るというのかね。
孔子は、理想と現実との矛盾に苦しみぬいたあげく、はなはだ放恣な空想を描くこともあったように思われる。子罕篇第九では、子九夷(きゅうい)に居らんと欲す、といい、ここでは桴に乗って海に浮かばん、という。内陸をのみ往来した古代の中国人によって、海は晦(くら)い世界の果てであったとともに、やはり自由解放を意味する空間でもあったであろう。そうした放恣な空想の中で、一しょにいかだに乗る人物として、まず浮かび上がるのが子路であったのも、充分にうべなえるし、いつもは謹厳な先生が、こうした強烈な空想を発することもあり、かつその空想の中にいだかれたのが、他の弟子に先んじて、自分であったことを知った子路の喜びも、想像にあまりある。しかし孔子から見れば、子路の心理はやはり過度の心理であったのである。


七.「公冶長第五、第七章」

孟武伯問。子路仁乎。子曰、不知也。又問。子曰、由也、千乗之国、可使治其賦也。不知其仁也。求也何如。子曰、求也、千室之邑、百乗之家、可使為之宰也。不知其仁也。赤也何如。子曰、赤也束帯立於朝、可使与賓客言也。不知其仁也。

孟武伯問う。「子路仁なるか」。子曰く、「知らず」。又問う。子曰く、「由や千乗の国其の賦を治めしむべし。其の仁を知らず」。「求やいかん」。子曰く、「求や千室の邑(ゆう)、百乗の家、之が宰たらしむべし。其の仁を知らず」。「赤(せき)やいかん」。子曰く、「赤や束帯して朝(ちょう)に立ち、賓客と言わしむべし。其の仁を知らず」。


(魯の大夫の)孟武伯がたずねた。「子路は仁の人ですか」と。

孔子先生が答えた。「わしにはわかりませんなぁ」。

(孟武伯が)重ねてたずねた。

孔子先生:「由(子路)は、(勇を好むので)戦車を千台ほど保有する規模の諸侯の国に仕えて、軍を指揮すれば立派な功績を上げることができます。しかし、仁の人かどうかはわかりませんなぁ」。

孟武伯:「求(冉有)はどうですか」。

孔子先生:「求は、(多芸ですから)千戸ほどの規模の村の代官か、戦車を百台ほど保有する規模の大夫の家の家老として、立派な功績を上げることができます。しかし、仁の人かどうかはわかりませんなぁ」。

孟武伯:「公西赤(こうせいせき)はどうですか」。

孔子先生:「赤は、(礼を知っていますから)、礼装をして朝廷に立ち賓客に対応させれば立派に役目を果たすことができます。しかし、仁の人かどうかはわかりませんなぁ」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

千乗の国、百乗の家、束帯

千乗の国:兵車千台を有する国、諸侯の中の大国
百乗の家:兵車百台を有する卿大夫(重臣)の家
束帯:礼服にしめる広い帯、礼服の総称


この章の解説:

ここでは、子路のほかに、冉有(ぜんゆう)と公西赤(こうせいせき)という弟子が登場します。呉智英著「現代人の論語」によりますと、冉有は「優れた実務能力を持ち、人柄も温和善良」でありながら、それ故に「正論を主張することができず、為政者の不正に荷担」することもあり、「有能で温和であったが覇気に欠けるところがあった」弟子です。前掲書によりますと、公西赤については、「颯爽とした伊達男で、おそらく富裕な名家の出身だったと思われる。性格も社交的で、人をそらさぬそつのない会話も得意であった」とあります。

吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてあります。

孟武伯とは、さきの為政篇第二(第六章、引用者注)に、孟武伯、孝を問う、と見えた魯のわかい家老である。わかい家老は、弟子たちのおもだったもののうち、まず子路について、孔子にたずねた、かれは仁者でありますか。孔子の答えは、知らざるなり、わかりません、ということであったので、さらに問いかえすと、孔子はいった。かれ子路は、千乗の国、すなわち千の兵車をもつりっぱな大名の国の、財政のきりもりをまかせてもよい人物です。しかし、仁者であるかどうかはわかりません。つぎに、冉求はどうかとたずねると、かれは戸口一千のまち、また百の兵車をもつ家、すなわち家老の領地の、地方長官となることはできましょう。しかしやはり、仁者であるかどうかはわかりません。つぎに赤(せき)すなわち公西華(こうせいか)は、どうか、とたずねると、かれは大礼服を着て朝廷に立ち、外国の賓客と応対するには充分です。しかし仁者であるかどうかはわかりません。(中略)
この条の問答は、まえに為政篇(第六章、引用者注)で触れたような、孔子と孟武伯との年齢の差異から考えて、やはり孔子晩年のものである。そうして、「史記」の「弟子列伝」に、どの弟子は孔子よりもいくつ若かった、という記載を信ずるとすれば、問答の対象となった三人の弟子の年齢は一様でない。かりにBC四八四年、孔子が衛から魯に反った年のこととすれば、それは孟武伯が、孟孺子(もうじゅし)、すなわち孟の若旦那という呼び名で、はじめて「左伝」にあらわれる翌年であるが、孔子が六十九歳であるのに対し、子路は六十歳、冉求は四十歳、そうして公西華は二十七歳である。そうして働きざかりの冉求は、当時すでに魯の家老季孫氏の宰、すなわち奉行であったはずであるから、千室の邑、百乗の家、之れが宰たらしむ可きなり、というのは、仮定の言葉でなく、実績に徴しての言葉であったであろう。といって、子路について、千乗の国、其の賦を治めしむ可きなり、というのは、やはり可能性をいうのであろう。先進篇第十一(第二章、引用者注)に、政事には冉有と季路、というように、二人は実務の才に長じた弟子であった。また赤すなわち公西華についても、すぐ次の雍也篇に、赤の斉に適くや、肥馬に乗り、軽裘を衣(き)る、云云と見え、それがもし公式の使者となったことを意味するとすれば、この若い弟子も、外交官としての素質をもった人物であったことになる。
なおこの三人の弟子は、ほかの篇でも往往一しょに出て来る。


論語意訳を書き終えたのは5時半頃でした。これで朝の日課をやり終えました。やれやれです。有り難うございます!
庭に来る雀のために餌(ご飯粒)を投げます。雀がチュンチュンと沢山集まってきました。日本の清々しい朝です。有り難うございます!
事務所和室の御錀をチーンと三回大きく鳴らします。仏間の仏壇にもお線香をあげ、御錀をチーンと鳴らします。「ご本尊様、ご先祖様、今日もみんな幸せでした。長生きすることもできました。有り難うございます」と合掌。有り難うございます!台所の神棚に二礼二拍手一礼。有り難うございます!朝ご飯を頂きます。コープやまなしの白米にアサリのみそ汁、焼き鮭に大根おろしに沢庵と梅干し、昆布の佃煮という正しい日本人の朝食です。ご馳走さまです。美味しかったです。有り難うございます!食後はしばし読書をします。有り難うございます!読書研究会の課題本であるフランクル著(池田香代子訳)「夜と霧(新版)」を読破しました。素晴らしい本でした。有り難うございます!さて今日は午前中クライアント先で打ち合わせ、午後からは企業訪問、夜は勉強会と一日中出張です。クライアント先では温かいお茶を頂きました。ご馳走さまです。有り難うございます!訪問した企業でも温かいお茶を頂きました。ご馳走さまです。有り難うございます!夜の勉強会ではみなさん熱心に取り組んでくださいました。そして冷たいお茶を頂きました。ご馳走さまです。有り難うございます!朝も一日出張です。有り難いことです。有り難うございます!

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2006.10.11(水)  昨夜寝たのは23時過ぎ。4時ちょっと前にセットした目覚ましの音で目が覚め、パッと布団から出ることができました。一応、早起きといえるでしょう。有り難うございます!
新たな一日が始まります。湯の盤の銘に曰わく、「苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」。誠に有り難いことです。感謝、感激また感謝。有り難うございます!
事務所の縁側に出て、東の空を背景にした愛宕山に向かい「おはようございます。今日も良い一日でした。誠に有り難うございます」と過去形で合掌 しました。有り難うございます!蹲いの横で微笑んでいるお地蔵さまに合掌しました。有り難うございます!事務所の仏様にお線香を立てて合掌し、神様に水を入れて柏手を叩きます。神仏習合。正しい日本人の習慣です。有り難うございます!和室でお茶と梅干しを頂きます。有り難うございます!
今日もまた無事に一日を迎えることができました。有り難いことです。有り難うございます!


【論語意訳】公冶長篇


八.「公冶長第五、第八章」

子謂子貢曰、女与回也孰愈。対曰、賜也何敢望回。回也聞一以知十。賜也聞一以知二。子曰、弗如也。吾与女弗如也。

子、子貢に謂って曰く、「女(なんじ)と回とは孰(いず)れか愈(まさ)れる」。対(こた)えて曰く、「賜や何ぞ敢(あ)えて回を望まん。回や一を聞いて以て十を知る。賜や一を聞いて以て二を知る」。子曰く、「如(し)かざるなり。吾、女(なんじ)と如かざるなり」。


(ある時、)孔子先生は子貢に対しておっしゃった。

「お前と顔回とでは、どちらが優れているかのぉ」。

(顔回は、孔子がかねがね孔子自身が及ばないといっていたほどの高弟であるから、その彼と自分〔子貢〕とが比較されるのは、彼にとって嬉しくないこともなかったが、同時に不愉快な問いでもあった。「顔回よりも、わたしが優れています」などと言うわけにはいかないからである。しかし、子貢には、「おれだって、捨てたものではない」という自信はあるが、それを言えば謙譲の徳に背くことになり、また、「顔回よりも、わたしが優れています」などと言ったら、「孔子先生よりも、わたしが優れています」という意味にもなるのである…。)

(子貢が)答えて言った。

「とても私など顔回の及ぶところではありません。顔回は一を聞いて十を知ることができますが、私などは(せいぜい)一を聞いて二を知る程度でございます」。

(すると、)孔子は(その答えを予測していたかのように)言った。

「そうじゃ、お前など(とうてい)顔回には及ばないねぇ。(それどころか)わしだって、顔回には(とても)及ばないのじゃ…」。


この章の解説:

下村湖人著「論語物語」などを参考にしながら、物語風に訳してみました。

呉智英著「現代人の論語」は、この章について、次のように解説しています。

子貢は、顔回が師の最愛の弟子だからというので遠慮してへり下っているのではない。二人は年齢的にも同世代であり、長幼の序はない。それに、子貢は自ら「一を聞きて以て二を知る」と言っているのだ。才気走った子路らしい自負さえ読み取れる。その子貢が、しかし顔回は「一を聞きて以て十を知る」とまで言う。師の孔子もこれに同意し、さらに自分以上だとまでつけ加えるのだ。

論語の解説本は沢山ありますが、最後のところ「如(し)かず。吾、女(なんじ)に如かざるなり」を「吾、女(なんじ)に如かざるを与(ゆる)さん」と読んで、「そうじゃのぉ。(お前は顔回には及ばないよのぉ。)わしはお前が(己を知って)顔回に及ばないと認めたことを評価するぞよ」というように訳している本も少なくありません。
しかし、わたしは、「如(し)かず。吾、女(なんじ)に如かざるなり」と読んで、「そうじゃのぉ。わしも、お前と同じで顔回には及ばないのじゃ。(それほど、顔回は優れておるのじゃ)」と訳すのが正しいと思います。論語を繰り返し読んでいると、孔子が顔回のことを他の弟子とは比較にならないほど高く評価していることがわかります。

吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてあります。

顔回が「論語」にあらわれるのは、まえの為政篇の、「吾れ回と言う」が一回目、ここが二回目であるが、顔回、字は子淵こそは、孔子の最も大事な弟子であった。
この条は、ある日の孔子と、子貢との、問答である。子貢、端木賜(たんぼくし)は「弟子列伝」によれば、顔回より一つだけ年下の、いわば同年輩の弟子であり、競争相手でもあったであろう。
さて孔子は子貢にむかっていった。お前と顔回とは、どちらがすぐれていると思うか。子貢は答えた。賜や何んぞ敢えて回を望まん、賜とは子貢の名であり、望とは遠方からのぞみ見ることである。つまり、私は、とてもかれ顔回の、あしもとにもよりつけません。何となれば、かれ顔回は、ただ一つのことを聞いただけで、その周囲にある十のことを察知しますのに対し、私は、一つのことがらから、せいぜい二つのことがらを引き出すに過ぎないからです。
孔子は、子貢のこの素直な答えをよろこんで、いった。弗如也、如(し)かざるなり。弗は不よりも、より強い否定の助字であり、如は、及ぶ、同等のものとしておっつく、である。お前のいうとおり、お前はかれに及ばない。いや、お前ばかりじゃない。先生であるこのおれも、お前とともに、かれ顔回には及ばない。


九.「公冶長第五、第九章」

宰予昼寝。子曰、朽木雕也。糞土之牆、不可杇也。於予与何誅。子曰、始吾、於人也、聴其言而信其行。今吾於人也、聴其言而観其行。於予与改是。

宰予(さいよ)昼寝(ひるい)ぬ。子曰く、「朽木(きゅうぼく)は雕(ほ)る可(べ)からず。糞土(ふんど)の牆(しょう)は杇(ぬ)るべからず。予に於いてか何ぞ誅(せ)めん」。子曰く、「始め吾、人に於けるや、其の言を聴いて其の行いを信ぜり。今吾、人に於けるや、其の言を聴いて其の行いを観る。予に於いてか是を改む」。


下村湖人著「論語物語」を参考にしつつ、独断と偏見で、物語風に訳してみます。

(頭脳明晰であるが故に、人を小馬鹿にするなど性格に問題がある宰予は、昨夜孔子学校の門限を破り遅くまで遊んでいた。寄宿舎に帰ったのは朝方で、他の弟子たちは朝ご飯を食べていた。しかし、非道い二日酔いで、とにかく眠かったのでそのまま蒲団に入り熟睡してしまった。気が付くともうお昼を回っている。定例の孔子先生の授業はとっくに始まっている時間だ。あたりはシーンとしている。「寝過ぎた…。どうしようか」と宰予は思った。耳を澄ますと、向こうの部屋〔教室〕からかすかに孔子先生が講義をしている声が聞こえる。「今から授業に出るのでは、何か口実がないと具合が悪いなぁ…」と思いつつ、自分の部屋を出て、みんなの集まっている部屋(教室)の前まで行くと、立ち止まって耳を澄ました。中ではもうかなり話がはずんでいる。孔子先生の声もはっきり聞き取れる。宰予は「遅刻が何だっていうのさ。誰にもこういうことはあるものさ」と心の中で盛んに悪態に近い言い訳をしながら、戸を開けた。)

(話し声がぴたりと止まって、みんなの視線がいっせいに宰予に注がれた。宰予は内心は動揺したが、つとめて平生を装いながら、孔子先生の前まで行っておじぎをした。そして、何か気の利いた言い訳を言おうとしたが、孔子先生はそれを遮り、次のように言った。)

「雨ざらしで朽ち果てた木は、いかに彫刻して立派なものにしようと思っても無駄じゃ。一旦肥料を交えた糞だらけの土を、いかに塗り固めて土塀を造ろうとしても無駄じゃ。お前はその朽木糞土のようなもので、心がすでに腐っておる。だから、わしが何を言っても聞く耳を持たんじゃろうよ…」。(そして、次のように言った。「さあ、もうお行き、ここにいてわしの話を聞いても、お前の耳には何も届かないじゃろう。だったら、部屋に戻って好きなことでもしていなさい」。宰予は、返す言葉もなく、項垂〔うなだ〕れて教室を出て行った…。)

(宰予が出て行った後、門人に向かって孔子先生は次のように言われた。)

「わしは、これまで、人を観るとき、その人の言葉を聞いたら、(言葉通り実行してくれるものと)その人を信頼しておった。(しかし)これからは、人を観るとき、その人の言葉を聞いただけでは信用できん。実際の行動を観るまでは信用しないことにする。人を観る態度を改めることに決めたのじゃ(と再び宰予の怠慢を責め、教育方針をも改めることによって、門人たちの気を引き締めた)」。

(宰予は、孔子にこっぴどく怒られたことをいたく後悔した。そして、以降、孔子の言うことを素直に聞くように心がけるようになった。やがて、孔門十哲の一人に挙げられるほど、人間として成長したのである。)


この章に出てくる重要な言葉(概念):

糞土(ふんど)の牆(しょう)は杇(ぬ)るべからず:中国の垣は、古代では土をつきかためたものが多い。乾いた土ならつきかためられるが、水気をふくんだ泥土はかためられない。糞土はこの泥土をさす。「杇(ぬ)る」は上塗りであるが、泥土の垣はそれどころでないのである(貝塚茂樹著「論語」より)。


この章の解説:

独断と偏見で訳しました。最後にオチをつけたのがミソです。この章には、いろいろな解釈があります。「当時の中国では昼寝という習慣がなかったので怒られた」という解釈、「ただ寝ていたのではなくて、昼間から女性と寝ていたから怒られた」という解釈、「寝ていたのではなくてベッドに絵を描いていた(意味がよくわからない…)から怒られた」という解釈などです。安岡正篤先生は「宰我もえらく孔子から見限られたものでありますが、本文に対しては昔からいろいろな議論がなされておる。ちょっと昼寝したくらいで何故これほどまで孔子から言われるのかというものもあれば、いや、そうではない。昼も夜もきまりなく寝たからだというものもある。中には、女を連れて寝たからだ、とまあ今日の週刊誌等にお誂(あつら)え向きの解釈をするものまである。然し兎にも角にも四科十哲の一人に挙げられておるほどの人物でありますから、ただこれだけの人物であるとは到底思われない」(「論語に学ぶ」より)と言っておられます。ということで、話にオチをつけた次第です。しかし、実際のところは、宰予はどのような弟子だったのでしょうか。論語を読む限りでは、善い印象はまったくありません。極めて性格の悪い人だったように感じます。

呉智英著「現代人の論語」には、宰予のことを次のように書いています。

宰予は「宰予の昼寝」の故事で不名誉の名を後世に残している。公冶長篇にある話だ。
「宰予が怠けて昼寝をしていた。先生がおっしゃった。朽ちた木には美しい彫刻をほどこすことができぬ。ごみ土で土塀を作っても美しい上塗りはできぬ。宰予に対して何を叱ろうか。叱ってもしかたがないのだ。先生はまたこうもおっしゃった。前は私は言葉を聞いてその人を信用した。しかし、今は言葉を聞いてさらに行いを観察し、やっとその人を信用する。宰予以来、考えを改めたのだ」(公冶長篇五の十)。
この孔子の怒りは、怒りというよりも嫌悪に近い。忌まわしい人間を見た、という感じである。怠けて昼寝をしていたぐらいのことでここまで全人格を嫌悪できるだろうか。こういう疑問は誰しも抱く。そこで、古くからさまざまな解釈がなされてきた。(中略)
しかし、宰予が登場する他の章を考えれば、無理な解釈をしなくてもそのままで理解できる。宰予は原文通り「昼寝」をしていたのである。孔子が他の弟子たちを相手に講義をしているのを承知の上で、いわば挑発的に、あんたの講義なんか聞くよりも昼寝でもしていた方がよほど頭のためになるよ、と言わんばかりに。

以上です。この章に対するさまざまな解釈には、「なるほど」と納得できるものがなかったのですが、この(呉智英氏の)解釈には、「なるほど」と肯けるところがあります。
宰予はどうしようもなく性格の悪い人だったのです。しかし、なぜそういう人が孔門十哲に挙げられているのか…。やはり、若い頃はどうしようもない人間だったけれども、晩年は見違えるように人間的に成長した、ということでしょうか。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

宰予は礼の専門家で、能弁家として知られている。ちょっとした昼寝で、孔子からこんな目玉の飛び出るほど叱られたのはなぜか。弟子のしつけは厳格をきわめていたとしても、孔子のごとき大先生にしては、ちょっと受け取りにくい点がある。それにこの事件が、他人とくに弟子のことばを信じていた孔子に、ことばと行為とが一致しないこともあると考えさせる転機となった。人間のことばにたいする信頼感が、これでゆらぐほどの大事件になったとは、どういうことか。古今の注釈家が、これを問題にして、いろいろの解釈をこころみて、そのなかに捨てがたいものもあるが、どれも私にとってはじゅうぶん説得的ではない。宰予は、孔子に三年の喪は長すぎるといったり(陽貨篇第二十一章)して、孔子のご機嫌を損じている。彼は合理主義というより、さらに実用主義的なところがあったので、孔子の伝統主義と正面から対立する。実用主義的な子貢も、実際には妥協的であったが、宰予は思想をそのままおし出した。これがふだんから孔子の癇にさわっていたのではなかろうか。宰予はこの意味において、孔子一門の異端思想の者であり、戦国時代の墨子以後の実用主義の先駆者であったといえるだろう。孔子と宰予との間に、思想の対立からくる違和感があったとすると、宰予の昼寝の小さい不心得な行動がきっかけとなって、孔子の怒りをかったわけであるが、このきっかけ自身はたいしたことではなかったという前提で「昼寝」の意味をさぐればいいのである。


論語意訳を書き終えたのは5時過ぎです。これで朝の日課をやり終えました。まだ眠い…。やれやれです。有り難うございます!日経と山日に目を通します。庭に来る雀のために餌(ご飯粒)を投げます。日本の清々しい朝です。有り難うございます!
事務所和室の御錀をチーンと三回大きく鳴らします。そして仏間の仏壇にもお線香をあげ、御錀をチーンと鳴らし、「ご本尊様、ご先祖様、今日もみんな幸せでした。長生きすることもできました。有り難うございます」と合掌しました。有り難うございます!台所の神棚に二礼二拍手一礼をします。有り難うございます!朝ご飯を頂きます。コープやまなしの白米にアサリのみそ汁、焼き鮭に大根おろしに白菜の漬け物、昆布の佃煮という正しい日本人の朝食です。ご馳走さまです。美味しかったです。有り難うございます!食後は読書をします。 有り難うございます!

今日は一日出張です。春日居、富士河口湖、都留、大月、甲府と回ります。昼間は吉田のうどんを食べました。美味しかったです。有り難うございます!ある施設でお土産を頂きました。有り難うございます!同行したMさんからお土産を頂きました。有り難うございます!

夜は読書研究会です。帰りが遅くなると思いますので、ここで日記は締めることにします。明日も昼間は出張。夜は勉強会の講師を務めます。有り難いことです。有り難うございます!

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新たな一日が始まります。湯の盤の銘に曰わく、「苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」。誠に有り難いことです。感謝、感激また感謝。有り難うございます!
事務所の縁側に出て、東の空を背景にした愛宕山に向かい「おはようございます。今日も良い一日でした。誠に有り難うございます」と過去形で合掌 しました。有り難うございます!蹲いの横で微笑んでいるお地蔵さまに合掌しました。有り難うございます!事務所の仏様にお線香を立てて合掌し、神様に水を入れて柏手を叩きます。神仏習合。正しい日本人の習慣です。有り難うございます!和室でお茶と梅干しを頂きます。有り難うございます!
今日もまた無事に一日を迎えることができました。有り難いことです。有り難うございます!


【論語意訳】公冶長篇


十.「公冶長第五、第十章」

子曰、吾未見剛者。或対曰、申棖。子曰、棖也慾、焉得剛。

子曰く、「吾未だ剛者(ごうじゃ)を見ず」。或ひと対(こた)えて曰く、「申棖(しんとう)」。子曰く、『棖(とう)や慾、焉(いずく)んぞ剛を得ん。


孔子先生がおっしゃった。

「わたしはまだ剛という徳のある人を見たことがない」。

ある人が答えて言った。

「お弟子の申棖(しんとう)は剛の徳がある人ではないでしょうか」。

孔子先生がおっしゃった。

「棖(とう)には欲がある。欲がある限り剛の徳のある者とはいえないのぉ」。
(剛という徳は、意志が強く、何が起こってもそれを曲げない徳であるが、欲の多い者は欲に惹かれて自分の意志を曲げ易いからである)」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

剛者:意志が強く、何が起ころうとそれを曲げない人


この章の解説:

吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてあります。

強い人間というものを、私はまだ見たことがない、といったのに対し、ある人が、申棖(しんとう)はどうですか、とたずねた。申棖は、弟子の一人であったという説もある。(中略)孔子は答えた。申棖には、慾がある。強い人間ではあり得ない。
剛の字については、「尚書」(中略)に、「剛にして塞(み)つ」が、人間の九つの徳の一つとして見え、同じく「尚書」(中略)に、「正直、剛の克(ちから)、柔の克」が、人間の三つの徳として見える。(中略)慾の字(中略)古くは心をつけずに、ただ欲と書いた。(中略)もっとも有名なのは、「礼記」の「楽記」篇の次の条(中略)。
「人生まれて静かなるは、天の性なり。物に感じて動くは、性の欲なり。夫(そ)れ物の人を感ずるは、窮まりなし。而して人の好悪節(さだ)めなければ、則ち是れ物至りて、人、物に化せらるるなり。人、物に化せらるる者は、天理を滅ぼして、人欲を窮むる者なり」。


十一.「公冶長第五、第十一章」

子貢曰、我不欲人之加諸我也、吾亦欲無加諸人。子曰、賜也、非爾所及也。

子貢曰く、「我、人の諸(これ)を我に加うるを欲せざるや、吾も亦た諸を人に加うること無きを欲す」。子曰く、「賜や、爾の及ぶ所に非(あら)ず」。


子貢が(孔子先生に向かって、次のように)言った(ことがある)。

「先生、わたしは、自分が人にされて嫌なことは、自分もまた、自然と(意識しないで)、人にしないようにありたいと思います」。

(すると、)孔子先生は、(言下〔げんか〕に、次のように)おっしゃった。

「それはまだまだ、お前になど、できることではないぞ」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

加うる:施す


この章の解説:

この章では、子貢が孔子からこっぴどく、窘(たしな)められています。これほど厳しく孔子から戒められる子貢という弟子は、どのような人物だったのでしょうか。

呉智英著「現代人の論語」には、子貢について、次のように書いてあります。

論語の中の弟子たちの言葉は多く師との対話として記録されている。孔子に質問し、答えを得る、という形だ。質問は、問われた師の知性を試すだけではない。問う弟子の知性をも試す。弟子たちの質問の大半が、ただ自分の理解できないことを問うているのに対し、子貢の質問は、師の思想をさらに明らかに照らし出す働きをすることもしばしばである。

なるほど、子貢はその優れた頭脳で、孔子の偉大さを引き出してくれる弟子でもあったのです。
諸橋轍次「論語の講義」には、「子貢の意気込みを挫いたようにも聞こえるが、実は恕は仁に至る大きな道であるところから、そう容易には出来ないぞと言って、更に励ました言葉である。顔淵、二、衛霊公、二三には、「己の欲せざる所これを人に施すこと勿(な)かれ」とある。この勿は禁止を意味する。これに対して子貢は、無からんことを欲すと、無の字を用いている。無は勿と違って、自然にその気分になり、その状態になること、つまり努力を用いずに、自然に恕の道を行うようでありたいという、極めて高いところを願望した言葉である。かく考えると、孔子が、爾が及ぶ所に非ずと言ったのも、合点が行くと思う」と書いてあります。なるほど、そういうことなら孔子が子貢を厳しく戒めた真意がわかります。


十二.「公冶長第五、第十二章」

子貢曰、夫子之文章、可得而聞也。夫子之性与天道、不可得而聞也。

子貢曰く、夫子の文章は得て聞くべし。夫子の性と天道とを言うは得て聞くべからず。


(ある時、)子貢が(孔子先生の門人に対して)言った。

「孔子先生(の本質を知ることは容易なことではないよ。例えば)詩書礼楽など(古典)についてのお話なら、聞くこともできるし、理解することもできるが、孔子先生は(もっと本質的なところの)人生観や世界観、普遍的哲学や原理原則といったことは、めったに口にされないし、また口にされても、われわれにはそうたやすく理解できるようなものではない」。(孔子先生の深さは無限だから、とてもわれわれには及ばないのだよ…)。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

文章、性、天道
文章:文化、古典学
性:人間が天から授かった本質的なもの
天道:天の普遍的な原理原則


この章の解説:

諸橋轍次「論語の講義」には、「これはたまたまある場合に孔子が性か天道について語った時に、打ちよろこんでいった言葉であろう。孟子などになると、性を論ずること極めて詳しく、又中庸などでは天道を説くこともかなりに多い。しかし孔子の場合は、論語を通じて見ても殆どこれに言及しておらない。それだけに孔子の教えは、抽象的な議論を避けて、人の常に守るべき道に即した着実なものであったと見られる」と書いてあります。

吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてあります。

はなはだ有名な章である。ことに孔子の学問は、がんらい即物的であり、抽象的でも思弁的でもなかったと主張する学者たち、すなわち清朝の学者たちが、もっともしばしば引く章である。
子貢がいった。先生の文章を、われわれは、聞くことができる。しかし人間性と、宇宙の法則についての、先生の議論は、聞くことができない。
文章の二字で、子貢が何を意味したかは、じつはよくわからないが、具体的な行動としてあらわれた文化的な意図をひろく指すものであり、いまわれわれがこの二字を使うときの、狭義の意味、すなわち言語文化というだけの意味ではなく、礼、楽、という文化的な行為を、ひろく二字の中に含むと思われる。
性すなわち人間性の問題は、孟子以後の儒学の、好んで問題とするところである。しかし、「論語」の中で、それに関する議論は、「性は相近く、習いは相遠し」というのが、(中略)陽貨篇第十七に、ただ一つのものとしてある。また天の字は、よりしばしばあらわれるが、やはり陽貨篇(第十九章、引用者注)に、「天何をか言うや、しかも四時行われ、百物生ず」という遠慮ぶかい言及が、「天道」の性質についての唯一のものであるように思われる。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

子貢は、孔子の文章を見たのでなく、聞いたといっているから、孔子の発言のほか、詩・書などの暗唱や礼の行事、楽の演奏などを通じて、主として耳で聞いたものであった。文章は文化の表現と考えてさしつかえはない。性は人間のもって生まれた性質で、孔子は「性は相近し」(陽貨篇第二章)といっているから、人間の本性は個人的にそれほど差異はないと考えていたが、それ以上のことはなにもいっていない。天道は自然と人間社会の運行の法則をさす。孔子は運行に規則があることを意識していたが、それについて多くを語らなかった。あまり語らなかったことは、性と天道について、全然意識を欠いていたことを意味しない。とくに天道については、天道はかならずしも正義に与(くみ)しないし、不正義をも容認していることから、つまり天道是か非かについて、心の底でいつも問題にしていた。ただ弟子たちのなかに、性と天道との問題をひっさげて、孔子に質問するだけの人物がいなかったからである。


論語意訳を書き終えたのは5時半前です。これで朝の日課をやり終えました。やれやれです。今日もまた眠い…。有り難うございます!続けて朝の論語意訳も仕上げてしまいました。時計の針は6時を回っています。これまた、やれやれです。有り難うございます!

日経と山日に目を通します。庭に来る雀のために餌(ご飯粒)を投げます。日本の清々しい朝です。有り難うございます! まず事務所和室の御錀をチーンと三回大きく鳴らします。そして仏間の仏壇にもお線香をあげ、御錀をチーンと鳴らし、「ご本尊様、ご先祖様、今日もみんな幸せでした。長生きすることもできました。有り難うございます」と合掌しました。有り難うございます!

台所の神棚に二礼二拍手一礼をします。有り難うございます!朝ご飯を頂きます。コープやまなしの白米に大根と油揚げのみそ汁、大根おろしに沢庵、昆布の佃煮に納豆に梅干しいう正しい日本人の朝食です。ご馳走さまです。美味しかったです。有り難うございます!食後はお風呂に入ります。サッパリしました。有り難うございます!

今日も終日出張。夜は勉強会。いろんな所でいろんな方にお世話になりました。有り難うございます!帰宅したのは21時15分頃。明日の朝は駅前掃除です。早く寝ます。有り難うございます!

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2006.10.13(金) 昨夜寝たのは22時半頃。4時ちょっと前にセットした目覚ましの音で目が覚め、パッと布団から出ることができました。一応早起きといえるでしょう。有り難うございます!
新たな一日が始まります。湯の盤の銘に曰わく、「苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」。誠に有り難いことです。感謝、感激また感謝。有り難うございます!
事務所の縁側に出て、東の空を背景にした愛宕山に向かい「おはようございます。今日も良い一日でした。誠に有り難うございます」と過去形で合掌 しました。有り難うございます!蹲いの横で微笑んでいるお地蔵さまに合掌しました。有り難うございます!事務所の仏様にお線香を立てて合掌し、神様に水を入れて柏手を叩きます。神仏習合。正しい日本人の習慣です。有り難うございます!和室でお茶と梅干しを頂きます。有り難うございます!
今日もまた無事に一日を迎えることができました。有り難いことです。有り難うございます!


【論語意訳】公冶長篇


十三.「公冶長第五、第十三章」

子路有聞未之能行、惟恐有聞。

子路、聞くことありて未だ之を行うこと能(あた)わざれば、惟(ただ)聞くことあるを恐る。


子路は、(勇を重んじる野人であり、また、単純で素朴な善人でもあるから、孔子などから)聞いた善言善行を実行できない段階で、新たな善言善行を聞くことを恐れた(自分が聞いた善言善行を実行しきれなくなることを恐れたのである)。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

聞くことあり、聞くことある

聞くことあり:善言善行を聞くこと
聞くことある:既に聞いた善言善行を実行しない段階で、新たな善言善行を聞くこと


この章の解説:

思い切った解釈をしてみました。子路という人は、善くいえば、「勇気があり素朴で素直な善人」でありますが、悪くいえば、「野蛮で単純な完璧主義者」です。論語の中で子路は孔子に何度も怒られますが、孔子の言葉に深い愛情が感じられるのは、子路の人柄によるものだと思います。

下村湖人著「論語物語」では、子路について孔子は次のように語っています。

「聞きたがる心というものは、その人の軽薄さを示すだけで、別にたいした効能はないものじゃ。子路などは、その点では非常に感心なところがあって、一つの善言を聞いて、まだそれを実行することができないうちは、他の善言を聞くことを恐れるといったぐあいじゃ。真に道を求める者は、それくらいのまじめさがあっていい、と私は思っている」。

「論語物語」はフィクションですが、孔子が人間としては未完成であるけれども、何事にもひたむきに取り組む子路のことをかわいく思っていたことは間違いないと思います。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

言論よりも行動、理論よりは実践を重んじた孔子の門下で、この子路ほど教訓を実践にうつそうとひたむきに努力したものは少ない。孔子が、子路を大好きだったのは、こういう美点があるからである。子路の人柄は、孔子でなくとも、だれでも好きにならずにはいられないだろう。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

弟子の子路は、わたしが教えたことを必ず実践しようと努めたね。まだ一つの教えが身につかないうちにわたしが新たなことを教えようとすると、彼は恐れて逃げ回ったものだよ。ああいう生一本は、まったく得難い資質だったよなァ。

渋沢栄一著「『論語』の読み方」には、次のように書いてあります。

子路は勇気に富み、実行力もあった。だから善言を聴いたら、必ずこれを身をもって行動にうつした。その実行に努力するあまり、以前に聞いたことで、まだ実行できてないときは、さらに新しいことを聴くことを恐れ心配した。
これは博聞よりも実践を重視すべきことを説いているのであって、実行できないことにけっして耳を傾けるなという意味ではない。たとえ実行できなくても善言は聴くべきだといっているのである。


十四.「公冶長第五、第十四章」

子貢問曰、孔文子、何以謂之文也。子曰、敏而好学、不恥下問、是以謂之文也。

子貢問うて曰く、「孔文子(こうぶんし)は何を以て之を文と謂うや」。子曰く、「敏にして学を好み、下問を恥じず、是(ここ)を以て之を文と謂うなり」。


子貢が(疑問を抱いて、孔子先生に)たずねた。

「(衛の大夫で、その行動に問題があった)孔文子が、どうして『文』というような、(学問のある者に与えられる、立派な)おくり名を得ることができたのでしょうか」。

孔子先生は、次のように説明された。

「孔文子は、生まれつき覚りがよい上に、とても学問を好んで、後輩や目下の者に教えを乞うことを恥じなかった。そのように(学問に)熱心だったので、『文』という(立派な)おくり名を得ることができたのだよ」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

敏、下問

敏:さとりがよい
下問:自分よりも立場が下の人に問うこと


この章の解説:

安岡正篤著「朝の論語」では、次のように解説しています。

子貢は(中略)非常に頭の良い、すなわち聡明多才で、弁舌に長けた、かつ有名な理財家で、外交にも活躍いたしました。大変見通しのきく人物であります。この子貢が、「孔文子は何を以て之を文と謂うか」と問うた。
文子というのは諡(おくりな)でありまして、この人は子貢の故国衛の大夫で孔圉(こうぎょ)、論語に仲叔圉と出ております。諡(おくりな)の原則を書いた書物がありますが、諡法によりますと、「学を務め問を好むを文となす」と書いてあります。孔子は五十六七の頃、この衛の国におりまして、どうやら孔文子の家に世話になっておられたようであります。なかなか人材でありますが、どうも有力者によくありました素行の修まらない人でありまして、その点、子貢から申しますと、粗野で、文子という諡(おくりな)に値せぬと考えたのでしょう。
そこで「孔文子何を以て之を文と謂うか」と孔子に聞いたのでありますが、孔子は「敏にして学を好み、下問を恥じない人であったから」と答えました。そういうところもあった人と見えます。この文という意味は玩味(物事の意義をよく味わうこと…引用者注)に値します。どうも所謂(いわゆる)文人はぢきにお高く止まって、下問などせぬようになります。文明文化も常に真理に徴して学び改めぬと、すぐに文弱(学問に耽って弱々しい…引用者注)になり文滅(辞書にない言葉。おそらく、学問ばかりで行動が伴わないので、やがて文明が滅亡してしまうというような意味だと思われる…引用者注)するものであります。

それにしても、子貢は、よく孔子に質問しています。疑問に思ったことを頭で理解しないと気が済まない性格だったのでしょうね。そして、理解力は極めて高いのですが、本質的なところが、なかなかわからなかったようです。だから、よく孔子にガツンと言われたのでしょうねぇ。

吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてあります。

孔文子とは、衛の霊公の女婿であり、またその重臣であった人物であって、性は孔、名は圉(ぎょ)、文子とは、死後におくられた諡(おくりな)である。諡は、その人の生前の業績に対する批判として、おくられるものであり、りっぱな人物には、よい諡、好ましからぬ人物には、わるい諡が、おくられる。〜中略〜「文」というのは、最上の諡の一つであって、天地を経緯するを文と曰い、道徳博厚なるを文と曰い、学に勤め好んで問うを文と曰い、慈恵にして民を愛するを文と曰い、民を愍(あわれ)みて礼に恵(したが)うを文と曰い、民に爵位を錫(たも)うを文と曰う(中略)。ところで、この最高の諡をおくられた孔圉という人物は、孔子の同時代人であるが、その伝記には、あまり立派な人物といえぬ要素があり、かつその要素は、孔子の伝記と交錯している。
すなわり「左伝」によれば、魯の哀公の十一年、BC四八四、六十九歳の孔子は、衛の国にいたが、そのころ、この孔圉を主役の一人として、好ましくない事件がおこった。(中略)
要するに、孔圉という人物は、文子という立派な諡をもらうには、疑問のある人物であった。だから子貢があやしんで、「孔文子は、どういう資格で、文と諡されるに値するのですか」とたずねたのである。
すると孔子はこたえた。かれは鋭敏な人物であり、鋭敏な人物というものは、えてして自己の主観にたよりすぎる結果、じっくりと学問をしたがらないものだが、かれは鋭敏な人物でありながら、学問を好んだ。またその学問好きの一つのあらわれとして、自分よりも地位能力のおとるものにも、質問を発することを恥としなかった。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

孔文子は衛の重臣として、孔子が衛に亡命したとき勢力をふるっていた。彼は、若い大叔疾(たいしゅくしつ)の妻を離婚させて、自分の娘を後妻にやり、その先妻との仲が切れないのを怒って婿に討手(うって)をむけようとして、孔子に止められたことがある。衛の霊公の娘を夫人にしたのを笠にきて、専断のふるまいが多かった。子貢は、孔子も面識のある、あまり人格者とはいえない孔文子が、死後、文という最高の諡をうけたその理由を孔子に問うた。衛の霊公の婿であったことが、その隠れた理由であると推察していたのかもしれない。孔子は、乱脈な衛国のことではあるが、孔文子は政治家に似合わず学問好きで、謙虚で、部下の意見をとりいれたなどの、隠れた美点を示して、他人の私事をとりあげて悪口をいってはいけないと、言外に戒めたのである。


以上の論語意訳は昨日仕上げておいたものです。いや〜助かりました。有り難うございます!

遅れていた仕事を片付けてから、日経と山日に目を通します。庭に来る雀のために餌(ご飯粒)を投げます。日本の清々しい朝です。有り難うございます!
さて今日は駅前掃除の日です。6時5分前に家を出て甲府駅北口に向かいます。到着したのは6時ちょうど。すでに、某塾5期生のOさんが掃除を始めています。さすがです。有り難うございます!すぐに5期生のAさん、3期生のMさんご主人(Mさんは用事で欠席)と華ちゃん、3期生のSさんが合流していつものメンバーが揃いました。有り難うございます!

掃除の後は、いつものファミレスで、と書きたいところですが、今日は清掃のため朝7時からの営業とのことで、同じ系列で違う場所にあるファミレスに行きました。ここで2期生のSさんが合流。資料を頂きました。有り難うございます!3期生のSさんが写真を撮ってくれました。有り難うございます!今日も華ちゃんが可愛かったです。有り難うございます!
帰宅したのは8時過ぎ。まず事務所和室の御錀をチーンと三回大きく鳴らします。そして仏間の仏壇にもお線香をあげ、御錀をチーンと鳴らし、「ご本尊様、ご先祖様、今日もみんな幸せでした。長生きすることもできました。有り難うございます」と合掌しました。有り難うございます!台所の神棚に二礼二拍手一礼をします。有り難うございます!ここで一休み。今日は連日の出張から開放され、ほっと一息つけるのです。有り難うございます!10時半にお客様が見えました。いろいろと打合せをしました。有り難うございます!午後、横になったところ、すっかり寝てしまいました。かなり疲労が溜まっていたようです。これで睡眠不足は解消されました。有り難うございます!

19時半から「読書塾(論語に学ぶ)」を開催しました。今日の参加者は四名でした。みなさん大変熱心に取り組んでくださいました。有り難うございます!

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新たな一日が始まります。湯の盤の銘に曰わく、「苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」。誠に有り難いことです。感謝、感激また感謝。有り難うございます!
事務所の縁側に出て、東の空を背景にした愛宕山に向かい「おはようございます。今日も良い一日でした。誠に有り難うございます」と過去形で合掌 しました。有り難うございます!蹲いの横で微笑んでいるお地蔵さまに合掌しました。有り難うございます!事務所の仏様にお線香を立てて合掌し、神様に水を入れて柏手を叩きます。神仏習合。正しい日本人の習慣です。有り難うございます!和室でお茶と梅干しを頂きます。有り難うございます!
今日もまた無事に一日を迎えることができました。有り難いことです。有り難うございます!


【論語意訳】公冶長篇


十五.「公冶長第五、第十五章」

子謂子産。有君子之道四焉、其行己也恭、其事上也敬、其養民也恵、其使民也義。

子、子産(しさん)を謂う。君子の道四(し)あり、其の己を行うや恭、其の上に事(つか)うるや敬、其の民を養うや恵、其の民を使うや義。


孔子先生が、子産(鄭〔てい〕国の名宰相、公孫僑〔こうそんきょう〕の字)のことを評した。

「(子産は、)君子の道を四つ実践しておられた」。

「自分の行いは恭(うやうや)しく、上に仕えるには慎み、人民を養うには恵みをかけ、人民を使うには義にかなっている、という四つの徳である」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

己を行う:人に接する時の、その人(己)の行い


この章の解説:

宇野哲人「論語新釈」によると、「子産は鄭の上卿(じょうけい)で位も高く材も人にすぐれていたけれども謙遜して奢る心がなかった。また鄭の君(きみ)四代に事(つか)えて己の権威が重くなったけれども君に対して敬意を失うことはなかった。また鄭が乱れて君は出奔(しゅっぽん)し民は困窮したから恵みをもって民を養った。また当時鄭国には強族(きょうぞく)が多く身分に過ぎた行いをする者があったから、義をもってこれを治め整えたのである」とあります。同書では、「恭=謙遜、敬=慎む、恵=愛し利すること、義=正しい道」と解釈しています。

安岡正篤著「論語に学ぶ」には、次のように書いてあります。

子産は周の都・洛陽に最も近い鄭の国の宰相でありますが、孔子が三十一歳の時に亡くなっております。子産が亡くなった時に孔子は泣いた、と書いてありますから、よほど心服しておったものとみえる。(中略)
孔子が子産のことをこう言われた。「子産には君子の道が四つある。自分の他に対する行動はうやうやしく(恭は他に対する敬意の美しい表現)、上に仕えるにはうやまい(敬は自己が心より高きもの貴きものに向かう時の道徳的感情)、民衆を養うには恵み深く、民衆を使うには時・所の宜しきを得て行き届いておった(民衆を動員するのに、彼等のいろいろの生活条件を無視することなく、無理をせずに適当に使った、機宜を得たということです)」。
子産という人は、本当に出来た人で、絶対に無理をすることなく、それでいてどこまでも信念に基づいて、自分の考えを遂行してゆく力を持っておった。彼が初めて宰相になって、己の信ずるところをどんどん行い出した時には、鄭国民の非常な反感を買い、怨嗟(えんさ)の的となって、終には誰か子産をやっつける者はいないかという声まで起こった。
ところがそれが数年経つと、いつの間にか逆になって、われわれの生活をこういう風に幸福にしてくれたのは子産である、という礼讃と感謝の声に変わったという。これはなかなか並の政治家などに出来ることではありません。
若し本当に己が信ずるところの立派な政治を行おうとすれば、利己的で放縦な民衆、又その民衆の中にあっていろいろ私利私欲を行っておるような勢力と、必ずぶつかる。そうして先ず起こって来るのが反対の声であり、やがてそれが次第に圧力団体の動員となって、脅迫行動・暴力行動といったものが続出して来る。この時に大抵の政治家は参る。
それを子産は毅然として闘い抜き、然も次第に認められ、逆に感謝されるように持っていったというのは、よくも出来たものだと感心する。殊に戦後の政治家・内閣などをみればよくわかりますが、みな反対勢力に弱い。反対勢力が強く、且つ巧妙に戦術的に行われる時など、歯がゆいくらいに弱くなる。一々実例を観察して来ると、現実が現実だけに、子産という人は、如何に偉い人であったか、又政治家としても如何に勝れておったか、ということがよくわかります。


十六.「公冶長第五、第十六章」

子曰、晏平仲、善与人交、久而敬之。

子曰く、晏平仲(あんぺいちゅう)は善く人と交わり、久しく之を敬す。
(または)
子曰く、晏平仲(あんぺいちゅう)は善く人と交わる。久しうして人、之を敬す。


孔子先生がおっしゃった。

「晏平仲(斉国の大夫)はまことに人との交際の要を得た人である」。
「(人は久しく交わると、その人の欠点やあらが目に付いてきて、次第に尊敬の念を失いがちであるが)晏平仲は始めから終わりまで(その人に対する)敬意を失わなかった」。

(あるいは、)

「晏平仲は善く人と交わった」。
「久しく交われば交わるほど、人は晏平仲を尊敬した」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

敬:驕り高ぶることなく、謙譲の心や尊敬の念を失わないこと


この章の解説:

安岡正篤著「論語に学ぶ」には、次のように書いてあります。

孔子が言われた、「晏平仲は善く人と交わった。そうして久しく交われば交わるほど、人は晏平仲を尊敬した」と。
「久しうして人、之を敬す」の人の字は、皇侃(おうがん)や文章博士の清原家に伝わった論語本には、はいっておりますが、本によってはないものもあります。しかし人の字がないと、晏平仲が人を敬することになりますから、この場合はやはりなければ意味がない。晏平仲は勿論晏子のことでありまして、平はおくり名、仲は字(おくり名と字が逆であるとする説もある)、名を嬰(えい)と言う。〜中略〜 孔子よりも少し先輩であります。
本文はちょっと読むと、何でもないことのようでありますが、実に無限の味わいがありますね。人間は、交わらずには生きられない。社会的動物と言われる所以もそこにあるわけですが、そのくせ本当の交わりというものはなかなか出来ないものであります。ただ人と交わるということであれば、誰もやる。又やらねばならぬこと、やらざるを得ぬことであります。
が、それではどれだけ、本当の交わりをしておるか、善く交わっておるか、ということになると、大抵は少し交わると、文句が出る、面白くなくなる、というようなことで悪くなりがちである。従って善交ということは、実に貴いことでありまして、晏平仲はその善交の出来る人であったわけです。
然もそれだけではない。更にその上に、「久しうして人、之を敬す」、久しく交わるほど人は彼を尊敬したというのです。この久ということが又難しい。なかなか続かない。
夫婦でも、鼻につくと言うて、しばらく同棲すると、言い争いをやる。親子兄弟でも、しじゅう一緒に暮らしておると、いさかいをする。仕事でもそうですね。久しく一緒に同じ仕事をやるというのは、本当に難しいものです。況(いわん)や人との交わりにおいてをやでありまして、久しくなると、あらが見え易い、嫌になり易い。だから久しく交わって敬意を抱かせられるというのは、よほどその人間が偉いのである。と同時に交わる相手も亦心掛けがよいということが出来る。
従って孔子からかく評された晏子もさすがと思う。孔子なればこそこういう批評が出来たのであり、又晏子なればこそこういう批評をされたと言える。しかし世間には晏子のような人も少なくないと見えて、ここから「久敬」という熟語が出来ておる。兎に角晏子という人はそういう人で、斉の内外を問わず人々から畏敬されておる。(中略)
晏子という人は、私生活には極めて無頓着な人で、一狐裘(こきゅう)三十年と書いてありますが、同じ皮ごろもを三十年も著(き)古して、平然としておったという。
所謂シナ服というのは、今日の人民服を見てもわかりますが、昔から極めて粗末なものであります。その代わり中は贅沢に著る。すばらしい毛皮などを内側に著ておる。西洋人は外に著るが、中国人は中に著る。贅沢をする人ほど外に出さない。その方が温かくて、然も長持ちする。
晏子はその内側を著る皮ごろもを三十年の著ておった。虎の皮だか、熊の皮だかわからぬが、いくら長持ちするといっても宰相の地位にある人が三十年も著たきり雀というのは、よほど無頓着な人ですね。
又夫婦関係もきれいで、生涯妾を持たなかった。或る時景公が、“見受けるところ、お前の女房も大分くたびれてきて、あれでは気の毒だ。妾を持ったらどうだ”と言って奨めたところ、晏子は、“成る程、如何にも皺くちゃで見っともない女房には違いありませんが、それも私に連れ添うて苦労したためにああなりましたので…”と言って断ったという。世の女房共が聞いたら、感激して涙をこぼすような話でありますが、晏子にはそういうところがあった。
又『晏子春秋』には、この人と景公との面白い対話が書いてある。
或る時二人で何処かへ遠出をした。景公が打解けて晏子に、“何か希望とか。願いとか、いったものがあれば、一つ聞かせてくれ”と言うたら、晏子はこう答えた、
“自分を畏れてくれるような君があり、自分を信じて生涯連れ添うてくれる妻があり、何か遺してやろうと思うような倅がある、これが私の願いです”と。面白いですね。
“もう外にはないか”。“まだあります。折角お仕えするのですから、君は名君であって欲しい。同じ娶(めと)るなら、才長けて眉目美(うるわ)しき妻が宜しい。あまり富まなくてもよいが、貧しいのもいけません。それに良い隣人が欲しいものです”。(中略)
“まだあるか、あれば言うてみよ”、景公が言うと、最後の答えが又面白い。何処までも味のある言葉だろうと感心する。
“君ありて輔(たす)くべく、妻ありて去るべく、子ありて怒るべし”、名君よりは暗君、といっても手のつけられぬような暗君でも困るので、輔佐(ほさ)に世話のやける暗君、追い出したくなるような妻、時々どなりつけたくなるような倅、これが至極の願いだという。つまり慈悲のユーモラスな表現であるわけです。ちょっと凡人には言えぬ言葉であります。


論語意訳を書き終えたのは7時前です。遅くなってしまいましたが、今日も朝の日課をやり終えました。やれやれです。有り難うございます!
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まず事務所和室の御錀をチーンと三回大きく鳴らします。そして仏間の仏壇にもお線香をあげ、御錀をチーンと鳴らし、「ご本尊様、ご先祖様、今日もみんな幸せでした。長生きすることもできました。有り難うございます」と合掌しました。有り難うございます!台所の神棚に二礼二拍手一礼をします。有り難うございます!朝ご飯を頂きます。コープやまなしの焼きおにぎりに具沢山の豚汁と梅干しという正しい日本人の朝食です。ご馳走さまです。美味しかったです。有り難うございます!食後はHPの更新をしてから読書をします。有り難うございます!

前中は久々にじっくりと読書ができました。有り難うございます!午後からは、ちょっと昼寝をして仕事の準備をします。新しいクライアント先の指導者研修のテキストを作成しました。善いテキストができました。有り難うございます!

クライアント先では温かいお茶を頂きました。ご馳走さまです。有り難うございます!みなさん、熱心に話を聞いてくださり意見を言ってくださいました。有り難うございます!帰宅したのは19時半。明日の朝は坐禅会です。早く寝ます。有り難うございます!

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新たな一日が始まります。湯の盤の銘に曰わく、「苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」。誠に有り難いことです。感謝、感激また感謝。有り難うございます!
事務所の縁側に出て、東の空を背景にした愛宕山に向かい「おはようございます。今日も良い一日でした。誠に有り難うございます」と過去形で合掌 しました。有り難うございます!蹲いの横で微笑んでいるお地蔵さまに合掌しました。有り難うございます!事務所の仏様にお線香を立てて合掌し、神様に水を入れて柏手を叩きます。神仏習合。正しい日本人の習慣です。有り難うございます!和室でお茶と梅干しを頂きます。有り難うございます!
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【論語意訳】公冶長篇


十七.「公冶長第五、第十七章」

子曰、臧文仲、居蔡、山節、藻梲。何如其知也。

子曰く、臧文仲(ぞうぶんちゅう)は蔡(さい)を居(お)き、節(せつ)に山(やま)し、梲(せつ)に藻(も)せり。如何ぞ其れ知(ち)ならん。


孔子先生がおっしゃった。

「臧文仲(ぞうぶんちゅう)は、(大夫の身分でありながら、諸侯が占いに用いる)大きな亀を自家の宗廟に貯え、亀を蔵(おさ)めておく部屋の柱の上の桝形(ますがた)に山の模様を彫刻し、梁(はり)の上の短い柱に水草(水藻)の模様を描いている。(このように名分の区別を知らず、礼を守らぬ者をどうして知者などといえるだろうか…)」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

蔡(さい)、居(お)く、節(せつ)、梲(せつ)に藻(も)せる

蔡(さい):占いで用いる特別の大亀の甲羅(国君専用のもの)
居(お)く:貯えること
節(せつ):針を支える柱の上の枡形(ますがた)
梲(せつ)に藻(も)せる:梁の上に立てて棟木を支える短い柱に、水草(水藻)の模様を描くこと


この章の解説:

諸橋轍次「論語の講義」には、「臧文仲(ぞうぶんちゅう)は、知者を以て称せられたが、大夫たるにすぎぬ低い身分を以て、天子の礼を敢えて犯し、僭越なる贅沢を尽くしているので、まことに礼を知らざるの甚だしいもので、これでは知者といい難いというのである」と書いてあります。
吉田公平「論語」には、「人民のことを大事にしないで、鬼神にうかがいをたてる時に用いる亀甲をおさめておく部屋を、国君でもない臧文仲(ぞうぶんちゅう)が装飾して、鬼神にこびへつらいているので、智者とはいえない、と非難している」と書いてあります。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

臧文仲は、孔子の誕生より六十六年以前の前六一七年に死んだ。魯国の貴族中の有名な賢者であった。この世評の高い賢者にたいする孔子の批評は、あまりにも手きびしい。とくにここでは、賢者が私生活で礼に規定された制限を破った点がとり上げられている。季孫氏などの三家の礼制の無視を極力攻撃した孔子は、賢者の臧文仲にたいしても、批判せざるをえなかったのである。

吉川幸次郎著「論語 上」には、臧文仲について、次のように書いてあります。

この人物も、春秋時代の進歩的な人物に共通する性格として、合理主義的な性格をも、充分にもっていたらしい。(中略) 大ひでりがあり、雨乞いのために、人身御供を建てようという計画があったとき、それは迷信である、旱魃の救済のためには、もっと合理的な方法をと、主張したと見える。孔子の批評は賢者に全きを求めるものであったのであろうか。


十八.「公冶長第五、第十八章」

子張問曰、令尹子文、三仕為令尹、無喜色、三已之、無慍色。旧令尹之政、必以告新令尹。如何。子曰、忠矣。曰、仁矣乎。曰、未知、焉得仁。崔子弑斉君。陳文子有馬十乗、棄而違之。至於他邦、則曰、猶吾大夫崔子也。違之。之一邦、則又曰、猶吾大夫崔子也。違之。何如。子曰、清矣。曰、仁矣乎。曰、未知、焉得仁。

子張問うて曰く、「令尹子文(れいいんしぶん)は三(み)たび仕えて令尹(れいいん)となるも喜べる色なく、三たび之を已(や)めらるるも慍(いか)れる色なし。旧令尹の政は必ず以て新令尹に告げたり。如何」。子曰く、「忠なり」。曰く、「仁なるか」。曰く、「未だ知らず、焉(いずく)んぞ仁を得ん」。「崔子(さいし)、斉の君を弑(しい)す。陳文子(ちんぶんし)は馬十乗(うまじゅうじょう)あれども棄てて之を違(い)る。他邦(たほう)に至りて則ち曰く、『猶お吾が大夫崔子(さいし)のごときか』と。之を違(さ)る。一邦(いつほう)に之(ゆ)きて則ち又曰く、『猶お吾が大夫崔子(さいし)のごときか』と。之を違(さ)る。如何」。子曰く、「清(せい)なり」。曰く、「仁なるか」。曰く、「未だ知らず、焉(いずく)んぞ仁を得ん」。


子張が(孔子先生に)質問をした。

「令尹(れいいん…楚国の宰相)である子文(しぶん)は、三回も(宰相)に任命されましたが、少しも喜ぶような顔をせず、また、(同じく)三回も(宰相)を罷免されましたが、少しも怒るような顔をしませんでした。(それどころか、)宰相を交代する時には、後任の宰相にきちんと引き継ぎをしました。(このようなあり方は)いかながものでしょうか」。

孔子先生は(次のように)お答えになった。

「職務に忠実な人であるのぉ」。

(それに対して、子張が重ねて)質問した。

「仁者でありましょうか」。

(孔子先生が)言われた。

「いやいや、それはどうかな。それだけでは、まだ仁者とはいえないだろうなぁ」。

(子張が再び、質問をした)。

「(では、)斉国の崔(さい)殿が主君を殺した(叛乱した)時に、同僚の陳文子(ちんぶんし)は(それは許されないことであるとして)馬十乗(車一乗に対して馬四頭、すなわち四頭×十乗=四十頭分の税を納める程度)の領地を手放して他国へ去りました。(しかし、)亡命先でも(同じような叛乱がありましたので、)『これでは斉の崔(さい)がしたことと同じではないか』と嘆いてその国を去りました。そしてまた、別の国に行きましたが、(同じような叛乱がありましたので)『これもまた、斉の崔(さい)がしたことと同じではないか』と嘆いてその国を去りました。(このようなあり方なら)いかがなものでしょうか」。

孔子先生はお答えになった。

「それは清(きよ)い人であるのぉ」。

(それに対して、子張が重ねて)質問した。

「仁者でありましょうか」。

(孔子先生が)言われた。

「いやいや、それはどうかな。それだけでは、まだ仁者とはいえないだろうなぁ」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

違(い)る:去る


この章の解説:

加地伸行「論語」を参考にして、わたしなりに訳してみました。宇野哲人「論語新釈」には「子張は人の行い難い事をするのを好む人である。この二人の行いのごときは人の行い難いことである。子張はただ事迹(じせき)の上について論じているから、孔子はその行いを許してその心を許さないのである。忠も清も心の部分の徳であるが、仁は心の全体の徳である。仁者は必ず忠であり必ず清であるが、忠であるもの清であるものは必ずしも仁とはいわれないのである」とあります。

なるほど、子張が孔子の教えを表面的にしか理解していないことが、よくわかります。

吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてあります。

この条も有名人に対する批評である。前半で論ぜられている令尹子文とは、南方の大国、楚の国の宰相であって、子文とは字であり、令尹とはすなわち宰相を意味する楚の国の放言である。(中略) BC六六四、孔子の生まれるのに先だつこと百十三年…これが最初の組閣であろうが、そののちもたびたび首相となり、前後三度首相となった。しかしいつ首相になってもうれしそうな顔をせず、また首相をやめさせられても、いつも怨みがましい顔いろを見せなかった。そうして辞職のときには、事務の引き継ぎを精密に行い、前首相であるみずからの政策を、詳しく新首相にいいついだ。こういう行為はどうお考えになりますかと、子張が問うたのである。
それに対する孔子の答えは、「忠実である」。(中略)
つぎに後半の話題となった陳文子は、より近い時代の人物であって、「左伝」の襄公二十二年、BC五五一、すなわち孔子一歳の年から、襄公二十八年、孔子七歳のときまで、ほとんど毎年、この人についての記事がある。(中略) 崔子(さいし)、斉の君を弑(しい)すとは、BC五四八年の五月、(中略) 斉の家老の崔杼(さいちょ)が、その君主荘公(そうこう)を殺した事件であり、(中略) そのとき陳文子は、おなじく斉のくにの家老として、十乗すなわち四十匹の馬をもつ身分であったが、こうした不潔な国にいるのはたえられないとし、地位財産をなげうって、故国を違(さ)り、他のくにに亡命した。しかし、他のくにに行っても、うちの家老の崔子のやっていることと同じだといって、そこを立ちさり、さらにまた別の国にうつったが、そこでも同じことをいって、立ちさった。これはどうお考えになりますかと、子張が問うたのに対し、「清潔である」と孔子はこたえた。


以上の論語意訳は、昨日書き上げたものです。助かりました。有り難うございます!

日経と山日に目を通します。庭に来る雀のために餌(ご飯粒)を投げます。日本の清々しい朝です。有り難うございます!

今日は坐禅会の日でが、まだ時間があるので、三十分事務所の和室で坐禅を組みました。辺りはまだ暗くそして静かです。いい感じで坐ることができました。有り難うございます!そして家内と一緒に5時半過ぎに円光院に向かいます。いつものように木板を叩かせて頂きました。有り難うございます!坐禅は、前半後半ともに、まずまず落ち着いて坐ることができました。有り難うございます!坐禅の後は茶礼です。坐禅の後で頂くお茶は本当に美味しいのです。ご馳走さまです。有り難うございます!武田住職が無門関の法話を朗読してくださいました。勉強になりました。有り難うございます!指名されたので話をさせて頂きました。有り難うございます!

家に戻ったのは8時半頃。まず事務所和室の御錀をチーンと三回大きく鳴らします。そして仏間の仏壇にもお線香をあげ、御錀をチーンと鳴らし、「ご本尊様、ご先祖様、今日もみんな幸せでした。長生きすることもできました。有り難うございます」と合掌しました。有り難うございます!台所の神棚に二礼二拍手一礼をします。有り難うございます!朝ご飯を頂きます。坐禅会の後に頂く朝食はそれはもう本当に美味しいのです。ご馳走さまでした。有り難うございます!

今日は終日のんびりと過ごしました。朝からちょっとお酒を頂き、夕方までごろごろして過ごしました。たまにはこういう時間の過ごし方も佳いものです。有り難うございます!
朝は都留に出張して研修の講師を務めます。有り難うございます!

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事務所の縁側に出て、東の空を背景にした愛宕山に向かい「おはようございます。今日も良い一日でした。誠に有り難うございます」と過去形で合掌 しました。有り難うございます!蹲いの横で微笑んでいるお地蔵さまに合掌しました。有り難うございます!事務所の仏様にお線香を立てて合掌し、神様に水を入れて柏手を叩きます。神仏習合。正しい日本人の習慣です。有り難うございます!和室でお茶と梅干しを頂きます。有り難うございます!
今日もまた無事に一日を迎えることができました。有り難いことです。有り難うございます!


【論語意訳】公冶長篇


十九.「公冶長第五、第十九章」

季文子三思而後行。子聞之曰、再、斯可矣。

季文子(きぶんし)、三たび思うて而(しか)る後に行う。子之を聞いて曰く、「再びせば斯れ可なり」。


(魯の大夫の)季文子は(何事も)再三考えてから実行した。

孔子先生がこれを聞かれておっしゃった。

「せいぜい二度考えれば、それで十分である」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

三たび思う:再三考える(三は回数ではなく、何度もという意味)


この章の解説:

吉川幸次郎著「論語 上」には、季文子について、次のように書いてあります。

この人物は慎重をもって聞こえたらしく、「春秋」にその外交活動のはじめとして記載する晋国への出使のとき、晋の君主が病気であると聞くと、早手廻しに、会葬の用意をもととのえて出発した。それがすなわち、「三たび思うて而る後に行う」例であると、朱子の新注にはいう。つまり慎重すぎる人物であったため、何ごとを行動するにも、三度考えてから行動した。
孔子はその話を聞くと、三度は多すぎる、二度考慮すればそれでよい、と批評したというのが、やはり朱子の新注の説である。
古注(中略)では、季文子ほどの賢者ならば、二度考えれば充分であったろうに、三度とはまた、ていねいなことであったと、いったのだとする。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

わたしが生まれる以前に魯の家老であった季文子殿は、ものごとを三度考えてから実行されたというが、考えるのは二度でいいね。思慮深いのも結構だが、最初から三度考えようなどと思っていると、一度の考えが浅くなるし、即断ができなくなるだろう。「へたの考え休むに似たり」だよ。


二十.「公冶長第五、第二十章」

子曰、ィ武子、邦有道即知。邦無道即愚。其知可及也。其愚不可及也。

子曰く、「ィ武子(ねいぶし)、邦に道あれば即ち知。邦に道なければ即ち愚。其の知は及ぶべし。其の愚は及ぶべからず」。


孔子先生がおっしゃった。

「(衛の大夫の)ィ武子(ねいぶし)の国が治まっている時は知者として働き、国が乱れている時は、愚人のようにふるまった。その知者としての働きぶりを真似することはできるが、その愚人のようなふるまいは、なかなか真似できることではない」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

道あれば、道なければ

道あれば:世が治まっている時
道なければ:世が乱れている時


この章の解説:

安岡正篤著「論語に学ぶ」には、次のように書いてあります。

ィ武子(ねいぶし)は、春秋初期の人で、衛の国の大夫である。…孔子よりも百年あまり前の人です。…本文は…孔子のィ武子礼讃でもあるわけですが、…「其の愚及ぶべからざるなり」…は賛嘆の言葉である。
知は…頭が良いとか、気が利くというようなことは、五十歩百歩で、決して真似の出来ぬことではない、学んで到り得ぬことではない。けれども人間というものはなかなか愚…馬鹿にはなれぬものであります。ィ武子という人は、人の真似の出来ない馬鹿になれた人だというのです。
これは世間の苦労をして来た人ほどよくわかる。人間にとって知は、勿論本来は望ましいことであるけれども、人間性の本質の問題から言うなら、それほど大事ではない、むしろ大いに警戒を要することである。
(中略)
「馬鹿殿」という語。これは本来は賛辞なのです。
殿様というものには、内には世話のやける領民の外に、大ぜいの厄介な家来を抱え、そうして外には幕府という絶対権力者を戴いて、一日として心の休まる時がない、下手をすると、いつ取り潰されるかわからない。そういう内外の苦境の中にあって、殿さまとしてやってゆくには、利口になってはいけない。わかってもわからぬような顔をして、よほど馬鹿にならぬとつとまらない。
つまりィ武子の愚になって、馬鹿殿になって、初めて名君たり得るのです。

吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてあります。

ィ武子(ねいぶし)は、実名でいえばィ兪(ねいゆ)、やはり春秋初期、孔子から百年ばかり前の、晋の文公の時代、衛の国の家老であった。そのころの衛は、北方の晋と、南方の楚と、二つの対立する勢力の間にはさまれて苦悶する小国であった。国内も親晋派と親楚派の二つに分かれ、そのため君主の衛の成公は国外に亡命したり、復帰したり、そのたびに政変がおこるという、困難な情勢にあったが、その間にあって、粉骨砕身したのが、この人物である。「左伝」を見ると、まずBC六三二、魯の僖公(きこう)の二十八年、すなわち晋と楚が、衛の問題を一つのきっかけとして、城濮(じょうぼく)で大戦争をした年、一度国外に逃げた成公が、国に復帰すると、この人物が、国人をあつめ、いずれの党派も、国家を思う心は一つであるから、以後は仲よくするようにと、誓約させ、うまく危機を収拾したこと、しかし、党争はなお終結せず、成公は反対党から告訴され、覇者である晋の文公の法廷で裁判されることになったが、この人物が、成公の弁護人の一人となり、訴訟には負けたけれども、その忠誠さを晋がわから尊敬されたこと、訴訟に負けた成公は、周の都に拘禁されたが、この人物が差入れその他にこまやかな気をくばったこと、さらにまたその翌翌年である僖公(きこう)三十年、BC六三〇、獄中の君主が、晋のために毒殺されかけたとき、この人物が医者に賄賂をやって、毒薬をうすくし、そのいのちを助けたこと、などをしるしている。
「論語」のこの条は、以上のような経歴をもつィ武子に対する批評であって、「邦に道有れば則ち知」とは、平和時には知者としての技倆を充分に発揮し、「邦に道無ければ則ち愚」とは、危機の時代には、鋭敏な知者としての性質、すなわち、事がらの見通しが早くつく性質、それをおさえて、愚直な誠実をはたらかせたといい、さらにまた、その知者としての技倆は、他人もまねし、おいつくことができるけれども、その愚はまねることができないと、たたえたのである。朱子によれば、「左伝」に見える事実は、「邦に道無ければ則ち愚」であったことを示すものであり、「邦に道有れば則ち知」の方は、成公の先代、文公は、名君であったから、そのころの事跡をいうのであろうが、そのころの事跡としては、かえってなにも伝わるものがない。それがすなわち「其の知は及ぶ可きもの」である、とする。
なお「左伝」に見えるこの人のさらなる事跡として、僖公(きこう)三十一年、BC六二九、成公が夢見が悪かったというので、祭るべき神でない夏の相(しょう)を祭ろうとしたとき、「鬼神は其の族類に非ざれば、其の祀(まつ)りをうけず」といって、拒絶したことが見えるのは、春秋時代の賢人に共通な、合理主義的精神を示すものであり、また「論語」でいえば、為政篇の「其の神に非ずして之を祭るは、諂いなり」であって、その「知」を語るものかも知れない。また文公四年、BC六二三、衛の使者として魯に来朝したとき、歓迎の宴会で、どうしたことか場ちがいの音楽が演奏された。ィ武子はそっぽを向き、何の挨拶もしない。主人側の魯の接待がかりが、いぶかって、そっと注意すると、いや、さっきのは楽人たちが、稽古の手あわせをしているのだと思いました、といい、主人側の顔をつぶさずに、そのあやまりを指摘したという。「左伝」の注釈者…は、「此れ其の愚の及ぶ可からざるなり」といっている。


論語意訳を書き終えたのは5時ちょっと前です。朝の日課をやり終えました。やれやれです。有り難うございます!
日経と山日に目を通します。庭に来る雀のために餌(ご飯粒)を投げます。日本の清々しい朝です。有り難うございます!
まず事務所和室の御錀をチーンと三回大きく鳴らします。そして仏間の仏壇にもお線香をあげ、御錀をチーンと鳴らし、「ご本尊様、ご先祖様、今日もみんな幸せでした。長生きすることもできました。有り難うございます」と合掌しました。有り難うございます!台所の神棚に二礼二拍手一礼をします。有り難うございます!朝ご飯を頂きます。コープやまなしの白米にアサリのみそ汁、大根おろしに昆布の佃煮、竹輪にハムと炒り卵に沢庵という正しい日本人の朝食です。ご馳走さまです。美味しかったです。有り難うございます!食後は朝の論語意訳を仕上げてしまいました。有り難うございます!
さて今日は都留市に出張して研修の講師を務めます。研修は二時間ですが、往復時間や事前の打ち合わせがあるので、ほぼ一日仕事です。10時15分に事務所を出て11時45分に会場に到着。まずは挨拶をしました。温かいお茶を頂きました。ご馳走さまです。有り難うございます!

昼食を頂きながら打ち合わせをします。美味しいハンバーグにチョコレートケーキとコーヒーをご馳走になりました。恐縮です。有り難うございます!13時半から研修会が始まり、終了したのは16時を回っていました。

みなさん、熱心に話を聞いてくださいました。お茶を頂き、帰り際にお土産も頂きました。ご馳走さまです。有り難うございます!帰り道に先日訪問した福祉施設に寄り手打ちうどんを購入しました。先日食べたところとても美味しかったからです。五パック購入しました。これでしばらく美味しいうどんが食べられます。楽しみです。有り難うございます!

その後、笛吹市(旧石和)にあるラーメン屋さんに寄ってラーメンを食べました。以前から気になっていた店なのですが、ちょうど通りがかったので寄ってみました。期待していなかったのですが、とても美味しいラーメンでした。久々のヒットといったところです。また食べに行きたいと思います。
帰宅したのは18時を回っていました。明日は早朝から勉強会の講師を務めます。ということで、できるだけ早く寝ることにします。おやすみなさい。有り難うございます!

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2006.10.17(火)  昨夜寝たのは22時前。3時ちょっと前にセットした目覚ましの音で目が覚め、パッと布団から出ることができました。今日も早起きできました。有り難うございます!
新たな一日が始まります。湯の盤の銘に曰わく、「苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」。誠に有り難いことです。感謝、感激また感謝。有り難うございます!
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今日もまた無事に一日を迎えることができました。有り難いことです。有り難うございます!


【論語意訳】公冶長篇


二十一.「公冶長第五、第二十一章」

子在陳曰、帰与帰与。吾党之小子、狂簡、斐然成章、不知所以裁之。

子、陳に在りて曰く、帰らんか、帰らんか。吾が党の小子(しょうし)、狂簡(きょうかん)にして斐然(ひぜん)として章を成すも、之を裁(た)つ所以を知らず。


孔子先生は(天下周遊の途次)陳の国で(嘆息して)次のようにおっしゃった。

「帰ろう、帰ろう。魯に居るわが門人は、志は大きいが行動が伴わないから人間として未完成である。彼等は美しい素質を持っているが、それを栽(た)って衣にすることを知らないのじゃ。(彼等をよく導けばすくすくと伸びるであろう。あさましい諸侯を相手にしているより、よほど有意義なことじゃ)」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

吾が党の小子、狂簡、斐然として章を成す、裁(た)つ

吾が党の小子:魯の国都曲阜(きょくふ)の近郊は、六郷(きょう)に分かれて、本来国君直属の軍士が住居していた。五家を比、五比を閭(りょ)、四閭を族、五族を党、五党を州といい、五州が郷をなしていた。党は五百家の集団で、党には青年の寄宿所があった。日本の若衆の共同宿泊所のようなものがあり、ここで何日か共同で宿泊して、老人から部落の故事などの教育をうける。そしてこの老人を正座にすえて、酒盛りをする。この酒席の作法が「郷飲酒礼(きょういんじゅれい)」として礼のなかにとり入れられている。孔子の教団は、この郷党の青年組合をモデルとして発展させたものである。小子は、この組合の青年の身分であったが、これが孔子の弟子たちの称呼となった。「吾が党の小子」とは、孔子が曲阜の近郊にもっていた教団にのこしてきた、年少の弟子たちをさしている(貝塚茂樹著「論語」より)
狂簡:狂(志が大きい)が、簡(粗野)なこと
斐然として章を成す:色彩が豊富で模様をなすこと(貝塚茂樹著「論語」より)
裁つ:裁断して役立たせる


この章の解説:

故事にあります。「一年先を見るものは花を植え、十年先を見るものが木を植える。百年先を見るものだけが人をつくる」。

諸橋轍次「論語の講義」には、次のように書いてあります。

孔子は五十五、六の頃から世を済(すく)わんとして天下周遊の道に上がったが、至る所、言は斥(しりぞ)けられ、説は用いられず、加うるに陳に至った時は年すでに六十八、老齢に近づいて、この上、旅を続ける気力も失ってしまった。ここにおいて遙か故郷の青年を偲び、この純真な青年の教育によって、わが道を天下後世に残し伝えんと発心したのである。事実これから間もなく魯に帰るが、それ以後三千の門徒を集め、又六経(りくけい:易・書・詩・礼・学・春秋の六つの経書)を手に入れて、万世を教える事業に従事したのである。

呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。

孔子は五十六歳の時、故国魯を去り、諸国遊歴に出発する。遊歴といえば気楽そうだが、師を敬慕する弟子たちだけを連れた亡命同然の旅であった。遊歴に旅立つ前年、孔子は魯国の内政改革に失敗する。国政を牛耳る世襲貴族三桓氏一族の力を押さえ込もうとして果たさず、かえって自分の身すら危うくなったのである。
遊歴中は、諸国の君主を訪ね、理想の政治を説くも容れられることはなく、それのみならず、路銀も尽き、道中の食糧に欠くこともあった。さらに、いかがわしい一行だとして土地の者に襲撃される事件さえあった。こうした苦しい流浪の旅は足かけ十四年に及び、故国へ帰ったのは六十九歳の時である。(中略)
先生が諸国遊歴の途中陳の国にいらっしゃった時、嘆息して悲痛な言葉を吐かれた。ああ、もう帰ろうか、帰ろうか。私の郷里の青年たちは大らかな理想に燃えている。譬えてみれば、美しい模様の布地なのだ。ただ、彼らはそれを裁って着物に仕立てるやり方を知らないでいる。

安岡正篤著「朝の論語」には、次のように書いてあります。

陳は、当時の都の洛陽に近い河南の開封というところがございます。その東の方になります。孔子はここに三年ほどおられました。晩年のことであります。故郷の魯に帰ろうか。自分は天下を周遊していろいろの人物に会った。ほんとの人物、恒(心変わらず恒なること、引用者注)の有る人物、中行ともいうべき人物がなかなか少ない。そこになると、わが郷党の青年達は、狂簡斐然として章を成す。みなそれぞれ理想・情熱、良心的な主義信念を持って立派なところがある。斐然は立派なという形容で、章は「あや」「いろどり」、美しい表現です。簡は簡略・簡単の簡で、単純の意です。なるほどみなそれぞれ生地は好いが、これをどういうふうに仕立て上げるか、せっかくの美しい反物を見事に裁って好い服に縫い上げるかという裁縫を知らない。非常に善い素質を持ちながら、具体的に人格行動を大成する方法を知らない。そのために、とかく問題を起こし易い。それでも利口な俗人、油断のならぬ小人よりも、この方がどんなに好いか知れないと言って、郷里の純真な青少年に思いを馳せて、嘆息しておるのであります。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

五十六歳のとき、改革に失敗して亡命した孔子は、諸国を放浪したあげく、陳国の境で危難にあったのは、前四八九年ごろのことである。この逆境にあって、思いを故国の村塾に残した若い弟子たちにはせて、孔子にしては珍しく感傷的な調子をおびた美文を吐いている。孔子の帰国が実現するのは、なお五年先のことで、いつ帰国できるか目算もたっていない時期のことであるから、さすが豪気な孔子も、こんな気持ちに陥ったのも無理はない。


二十二.「公冶長第五、第二十二章」

子曰、伯夷叔斉、不念旧悪。怨是用希。

子曰く、伯夷(はくい)、叔斉(しゅくせい)は旧悪を念(おも)わず。怨み是(ここ)を用(もっ)て希(まれ)なり。


孔子先生がおっしゃった。

「伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)は、共にその生涯を通じ潔白であったが、人の古い悪事を問わない寛大な人物であったので、人から怨まれることはまれであった」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

旧悪、念(おも)わず

旧悪:過去の悪事
念(おも)わず:忘れてしまうこと、いつまでも覚えていないこと


この章の解説:

諸橋轍次「論語の講義」には、次のように書いてあります。

伯夷・叔斉は、共に周の武王が殷の紂王を討滅(とうめつ:討ち滅ぼす、引用者注)せんとするに当たってこれを諫め、又武王即位の後には周の栗(ぞく:俸禄)を食うを恥じて首陽山(しゅようざん)に餓えた、いわゆる聖の清なる、極めて潔白な人達であった。潔白な人は不正不義を憎むの余り、ややもすれば人を許すの雅量(がりょう)に乏しく、狭量に陥って、その為に、人の怨みを買うことが多くなりがちである。然るに伯夷・叔斉は自分自身は厳に潔白を以て身を持しながら、他人に対しては、よく寛大を以て臨んだ。その点を孔子が称賛したのである。


二十三.「公冶長第五、第二十三章」

子曰、孰謂微生高直。或乞醯焉。乞諸其鄰而与之。

子曰く、孰(た)れか微生高(びせいこう)を直と謂う。或人(あるひと)醯(す)を乞う。諸(これ)を其の鄰(となり)に乞うて之に与(あた)う。


(魯に微生高〔びせいこう〕という人があって、正直者との世評を得ていた)。

(この人を批評して)孔子先生が次のように言われた。

「一体、誰があの微生高(びせいこう)を正直者だと言ったのだろう。ある人が微生高(びせいこう)のもとに酢を分けてほしいともらいに行ったところ、(たまたま手持ちのなかった彼は)、それを自分の隣の家から借りてきて、(自分の家の酢のような顔をして)貸し与えたというぞ…」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

直:是は是、非は非という真っ直ぐな人


この章の解説:

呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。

体面を繕う偽善的な微生高を批判した一章である。酢などの調味料の貸し借りは、日本でもほんの三十年ほど前には下町にはあった。まして、商品経済の未発達な二千五百年前の支那なら、もっと普通だったろう。友人が酢を借りに来た。自分の家にも酢はない。それなら、正直にないと言えばいいではないか。隣家から借りて来てまで体面を繕う必要がどこにあろう。
このように通釈して一応誤りではない。
しかし、どうも納得しにくい。だって、微生高はいい奴ではないか。友人が酢を借りに来たが、自分の家でも切らしている。それで、隣の家に行って頭まで下げて酢を借り、そんなことを友人に気取(けど)られぬよう、さりげなく酢を渡してやる。どう考えても、気配りのあるいい奴である。孔子は一体何を怒っているのだろう。論語を読むたびに、私はそう思っていた。(中略)
この章を理解するために、まるで反則技のような大技をしかけたのが、荻生徂徠である。『論語徴』では、信じがたいような解釈を提示している。本章は、孔子の冗談なんだよ、というのだ。「『たれか微生高を直なりと謂う』とは」「けだし反言して以てこれに戯(たわぶ)るるのみ。親しむの至りなり」。たれか微生高を直なりと謂う、というのは、わざと反対の言い方で冗談を言ったまでなのだ。至上の親しみを表現するためなのである。徂徠の言うところを、続けて聞こう。
おそらく、微生高の家へ酢を借りに行ったのは孔子なのである。ある人と言っているのは、わざとぼかして言っているので、本当は孔子なのである。「いつわりて知らざるまねす。みな戯言なり」。微生高は友だち思いのいい奴である。そのことは、孔子も含め、誰もが知っている。現に、孔子が酢を借りに行った時、微生高はわざわざ隣家から酢を借りて来て、そ知らぬ顔で渡してくれた。そのことを思い出して、孔子は知人たちに語る。いやぁ、微生高って男は、そういうことをするウソツキ野郎なんだよ。酢を借りに来た男? それは言えないね。まぁ、ある人としておきましょうか。
無茶苦茶とさえ言っていい解釈である。しかし、徂徠は、字義を本源にまで遡って解釈する古文辞学派にふさわしく、一字一句を検証しながら、しかも大技をしかけたのである。

なるほど…。実はわたしも、この章を読んで、一体、微生高のどこがいけないのだろうと疑問を感じていました。それに対する答えが、荻生徂徠の解釈ですね。なるほど、しかし…。


以上の論語意訳は昨日を仕上げたものです。助かりました。有り難うございます!まだ時計の針は3時半前です。今朝はクライアント先の早朝勉強会でので、その準備をして、日経と山日に目を通してから6時15分前に出掛けます。クライアント先に6時に到着。さっそく温かいコーヒーを頂きました。ご馳走さまです。有り難うございます!6時15分から8時20分まで勉強会をしました。みなさん熱心に取り組んでくださいました。頭が下がります。有り難うございます!

帰りに昨日行ったラーメン屋さんに寄って、味を再確認します。ん〜?あんまり美味しくない。昨日は美味しく感じたのに何故だろう?なにはともあれ、二度目の感想は、たいして美味しくない、ということになりました。そういえばこの店はチェーン店だし、そんなに美味しいはずがない、と思いながらも、何故、昨日はあんなに美味しく感じたのか、よほどお腹が空いていたのか、脂に飢えていたのか、よくわかりませんが、とにかく、たいしたことはない、という結論に至りました。

事務所に戻ったのは10時頃。某塾4期生のSさんが庭の手入れをしてくれています。雑草がなくなり枝がきれいに剪定され、じつにサッパリとしました。有り難うございます!今日は午後から出張して、引き続き夜は会合があります。ということで、ちょっと早いのですが、今日の日記はこれで締めることにします。明日も出張です。有り難うございます!

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2006.10.18(水)  昨夜寝たのは21時頃。3時ちょっと前にセットした目覚ましの音で目が覚め、パッと布団から出ることができました。今日も早起きできました。有り難うございます!
新たな一日が始まります。湯の盤の銘に曰わく、「苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」。誠に有り難いことです。感謝、感激また感謝。有り難うございます!
事務所の縁側に出て、東の空を背景にした愛宕山に向かい「おはようございます。今日も良い一日でした。誠に有り難うございます」と過去形で合掌 しました。有り難うございます!蹲いの横で微笑んでいるお地蔵さまに合掌しました。有り難うございます!事務所の仏様にお線香を立てて合掌し、神様に水を入れて柏手を叩きます。神仏習合。正しい日本人の習慣です。有り難うございます!和室でお茶と梅干しを頂きます。有り難うございます!
今日もまた無事に一日を迎えることができました。有り難いことです。有り難うございます!


【論語意訳】公冶長篇


二十四.「公冶長第五、第二十四章」

子曰、巧言令色足恭、左丘明恥之。丘亦恥之。匿怨而友其人、左丘明恥之。丘亦恥之。

子曰く、巧言令色足(すう)恭(きょう)は、左丘明(さきゅうめい)之を恥ず。丘(きゅう)も亦た之を恥ず。怨みを匿(かく)して其の人を友とするは、左丘明之を恥ず。丘も亦た之を恥ず。


孔子先生がおっしゃった。

「言葉巧みに顔つきを和らげ、あまりに恭(うやうや)しいことを、左丘明(さきゅうめい)は恥じたというが、わたしもこれを恥ずかしいことと思う」。

「(また、)心の中では恨んでいながら、それを隠して、何気ないようにその人と友だち付き合いをすることを、左丘明は恥じたというが、わたしもこれを恥ずかしいことと思う」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

足恭、左丘明

足恭:度が過ぎた恭しさ
左丘明:左丘が姓で、明が名である。『春秋左氏伝』は左丘明の著述とされ、魯国の左史という史官であったという説があるが、確かでない。この文面で見ると、左丘明と姓名を呼びすてにしているから、孔子からすると先輩で、すでに死亡している人のようにもみえる。ともかく、孔子が尊敬する同国の先覚であることだけは確かである(貝塚茂樹著「論語」より)。


この章の解説:

諸橋轍次「論語の講義」には、「恨みを隠して人と交わることは、小人の交際においてしばしば見るところであるが、最も恥ずべき事柄と思う」、「左丘明はおそらく孔子の先輩であろう」と書いてあります。

伊與田學著「『人に長たる者』の人間学」には、次のように書いてあります。

この左丘明という人は、孔子の尊敬する先輩であります。古代の有名な人か、あるいは孔子がいたく私淑した人かは不明ですけれども、いずれにしろ、このような人との交わりにおいて恥じた人であります。これは何も公有を断絶するということではなくて、親友として交わらないということです。
商売でもしていたら、会いたくない人でも会わなければならん場合も出てきましょう。そういうのを越して行くのが人生ではあるけれども、その人と本当の親友としては交わらないということでありましょう。
人の交わりというものには、大きく分けると二面があります。
一つは心の交わり。これを「心交」といいます。心交の中にもいろいろありまして、素心の交わりを「素交」といい、清らかな心をもって交わることを「清交」といいます。また、「水交」というのもある。これはあっさりとした交わり。同じように使われるものに「淡交」というのもあります。「君子の交わりは淡として水の如し」という言葉がありますね。水というのは本来は何の味もないようでありますが、君子の交わりとはそういうものである。それに対して「小人の交わりは甘きこと醴(れい)の如し」といって、小人の交わりは甘酒を飲むようなもので、ちょっとはいいけれど長くすると嫌になるといいます。
この「心交」に対するものは、利による交わり。これを「利交」といいます。利交の中にも「賄交」というのがある。賄賂、物でもって交わる交わりですね。それから「勢交」。これは勢力が強いから交わる。「量交」というのもある。量というのは「量る」ですから、どっちのほうが自分にいいかと二股掛けて交わるのが量交です。さらには「談交」。これは話がなかなか調子がよくてうまい、そういう集まりのことをいいます。もう一つ、困った者同士が寄って交わるのが「窮交」。最近は割合、この窮交がはやっていますな。良い者が両方寄ったらいいのだけれど、困った者同士が寄ったら、うっかりするとますます困るはずだけれども「同病相哀れむ」というわけでしょうな。この五つの交わりを「五交」といいます。
我々は心交ばかりとはなかなかいかん。利交の交わりもしなければならない。けれども、それが当たり前だと思いこんでしまうと、大きな落とし穴がある。それを忘れてはならないのです。


二十五.「公冶長第五、第二十五章」

顔淵季路侍。子曰、盍各言爾志。子路曰、願車馬衣軽裘、与朋友共、敝之而無憾。顔淵曰、願無伐善、無施労。子路曰、願聞子之志。子曰、老者安之、朋友信之、少者懐之。

顔淵季路侍(じ)す。子曰く、「盍(なん)ぞ各(おのおの)爾(なんじ)の志を言はざる」。子路曰く、「願はくは、車馬衣軽裘(しゃばいけいきゅう)を、朋友と共にし、之を敝(やぶ)るも憾みなけん」。顔淵曰く、「願はくは善に伐(ほこ)るなく、労を施(ほこ)ることなけん」。子路曰く、「願はくは子の志を聞かん」。子曰く、「老者は之を安んじ、朋友は之を信じ、少者は之を懐けん」。


下村湖人著「論語物語」を要約して引用し、物語風に訳してみます。

(ある日の夕方、)孔子は、(多くの門人たちが帰ったあとで、)顔淵と子路の二人を相手に、うちくつろいで話していた。(孔子は顔淵をこの上もなく愛していた。顔淵は、実に、一を聞いて十を知る明敏な頭脳の持ち主であった。だが、孔子の心をひきつけたのは、彼の頭脳ではなく、その心の敬虔さであった。顔淵の心こそ、真に人生の宝玉である、と孔子はいつも思っていた。子路もまた孔子の愛弟子の一人であった。彼は、孔子の門人の中で最年長者であり、孔子と年がわずか九つしか違わなかったが、心はだれよりも若かった。そのはちきれるような元気が、いつも孔子を微笑ましていた。しかし、孔子は、子路について、たえず深い憂いを抱いていた。子路は道を実行する勇猛心においては、門人たちのだれにも劣らなかったが、ややもすると、みずから正義を行っていると信じて、まっしぐらに反対の方向に進んでいくことすらあった。元気者であり実行力があるだけに、間違いを犯す危険も大きかったのである。

孔子は(子路を諭すために子路が一目置いている顔淵と一緒にいるこの機会を捉えて)二人に向かってそれとなく話しかけた。

「どうじゃ、今日はひとつ、めいめいの理想といったようなものを話し合ってみたらどうか」。

子路が(目を輝かせ、からだを乗り出して)言った。「先生、私は、私が政治の要職につき、馬車に乗ったり、毛皮の着物を着たりする身分になっても、志を同じくする友人とそれを共有して、もし友人がそれを壊したり破ったりしても、怨むことのないようにありたいものだと存じます」。

(孔子は、子路が物欲に超越したようなことをいいながら、その前提に自分の立身出世を置き、友人を自分以下に見ている気持ちに、不満を感じた。そして、顔淵の顔を見た。)

顔淵は、(いつものような謙遜な態度で、しずかに口を開いた。)「私は、善いことをしても人に誇らず、苦労したことを皆に吹聴したりせず、自分のなすべきことを、ただ真心をこめてやってみたいと思うだけです」。

(孔子は、軽くうなずきながら顔淵の言葉を聞いていた。そして、それが子路にどう響いたかを見るために、子路を顧みた。子路は、顔淵の言葉に、なにかしら深いところがあるように思った。そして自分の述べた理想は、それに比べると、いかにも上すべりしたものであることに気がついて、恥ずかしくなった。そして、孔子がどう思っているかが、心配になった。かなり長い間沈黙が続いたが、子路は耐えきれなくなり詰め寄るように孔子に言った。)

「先生、どうか先生のご理想も承らしていただきたいと存じます」。

孔子は(深い憐憫の目を子路に投げかけながら)答えた。

「わしかい、わしは、老人たちの心を安らかにしたい、朋友とは信をもって交わりたい、年少者には親しまれたいと、ただそれだけを願っているのじゃよ」。

(この言葉を聞いて、子路は、そのあまりに平凡なのにきょとんとした。それに反して、顔淵の顔はうすく紅潮してきた。彼はこれまで幾度も、今度こそは孔子の境地に追いつくことができたぞ、と思った瞬間に、するりと身をかわされるような気がしたが、この時もまたそうであった。彼は、自分が依然として自分というものにとらわれていることに気がついた。孔子は、自分の言葉が、予想以上に顔淵の心に響いているのを見て取って、いい知れぬ悦びを感じた。しかし、かんじんの子路が、なんの得るところもなく、相変わらず浅薄な自負心に溺れているのを見ては、心を暗くせずにはおれなかった。孔子はその夜、寝床に入ってからも、子路のことを考えた…)


この章の解説:

呉智英著「現代人の論語」には、孔子の弟子たちのことが次のように書いてあります。

史記によれば、孔子の弟子の数は三千人にものぼる。にわかには信じられない数字である。孫弟子や何度か話を聞いた程度の者も含めた数字だろう。史記はまた、弟子のうち学芸によく通じた者の数は七十七人だったとも言う。孔子に親しく薫陶を受けた弟子ということになると、おそらくこんな数字が妥当なところだ。もっとも、この七十七人でさえ、全員が名前や事績が伝わっているわけではない。論語の中に描かれた弟子とおぼしき人物の名は二十余人なのである。
その中で最も有名な弟子は顔回(顔淵)だろう。後世、儒者たちの間で「亜聖」と呼ばれたのは、この顔回と孔子より約二世紀後の孟子の二人である。孔子に亜(つ)ぐ聖人という意味だ。しかし、不思議なことに、論語の中に登場する章数で言えば、顔回は約二十章で、順位は第三位である。早死にしたのも原因だろうが、穏やかな人物であったがために逸話を残しにくかったのでもあろうか。登場順位第二位の子貢でさえ三十余章に登場し、顔回をはるかに抜く。そして、第一位は子路であり、四十余章に登場し、顔回の二倍を超える。
(中略)子路は(中略)、もと遊侠の徒であった。果断、剛直、熱血の人であった。頭は特に良くはないが、一本気な純情さがあった。健全な常識人でもあり、だからこそ、孔子のような理想主義者に惹かれもした。しばしば滑稽とも思える言動をとりながら、どこか憎めないところがあった。師である孔子は、そういった子路をたしなめつつ、実は最も可愛がっていたのかもしれない。


二十六.「公冶長第五、第二十六章」

子曰、已矣乎。吾未見能見其過而内自訟者也。

子曰く、已(や)んぬるかな。吾未だ能(よ)く其の過ちを見て内に自ら訟(せ)むる者を見ず。


孔子先生が(嘆息して)おっしゃった。

「お手上げだ…。私はこれまで、自分の犯した過ちを認めて、自省する人に出会ったことがない」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

已(や)んぬるかな:見ることができないことを嘆いて絶望する言葉


この章の解説:

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

こんなご時世だから、しょうがないことかもしれないが、わたしはこの歳になるまで、自分の過ちを素直に認めて自責の念にかられるような人物にお目にかかったことがないんだよねェ。


二十七.「公冶長第五、第二十七章」

子曰、十室之邑、必有忠信如丘者焉。不如丘之好学也。

子曰く、十室(じっしつ)の邑(ゆう)、必ず忠信丘(きゅう)の如き者あらん。丘の学を好むに如かざるなり。


孔子先生がおっしゃった。

「十戸ほどしか家のない村落にも、わしと同じくらい心に誠がある人は必ずおるに違いない。しかし、わしほど学問を好む者はいないじゃろうなぁ…」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

十室の邑:十戸ほどの小さな村


この章の解説:

金谷治著「孔子」には、次のように書いてあります。

忠信を基礎にして学問にはげむことが人間を完成させる道である。孔子はその道に自ら励んでいること、とりわけて学問好きの態度を自らの誇りともしていたのである。十軒ばかりの村里にも、きっとこのわたくしぐらいの忠信の人はいるだろう。忠信のまごころは万人のものである。ただ自分の学問好きには及ばないだけなのだという。終わりの句を「焉(いずく)んぞ丘の学を好むに如かざらんや」と反語に読んで、忠信がある以上、好学もあるはずだとみる説が古くからあるが、孔子の謙遜にあわせすぎた解釈である。孔子は自分の勉学については自負を持っていたとしてよい。そしてその勉学は、さしあたり君子としての実践を目標としたが、終極的には周公旦を中心とする伝統的な道の体得であり、実現であった。


論語意訳を書き終えたのは4時ちょっと前です。これで「公冶長篇」を書き終えました。明日からは「雍也篇」です。毎日順調に書き続けています。有り難うございます!
日経と山日に目を通します。有り難うございます!そして朝風呂と洒落込みました。サッパリしました。有り難うございます!それから庭に来る雀のために餌(ご飯粒)を投げます。日本の清々しい朝です。有り難うございます! そして事務所和室の御錀をチーンと三回大きく鳴らします。仏間の仏壇にもお線香をあげ、御錀をチーンと鳴らし、「ご本尊様、ご先祖様、今日もみんな幸せでした。長生きすることもできました。有り難うございます」と合掌しました。有り難うございます!台所の神棚に二礼二拍手一礼をします。有り難うございます!朝ご飯を頂きます。コープやまなしの白米にアサリのみそ汁、鰺の開きに大根おろしと沢庵という正しい日本人の朝食です。ご馳走さまです。美味しかったです。有り難うございます!食後は読書をします。有り難うございます!
今日の午前中は出張です。午後からはセミナーの講師、夜は事務所で「生き方塾(安岡正篤篇)」を開催致します。午前中の出張では、訪問先でお茶やらお菓子やらを頂きました。ご馳走さまです。有り難うございます!農産物をお土産に頂きました。ご馳走さまです。有り難うございます!

午後からのセミナーでは参加者が熱心に話を聞いてくださいました。有り難うございます!また冷たいお茶を頂きました。ご馳走さまです。有り難うございます!

そしてお世話になっているMさんが写真を撮ってくれました。有り難うございます!

夜は19時半から生き方塾を開催しました。今日は常連のMさんが都合が悪くて欠席でしたが、四人が参加してくださいました。 Aさんが写真を撮ってくれました。有り難うございます!

みなさん熱心に話を聞き、意見を言ってくださいました。有り難うございます!

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(毎月第二、第四日曜日、午後2時〜5時) 

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2006.10.19(木)  昨夜寝たのは24時半頃。4時半ちょっと前にセットした目覚ましの音で目が覚めパッと布団から出ることができました。一応早起きと言えるでしょう。有り難うございます!
新たな一日が始まります。湯の盤の銘に曰わく、「苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」。誠に有り難いことです。感謝、感激また感謝。有り難うございます!
事務所の縁側に出て、東の空を背景にした愛宕山に向かい「おはようございます。今日も良い一日でした。誠に有り難うございます」と過去形で合掌 しました。有り難うございます!蹲いの横で微笑んでいるお地蔵さまに合掌しました。有り難うございます!事務所の仏様にお線香を立てて合掌し、神様に水を入れて柏手を叩きます。神仏習合。正しい日本人の習慣です。有り難うございます!和室でお茶と梅干しを頂きます。有り難うございます!
今日もまた無事に一日を迎えることができました。有り難いことです。有り難うございます!


【論語意訳】雍也篇


一.「雍也第六、第一章」

子曰、雍也可使南面。仲弓問子桑伯子。子曰、可也簡。仲弓曰、居敬而行簡、以臨其民。不亦可乎。居簡而行簡、無乃大簡乎。子曰、雍之言然。

子曰く、「雍(よう)や南面(なんめん)せしむべし」。
仲弓(ちゅうきゅう)、子桑(しそう)伯子(はくし)を問う。子曰く、「可なり簡なり」。仲弓曰く、「敬に居て簡を行い、以て其の民に臨む。亦た可ならずや。簡に居て簡を行わば、乃(すなわ)ち大簡なるなからんか」。子曰く、「雍の言(げん)然(しか)り」。


孔子先生が (弟子の仲弓を評して)次のように言われた。

「雍(=仲弓)は、南向きに座らせてもよいほどの人物である」。

(これを聞いた)仲弓が(当時、子桑伯子〔しそうはくし〕という政治家〔魯の人らしいが、詳細は不明〕が寛大であるという評判だったので)

「子桑伯子という人物はいかがでしょう」と質問した。

(これに対して)孔子は

「まあよかろう。彼は大まかで小事にこだわらない性質であるから」と答えた。

(この孔子の「大まか」という言葉に、仲弓は疑問を感じて)

「君主が慎みの心を以て自らを律すると共に、大まかで小事にこだわらない寛大な態度で人民に臨むであれば、国も治まる(からよろしい)でしょうが、自らを律するのに大まかであるとしたら、国は乱れる(からよろしくない)のではないでしょうか」とたずねた。

孔子先生は、「まさに、そのとおりだ」と、これを肯定した。

(そして、内心、「人を評するのは難しい事じゃわい…」と呟いた)


この章に出てくる重要な言葉(概念):

南面、簡、大簡

南面:天子や諸侯などが公式の場で南に向き、北に向かった臣下の礼をうけること。南面せしむべしとは、人の頭に立つことのできる人物だという意味
簡:煩雑でない、大まかで小事にこだわらない
大簡:大まかに過ぎること


この章の解説:

わたしの解釈、意訳です。

加地伸行「論語」には、「居敬」(敬に居る)は「敬を拠りどころにして己を治める」の意で、四書の「中庸」「大学」にある「慎独」(独りを慎む)に似ている。ともに自律の意、とあります。仲弓は口べたな野人ではありますが、慎み敬することを大切にする人だったようです。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、「子曰く、雍や南面せしむべし」は別の章としており、「仲弓、子桑伯子を問う。…」からを次のように訳しています。

弟子の仲弓が政治家の子桑伯子の人柄を訊いたので、「おおようで、いいんじゃないの」と誉めたんだよ。そうしたら仲弓のやつ、「自分に対して厳しくて、人民に対しておおようなのは結構ですが、自分に対しておおようで、他人に対してもおおようではグズグズになりはしませんか」と反論してね。ごもっともなので、「いやあ、お前の言う通りだよ」と返事をしたが、誉め言葉も難しいね。


二.「雍也第六、第二章」

哀公問、弟子孰為好学。孔子対曰、有顔回者。好学。不遷怒。不弐過。不幸短命死矣。今也則亡。未聞好学者也。

哀公問う、「弟子(ていし)孰(たれ)か学を好むとなす」。孔子対えて曰く、「顔回という者あり。学を好む。怒りを遷(うつ)さず。過ちを弐(ふた)たびせず。不幸短命にして死す。今や則ち亡し。未だ学を好む者を聞かず」。


(孔子晩年のことである。魯国の君主で、孔子が嘗て仕えた定公を継いだ)哀公が(孔子に)次のようにたずねた。

「あなたの弟子の中で、あなたの教えを好み、修養を積んだ(あなたの教えを継いだ)のは誰ですか」。

孔子が、それに答えて言われた。

「顔回という弟子がおりました。わたしの教えを忠実に守り、好んで修養を積みました。(いわば、わたしの後継者といえましょう。顔回は、何が起ころうとも泰然としており、けっして)八つ当たりするようなことなどなく、過ちは二度と繰り返しませんでした。(しかし…、残念なことに、わたしにとっても、また後世の人々にとっても、大変に)不幸なことに、若くして死んでしまい、今はすでにこの世におりません…。(その後、顔回のように、)わたしの教えを忠実に守り、自ら好んで修養を積み、(一を以て十を知るような、)すぐれた弟子(後継者)には巡り会っておりません」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

怒りを遷(うつ)す:怒って周りに当たり散らすこと


この章の解説:

大胆に訳してみましたが、こんな感じだろうと思います。

安岡正篤先生は、「論語に学ぶ」の中で次のように書いています。

怒を移さず、過を繰返さない。なかなか出来ないことですね。大抵は怒を遷す、過を繰返す。躓(つまず)いた石にまで当たって「この野郎っ!」などと言って蹴飛ばす。そうかと思うと、自分の不注意は棚に上げて、「誰がこんなものをあんなところに置いたのか」などと家の者に当たる。
又こういうのが過を繰返す。そうしてとんだ結果を生む。「ああ、自分が不注意であった」と反省する人は案外少ないものです。小事にその人間がよく現われると言いますが、その通りで、何でもない些細なことにその人の性格がよく出るものであります。
その点顔回は偉かった。そうして回の外に「未だ学を好む者を聞かざるなり」と言うのですから、孔子が如何に顔回に許しておったかということがよくわかる。

呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。

他人に八つ当たりしない(怒りを遷さず)というところに、顔回の美質がよく現れている。子路も子貢も、勇の人、知の人とタイプこそちがっていても、自分の思うようにならないことがあれば八つ当たりしかねない人物であった。いや、孔子自身がそうだったように思える。論語冒頭の学而篇第一章に出てきて以後頻出する「人知らずして慍(うら)みず(人に評価されなくても恨みごとを言わない)」は、逆に、人知らざれば慍(うら)みかねない孔子自身や子路・子貢たちの証明である。だが、独り顔回だけは、「怒りを遷さず」であった。
里仁篇にこんな言葉がある。
「仁者は仁に安んじ、知者は仁を利とす」(里仁篇四の二)
仁者は、仁の中に安らいでいる。知者は仁によって世を利そうとする。
仁者は、ここでは、仁に自足している。それはまた、一椀の食物、一椀の飲物、路地裏暮らしを改めようとしない顔回である。顔回は仁を体現し、仁を楽しんでいる。そうであればこそ、一を聞いてその先にある二を知る子貢が、自分は顔回に及びもつかないと負けを認めたのだ。一を聞き二を知り、二を知って三を覚ったところで何になろう。顔回は、一を聞いただけで十全の仁を楽しんでいるのだから。
孔子もそれを認めていた。孔子の言う学問が仁に至る道を意味している以上、ほとんど仁を体現したかのような顔回は、知の人子貢よりも「学を好む」者であった。仁を求めながら、いや、仁を求めていればこそ、「仁に安んず」る境地には至り得ない孔子には、顔回は妬(ねた)ましくさえあったかもしれない。
だが、その顔回は思想家たり得ず、論語中の印象も強くはない。弟子の顔回に及ばないと自ら認めた孔子は、人類最初の思想家として仁の思想を構築し、後世にまで信奉者を持った。

以上です。「仁に安んず」る境地には至り得ない孔子には、顔回は妬(ねた)ましくさえあったかもしれない、とはやや言い過ぎのような気がしますが、孔子にとって顔回は「羨ましい」存在であったことは間違いないでしょう。やはり、顔回は儒者というよりも、禅僧に近いですねぇ。
論語を読んで惹かれるのは、苦難を乗り切って仁に至っていく人間くさい孔子の魅力と仁に安んじて自得している顔回の飄々とした境地です。


論語意訳を書き終えたのは6時ちょっと前です。これで今日も朝の日課をやり終えました。やれやれです。眠い…けれど、有り難うございます!

日経と山日に目を通します。庭に来る雀のために餌(ご飯粒)を投げます。日本の清々しい朝です。有り難うございます!
事務所和室の御錀をチーンと三回大きく鳴らします。仏間の仏壇にもお線香をあげ、御錀をチーンと鳴らし、「ご本尊様、ご先祖様、今日もみんな幸せでした。長生きすることもできました。有り難うございます」と合掌しました。有り難うございます!台所の神棚に二礼二拍手一礼をします。有り難うございます!朝ご飯を頂きます。コープやまなしの白米にワカメのみそ汁、大根おろしに納豆と沢庵にピーマンと卵の炒め物という正しい日本人の朝食です。ご馳走さまです。美味しかったです。有り難うございます!食後は明日の論語意訳を仕上げてしまいました。今夜「しにかた塾(仏教的に生きる)」があるので寝るのが遅くなり、また、明日の朝は駅前掃除のため、書いている時間が取れないのです。備えあれば憂いなし、有り難うございます!
寝不足のため、その後、しばし寝て昼前には出掛けます。ある会合へ出席するためです。この会合はいつも昼食付きですから、有り難いことです。12時ちょっと前に会場に到着。さっそく昼食を頂きました。温かいお茶も頂きました。いつもご馳走さまです。有り難うございます!食後は会議です。ここでは温かいコーヒーを頂きました。これまたご馳走さまです。有り難うございます!会議が終了したのは14時を回っていました。事務所に戻ったのは15時頃です。郵便局まで歩いて出掛けました。歩くということを滅多にしなくなったので、歩いてみることにしたのです。普段は通ることもない路地を歩いてみました。最近は本当にこういう路地が少なくなりました。風情があります。有り難うございます!

その後、事務所で今夜開催する「しにかた塾(仏教的に生きる)」の準備をして、軽く夕食を頂き、19時半から「しにかた塾(仏教的に生きる)」を始めました。有り難うございます!

今日の参加者は二人と少人数でしたが、二人とも熱心に取り組んでくださいました。誠に有り難いことです。有り難うございます!

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2006.10.20(金)  昨夜寝たのは24時半前。4時半にセットした目覚ましの音で目が覚め、パッと布団から出ることができました。一応早起きと言えるでしょう。有り難うございます!
新たな一日が始まります。湯の盤の銘に曰わく、「苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」。誠に有り難いことです。感謝、感激また感謝。有り難うございます!
事務所の縁側に出て、東の空を背景にした愛宕山に向かい「おはようございます。今日も良い一日でした。誠に有り難うございます」と過去形で合掌 しました。有り難うございます!蹲いの横で微笑んでいるお地蔵さまに合掌しました。有り難うございます!事務所の仏様にお線香を立てて合掌し、神様に水を入れて柏手を叩きます。神仏習合。正しい日本人の習慣です。有り難うございます!和室でお茶と梅干しを頂きます。有り難うございます!
今日もまた無事に一日を迎えることができました。有り難いことです。有り難うございます!


【論語意訳】雍也篇


三の一.「雍也第六、第三章の前半」

子華使於斉。冉子為其母請粟。子曰、与之釜。請益。曰、与之庾。冉子与之粟五秉。子曰、赤之適斉也、乗肥馬、衣軽裘。吾聞之也、君子周急、不継富。

子華、斉に使いす。冉子(ぜんし)、其の母の為に粟(ぞく)を請(こ)う。子曰く、「之に釜(ふ)を与えよ」 。益を請う。曰く、「之に庾(ゆ)を与えよ」。冉子、之に粟(ぞく)五秉(へい)を与う。子曰く、「赤(せき)の斉に適(ゆ)くや、肥馬(ひば)に乗り、軽裘(けいきゅう)を衣(き)たり。吾之を聞く、『君子は急を周(すく)いて富を継(つ)がず』と」。


(名家の出身で裕福だと思われる)子華(公西華)が、孔子先生の命令で斉の国に使いに行った時、 門人仲間の冉子(冉求)が(孔子先生に)、後に残った子華の母のために、米をやってほしいと願い出た。

(これに対して)孔子先生が「一釜(〔ふ〕:六斗四升)与えてやるように」 と言われると、(冉子はその量を少ないと思い)「もう少し増していただきたい」と願い出た。

(そこで孔子先生は)「一庾(〔ゆ〕:十六斗)与えるように」と言ったが、冉求は(それでもまだ不十分だと思い込んで)自分の考えで五秉(〔へい〕:一秉は十六石)の米を与えた。

(このことを知った)孔子先生は「赤(せき:子華の名)が斉に出かけて行く時、肥えた馬に乗り、軽い毛皮の着物を着ておったぞ。彼は決して貧しくはない(。むしろ裕福じゃ)。わしは『君子は困っている者には施しをするが、富める者を豊かにするようなことはしない』と聞いておる。(私が一釜〔ふ〕や一庾〔ゆ〕の粟を与えよと言ったのはそのためである(が、その意が汲まれなかったのは残念である)」と言われた。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

粟(ぞく)、益、適く、急を周(すく)う、富を継ぐ

粟(ぞく):当時の中国の主食(粟:あわ)
益:増える、増やす
適く:往く、目的地に向かって進む
急を周(すく)う:貧窮を救う(不足を補う)
富を継ぐ:すでに富んでいるのに更に与える


この章の解説:

この章の後半には、原思(げんし)という弟子が登場して、そのまったく反対をして孔子に戒められるのですが、ここでは省略しました。以下、呉智英著「現代人の論語」からの引用です。

育ちのよい貴公子然とした公西華と、(中略)善良有能だが正論を吐く気概に欠ける冉有との話である。
公西華(子華)が孔子の使いで斉の国へ行った。弟子の中で使者の役がふさわしいのは、当然、公西華だからだろう。さて、彼が旅立ってからしばらく後、冉有が孔子に申し出た。公西華の留守をあずかる母親のために、留守宅手当として扶持米(ふちまい、粟は穀物の総称)を出してやってほしい、というのだ。いかにも冉有らしい善良さである。孔子は承諾して言った。「釜(ふ)」すなわち日本の七升ほどを与えよ、と。これに対し、冉有は、「益(ま)さんことを請う」。いま少しふやしてやって下さい、と言う。孔子は承諾して「庾(ゆ)」(二斗)を与えよ、と言った。ところが、冉有は勝手に気を利かして「五秉(へい)」(十石)を届けた。これを知って孔子が言う。あの赤(公西華)が斉に行くに際しては、「肥馬(ひば)に乗りて軽裘(けいきゅう)を衣(き)たり」、肥えた馬に乗り、身には軽い高級な毛皮の上着を着ていた。私はこういう言葉を聞いている。君子は困っている者を助けるけれど、豊かな者に足し前はしない、と。
人情には厚いが、乗に流され、不正を批判することもできなくなる冉有らしい話である。
公西華は、今回紹介した伊達男ぶりを伝える数章以外、論語にほとんど登場しない。軽佻浮薄というわけではないが華やかな印象だけを残し、他にこれといった話はない。孔子の弟子の中では珍しい例だろう。


三の二.「雍也第六、第三章の後半」

原思為之宰。与之粟九百。辞。子曰、毋。以与爾隣里郷党乎。

原思、之が宰となる。之に粟(ぞく)九百を与う。辞す。子曰く、「毋(なか)れ、以て爾(なんじ)が隣里(りんり)郷党(きょうとう)に与えんか」。


(孔子先生が魯国の司冠〔しこう…法務大臣〕であられた時のことである。孔子先生は)原思をその封地〔与えられた領地〕の宰(首長)に任命した。

孔子先生は、(貧しい原思のことを思いやって)原思に俸給としてお米を百石ほど与えようとした。ところが、原思はこれを辞退しようとした。そこで…

孔子先生は、(原思に)次のように言い聞かせたのである。

「(原思よ、)遠慮することはないんだよ。(お前の家で食べて、もし余ったら、)隣近所の人々に分け与えてあげればいいではないか。(だから、遠慮せずに受け取りなさい)」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

毋(なか)れ:辞するなかれ


この章の解説:

雍也第六、第三章の後半です。原思は年齢不詳、姓は原、名は憲、字は子思(しし)。論語の中には二つの章で登場します。伊達男の公西華とは対照的に清貧の人だったようです。わたしが基本テキストとして使用している、吉田公平「論語」では、雍也篇第三章で、公西華と一緒の章で取り上げられています。たのテキストでは、公西華が登場する章と原思が登場する章を別の章としているものも少なくありません。
孔子は豊かな公西華には余分に与えてはいけない、と冉有に言い、貧しい原思には余分に与えようとしたのです。ところが原思が遠慮したので、受け取りやすいように気遣ったのです。


四.「雍也第六、第四章」

子、謂仲弓曰、犂牛之子、騂且角、雖欲勿用、山川其舎諸。

子、仲弓を謂いて曰く、「犂牛(りぎゅう)の子、騂(あか)く且つ角(つの)あらば、用うること勿(なか)らんと欲すと雖(いえど)も、山川(さんせん)其れ諸(これ)を舎(す)てんや」。


(仲弓の父親は非常に身分の卑しい、しかも素行が修まらない人であった。孔子の門人たちの中には仲弓の悪口を陰で言う者もあった。孔子が仲弓を「雍(よう)や南面(なんめん)せしむべし」などと誉めると、彼の身分の卑しいことや、彼の父親の悪行が門人たちの陰口の種になった。)

(その事を知った孔子は暗然〔哀しみや憂いで心が塞がること〕とした。孔子は「唯女子と小人とは養い難しとなす」〔陽貨第十七、第二十五章〕と言っているように、女子と小人がいかに御し難いものであるかを、よく知っていた。それは、女子と小人は親しめばつけ上がり、遠ざけると怨むからであった。そして、彼は今、仲弓の悪口を陰で言うような小人の心が嫉妬心により蝕まれているかを、まざまざと見せつけられた。孔子は、機会あるごとに門人たちの我執を抑えて嫉妬心を起こさないようにと説いたが、程度の低い門人たちには何の効果もなかった。)

(孔子は「はて、どうしたものか」と考えて、一案を思いついた。そして、仲弓の悪口を言っている門人たち五、六名をつれて、郊外を散策することにした。その門人たちは、孔子のお供を命ぜられたことを、非常に光栄に感じた。彼らは喜々として孔子の後に従った。)

(田圃には、ありらにもこちらにも、牛がせっせと土を耕していた。たいていの牛は毛が斑〔まだら〕であった。そして角が変にくねっていたり、左右の調和がとれていなかったりした。孔子はそれらにいちいち注意深く視線を注いでいたが、そのうち一頭の赤毛の牛に目をとめた。それはまだ若くて、つやつやと毛が陽に光っていた。孔子は、その牛の近くまで来ると、急に立ち止まって、門人たちに言った。)

(「みごとな牛じゃのう」。)

(門人たちは牛にはたいして興味がなかったが、孔子に言われたので、仕方なしにその方に目をやった。「あれなら、大丈夫祭壇の犠牲〔いけにえ〕になりそうじゃ」。門人たちは、孔子が犠牲を探すために、自分たちを郊外に連れ出したのだと思い元気よく相づちを打った。「なるほどみごとな牛でございます」。「この辺にちょっとこれだけの牛はみつかりますまい」。孔子は、しかし、それには答えないで、また歩き出した。そして独り言のように呟いた。)

(「まったく珍しい牛じゃ。しかし血筋が悪くては物になるまい」。)

(門人たちは顔を見合わせた。犠牲にするには、毛色が赤くて角がりっぱでさえあれば、それでいいとされている。これまで牛の血筋が問題にされた例を聞いたことがない。)

(「血統など、どうでもいいではございませんか」。)

(と、門人の一人が言った。)

(孔子…「かりに斑牛の子であっても、天地山川の神々はお嫌いはされぬかのぉ」。)

(門人…「大丈夫だと思います。本物が立派でさえあれば」。)

(孔子…「そうか。お前たちもそう信じるのか。それで、わしも安心じゃよ」。)

(門人たちは、また顔を見合わせた。彼らには孔子が何を言おうとしているのか、さっぱり見当がつかなかったのである。)

(孔子は、それっきり黙々として歩き続けた。しばらくして、ふと思い出したように言った。)
(「それはそうと、仲弓はこのごろどうしているかね。あれも斑牛の子で、神さまのお気に召さないという噂も、ちょいちょい聞くようじゃが…」。)

(門人たちは、また顔を見合わせた。しかし、彼らの視線はばらばらになって、めいめいに自分たちの足下を見つめた。孔子は続けた。)

(「しかし、お前たちのように、血統など問題にしない人がいると知ったら、仲弓も喜ぶだろう」。そして、何度も肯〔うなづ〕きながら呟いた。)

「たとえ斑牛の子で(血統が悪くと)も、色が真っ赤で見事な角をもっておれば、(俗人が)犠牲〔いけにえ〕に使うまいと思っても、山や川の神々がどうして捨てておこうか…」。

(門人たちは、孔子について歩くのが、もうたまらないほど苦しくなってきた。孔子は赤毛の牛を指さしながら、ふたたび言った。)

(「みごとな牛じゃ。あれならきっと神さまの思し召しにかないそうじゃのぉ」。)

(孔子のこうした教訓によって、門人たちが心から自己を反省したかはわからない。しかし、それ以来、仲弓の身分や、彼の父の素行が門人たちの話題にのぼらなくなったのは確かである。)


この章に出てくる重要な言葉(概念):

犂牛(りぎゅう)、騂(あか)、山川

犂牛(りぎゅう):毛色のまだらな牛
騂(あか):赤色、周時代の人は赤色をとうとんだから、犠牲に騂を用いたのである
山川:山や川の神をいう(以上、宇野哲人著「論語新釈」より)


この章の解説:

下村湖人著「論語物語」を要約・引用して物語風に訳してみました。のような事実があったわけではありませんが、こんな感じで、孔子は出来の悪い弟子たちを諭したのだと思います。


以上の論語意訳は昨日仕上げておいたものです。助かりました。有り難うございます!
日経と山日に目を通します。庭に来る雀のために餌(ご飯粒)を投げます。日本の清々しい朝です。有り難うございます!
さて今日は駅前掃除の日です。6時ちょっと前に甲府駅北口に向かいます。今日は一番乗りでした。すぐに某塾5期生のAさんがやってきました。AさんはOさんと一緒にトイレ掃除をしているのですが、今日はOさんが他に用事があるとのことだったので、わたしが手伝うことにしました。やがて5期生のもう一人のAさん、3期生のMさん夫妻、3期生のSさん、2期生のSさんと、いつものメンバーが揃いました。有り難うございます!

掃除の後は、いつものファミレスで朝食をとりながらの雑談タイムです。ここで5期生のOさんが合流しました。いつものように和やかで楽しい一時を過ごすことができました。有り難うございます!2期生のSさんが資料をくださいました。有り難うございます!今日も華ちゃんが可愛かったです。有り難うございます!家に戻ったのは8時半前。今日の仕事は昼からなので、寝不足解消のため、また寝ることにしました。10時過ぎに起きて、HPを更新します。有り難うございます!午後からの仕事の準備をして12時半過ぎに富士吉田に向かいます。14時に仕事先に到着。冷たいコーヒーを頂きました。ご馳走さまです。有り難うございます!さっそく勉強会を開催します。みなさん熱心に取り組んでくださいました。有り難うございます!16時10分頃勉強会を終えました。事務所に戻ったのは18時ちょっと前。なんだか風邪っぽいので早く寝ます。おやすみなさい。

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2006.10.21(土)  昨夜寝たのは21時半頃。3時ちょっと前にセットした目覚ましの音で目が覚め、3時には布団から出ることができました。一応早起きと言えるでしょう。有り難うございます!
新たな一日が始まります。湯の盤の銘に曰わく、「苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」。誠に有り難いことです。感謝、感激また感謝。有り難うございます!
事務所の縁側に出て、東の空を背景にした愛宕山に向かい「おはようございます。今日も良い一日でした。誠に有り難うございます」と過去形で合掌 しました。有り難うございます!蹲いの横で微笑んでいるお地蔵さまに合掌しました。有り難うございます!事務所の仏様にお線香を立てて合掌し、神様に水を入れて柏手を叩きます。神仏習合。正しい日本人の習慣です。有り難うございます!和室でお茶と梅干しを頂きます。有り難うございます!
今日もまた無事に一日を迎えることができました。有り難いことです。有り難うございます!


【論語意訳】雍也篇


五.「雍也第六、第五章」

子曰、回也其心三月不違仁。其餘則日月至焉而已矣。

子曰く、回や其の心三月(さんげつ)仁に違(たが)わず。其の餘(よ)は則ち日に月に至るのみ。


孔子先生が言われた。顔回は常に仁を実践している。その他の弟子たちは、一月続けばいいほうであり、一日しかもたない者が少なくない。


この章の解説:

この章は訳すのが難しいと言われており、解説本によって訳が異なります。その理由として三月という言葉をどう解釈するか、ということがあります。上の訳は、加地伸行著「論語」の現代語訳に従って、三月という言葉を「何ヶ月もの長い間、すなわち『常に』という感じ」としたものです。

宇野哲人著「論語新釈」では、「回は三月の久しきにわたって、その心が仁の徳に違うことはない」としておりますが、三月とは「久しいことをいうのであって、三月の後は違うというわけではない」と注記してあります。

わたしが基本書として愛用している、吉田公平著「論語」は、「顔回は、心が三ヵ月もの長きにわたり仁からはずれなかった。しかし、顔回以外の者は、日に一度か月に一度、仁からはずれないだけだ」と訳しております。

諸橋徹次著「論語の講義」では、「彼の心は三か月もの長い間に亘って仁道に違うことがなかったものである」と同じように訳しております。

これら学者の先生方が書かれた解説本には、「これだ!」と思える訳はありません。そこで、小説家の酒見賢一氏による孔子と顔回を主人公にした長編小説「陋巷に在り(13魯の巻)」を借りてこの章の意味を探っていきます。以下、「陋巷に在り(13魯の巻)」からの引用です。

結局、仁とは、仏教でいうような悟り、キリスト教でいうような光明、恩寵と同質か、ほとんど同じものなのではなかろうか。それは体現すべきものなのであって、論じるものではない。だからそれを得ない者には非常に解りづらいものとなる。
「論語」で、孔子が人に問われて仁の意義を語るとき、その場、その相手により答えがまちまちとなっており、かえって混乱を招きかねないところがある。愛であるといったり、忠恕であるといったり、ある行為を指して仁に沿っている、としたりする。弟子たちはその言葉を記憶し書きとめるしかない。だが、孔子にすれば仁の本源から出るものを即ち応じて答えているに過ぎず、まったく首尾一貫している。すべて仁が会得されておれば誰の目にも自明のことのはずなのだが、世に仁者はひどく寡(すくな)いらしい。
孔子は門下中ただ一人、顔回だけは仁を知っていると了解していた。顔回を、
『(顔回は)その心三月仁に違わず。其の余は即ち日月に至るのみ』
と評したことがある。
この一文の解釈もじつはかなり難しい。仁を得た、つまり道においてその本質を得たというのに、三月と限定している点が不可解なのである。一度悟りを得た者はそれを保定して、生涯悟り続けるはずであって、三月しか悟りが持続しないなどということはあり得ないことである。歴代「論語」注釈者たちはこのあたり、いくらかお茶を濁すような解説をするしかなかった。仁を守るべき徳の一つと解釈することがほとんどである。
「三月という期間つきながらも、顔回は仁を心に保つことが出来た。他の門人は仁をよくて一日、一月くらいしか保てなかった」
という解釈である。
しかし仁が孔子儒における悟覚(ごかく:悟ること、引用者注)の類(たぐい)であるとすれば、右の解釈は間違いというしかない。

引用は以上です。

酒見賢一氏は、「論語」における仁という概念を「仏教いうような悟りと同質か、ほとんど同じものなのではなかろうか。それは体現すべきものなのであって、論じるものではない。だからそれを得ない者には非常に解りづらいものとなる」と捉えております。わたしも仁とはそのような概念だと考えています。仏教では悟りを得るために八正道とか六波羅密とかいう修行を積み上げて行くのに対して、儒教では仁を得るために天地の道理に照らして義を立てて、礼を通して実践することにより徳を発するのです。義、礼(実践)、徳という一連のサイクルを仁と呼び、義は天地人の道に従ったものであるから、仁を得た者は天につながっている、すなわち仏教でいうところの悟りを得るということになるのだと思うのです。だとすれば、酒見賢一氏の指摘は極めて妥当だと思うのですが、しかし、「一度悟りを得た者はそれを保定して、生涯悟り続けるはずであって、三月しか悟りが持続しないなどということはあり得ないことである」というところは、違うと思うのです。なぜなら仏教でいう「悟り」とは一度その境地に立ったら、永遠にその境地が得られるのではなく、悟後の修行といって、悟った後もさらに修行を重ねて悟りの境地を高めていくからです。まさに「それは体現すべきものなのであって、論じるものではない。だからそれを得ない者には非常に解りづらい」ものなのです。酒見賢一氏の指摘は鋭いけれども、坐禅など仏教の実践体験がない(と思います。あったら御免なさい…)が故に「一度悟りを得た者はそれを保定して、生涯悟り続けるはず」だと断定してしまったようです。

つまり、この章の真の意味は、

「顔回は仁の境地に達すると(仏教でいう悟りの境地に達すると)その後、(何も実践しなくても、仏教でいうと修行をしなくても)自然とその境地を三か月ほどの長期間にわたって維持することができた。(しかし、顔回はさらに実践を重ねて、その境地を高めていった。仏教でいえば、悟後の修行を重ねて、悟りの境地を高めていった。その境地はわたし、すなわち孔子にも及ばないほどの境地であった。)しかし、他の門人たちは、仁の境地に達してもせいぜいその境地を一日しか保つことが出来ず、長い者でも一月が限界であった。(また、その後、仁のサイクルを積み上げて、仏教でいえば、悟後の修行を重ねて、仁の境地を、悟りの境地を高めることなど出来なかった)」。

となるのだと思うのです。
顔回の凄さとは、仁の境地(仏教でいえば、悟りの境地)の高さにあったのです。


六.「雍也第六、第六章」

季康子問、仲由可使従政也与。子曰、由也果。於従政乎何有。曰、賜也可使従政也与。曰、賜也達。於従政乎何有。曰、求也可使従政也与。曰、求也芸。於従政乎何有。

季康子(きこうし)問う、「仲由(ちゅうゆう)は政に従わしむべきか」。子曰く、「由や果。政に従うに於いて何かあらん」。曰く、「賜(し)や政に従わしむべきか」。曰く、「賜や達。政に従うに於いて何かあらん」。曰く、「求や政に従わしむべきか」。曰く、「求や芸。政に従うに於いて何かあらん」。


(斉の君であった桓公の子孫で「季孫」「孟孫」「淑孫」として皇室から分家し、魯に仕えた家臣である三桓〔さんかん〕)の一人である季康子が(政治を執るための人材を求めていた時に)尋ねた。

季康子:「仲由(子路)は、大夫として政治を任せることができるだろうか」。

孔子先生:「由は決断力があるので、政治を任せても大丈夫である」。

季康子:「賜(子貢)は、どうだろうか」。

孔子先生:「賜(子貢)は、理解力が高く事務に通達しておるので、大丈夫である」。

季康子:「求(冉求)は、どうだろうか」。

孔子先生:「求(冉求)は多才(才能が豊か)であるから、大丈夫である」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

政に従う、果、達、芸

政に従う:大夫(卿の下、士の上の官職)として政治を任せる
果:決断力
達:理解力
芸:才能が豊か


この章の解説:

吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてあります。

季康子は、まえの為政篇第二(第二十章、引用者注)にも見えた魯のわかい家老であり、魯の哀公三年、BC四九二、孔子六十歳以後は、この人物が、魯の首相であった。この人物が、仲由すなわち子路、賜すなわち子貢、求すなわち冉求、この三人の弟子について、その政治家としての能力を問うたのである。
孔子の答えは、「由や果」、子路は果断である。「賜や達」、子貢はものの道理に達している。「求や芸」、冉求は秀才である。いずれも、「政に従うに於いてか何か有らん」、政治をするぐらいのことは何でもない、であった。
「政に従う」とは、ただ政治をすることであるとする説と、執政となることだとする説と、二つある。なお子路と冉求とは、季氏の家臣であったことが、「論語」および「左伝」に見え、子貢も「言語には宰我、子貢」と先進篇にいうように、外交官としてのはなばなしい活動を、「左伝」の中で示している。また、子路と冉求が、政治家として注目されていたことは、まえの公冶長篇第五(第七章、引用者注)の、孟武伯の問い、のちの先進篇第十一(第二十三章、引用者注)の季子然の問い、「仲由と冉求は、大臣と謂うべきか」などからも、あわせ考えられる。いずれの条でも、孔子は、弟子たちの才能に対する、自信と愛情とを語っているようである。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

孔子の晩年、魯に帰国してのち、前四八四年以降のことであろう。宰相の地位についていた若い貴族の大臣は、老年の学者に、弟子たちの政治家としての能力について質問した。孔子はそれぞれの長所をあげ、この長所をうまく使えば、きっとりっぱな仕事ができると答えた。このとき冉有はすでに季氏の宰、つまり領地の地頭にとりたてられていた。孔子の弟子中の最年長者の子路、もっとも秀才の子貢を引き合いにだして、じつは最後に持ち出された冉有の人物論がいちばんききたいところであったのではなかろうか。ともかく孔子のように、自分の育てた弟子の長所をよく見て、そしてだれでも政治家になれると答えるのは、たいへんな自信であるし、また弟子への愛情のあらわれだという吉川幸次郎博士の考えに、私は賛成である。


論語意訳を書き終えたのは4時半頃でした。今日も朝の日課をやり終えました。やれやれです。有り難うございます!
日経に目を通します。そして明日の論語意訳を書き始めます。途中山日を読み、明日の論語意訳を書き終えたのは6時半頃でした。これで明日の朝が楽になります。有り難うございます!
庭に来る雀のために餌(ご飯粒)を投げます。日本の清々しい朝です。有り難うございます!
まず事務所和室の御錀をチーンと三回大きく鳴らします。そして仏間の仏壇にもお線香をあげ、御錀をチーンと鳴らし、「ご本尊様、ご先祖様、今日もみんな幸せでした。長生きすることもできました。有り難うございます」と合掌しました。有り難うございます!台所の神棚に二礼二拍手一礼をします。有り難うございます!朝ご飯を頂きます。正しい日本人の朝食です。ご馳走さまです。美味しかったです。有り難うございます!食後は読書をします。有り難うございます!
今日は午前中出張。午後から内勤でした。出張では、温かいお茶やお菓子やお土産などを頂きました。誠に恐縮です。有り難うございます!

写真は現在読んでいる論語の解説書です。有り難うございます!

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(毎月第二、第四日曜日、午後2時〜5時) 

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今日もまた無事に一日を迎えることができました。有り難いことです。有り難うございます!


【論語意訳】雍也篇


七.「雍也第六、第七章」

季子使閔子騫為費宰。閔子騫曰、善為我辞焉。如有復我者、則吾必在汶上矣。

季子、閔子騫(びんしけん)をして費の宰たらしむ。閔子騫曰く、「善く我が為に辞せよ。如(も)し我に復(ふたた)びする者あらば、則ち吾は汶(ぶん)の上(ほとり)にあらん」。


(魯の大夫)季氏が、孔子先生の門人の閔子騫(びんしけん)を費の町の宰(首長)にしようとした。
閔子騫(びんしけん)をは、その使いの者にこう答えた。

「どうぞ私に代わって、丁寧にお断りを申していただきたい。私には全くお仕えする気持ちはございません。もし再び、私に仕官を促されるようなことがあれば、私はここを逃げ出して、斉の汶(ぶん)のほとりにでも参る(亡命する)でありましょう」と。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

我に復(ふたた)びする、汶(ぶん)

我に復(ふたた)びする:再度来て、私を費の町の宰にしようとする
汶(ぶん):斉国の南、魯国の北境にある川の名前


この章の解説:

宇野哲人「論語新釈」には、「この章は閔子騫(びんしけん)が無道(ぶどう)な者の臣となることを欲しなかったことを記したのである。閔子騫は孔子の弟子で名を損(そん)という。子騫は字である。徳行をもって有名な人である」とあります。

吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてあります。

「史記」の「弟子列伝」に「閔損(びんそん)、字は子騫(しけん)、孔子より少(わか)きこと十五歳」。「論語」では、ここと、あとの先進第十一の篇に、四度かたまってあらわれる(第二章、四章、十二章、十三章、引用者注)。その一つは「徳行には顔淵、閔子騫、冉伯牛、仲弓」であり、顔淵につぐ徳行の士であったようである。
さてこの条は、季氏、というのは季康子の時代であったか、あるいはその父の季桓子の時代であったか、あきらかでないが、筆頭家老の季の家が、閔子騫を、費というまちの奉行に任命しようとした。(中略)
ところが閔子騫は、それを拒絶した。「曰く、善く我が為に辞せよ」。しかるべく、私にかわって挨拶をしておいて下さい。(中略) そうしてさらに言葉をつづけていった。「如(も)し我れを復(ま)たする者あらば」、つまり、だれかがもう一度私を呼びに来るとするならば、「則ち吾は汶(ぶん)の上(ほとり)に在らん矣」、私はきっとここを逃げ出し、北のかた、隣国斉との国境に近い、汶の川の沿岸へ、逃げてゆき、斉のくにへ亡命する準備を、するであろう。
なぜ閔子騫が、季氏の任命を拒絶したか、その理由は本文だけでは、もとより明らかでない。古注によれば、季氏が「不臣」であったこと、すなわち僣上沙汰ばかりしている家であったこと、それが一つの理由、また、「其の邑の宰は数(しば)しば畔(そむ)く」、すなわち陽貨篇第十七(第五章、引用者注)に、「公山弗擾(こうさんふつじょう)、費を以て畔く」、また「左伝」の昭公十二年にも、南蒯(なんかい)なる人物が、費を以てそむいたと見えるように、不安定な土地であったこと、それが第二の理由だとする。さらにまた、この条自体の語気から推して、閔子騫の潔癖さが、また一つの理由であったであろう。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

この問答がいつ行われたのか、季氏がだれをさすのかはっきり書かれていない。閔子騫は顔回と併称され、顔回の没後は徳行では孔門第一の有名な人物であった。孔子の晩年には、その育てた弟子たちは、魯国はもちろん周囲の諸国にしだいに有名となって、諸国に聘(へい)せられた。たぶん季康子が、徳行第一の閔子騫をねらって、季氏の領地中で要地である費の城の城主としようとしたのではなかろうか。そして、季氏の専権にあきたらぬ閔子騫の手ごわい拒絶にあって、冉有を聘したのではなかろうか。その時期は、冉有が季氏の宰となった前四八四年の直前ではなかろうか。


八.「雍也六、第八章」

伯牛有疾。子問之。自牖執其手曰、亡之。命矣夫。斯人也、而有斯疾也。斯人也、而斯有斯疾也。

伯牛(はくぎゅう)疾(やまい)あり。子之を問う。牖(まど)より其の手を執(と)りて曰く、「之亡(これな)けん。命なるかな。斯(こ)の人にして斯(こ)の疾(やまい)あること。斯(こ)の人にして斯(こ)の疾(やまい)あること」。


冉伯牛の病気は、いよいよ癩病(らいびょう)の徴候を現してきた。

(顔も、手も、表面がかさかさになり、全体に浮腫〔むく〕んで、紫色がかった肉が、皮膚の下から、渋柿のように崩れ出そうである。最近は、見舞いに来てくれる友人もほとんどいなくなった。彼自身も、人に顔を見られたくないので、その方が気は楽だが、一方で、言いようのない寂しさが心に滲みてくるのであった。その寂しさの奥には、自分をこのような目に遭わせた天に対する怨みと、癩病にかかった人間を忌み嫌う世間に対する怨みが、どす黒く渦を巻いていた。)

(「澄み切った青空の下で、生きながら腐乱していくわたし…。なんという天の悪意だろう。こんな悪意に満ちた天の下で、人間の心が素直になれる道理がないではないか…」。伯牛は、すぐにそんなことを考えて、目を暗い部屋の片隅に転ずるのであった。)

(孔子は、おりおり彼をたずねて来ては、慰めたり、叱ったり、教訓を話してくれた。とくに諸国を遍歴して嘗めた苦労の思い出話をよく口にした。伯牛にとっては、こうした過去の思い出が心の支えであった。一緒に旅に出て難儀したころの話が、孔子自身の口から語られると、しだいに心が落ちつき、生への執着が、水滴のように彼の心の中に滴りはじめるのだった。孔子と話している間は、彼の心に人間らしい明るさがあった。その間だけは、腐乱していく自分の肉体を忘れることができた。しかし、体を動かした拍子に、痛みで皮膚の感覚が目を覚ますと、彼はすぐ自分の手を見つめた。それから、その手をそっと顔に当てて、指先で用心深く眉や鼻のあたりを探った。そして、そのあとで彼の心を支配するのは、戦慄と、萎縮と、猜疑と、呪詛であった。)

(伯牛は、「そういえば、先生も、もうそろそろ一ヵ月近くも顔を見せられない。考えてみると、自分の顔全体が妙に崩れだしたのは、この前お会いしたころからのことだ。いよいよ先生も逃げ腰だな…」と呟いて、聖人といわれる孔子の正体を疑うようになった。)

(ある日、召使いが「先生がお見舞いにいらっしゃいましたよ」と戸口に立っていた。伯牛はぎくりとした。そして、しばらく天井を凝視して、慌てて寝床の上に起きあがったが、すぐまた横になって頭からすっぽりと布団をかぶってしまった。布団は肩のあたりでかすかに震えていた。召使いは「こちらにお通ししても、よろしゅうございますか」と寝床に近づいて言った。返事がない。召使いはしばらく首をかしげて思案していたが、一人で何か頷きながら、そのまま部屋を出て、静かに戸を閉めた。五、六分が過ぎた。その間、伯牛は布団の中で震え続けていた。)

(すると、出し抜けに、)窓の外から孔子の声が聞こえた。

(「伯牛、わしは強いてお前の顔を見ようとはいわぬ。せめて声だけでも聞きたいと思って久々にやって来たのじゃ。この頃、具合はどうじゃな。やはりすぐれないかのぉ。だが、心だけは安らかに保つがいい…」。孔子の声を聞いて、伯牛はむせぶように「先生、お…お…お許しを願います」と言った。孔子は、「いや、そのままでよい。お前の気持ちは、わしにもようわかる。お前の気持ちは正しい。しかし、お前がその病気を恥じて顔を隠しているのであれば、それは正しいとはいえない。お前の病気は天命じゃ。天命は天命としてそのままに受け取って、静かに忍従するところに君子の道があるのじゃ。それこそ大きな道じゃ。そして、その道を歩む者を仁の人というのじゃ」。伯牛は嗚咽した。その声は、窓の外に立っている孔子の耳にも、はっきり聞こえた。)

(「伯牛、手をお出し」。孔子はそう言って、自分の右手を窓からぐっと突き入れた。)

(孔子の顔は、窓枠の上に隠れて、内側にいる伯牛からはちっとも見えない。伯牛の象の皮膚のようにざらざらした手が、おびえるように、そろそろとのぞき出た。)

孔子の手は、いつの間にか、伯牛の手をしっかりと握っていた。

(ふたたび絶え入るような伯牛の嗚咽の声が聞こえた。)

「伯牛、おたがいに世を終わるのも、そう遠くはあるまい…。くれぐれも心を安らかに保ちたいものじゃ」。

(孔子は、そう言ってから、伯牛の手をそっと離すと、静かに歩を進めて門外に出た。そして、伯牛の屋敷を振り返って嘆息した。)

「天命じゃ。天命じゃ…。しかし、あれほどの人物が、こんな病気にかかるとは、なんということじゃろう。なんということじゃろう…」。

(伯牛は、しばらく経ってから、布団の中から顔を出した。彼は全身に滲んだ汗を、用心深くふきとりながら、布団の上に座った。心の底に、なにか、清々しいものが流れているのを感じた。「朝に道を聞けば、夕べに死んでも悔いはない」という孔子の言葉をしみじみと思い出した。)

(「天命…、そうだ。いっさいは天命だ。病める者も、健やかな者も、おしなべて一つの大いなる天命に抱かれて生きているのだ。天は全一(ぜんいつ)だ。天の心には自他の区別はない。いわんや悪意をやだ。天はただその歩むべき道をひたすらに歩むのだ」。)

(伯牛は孔子の心を、今こそはっきりと知ることができた。そして、さっき孔子に握りしめられた自分の手を、いつまでもいつまでも、見つめていた。)


この章に出てくる重要な言葉(概念):

之亡(これな)けん、斯(こ)の人、斯(こ)の疾(やまい)

之亡(これな)けん:この世を終わる(死ぬ)のも、遠くはない
斯(こ)の人:このような徳行の人
斯(こ)の疾(やまい):このような(死に至るような)病(やまい)


この章の解説:

冉伯牛は、姓は冉、名を耕(こう)、字を伯牛(はくぎゅう)といいます。 孔門十哲の一人で、顔回、閔子騫(びんしけん)、仲弓(ちゅうきゅう)と共に、徳行(とっこう)に秀でた人として挙げられています。冉伯牛が登場するのは、この章以外に孔門十哲で有名な「先進第十一、第二章」と、「雍也篇」にある一章の合わせて二章だけですが、孔子が不治の病にかかった冉伯牛を見舞いに行き、「斯(こ)の人にして斯の疾(やまい)あること。斯の人にして斯の疾あること」と深く嘆き悲しんだという、大変に有名な場面が描かれています。ここでは、下村湖人著「論語物語」を参考にして物語風に訳しました。


以上の論語意訳は、昨日書き上げたものです。助かりました。有り難うございます!

日経に目を通してから、まだ時間があったので坐禅を組みます。二十分ほど坐りました。気持ちが落ちつきました。有り難うございます!それから山日にも目を通します。
さて今日は坐禅会の日です。家内と一緒に5時半過ぎに円光院に向かいます。いつものように木板を叩かせて頂きました。有り難うございます!坐禅は、前半後半ともに、まずまず落ち着いて坐ることができました。有り難うございます!坐禅の後は茶礼です。坐禅の後で頂くお茶は本当に美味しいのです。ご馳走さまです。有り難うございます!武田住職が無門関の法話を朗読してくださいました。勉強になりました。有り難うございます!また、仏遺教経(ぶつゆいきょうぎょう)の小冊子を頂きました。これはすばらしい内容です。有り難うございます!

家に戻ったのは8時過ぎ。まず庭に来る雀のために餌(ご飯粒)を投げました。さっそく雀が沢山寄ってきました。日本の清々しい朝です。有り難うございます!そして仏間の仏壇にもお線香をあげ、御錀をチーンと鳴らし、「ご本尊様、ご先祖様、今日もみんな幸せでした。長生きすることもできました。有り難うございます」と合掌しました。有り難うございます!朝ご飯を頂きます。坐禅会の後に頂く朝食はそれはもう本当に美味しいのです。ご馳走さまでした。有り難うございます!

今日は午前中のんびりと過ごし、午後からは仕事をしました。有り難うございます!

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2006.10.23(月)  昨夜寝たのは21時前。2時半ちょっと前にセットした目覚ましの音で目が覚め、パッと布団から出ることができました。超早起きと言えるでしょう。有り難うございます!
新たな一日が始まります。湯の盤の銘に曰わく、「苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」。誠に有り難いことです。感謝、感激また感謝。有り難うございます!
事務所の縁側に出て、東の空を背景にした愛宕山に向かい「おはようございます。今日も良い一日でした。誠に有り難うございます」と過去形で合掌 しました。有り難うございます!蹲いの横で微笑んでいるお地蔵さまに合掌しました。有り難うございます!事務所の仏様にお線香を立てて合掌し、神様に水を入れて柏手を叩きます。神仏習合。正しい日本人の習慣です。有り難うございます!和室でお茶と梅干しを頂きます。有り難うございます!
今日もまた無事に一日を迎えることができました。有り難いことです。有り難うございます!


【論語意訳】雍也篇


九.「雍也第六、第九章」

子曰、賢哉回也。一箪食、一瓢飲、在陋巷。人不堪其憂。回也不改其楽。賢哉回也。

子曰く、賢なるかな回や。一箪(いったん)の食(し)、一瓢(いっぴょう)の飲(いん)、陋巷に在り。人はその憂いに堪えず。回や其の楽しみを改めず。賢なるかな回や。


孔子先生が言われた。

「賢い(偉い、凄い)ねぇ、顔回は。竹わり(竹で作った器に)ご飯をたった一盛り、瓢箪の(瓢箪で作った)お椀に水を一杯。うら街(の貧乏長屋)で細々と暮らしている。(そんな暮らしは)辛すぎて、普通の人はとても堪えられない…。(しかし、)顔回はその暮らしを楽しんでいて改善しようすら思わない。(実に)賢い(偉い、凄い)ねぇ、顔回は…」。


この章の解説:

有名な章です。顔回のことをよく表しております。酒見賢一氏の長編歴史小説「陋巷に在り」の出典でもあります。以下、酒見賢一著「陋巷に在り(1儒の巻)」から引用します。

顔回は「一を聞いて十を知る」ような聡明な男であり、「三月仁に違(たが)わず」と孔子に推奨されたほどであるから、他の弟子たちにも一目おかれた。好学の士であったため孔子に一番弟子として愛されはしたが、特に何をした人でもない。
顔回は他の弟子のように大夫の家や国家に仕官したことがない。出世の野心などないかのようである。貨殖の才などはなく、武芸に秀でてもいない。弁舌の才もなく、自ら進んで何かを為したということがない。ほとんど無為の人である。このような態度では孔子の儒学における有為の人材とはとても言えない。どちらかと言うと孔子が嫌った隠者の風に近い。ただ、「一箪の食、一瓢の飲、陋巷に在り」という暮らしを楽しみ、改めなかった。
そうなんですねぇ。顔回というのは、何かを為した人ではなく、ただ、「陋巷に在り」という暮らしを楽しんで、それを改めようともしなかった無為の人なのです。
では、前掲書から、顔回の陋巷(狭苦しい巷、むさくるしい町)における暮らしぶりを描いた部分を引用してみましょう。
顔回、字(あざな…通称)は子淵、顔淵とも呼ばれる。変わり者だという評判である。もちろん、変わり者に違いない。陋巷に住む人々はこれ以下はないというくらいの庶民である。庶民の無理解ではあるが実は賢い目から見れば、歴史に名前が残ってしまうような人物はみな変物である。
顔回子淵がここに住み始めたのはもう何年も前である。顔回の父の名は顔無繇(がんむよう)、字を路というが、二人で住んでいた。見れば、顔路はやや老いて鄙人(ひじん…賤しい人)の風がある。息子の顔回の方は人品卑しからず、衣服は乱れず、貴人の相すらある。最初、人々は顔さんは士であって、主家が何かの事情で潰れたので、仕方なくここへ流れてきたのであろうと噂した。しかし、それははずれで、顔無繇(がんむよう)は※儒だった。儒は陋巷に住む者からすらも、時に軽蔑を受けるような生業(なりわい)である。顔回も顔無繇(がんむよう)もどちらかと言うと見下されている。(※儒…需は雨請いする下級の巫祝〔ふしゅく〕。儒はその階層から起こったものであるから、儒という〜白川静「字統」より)

以上です。「陋巷に在る」顔回の暮らしぶりがイメージできたでしょうか。ここで「儒」という言葉が出てきましたが、孔子の母親は姓を「顔」といい、巫祝(ふしゅく…巫女さんのようなもの)であったという説もあります。つまり、孔子も顔回も、生まれは「儒」の人であった。そこに孔子と顔回の共通点があるということも、顔回という人物を知るためのヒントになると思います。つまり、孔子も顔回も生まれつき神につながっている存在であった、ということです。

さて、安岡正篤先生は、この顔回のことをどのように書いているのでしょうか。以下、安岡正篤著「朝の論語」からの引用です。

顔回、字は子淵、やはり魯の人でありますが、子路の後進で、孔子より若きこと三十或いは四十と言われております。門人の中の子路とは違って、非常に年少であります。しかし、早くから老成しておった人でありまして、「二十九にして髪ことごとく白し」などと、弟子伝に書いてございます。三十にならないうちに、もう頭が真白であった。惜しいことに早く亡くなった。三十二と普通いわれておりますが、列子には寿四十八とあり、だんだん考証学者が調べまして、おそらく四十頃までいたろうと思われないこともありません。孔子とこれほど相知り、相許した門弟子もまた珍しいのでありまして、論語を読んで両者の間のことになりますと、時々泣かされるような情のこもったところがございます。(中略)子路と同じくこの顔回も生活難・貧乏というようなことを問題にしなかった。普通人ならとてもやりきれないところも、顔回は平然として、その本来の楽しみを改めない。回はえらいというのです。昔から人間は貧乏に弱い。(中略)貧乏即失意なのです。

以上です。そうです。人間は貧乏に弱い。まったくその通りです。ある意味では顔回以上に孔子に愛されていた子路も、貧乏をまったく問題にしなかった。もちろん、顔回もそうです。しかし子路はやや粗野なところがあったが、顔回にはどことなく品があった。その品の中に、孔子が「賢なるかな回や」と 称賛した何かがあったのです。ですから、子路とは違う、もっと高尚なものが顔回にはあったということです。そして、それは神仏につながったところにあったのです。


十.「雍也第六、第十章」

冉求曰、非不説子之道。力不足也。子曰、力不足者、中道而廃、今女画。

冉求曰く、「子の道を説(よろこ)ばざるにあらず。力足らざるなり」。子曰く、「力足らざる者は中道にして廃す、今女(なんじ)は画(かぎ)れり」。


(温和で善良な人柄故に実行力に欠けるところがある)冉求がぼやいた。

「(孔子)先生の説く道(仁の道)が大切なことはわかっておりますし、その道を目指すことに喜びすら感じておりますが、私は力不足ですから、実行することが難しいのです…」。

孔子先生が(冉有を励ます意味で、次のように)言われた。

「本当に力が足りない者は、(何を為そうとしても)途中で挫折して投げ出してしまうものであるが、(お前は、実行もしないうちから)自分が力不足であるという理由を作って、自らを見限っているのだぞ(。そんなことでどうする。ウダウダ言っている前に、とにかく実行してみなさい。力が足りないかどうかは、実行してみなければ、わからんではないか)」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

画(かぎ)る:自ら限定する


この章の解説:

わたしの解釈で意訳しました。作家の神渡良平さんは、脳梗塞で倒れて病院で失意の日を送っている時に、この章に出会ったそうです。そして、自分を見限ってしまっていることに気付き、必死でリハビリに励みます。今ではその後遺症をまったく感じさせないほどに回復して作家として大活躍されています。何事も実行もせずに諦めてはいけません。しかし、世の中にはそういう人がほとんどではないでしょうか。「どうせ俺にはできないさ…」と諦めてしまい何もしようとしない。そういう人がほとんどだと思います。そう考えると、冉有はわたし達凡人にもっとも近いところにいるように思います。冉有が孔子に戒められていることは、すべてわたし達に通じるように思うのです。

安岡正篤著「朝の論語」には、次のように書いてあります。

冉求が「先生の道をよろこばぬのではありません。非常に有り難く思っておるのでありますが、いかんせん、力が足りないのであります」と言った。孔子が、「力が足らぬ者は、途中で自然にやれなくなるものであるが、お前のはそうじゃない。今お前は自分で勝手に自分の力を限ってしまっておる。見きりをつけておるのだ。決して力が足らぬのではない。自分でやる意志がないのだ」と申しました。
冉求は、字は子有。やはり孔子と同じく魯の人であります。孔子よりは二十九も若い人でありまして、名高い仲弓という人の一族であります。魯に仕えまして、政治的に活躍した人でありますが、人物は温厚で、謙遜な、どちらかと言いますと弱い性格の持主であったように思われます。この点、例の子路とは好い対照をなす人物でありまして、子路はとかく行き過ぎる人でありましたが、冉求の方はとかく引っこみ思案で、孔子からしばしばその意気地のないことを叱られております。彼自身も、師弟快談の席上で師に対して、「私はごく小規模の国ならば三年も経つうちには、民衆の生活を充足させることができましょう」(先進篇〔第二十五章、引用者注〕)と、ごく控え目に話しております。しかし、なかなかいろいろの才能もあった人でありまして、その点は孔子も認めております。
この「子の道を説ばざるに非ず、力足らざるなり」というのは、往々にして皆感ずることであります。しかし、実際は、力が足らないのではないので、「精神一到何事か成らざらん」ということがありますが、志さえあれば、気力さえ振りたてば、実行のできないことはないのでありまして、ナポレオンが、「不可能という一字はわが辞書にはない」と言ったことが世の中に知られておりますが、ほんとうにこれは志・勇気の問題であります。この努力がなければ人間は進歩しません、文化は発達いたしません。しかしその始めにもありますように、とかく言葉・知識・文化というようなものは、真実を失いやすい。真実と合わなくなるというところに、深い反省と警戒を要することは事実であります。


論語意訳を書き終えたのは4時前です。今日も何とか朝の日課をやり終えました。やれやれです。有り難うございます!日経と山日に目を通します。ちょっと休んでから、昨日の続きの仕事をします。途中、庭に来る雀のために餌(ご飯粒)を投げます。雀が沢山寄ってきました。日本の清々しい朝です。有り難うございます!
7時前に事務所和室の御錀をチーンと三回大きく鳴らします。そして仏間の仏壇にもお線香をあげ、御錀をチーンと鳴らし、「ご本尊様、ご先祖様、今日もみんな幸せでした。長生きすることもできました。有り難うございます」と合掌しました。有り難うございます!台所の神棚に二礼二拍手一礼をします。有り難うございます!朝ご飯を頂きます。コープやまなしの白米にシジミのみそ汁、焼き紅鮭に大根おろしに昆布の佃煮と卵焼きという正しい日本人の朝食です。ご馳走さまです。美味しかったです。有り難うございます!
今日の午前中は身延に出張です。8時半過ぎに事務所を出ます。10時前に会場に到着。温かいお茶と温かいコーヒーを頂きました。ご馳走さまです。有り難うございます!打合せが終わったのは12時頃。帰りにラーメンチェーン店に寄ってラーメンを食べました。どこで食べてもラーメンは美味しいです。まず美味でしたが、美味しかったです。ご馳走さまでした。有り難うございます!

帰宅したのは14時頃。ちょっと休んでから、仕事に取り掛かります。報告書の作成です。何とか完成させました。その後雑務をこなして、日記を書いています。時計の針は18時を回っています。19時から仕事の打合せで出掛けます。ということで日記はここで締めることにします。有り難うございます!

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(毎月第二、第四日曜日、午後2時〜5時) 

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2006.10.24(火)  昨夜寝たのは24時を回ってしまいました。3時半ちょっと前にセットした目覚ましの音で目が覚めましたが、パッと布団から出ることができず、布団から出たのは4時過ぎでした。これでもまぁ一応早起きと言えるでしょう。有り難うございます!
新たな一日が始まります。湯の盤の銘に曰わく、「苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」。誠に有り難いことです。感謝、感激また感謝。有り難うございます!
事務所の縁側に出て、東の空を背景にした愛宕山に向かい「おはようございます。今日も良い一日でした。誠に有り難うございます」と過去形で合掌 しました。有り難うございます!蹲いの横で微笑んでいるお地蔵さまに合掌しました。有り難うございます!事務所の仏様にお線香を立てて合掌し、神様に水を入れて柏手を叩きます。神仏習合。正しい日本人の習慣です。有り難うございます!和室でお茶と梅干しを頂きます。有り難うございます!
今日もまた無事に一日を迎えることができました。有り難いことです。有り難うございます!


【論語意訳】雍也篇


十一.「雍也第六、第十一章」

子謂子夏曰、女為君子儒、無為小人儒。

子、子夏に謂いて曰く、「女(なんじ)、君子の儒となれ、小人の儒となるなかれ」。


孔子先生が、子夏に向かって次のように言われた。

「(子夏よ、お前はわしの教えをよく分かっておるようだから言うが、)徳を発する儒者になりなさい。ただ知っているだけの儒者にだけはなるなよ」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

儒:普通は学者と訳すが、儒には宗教的な意味もあるので、あえて「儒者」とした


この章の解説:

わたしの解釈です。

加地伸行「論語」には、次のように書いてあります。

歴史事実から言えば、儒は宗教者、祭祀儀礼者であり、その儒集団において、君子は小人を率いる指導者層であった。しかし、孔子は、儒を宗教的世界にとどめず、現実社会における指導者(とりわけ行政担当責任者)に位置づけようと努力した。その儒集団において、小人は宗教的知識者である。指導者の君子には、集団・組織を統率するための力量や人望といった力が必要である。それらは知識以外の徳性とか、表現力とか、判断力・構想力・決断力……等々、人間性・人格性といったものである。知識に加えてそれらを身につけた者が君子である。そうした君子を現実社会の指導者層としたのが孔子である。それを現代の言葉で表現すれば、小人は知識人、君子は教養人に相当するであろう。

吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてあります。

孔子が、あるとき子夏にいった。お前は君子の儒になれ、小人の儒となるな。学者にもいろいろあるが、有害無益の学者になるな、といったのには相違ない。古注の孔安国の説に、「君子にして儒と為るは、将に以て道を明らかにせんとするなり。小人にして儒と為るは、則ち其の名を矜(ほこ)るのみ」。これは君子を道徳ある紳士の意味とし、小人をその反対概念としての解釈である。それに対して伊藤仁斎は、君子小人とは社会的地位による区別であるとし、君子の儒とは、天下を以て己が任と為し、物(ひと)を済(すく)うことに志有る者であるのに対し、小人の儒とは、ただ其の身を善くするのみで、ひろく物(ひと)に及ぶ能わざる者、つまり社会的影響力をもち得ない儒者であるとする。そうして子夏は、先進篇に、「文学には子游と子夏」というふうに、文学すなわち学問は充分であったけれども、規模が狭小であったため、かくいましめたとする。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

弟子の子夏は学者としては優秀だが、あまりに細部にこだわるから、「お前は大きな学者になれよ、小さな学者になってはダメだよ」と諭してやったが、理解しただろうかね。


十二.「雍也第六、第十二章」

子游為武城宰。子曰、女得人焉爾乎。曰、有澹台滅明者。行不由径。非公事、未嘗至於偃之室也。

子游、武城(ぶじょう)の宰となる。子曰く、「女(なんじ)、人を得たるか」。曰く、「澹台滅明(たんだいめつめい)という者あり。行(ゆ)くに径(こみち)に由(よ)らず。公事に非(あら)ざれば未だ嘗(かつ)て偃(えん)の室(しつ)に至らざるなり」。


子游が、魯の武城(ぶじょう)という小さな町の長官になった。

孔子先生が言われた。

「ところで、お前を補佐してくれるすぐれた人物を得たかのぉ」。

(子游は)答えた。

「(はい、)澹台滅明(たんだいめつめい)という人物がおります。彼は路(みち)を行くのに遠回りでも正路を行き、けっして近道をしません。また職務上の公用でなければ、長官が私的に使う部屋に来たことも一度もありません。(このような実直な人物だから登用いたしました)」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

径(こみち)、偃(えん)、室

径(こみち):近道
偃(えん):子游の名
室:子游が自邸で諸儀礼を行うとき、部下はその手伝いをする。地域共同体の儀式であるので、公事という。儀式は家屋の中心である堂とその前にある庭とを使って行うが、堂の背後に、私的に使う「室」がある(加地伸行著「論語」)。


この章の解説:

諸橋轍次「論語の講義」には、「径とは小路であり、又近道である。周の時代には、役人は周道という公の道を歩行すべきものとされた。しかし公の道はとかく時間がかかりがちであるため、多くの人は径に由(よ)ったのである。人の世に処する場合にも、径に由る方が早手廻しと考えられる場合が少なくないが、しかしこれを辿れば、多くは行き詰まりに遭遇する。澹台滅明(たんだいめつめい)が行くに径に由らぬのは、彼が人生に処して大道を闊歩する性格の持ち主であることを示したものである。又上官の機嫌を取り結ぶため、暮夜(ぼや)ひそかにその門を叩くことは世上往々見るところであるが、彼は公事以外は、上官たる子游の私邸を訪ねなかった。そこに彼の節操が見られる」と書いてあります。

加地伸行著「論語」には、「澹台滅明(たんだいめつめい)は醜男(ぶおとこ)であったので、孔子は重んじなかった。しかし、りっぱな人物として世に聞こえた。孔子は後に「貌を以て人を取り」(容貌で人を判断し)、失敗したと反省している(『史記』弟子列伝)」と書いてあります。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」には、「澹台滅明(たんだいめつめい)は、姓は澹台、名は滅明。孔子より三十九歳年少の人物。司馬遷の『史記−仲尼弟子列伝七』によると孔子の弟子であったという」と書いてあります。同書ではこの章を、次のように訳しています。

弟子の子游が武城という重要地の代官になったんだが、彼は文学には明るいが政治はどうか、ちょっと心配になってね、「よい部下を得られたかい」と訊いたことがあるんだよ。すると、「澹台滅明(たんだいめつめい)という人物を得ました。彼は道を歩く時でも近道をしないくらい正道を歩みますし、公用がなければ決してわたしの部屋にやって来ません」という返事だった。まあ、それを聞いて一安心した次第だよ。


十三.「雍也第六、第十三章」

子曰、孟之反不伐、奔而殿。将入門。策其馬曰、非敢後也。馬不進也。

子曰く、「孟之反(もうしはん)伐(ほこ)らず、奔(はし)りて殿(でん)す。将(まさ)に門に入らんとす。其の馬に策(むち)うちて曰く、『敢えて後れたるにあらず。馬進まざるなり』と」。


孔子先生が言われた。

「(魯国の大夫である)孟之反(もうしはん)は手柄を自慢しない人である。負け戦の際にしんがりを勤めて敵の追撃を防ぎ、全軍を護衛して帰還した。魯国の城門に入ろうとする際、自分の馬に鞭をあてて『わたしが後れたのはしんがりを勤めたためではない。馬が疲れて走らなかったからだ』と自分の手柄を隠したのじゃ(。これは、なかなかできることではないのぉ)」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

伐(ほこ)る、奔(はし)る、殿(でん)

伐(ほこ)る:誇る
奔(はし)る:敗走する
殿(でん)す:軍隊のしんがりを務めて、退軍の時に、敵を防いで味方を守る


この章の解説:

宇野哲人「論語新釈」には、「この章は孟之反(もうしはん)の謙譲の心をほめたのである。孟之反(もうしはん)は魯の大夫で、名を側(そく)という。哀公の十一年に、魯と斉と戦った時、魯の軍は斉の軍に破られて逃げ奔(はし)ったので、斉の軍がこれを追って来た。孟之反(もうしはん)は自ら後れて殿(しんがり)となって、追う者を防いだのである。謝良佐(しゃりょうさ)が曰うには、『人が能(よ)く他人よりえらくなろうとする心をなくするならば、私慾は日に消えて正道が日に明らかになるから、おごりたかぶる事などはなくなる。学問をして己を修めることを知らない者は常に他人よりえらくなろうとする心を忘れる時がない。孟之反(もうしはん)のごときは手本としてよい人である』」 と書いてあります。

渋沢栄一著「『論語』の読み方」には、「大したことでもないのに、ふつうの人は誇りたがるものだが、殿軍として大功を立てても人に知らせないというのは、その人物の器が大きく心が落ち着いているからだ。だから孔子はこれを大いに称賛したのである。兵法において進撃よりも退却を上手にやる指揮官が真の名将であるとしている。孟之反こそ真の名将である。殿(しんがり)の重要性は兵法だけではない。実業界においても益勘定より損勘定を詳細に取り扱って、後始末をちゃんとつけられるような人でなければ、真の名実業家とはいえない。またこういう人でなければ、けっして事業に成功するものでない」と書いてあります。


論語意訳を書き終えたのは6時前。今日も朝の日課をやり終えました。有り難うございます!
日経と山日に目を通します。有り難うございます!庭に来る雀のために餌(ご飯粒)を投げます。雀が沢山寄ってきました。日本の清々しい朝です。有り難うございます!
そして事務所和室の御錀をチーンと三回大きく鳴らします。そして仏間の仏壇にもお線香をあげ、御錀をチーンと鳴らし、「ご本尊様、ご先祖様、今日もみんな幸せでした。長生きすることもできました。有り難うございます」と合掌しました。有り難うございます!台所の神棚に二礼二拍手一礼をします。有り難うございます!そして朝ご飯を頂きます。コープやまなしの白米にシジミのみそ汁、大根おろしに明太子イカ、卵焼きに納豆という正しい日本人の朝食です。ご馳走さまです。美味しかったです。有り難うございます!

食後はいろいろと雑務をこなしました。有り難うございます!さて今日の午前中も出張です。9時半に迎えに来てもらいます。毎度有り難うございます!10時に会場に到着。美味しいパンを購入しました。お昼に食べます。楽しみです。有り難うございます!打合せでは温かいお茶をいただきました。ご馳走さまです。有り難うございます!帰宅したのは12時半頃。家内と一緒にパンを食べました。美味しかったです。有り難うございます!午後からは久々に時間が空いたので、寝不足解消のためちょっと寝て、その後は読書をしました。のんびりとした一時を過ごせました。有り難うございます!写真は安岡正篤先生の「六然」です。有り難うございます!

夜はお客様が来て、打合せをしました。大変お世話になっている方です。有り難うございます!

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2006.10.25(水)  昨夜寝たのは21時過ぎ。3時半ちょっと前にセットした目覚ましの音で目が覚め、パッと布団から出ることができました。今日は早起きできました。有り難うございます!
新たな一日が始まります。湯の盤の銘に曰わく、「苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」。誠に有り難いことです。感謝、感激また感謝。有り難うございます!
事務所の縁側に出て、東の空を背景にした愛宕山に向かい「おはようございます。今日も良い一日でした。誠に有り難うございます」と過去形で合掌 しました。有り難うございます!蹲いの横で微笑んでいるお地蔵さまに合掌しました。有り難うございます!事務所の仏様にお線香を立てて合掌し、神様に水を入れて柏手を叩きます。神仏習合。正しい日本人の習慣です。有り難うございます!和室でお茶と梅干しを頂きます。有り難うございます!
今日もまた無事に一日を迎えることができました。有り難いことです。有り難うございます!


【論語意訳】雍也篇


十四.「雍也第六、第十四章」

子曰、不有祝鮀之佞而有宋朝之美、難乎、免於今之世矣。

子曰く、祝鮀(しゅくだ)の佞(ねい)ありて而(しか)して宋朝(そうちょう)の美あらずんば、難(かた)いかな、今の世に免れんことを。


孔子先生が言われた。

「(へつらいを好み、色をよろこぶのが今の世の風潮じゃから、)祝(宗廟の祭りをつかさどる官)の鮀(だ)という人物のように口上手の上に、宋の朝(宋国の公子の朝)という人物のように美貌でないと、人から憎まれずに生きていくのは難しいことじゃのぉ…」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

佞(ねい)、免れんこと

佞(ねい):弁が立つ、雄弁である、口上手である
免れんこと:人から憎まれることを免れること


この章の解説:

諸橋轍次「論語の講義」には、次のように書いてあります。

元来、佞(ねい)という文字は、必ずしも悪い意味を含んでおらず、祝鮀(しゅくだ)また必ずしも悪人ではない。むしろその弁説(べんぜつ)によって衛の国を支えた人である。これに対して宋朝は衛の霊公の南子に通じた不倫(人間の道にそむくこと)の人物であった。この事実から考えると、〜中略〜 祝鮀の立派な弁説によって表面をとりつくろうことなく、ただ宋朝の美貌だけが幅を利かすようであれば、国の衰乱は免れ難いという意となるのである。

金谷治「論語」では、上記の事実に由り次のように訳しています。

先生がいわれた。「祝鮀(しゅくだ)のような弁説がなくて宋朝のような美貌があるだけなら、むずかしいことだよ、今の時世を無事におくるのは」。

また、加地伸行「論語」では、次のように訳しています。

老先生の教え。祝鮀(しゅくだ)のようなすぐれた弁才がないならば、宋朝のような美貌があっても、難しいな、今の世を生き抜くのは。

吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてあります。

この条全体の意味は、なんともむつかしい世の中である。祝鮀ほどの弁舌があり、その上に宋朝ほどの美貌をもつのでない限り、いまの世の中のおそろしさを免れ、くぐりぬけて生きてゆくことは、むつかしい。
もっとも以上は、朱子の注の読み方であり、古注では、「祝鮀の佞有らずして宋朝の美有るは、今の世に免れ難し」、つまり弁舌はなくて、美貌だけもっているものは、あぶない。美貌の上に弁舌をかねそなえるものにして、はじめてやってゆける、とする。


十五.「雍也第六、第十五章」

子曰、誰能出不由戸、何莫由斯道也。

子曰く、誰が能(よ)く出(い)ずるに戸(こ)を由らざらん、何ぞ斯(こ)の道に由ること莫(な)き。


孔子先生が(いみじくも、次のように)言われた。

「家の外に出て行く時は、誰でも戸口を通らぬ者はいないのに、どうしてこの道(人として由るべき道)に由ろうとしないのであろうか」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

斯(こ)の道:人として由るべき仁の道


この章の解説:

吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてあります。

中国の古代の家は、南に向いた横に長い矩形であり、南半分が堂すなわち表座敷、北の半分のまた西半分が室(しつ)、すなわち寝室であり、北半分の東半分が房、すなわち居間である。南半の堂と、北半の室房の間は、むろん壁が東西にしきるが、室の東南のところの壁に、とびらをしつらえたのが、戸であり、それは室から堂へ出てゆく通路である。(中略)
さて、「誰か能く出づるに戸に由らざらん」、出るとは、ここでは室から堂へ出てゆくことである。そのときには、戸をおしあけ、そこを経由して、出てゆく。だれだってそうしなければならない。それがきまったことである。人間の道の人間に対する関係も、同じであって、誰でもが、経由しなければならないものが、人道である。それになぜ、人人は、斯(こ)の人道に由ろうとしないのであろうか。部屋から出てゆくときは、戸から出てゆくにもかかわらず。

中庸に次の文章があります。(安岡正篤著「友経 内篇」より)

天命之を性と謂ひ、性に率(したが)ふ之を道と謂ひ、道を修むる之を教(おしえ)と謂ふ。道は須臾(しゅゆ)も離るべからざるなり。離るべきは、道に非ざるなり。是(こ)の故に君子は其の賭(み)ざる所に戒愼(かいしん)し、其の聞かざる所に恐懼(きょうく)す。隠れたるより見(あら)はるるは莫(な)く、微(かすか)なるより顕(あきらか)なるは莫し。故に君子は其の獨(ひとり)を愼(つつし)む。

この文章を安岡先生は次のように訳しておられます。

天が人に、人としてあるべき根本(おおもと)として命じ与えたもの、これを性というのである。その性にしたがい行ない、生きていくあり方、これを道というのである。この道を修め身につけていくこと、これを教えというのである。そこで、この道というものは、人が一瞬といえども離れられないものであり、離れられるとすれば、それはもう真の道ではないのである。このために君子は、(はっきりと見聞できることについてはもちろん)目に見えないことについても戒め(前もって注意すること)慎み(慎重に事をなす)、その耳に聞こえないことについても恐れつつしむのである。かくれたことほど人前に露見(ばれる)しやすく、見えにくいものほど顕現(はっきりとした形で現れること)しやすいという諺の通りに、人知られない隠しごとこそ最も戒め慎まねばならない。だから君子は、人の知らない、自分ひとり知れる所においても、戒め慎むものである。


十六.「雍也第六、第十六章」

子曰、質勝文則野、文勝質則史、文質彬彬、然後君子。

子曰く、質(しつ)、文に勝てば則ち野、文、質に勝てば則ち史、文質彬彬(ひんぴん)として然(しか)る後(のち)に君子なり。


孔子先生が言われた。

「実質(なかみ)が文飾(かざり)に勝っていると、その人柄は野卑に陥り、文飾(かざり)が実質(なかみ)に勝っていると、その人柄は(誠実さに欠ける)ただの物知りである。文飾(かざり)と実質(なかみ)の調和がとれたら、それでこそ君子だ」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

質、文、野、史、彬彬(ひんぴん)

質:素朴、中身、本音、心の誠実さ
文:文明、外見、建前、言語動作の立派なこと
野:粗野、素朴、田舎で野暮ったい
史:誠の足りない役人、都会的に洗練されている
彬彬(ひんぴん):中庸、均整がとれている


この章の解説:

安岡正篤著「友経 内篇」では、次のように訳しています。

孔子言う、「人の質朴さ(実質)が文飾(教養)よりまさると野(品格に欠けた粗野な人)になってしまう。文飾(教養)がその人の質朴さ(実質)よりまさると史(物知りだが誠意に欠けた史官=文書記録係)になってしまう。質朴さ(実質)と文飾(教養)とがほどよく均衡、調和してこそはじめて真の君子といえるのである」と。

また、安岡先生は、「朝の論語」の中で、次のように言っておられます。

これは実に人間の本質・人類文化の原理を明確に説いたものであります。質とは、物の内容をなしておる実体・創造成長の営みをなす潜勢力です。それが外に現れて、我々の感覚意識に好ましく映ずるものを文というのであります。質の方が文に勝つのは「野」で、反対に文の方が質に勝つのは「史」だ。(中略)史というのは当時の記録文書の役に従事しておりました者、今日でいうと、係役人であり、当時のインテリであります。また史というのは一面きれいな着物を着る神職のことでもあります。転じて、いろいろな思想・言論を司る文化人という意味になるわけでありますが、その質と文とがよく調和されておるというのが彬々でありまして、文質彬々として然る後に君子だというのです。要するに創造力・造化力と、その表現・形態とがぴったり一致しておるのがよい。しかし人間はなかなかそうは参りません。いづれかに偏するものであります。いわゆる過不及を免れないとすれば、どれが安全か、どれがむしろ望ましいかといえば、文が質にすぐる、すなわち史の方は軽薄で危険であることは間違いありません。根や幹と美しい花や葉と比べてみればわかります。花葉的よりも根幹的の方がよろしい。野性的の方に力・たくましさ・永遠性があることは申すまでもありません。自然に近く、創造力に豊かであります。

金谷治著「孔子」には、次のように書いてあります。

君子の一つの定義であるとしてよい。「素朴な実質が強く表に出て外面の修飾がたりないと野人であるし、外面の修飾ばかりが強くて内の実質がたりないと文書係りである。修飾と実質とがうまくとけあってこそ、はじめて君子である」という。「巧言令色、鮮なし仁」で、うわべの飾りだけというのはもちろんだめである。いずれかと言えば、内実がたいせつである。ただその内実も、その素朴さだけでは君子の要件に欠ける。内実にふさわしい外面の修飾がともなってこそ君子である。君子はそうした調和を得た人であった。ここには一つの美学がある。それは礼のかたちとも関係している。誠心にささえられた礼の形である。君子が礼の完全な実践者であるべきだということも、この章には含意されているであろう。


論語意訳を書き終えたのは5時をかなり回っていました。経も朝の日課をやり終えました。やれやれです。有り難うございます!
日経と山日に目を通します。庭に来る雀のために餌(ご飯粒)を投げます。雀が沢山寄ってきました。日本の清々しい朝です。有り難うございます!
事務所和室の御錀をチーンと三回大きく鳴らします。そして仏間の仏壇にもお線香をあげ、御錀をチーンと鳴らし、「ご本尊様、ご先祖様、今日もみんな幸せでした。長生きすることもできました。有り難うございます」と合掌しました。有り難うございます!台所の神棚に二礼二拍手一礼をします。有り難うございます!朝ご飯を頂きます。コープやまなしの白米にワカメと葱とお豆腐のみそ汁、大根おろしにナメコ茸、大根の漬け物、蕗の佃煮、韓国海苔という正しい日本人の朝食です。ご馳走さまです。美味しかったです。有り難うございます!食後は読書をしてちょっと寝ます。有り難うございます!
9時から仕事をはじめて午前中に報告書を仕上げてしまいました。雑務もこなしました。今日やるべきことは午前中にやってしまいました。有り難うございます! 午後からは睡眠不足のために昼寝をしたり読書をしたり論語を整理したりして過ごしました。有り難うございます!

夜はお客様が見えました。わざわざ来てくださいまして、有り難うございます!

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新たな一日が始まります。湯の盤の銘に曰わく、「苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」。誠に有り難いことです。感謝、感激また感謝。有り難うございます!
事務所の縁側に出て、東の空を背景にした愛宕山に向かい「おはようございます。今日も良い一日でした。誠に有り難うございます」と過去形で合掌 しました。有り難うございます!蹲いの横で微笑んでいるお地蔵さまに合掌しました。有り難うございます!事務所の仏様にお線香を立てて合掌し、神様に水を入れて柏手を叩きます。神仏習合。正しい日本人の習慣です。有り難うございます!和室でお茶と梅干しを頂きます。有り難うございます!
今日もまた無事に一日を迎えることができました。有り難いことです。有り難うございます!


【論語意訳】雍也篇


十七.「雍也第六、第十七章」

子曰、人之生也直。罔之生也幸而免。

子曰く、人の生くるや直(ちょく)なり。之を罔(な)みして生くるや幸いにして免るるなり。


孔子先生がおっしゃった。

「人が生きていくには、素直で正直なことが何より大切なのじゃ。素直でなく正直でないのに生きていられるのは、たまたま運がよかっただけのことである」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

直、之を罔(な)みす、免るる

直:素直で正直なこと
之を罔(な)みす:素直でなく正直でないこと
免るる:死を免れる


この章の解説:

吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてあります。

人生はまっすぐなものである。まっすぐでない人間が生きているのは、偶然の僥倖として、罰を免れているに過ぎない。そういう方向のことをいう条であるが、古注と新注の間には、すこし解釈の差がある。古注に(中略)、「人の世に生まれて自ずから終うる所の者は、其の正直(せいちょく)を以てなり」というのは、人間は、正直であってこそ、その一生を全うしうるとするのであり、つまり正直は、ある努力ののちに獲得されるものとなる。それに対し、新注では(中略)、「生の理は本と直」、つまり人生の法則は、努力をともなわなくてもまっすぐなのが本来である、とする。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

古注では、人間が生命を全うすることができるのは正直の徳による。正直によらず、自他をあざむいて生きながらることもできるが、それはまぐれあたりで助かっているだけだと読む。朱子の新注では、人間の本性は正直であるから、それにしたがって生きてゆけばそれでよいと解する。人間はすなおに自己の真実の欲望にしたがって行動すればよい。邪念がおこって、それを曲げると、かえって百悪が生ずるのだということを、生命の直接で純粋な体験を通じて語っているのがこのことばであると私は解する。


十八.「雍也第六、第十八章」

子曰、知之者不如好之者。好之者不如楽之者。

子曰く、之を知る者は之を好む者に如かず。之を好む者は之を楽しむ者に如かず。


孔子先生がおっしゃった。

「そのことを理解しているだけの人は、そのことが好きだという人には及ばない。そのことが好きな人は、そのことを楽しむ人には及ばない」。

または、

「あることを理解しているだけで実行している人は、あることを好きになり一生懸命やっている人には及ばない。あることが好きで一生懸命やっている人は、あることを心の底から楽しんで、時間の経つのも忘れて取り組んでいる人には及ばない」。

あるいは、

「そのこと(道理)を理解しているだけの人は、そのこと(道理)を実践している人には及ばない。そのこと(道理)を他律的に実践している人は、そのこと(道理)を自律的に実践している(習慣になっている)人には及ばない」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

之を:そのこと、あること、道理、人の道


この章の解説:

安岡正篤著「友経 内篇」では、次のように訳しています。

孔子言う、「知るということだけでは、愛好(その事が好きで楽しむこと)することには及ばない。愛好するということは、真に楽しむことには及ばない。」と。

吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてあります。

有名な条であり、人人のよく知る条である。そうして人人が、普通に解しているように解してよろしいであろう。すなわち、「知る」とは、そのものあるいはその事柄の存在を知ることであり、この段階では、対象は、全然自己の外にある。「好む」とは、対象に対して特別な感情をいだくことである。対象はまだ自己と一体でない。「楽しむ」とは、対象が自己と一体となり、自己と完全に融合することである。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

伊藤仁斎は「道を知るものは、義理明白で議論はきくべく、人は皆たっとぶけれども、これを好むものが、終身衰えず、いよいよ進み、いよいよ熟するのに及ばない。これを好むものは人皆信ずるけれども、楽しむものが道とひとつになって、まったく区別できなくなるまで至っているのに及ばない。道はひとつであるが、行うところ生熟・深浅がある。孔子のこのことばは、生より熟に至り、浅きより深きに至ることを望んでいるのである」といったが、これはもっとも本旨を得ている。


十九.「雍也第六、第十九章」

子曰、中人以上、可以語上也。中人以下、不可以語上也。

子曰く、中人(ちゅうじん)以上には以て上(じょう)を語(つ)ぐべし。中人以下には以て上を語ぐべからず。


孔子先生がおっしゃった。

「(人の天分に仮に上・中・下の三段の等級があるとすれば)中以上の人(ある程度勉強が進んだ人)に形而上の話をしても理解できるが、中以下の人(あまり勉強をしない人)に形而上の話をしても全く理解できない」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

語(つ)ぐ:内容のあることを相手にしかと通知すること(加地伸行著「論語」)。


この章の解説:

伊與田學著「『人に長たる者』の人間学」には、次のように書いてあります。

先師がいわれた。「形而上の言葉で話してわかる中人以上の相手なら形而上の言葉で語ってもいいが、中人以下のわからない人には、そういう言葉では語らないほうがいい」。
わからない人にはもっぱら形而下の言葉を使うように、ということです。
孔子の先輩格とわれる老子という人がおります。孔子を表とすれば、老子はその裏を説いた人であります。その老子がこういうことをいっております。
上士(じょうし)は、道を聞いて、勤めてこれを行う。
中士(ちゅうし)は、道を聞いて、存するが如く、亡するが如し。
下士(かし)は、道を聞いて大いに笑う。笑わざれば、以て道となすに足らず。
上士はよい話を聞いたらすぐ実行する。
中士は「そうやなあ、あるといえばあるし、ないといえばないし…」という。私が今話していることも、「ああ、そういえばありそうや。だけれど、あれはちょっと理屈や」とかなんとかいうわけです。
下士は「そんなことがあるかい」といって大いに笑う。そのあとに「笑わざれば、以て道となすに足らず」。下士の人から笑われるようなものでなかったら、本当の道とはいえん、と老子はいっています。

吉田公平著「伝習録『陽明学』の真髄(四章.黄省曾の記録、五一.形而上のこと)」には、次のように書いてあります。

おたずねします、「『論語』で『普通以下の人には形而上のことは話してはいけない』(雍也篇)とのべていますが、愚かな人は誰かが形而上のことを話してあげてさえも、なかなか進歩しないのに、ましてや、話してあげないということで、いいのですか」と。
先生(王陽明のこと、引用者注)がいわれた。「とことん話してあげないというのではない。聖人の心づもりとしては、誰もがみな聖人になれるということについては心配していない。それにしても人間の素質はさまざまだから、教えてあげる場合、その人なりのレベルをこえてしてはいけないのである。普通以下の人の場合、やおら形而上の本性とか天命とかを話してあげても、彼らはとんと理解できないから、ぜひともゆっくりじっくりとみがきあげていくことなのである」と。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

教育は受け手の立場に立たなければ効果は上がらないよ。並の能力以上の者には高度な学術をドンドン教えるのもいいが、並以下の者に小難しいことをドンドン教えようとすれば、教える方もムダ骨を折るばかりか、教わる者を勉強嫌いにしてしまうのがオチだね。


論語意訳を書き終えたのは4時を回っていました。今日も朝の日課をやり終えました。やれやれです。有り難うございます!
日経と山日に目を通し、明日の論語意訳を仕上げてしまいました。有り難うございます!そして庭に来る雀のために餌(ご飯粒)を投げます。日本の清々しい朝です。有り難うございます!
それから事務所和室の御錀をチーンと三回大きく鳴らします。そして仏間の仏壇にもお線香をあげ、御錀をチーンと鳴らし、「ご本尊様、ご先祖様、今日もみんな幸せでした。長生きすることもできました。有り難うございます」と合掌しました。有り難うございます!台所の神棚に二礼二拍手一礼をします。有り難うございます!朝ご飯を頂きます。コープやまなしの白米にワカメと葱とお豆腐のみそ汁、大根おろしに大根とキュウリの糠味噌漬け、韓国のりに明太子イカにピーマンの卵とじという正しい日本人の朝食です。ご馳走さまです。美味しかったです。有り難うございます!食後は朝風呂と洒落込みます。サッパリしました有り難うございます!

9時半前にコープやまなしに向かいます。10時から理事会が開催されました。温かいお茶とお土産、そして温かいコーヒーを頂きます。ご馳走さまです。有り難うございます!お昼は美味しいお弁当を頂きました。ご馳走さまです。有り難うございます!

理事会が終了したのは15時半近く。今日も和やかで楽しいひとときを過ごすことができました。有り難うございます!帰宅したのは16時。寝不足なのでちょっと横になります。17時から事務所の整理をします。そうです。今日の夜は読書塾(論語に学ぶ)があるのです。

19時半から読書塾を始めました。今日の参加者は5人でした。みなさん大変熱心に取り組んでくれました。誠に有り難うございます! Sさんが写真を撮ってくれました。有り難うございます!

明日の朝は駅前掃除です。早く寝ます。有り難うございます!

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(毎月第二、第四日曜日、午後2時〜5時) 

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2006.10.27(金) 昨夜寝たのは24時を回っていました。4時半ちょっと前にセットした目覚ましの音で目が覚め、パッと布団から出ることができました。一応早起きと言えるでしょう。有り難うございます!新たな一日が始まります。湯の盤の銘に曰わく、「苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」。誠に有り難いことです。感謝、感激また感謝。有り難うございます!
事務所の縁側に出て、東の空を背景にした愛宕山に向かい「おはようございます。今日も良い一日でした。誠に有り難うございます」と過去形で合掌 しました。有り難うございます!蹲いの横で微笑んでいるお地蔵さまに合掌しました。有り難うございます!事務所の仏様にお線香を立てて合掌し、神様に水を入れて柏手を叩きます。神仏習合。正しい日本人の習慣です。有り難うございます!和室でお茶と梅干しを頂きます。有り難うございます!
今日もまた無事に一日を迎えることができました。有り難いことです。有り難うございます!


【論語意訳】雍也篇


二十.「雍也第六、第二十章」

樊遅問知。子曰、務民之義、敬鬼神而遠之。可謂知矣。問仁。曰、仁者先離而後獲。可謂仁矣。

樊遅、知を問う。子曰く、「民の義を務め、鬼神を敬して之に遠ざかる。知と謂うべし」。仁を問う。曰く、「仁者(じんしゃ)は難きを先にして獲(う)るを後(のち)にす。仁と謂うべし」。


樊遅が知とは何かと、孔子先生にたずねた。

孔子先生が答えた。

「人(民)としての義務を努め、神を尊敬して祭り、淫祠(いんし)邪教を信じて現世利益を求めない人を知者というのじゃ」。

(樊遅は次に、では、)仁とは何かと、孔子先生にたずねた。

(孔子が先生が)答えた。

「仁者は困難な仕事を優先して行い、それにより得られる利益名誉などは自分からは求めない。このようであってこそ仁の人(仁者)といえるのじゃ」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

民の義、之に遠ざかる
民の義:人としての義務、人の道
之に遠ざかる:淫祠邪教を信じて現世利益を求めない、神霊を俗化しない


この章の解説:

宇野哲人「論語新釈」には、「樊遅が損得を考えたり、鬼神を信じてこれに迷ったりする欠点があったから、それを救うために告げられたものと思われる」 とあります。この章の「鬼神を敬して之に遠ざかる」から「敬遠」という熟語が生まれたそうです。

吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてあります。

弟子の樊遅が、知とは何であるかを、孔子にたずねた。孔子はこたえた。「民の義を務めよ」、古注の(中略)説は、「民を化道する所以の義(みち)を務めよ」であり、それならば民とは人民であって、人民を感化教導するについての道理ということになり、為政者としての知を説いたことになるが、新注では、「民も亦人なり」とし、民の字を、ひろく人間の意味にとるから、「民(ひと)の義(みち)を務めよ」、ひろく漠然と人間の道理を大切にせよ、ということになる。古注新注、かく民という字の意味する範囲について、広狭の違いがあるが、まず人間の道理を大切にするのが、知者の資格であるとする点は、一致する。そうして、人間以上の存在としてある鬼神に対しては、尊敬はささげるけれども、「之を遠ざく」、ある距離をおいた存在としてあつかう、それこそ知者の資格となるものである。
樊遅はさらにたずねた。仁とは何であるか。それに対する孔子のこたえも、古注と新注で、読み方が違う。古注の(中略)説では、「まず労苦して、後に功を得」であり、いろいろと骨を折ってから目的に到達する。つまり安易な到達をきらう。それが仁という道徳の資格であるとする。(中略) 新注は、「仁者」の二字を、「仁ある者」、仁の道徳をもつ人間とし、「難きを先にして、獲ることを後にす」とよみ、人がいやがって後まわしにする難しいことを、後まわしにせずに先にやる。また人が利益のある事柄として、先にやりたがる事柄を、後まわしにする。それが仁の道徳者の資格であるとする。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

樊遅は孔子よりも三十六歳年少で、斉国との戦いに大奮闘した勇士であるが、孔子に農事をたずねたりして(子路篇第四章)、あまり理解力のいい弟子ではなかった。これはおそらく魯国に帰った晩年の孔子と、魯国につかえた樊遅との会話であろう。孔子はこの、あまりものわかりのよくない弟子の「知とは何か」という質問にたいして、理論的でなく、具体的に答えている。(中略) 「仁とは何か」という、さらに根本的な難問にたいしても、むつかしい仕事を自分で引き受けてなしとげておいてから、報酬を要求せよという、官吏ないし社会人としてとるべき行動を具体的に示した。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

弟子の樊遅が「知っているというのは、どういうことを言うのでしょうか」と質問するから、「社会的正義を実践しており、神仏を尊敬しはするが、カルト宗教なんかに騙されないことだ」と説明してやったんだ。そうしたら、「では仁は」と訊くから、「人が尻込みすることを利害を度外視して進んで行うことだよ」と教えてやったよ。


二十一.「雍也第六、第二十一章」

子曰、知者楽水、仁者楽山。知者動、仁者静。知者楽、仁者寿。

子曰く、知者は水を楽(この)み、仁者は山を楽(この)む。知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は寿(いのちなが)し。


孔子先生がおっしゃった。

「知者(は、事物の道理に通じてその心は水が流れて滞ることのないようであるから)の好むのは水である。仁者(は、道理の上に安住してその心は山がどっしりと落ち着いているようであるから)の好むのは山である。知者は活動的で、仁者はもの静かである。(それゆえに、)知者は人生を満喫し、仁者は天寿をまっとうする」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

知者、仁者、楽(この)む、楽しむ、寿

知者:賢人
仁者:聖人
楽(この)む:愛好する
楽しむ:一体となる、満喫する
寿:長生きする、天寿をまっとうする


この章の解説:

安岡正篤著「朝の論語」には、次のように書いてあります。

人間に確かに知者と仁者の二つの型を分けることができます。生理学的に申しますと、知者は大脳皮質の発達した人で、知能が勝れ、理性が効き、よく物を観察し、理解し、批判し、取捨いたします。仁者は生命の全的統一の安定し発達した人で、情緒が豊かで物を愛し、人を容れ、自然と人生に同調して進歩します。万物は無限の創造変化であります。水は変化に富んで、その中に冷徹なものがあり、永劫流転の影を映して、何となく澄んだ知性的なものがあります。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

孔子は、まず知者と仁者の差異を、水と山という風景にたいする趣味のちがいに見いだす。そしてそれから出発して、活躍しつづける知者と、どっしりとかまえる仁者の社会人としての行動の型をとり出す。最後に人生の生き方にうつって、日々に楽しい知者の生活ぶりと、目だたないが健康で長寿をとげる仁者の落ちついた心境とを対比させる。静謐な幸福を享受するのが仁者なのであるというこのことばによって、孔子は人生の真の幸福は何かという問題に答えている。たぶん孔子の最晩年の思想を述べたものであろう。

わたしは、どちらかというと、山よりも水の方が好きです。老子に次の言葉があります。

「上善は水の若(ごと)し。水は善く万物を利して争わず。衆人の憎む所に処(お)る。故に道に幾(ちか)し。居には地を善しとし、心は渕(えん)なるを善しとし、与うるには仁なるを善しとし、言は信なるを善しとし、政(せい)は治まるを善しとし、事には能なるを善しとし、動くには時なるを善しとす。夫(そ)れ唯争わず、故に尤(とが)無し」。
「最上の善とは水のようなものである。水は万物に利益を与えながら他と争うことがない。そして皆が嫌がる低い場所にいる。それゆえ道に近い存在と言えるのである。居所は大地がよく、心は深遠なのがよく、与えるのには仁愛をもってするのがよく、言葉は嘘がないのがよく、政治は治まるのがよく、物事を行うには能力があるのがよく、動くには時機をみはからうのがよい。水はただただ争わない。だから他から咎められないのである」(阿部吉雄・山本敏夫著「老子」より)。


二十二.「雍也第六、第二十二章」

子曰、斉一変至於魯。魯一変至於道。

子曰く、斉(せい)一変(いっぺん)せば魯に至らん。魯一変せば道に至らん。


孔子先生がおっしゃった。

「(覇道の国である)斉国がその態度を一変すれば、(本来は、王道の国である)魯国のようになれるであろう。(覇道に陥った)魯国もその態度を一変すれば、(本来の)王道の国になれるであろう」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

道:王道(徳治による統治)、これに対する概念が覇道であり、武力による統治をいう


この章の解説:

安岡正篤著「論語の活学」には、次のように書いてあります。

斉は桓公・管仲の覇業を以ても有名な富国強兵を旨とする功利主義権力国家である。魯は周公以来、礼教を旨とする道義国家である。斉国の弊は争乱しやすく、魯国の弊は衰弱しやすい。しかし功利忿争(ふんそう)の果ては手がつけられぬが、礼教文弱の末はこれを振るうに難くない。また功利の争乱は要するに道義の振興によるほか救いようはない。

吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてあります。

孔子が、この両国のことをいうときには、反射的に、それぞれの国の歴史が、必ずあたまにひらめいたに相違ない。魯は周王朝の政治と文化の基礎をつくった聖人、周公旦、その後裔であり、かつ周公旦は、文王の子、武王の弟であるから、王朝と同姓の親藩であった。それに対し、斉の君主は、(中略)譜代大名であるが、その始祖はやはり、周王朝創業の際の第一の功臣、太公望であった。ところで、この条の意味は、この二国によせた孔子の期待を示すものであって、斉は少しくその政治を変化させれば、魯の程度に達し、魯の政治は、少しく変化させれば、道、完全な道徳政治に、到達する、というのが、言葉の表面の意味である。その裏にふくまれたものとして、古注では、斉も魯も、大聖人と大賢人の後裔であるから、かく期待をもったとし、新注では、孔子の時代、魯はなお礼教を重んずる文化国家であったのに対し、斉は実利を重んずる権謀の国家であったところから、かく差異をつけ、しかもいずれも絶望でないと、いったとする。(中略)
また、新注には、(中略)孔子の時代、斉は強国であるのに対し、魯は弱国であり、魯は斉より劣るとするのが常識であったのに、孔子は勇敢に、文化の存する所を、上位においたと、たたえている。


以上の論語意訳は昨日仕上げたものです。助かりました。有り難うございます!日経と山日に目を通します。有り難うございます!

さて、今日は駅前掃除の日です。出掛けるのが遅くなり甲府駅に到着したのは6時をちょっと回っていました。すでに某塾5期生のOさん、Aさん、3期生のMさん夫妻が掃除を始めていました。さすがです。有り難うございます!やがて3期生のSさんが加わりました。これでいつものメンバーが揃いました。有り難うございます!秋です。木の葉が沢山落ちていました。今日は落ち葉を片付けることにしました。部分的ではありますが、きれいになりました。有り難うございます!

掃除のあとはいつものファミレスで朝食を食べながらの談笑タイムです。和やかで楽しいひとときを過ごすことができました。今日も華ちゃんが可愛かったです。有り難うございます!
事務所に戻ったのは8時10分過ぎ頃です。周辺の掃除をしてから、仏間の仏壇にもお線香をあげ、御錀をチーンと鳴らし、「ご本尊様、ご先祖様、今日もみんな幸せでした。長生きすることもできました。有り難うございます」と合掌しました。有り難うございます!そして台所の神棚に二礼二拍手一礼をします。有り難うございます!寝不足なので、一時間ほど横になってからHPを更新しました。有り難うございます!
その後、読書などをして金融機関で用足しをした後、久しぶりに「あのらあめんや」さんに行きました。いつもは醤油らあめんを食べるのですが、今日は味噌らあめんを食べました。やっぱり、美味しかったです。ご馳走さまです。有り難うございます!夕方から、ある企業の勉強会の講師を務めました。みなさん熱心に話を聞いてくださいました。有り難いことです。有り難うございます!

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2006.10.28(土) 昨夜寝たのは22時過ぎ。4時ちょっと前にセットした目覚ましの音でパッと起きられず、布団から出たのは4時半前でした。寝坊しましたが、まぁ早起きと言えるでしょう。有り難うございます!新たな一日が始まります。湯の盤の銘に曰わく、「苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」。誠に有り難いことです。感謝、感激また感謝。有り難うございます!
事務所の縁側に出て、東の空を背景にした愛宕山に向かい「おはようございます。今日も良い一日でした。誠に有り難うございます」と過去形で合掌 しました。有り難うございます!蹲いの横で微笑んでいるお地蔵さまに合掌しました。有り難うございます!事務所の仏様にお線香を立てて合掌し、神様に水を入れて柏手を叩きます。神仏習合。正しい日本人の習慣です。有り難うございます!和室でお茶と梅干しを頂きます。有り難うございます!
今日もまた無事に一日を迎えることができました。有り難いことです。有り難うございます!


【論語意訳】雍也篇


二十三.「雍也第六、第二十三章」

子曰、觚不觚。觚哉觚哉。

子曰く、觚(こ)、觚ならず。觚ならんや觚ならんや。


(ある時、)孔子先生が嘆かれた。

「觚が觚でなくなった。これでも觚であろうか。觚であろうか…」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

觚(こ):周代の青銅の酒器で、当時の二升(約四百CC)をいれる。戦国時代になると、青銅の觚がすたれ、漆器の杯が使用された。こういう変化が、春秋末の孔子の時代にはすでに起こっていたのかもしれない。觚が杯になるともう觚ではないといっているのだろうか(貝塚茂樹著「論語」)。


この章の解説:

金谷治著「論語」には、次のように書いてあります。

觚とは、儀礼用の酒器であり、容量二升というが、礼制がすたれて当時では多量で大きくなっていた(古注系)。新注ではかどのある器。それが当時ではまるくなっていたと解釈する。

これに対して、吉田公平著「論語」では、次のように訳しています。

孔子が言われた。「觚(盃など角のある器)が(形が変わって)觚でなくなっている。(角がなくなったら)これでも觚だろうか、觚だろうか」。

また同書には、「本来、かどのある酒器を觚という。かどがない酒器はもはや觚とはいえない。それにことよせて、孔子が当時の政治社会が有名無実に陥っていることを慨嘆したのだという。短い語録なので、この言葉がいかなる状況で発せられたのかは、もはやわからない。ただし、文気からして嘆きの言葉であることは確かである」とあります。

諸橋轍次著「論語の講義」には、次のように書いてあります。

觚は、或いは酒を入れる器ともいい、或いは文字を記す木簡(ぼくかん:木のふだ)であるともいわれるが、何れにせよ元来稜(かど)があったために、この名を得たものである。然るに孔子の時代にはこの稜(かど)が亡くなっていたから、これでは觚とはいえまいと言ったのである。要するに、これは一つの器物に仮りて時勢を諷(ふう)したものであろう。当時は君は君の道を失い、臣は臣の道を失い、父子また然りの世であったから、それでは君ともいえず、臣ともいえず、父とも子ともいえぬと、名分の衰えを嘆いたのである。

宇野哲人「論語新釈」には、次のように書いてあります。

「この章は觚を借りて当時名と実物とがちがうものが多いことを嘆いたのである。觚は稜(かど)だとも曰い、酒器(さかずき)だとも曰い、木札だとも曰う。みな稜(かど)のある物である。程子(ていし)は『一器(いっき)を挙げて天下の物がみなこのように有名無実であるとしたのである。故に人君(じんくん)が人君たる道を失えば人君ではなくなり、人臣が人臣たる職を尽くさなければ人臣たる資格はない』といい、范祖禹(はんそう)は『仁でない人は人でなく、治まらない国は国でない』といっている。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

觚という古代の酒杯が、本来の姿を失ってしまったということから、古代の礼の退廃をなげいた。しかし、孔子時代の觚が古代の觚とどう変わっていたのか、いろいろの説があってよくわからない。


二十四.「雍也第六、第二十四章」

宰我問曰、仁者雖告之曰井有仁焉、其従之也。子曰、何為其然也。君子可逝也、不可陥也。不可罔也。

宰我(さいが)問うて曰く、「仁者は之に告げて井(せい)に仁(ひと)ありと曰うと雖(いえど)も、其れ之に従わんか」。子曰く、「何為(なんすれ)ぞ其れ然(しか)らん。君子は逝かしむべきも、陥(おとしい)るべからず。欺くべきも罔(し)うべからず」。


宰我が尋ねて言った。

「(仁者は慈しむ心に溢れていますが、世故に疎い、間抜なところがあるように思います。たとえば、)仁者に、もし他人が詐(いつわ)って『井戸に人が落ちました』と告げたら、(仁者は)すぐに自ら井戸の中に飛び込んでこれを救うのでしょうか」。

孔子先生が言われた。

「(宰予、馬鹿なことを聞くんじゃないよ。)仁者は人を救う気持ちに溢れているが、人がいるかいないかも確認せずに井戸に飛び込むわけがないだろう。(たとえ騙して)仁者(君子)を井戸にまで行かせることはできたとしても、井戸の中に飛び込ませることはできないのじゃ。仁者は道理に従うものであるから、道理のあることで欺くことはできるが、道理のないことで昧(くら)ますことはできない(と宰我の屁理屈を軽くあしらった)」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

罔(し)う:道理上あり得ない(考えられない)ことで人の心を眩(くら)ますこと


この章の解説:

諸橋轍次「論語の講義」には、「門人宰我は才気煥発(さいきかんぱつ)の人ではあったが、一面、心の誠において欠けるところがあった。従って彼の目からすれば、当時仁者と称せられる者などが、とかく時勢に疎い、愚か者にも見えたのであろう」と書いてあります。

宇野哲人「論語新釈」には、「この章は宰我が仁を行って危害に陥ることはないかと心配して、事件を仮設して質問したのに対して、孔子が仁者は決して危害に陥るものではないことを説明したのである。身が井戸の上にいればこそ、井戸の中の人を救い出すことができるが、もし自分が井戸へ入ってしまえば、救い出すことはできなくなる。これは甚だ明瞭な道理である。最も仁者は人を救おうとする心が深くて、一身の利害を考えることはないけれども、あわてて井戸に飛びこむほどに愚かではない(朱子に拠る)」 と書いてあります。

将棋の米長邦雄さんの著作「運を育てる」には、「運、鈍(どん)、根、この三つが大切だ。 世の中には、運と根の大切さに気づいている人はたくさんいる。でも、鈍ということをわかっている人は少ないです」と書いてあります。

抜群に頭は良いが心の修養に欠ける宰我の目には、仁者が愚か者に見えたのでしょう。
中国明代の儒家・呂坤(りょこん)が書いた「呻吟語(しんぎんご)」には、「深沈厚重(しんちんこうちょう)なるは、これ第一等の資質。磊落豪雄なるは、これ第二等の資質。聡明才弁(さいべん)なるは、これ第三等の資質」と書いてあります。
第一等の資質である「深沈厚重」と「鈍」には共通するところがあります。仁者はこういう要素を持ち合わせているから、「愚か者」に見えることがあるのです。これは孔門第一の高弟である顔回のことを思い浮かべればわかることです。禅の世界では良寛という卓越した禅僧が自らを「大愚(だいぐ)良寛」と称したといいます。人間が本当に練れてくると「深沈厚重」や「鈍」という要素が加わり、一見「愚か者」に見えるのです。

以上は、以前書いた「論語に学ぶ」を一部手直しした文章です。

ほとんどの論語の解説書は、「仁者は之に告げて井(せい)に仁(ひと)あり」の「仁」を「人(ひと)」と読んで「井戸に人が落ちていたらどうする」と訳しておりますが、呉智英著「現代人の論語」では、そのまま「仁(じん)」と読んで解釈しています。

以下、前掲書から引用します。

宰我(さいが)問うて曰く、仁者は之に告げて井(せい)に仁(じん)ありと曰うと雖(いえど)も、其れこれに従わんや。子曰(のたまわ)く、なんすれぞ其れ然(しか)らん。君子は逝(ゆ)かしむべきも、陥(おとしい)るべからざるなり。欺くべきも、罔(し)うべからざるなり。
(中略)宰予が先生に質問した。仁に生きる人は、誰かが「井戸の中に仁がありますよ」と言ったら、それに従って井戸を見に行きますか。宰予らしいまことに奇矯な質問である。井戸をのぞき込んでいるところを突き落とされかねませんよ、と言いたいらしい。「身を殺して以て仁を成す」(衛霊公十五の九)を意識した挑発的な質問とも受け取れる。孔子は憤然として答えたことだろう。バカなことを言うものではない。どうしたらそんなことがあろうか。君子は、井戸のところまで連れて行くことはできても、井戸の中に落とすことなどできない。ちょっとひっかけることはできても、だましきることはできないのだ。
仁者・君子は知者でもあるから、孔子の答えは当然だろう。それにしても、宰予の「井戸の中に仁がある」は禅問答の如き奇言である。そのため、「井戸の中に人(仁)が落ちている」と解釈する説もある。その場合でも、宰予の不遜な挑発性は変わらない。
以上です。では、「仁を仁とそのまま読んで」わたしの解釈で現代訳してみます。
(頭脳明晰で抜群に頭はよいが、不遜な性格がなかなか治らない)宰我(宰予)が(まるで孔子の回答を試すかのように、次のように)質問した。
「(仁者は慈しむ心に溢れているということですが、わたしには、世故に疎い、間抜なところがあるように思えます。たとえば、)仁者に、もし他人が詐(いつわ)って『井戸に仁 がある』と告げたら、(仁者は)すぐに井戸の中に飛び込んで仁を得るのでしょうか」。
孔子先生は(呆れはてて)次のように言われた。
「(宰予、馬鹿なことを聞くんじゃないよ。)仁者がそんな戯言(たわごと)に騙されるわけがないじゃろう。仁者(君子)を巧妙な言葉で誘って井戸にまで行かせることはできても、井戸の中に落とすことはできない。仁者は天地の道理に従うものであるから、道理のないことで騙すことはできないのだ。(そもそもお前は、仁者というものがわかっとらんから、そんな奇矯な質問をするのじゃ。お前は、仁者を損な役回りだと考えておるのじゃ。それよりも富貴を手に入れたい、人に評価されたい、尊敬されたい、そう考えておるのじゃ。そんなことでは、お前はいつまで経っても人間として成長できんぞ。よく考えることじゃ…)」。

大胆に訳してみました。それにしても、宰我(宰予)とは…。


論語意訳を書き終えたのは5時半前。今日もなんとか朝の日課をやり終えました。やれやれです。有り難うございます!
日経と山日に目を通します。庭に来る雀のために餌(ご飯粒)を投げます。日本の清々しい朝です。有り難うございます!
仏間の仏壇にお線香をあげ、御錀をチーンと鳴らし、「ご本尊様、ご先祖様、今日もみんな幸せでした。長生きすることもできました。有り難うございます」と合掌しました。有り難うございます!台所の神棚に二礼二拍手一礼をします。有り難うございます!朝ご飯を頂きます。今日はコープやまなしの白米でお茶漬けを頂きました。昆布の佃煮をたっぷり入れました。これまた正しい日本人の朝食です。ご馳走さまです。美味しかったです。有り難うございます!食後は読書をします。有り難うございます!
その後、明日の「論語意訳」を書き始めました。9時半前には仕上げました。有り難うございます!その後は読書をしたり、家内と一緒に昼食を食べに行き、買い物をしたり、午後からはお客様がお見えになったりして一日を過ごしました。有り難うございます!

加地伸行著「論語」を読み終えました。これで三回目です。有り難うございます!安岡正篤著「呻吟語を読む」を読み終えました。勉強になりました。有り難うございます!明日の朝は坐禅会ですので今夜は早く寝ることにします。有り難うございます!

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2006.10.29(日)  昨夜寝たのは21時半頃。2時半にセットした目覚ましの音で目が覚め、パッと布団から出ることができました。一応超早起きと言えるでしょう。有り難うございます!
新たな一日が始まります。湯の盤の銘に曰わく、「苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」。誠に有り難いことです。感謝、感激また感謝。有り難うございます!
事務所の縁側に出て、東の空を背景にした愛宕山に向かい「おはようございます。今日も良い一日でした。誠に有り難うございます」と過去形で合掌 しました。有り難うございます!蹲いの横で微笑んでいるお地蔵さまに合掌しました。有り難うございます!事務所の仏様にお線香を立てて合掌し、神様に水を入れて柏手を叩きます。神仏習合。正しい日本人の習慣です。有り難うございます!和室でお茶と梅干しを頂きます。有り難うございます!
今日もまた無事に一日を迎えることができました。有り難いことです。有り難うございます!


【論語意訳】雍也篇


二十五.「雍也第六、第二十五章」

子曰、君子博学於文、約之以礼、亦可以弗畔矣夫。

子曰く、君子博く文を学びて、之を約するに礼を以てせば、亦た以て畔(そむ)かざるべきか。


孔子先生がおっしゃった。

「君子たる者、ひろく書物を読み、礼(の実践)で引き締めれば、道から外れはしないのじゃよ」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

文、畔(そむ)く

文:詩書礼楽等
畔(そむ)く:背く


この章の解説:

吉田賢抗著「論語(新版)」には、次のように書いてあります。

この章から博文約礼(やくれい)の言葉が生まれているが、明治時代の宰相、伊藤博文の名もここから取ったものであろう。『博文』とは広く学問をして知識を豊かにし教養を身につけることだが、いかに広い知識があっても行動が正しくなければ、人間として立派ではない。孔子の理想は君子の養成であり、そのための方法として約礼が重視されている。『約礼』とは礼で縛る(約束の約)ことで、社会的規範(礼)で自分自身の行為を律する(約)ことであり、顔淵篇では、『克己復礼(こっきふくれい:自分の我欲にうち克ち礼を履行する)』とも言い、さらに具体的には礼に反することは見ず、聞かず、言わず、行わないことであると述べられている。

金谷治著「孔子」には、次のように書いてあります。

広く書物を読んで、儀礼の実践でそれをわが身にひきつけていくなら、道にはずれないでおれようというのである。古典の教養と礼楽の習得と、そして忠信のまごころの錬磨と、それらを統一的に行うことによって、完全な君子の生まれることが期待されている。そしてその君子とは、いうまでもなく孔子の理想世界を実現するための人材であった。(中略)
この忠信のまごころを文と行の教育を通じて錬成していくところに、孔子の教育、ひいては勉学の、新しい意義があった。広い知識はそれによって深く情操の奥に沈み、儀礼は煩瑣な形式をこえて落ちついた精神の統一に達するのである。詩・書を読み、礼・楽を実践することは、恐らく古い貴族の教育においても行われていた。しかし、それは個別的な技術的知識として表面的に学ばれるだけであった。孔子はそれを忠信のまごころによって統一づけ、そのことによって全人間的な完成をめざしたのである。


二十六.「雍也六、第二十六章」

子見南子。子路不説。夫子矢之曰、予所否者、天厭之。天厭之。

子、南子(なんし)に見(まみ)ゆ。子路説(よろこ)ばず。夫子、之に矢(ちか)いて曰く、「予(わ)がすまじき所の者あらば、天之を厭(た)たん。天之を厭(た)たん」。


孔子先生が(衛の霊公の夫人で公然と不倫をする淫蕩な熟女)南子に会われた。

子路はこれを喜ばなかった(孔子先生を疑った)。

孔子先生は(子路に)誓った。

「わしが間違えを犯したならば、天がわしを見放すじゃろう。天がわしを見放すじゃろう」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

矢(ちか)う、すまじき所、厭(た)つ

矢(ちか)う:誓う
すまじき所:礼に拠らず、道に由らない所
厭(た)つ:見放す、捨て去る、棄て絶つ


この章の解説:

君子人たる孔子にあるまじき行為を、子路が諫めるという、非常に興味深い章であります。呉智英著「現代人の論語」では、この章を次のように解説しております。

孔子の生国魯の隣国衛は、王室の権力争いで乱れに乱れていた。政治的な乱れに加えて道義上の乱れも目に余るものがあった。そのすべての中心にいたのが、衛王霊公の后(きさき)南子である。南子には美貌の情夫宋朝(そうちょう)がおり、二人の不倫の関係は公然の秘密となっていた。霊公と南子の間にできた太子は、淫蕩な母を憎んでその殺害を計り、これに失敗して王位継承権を剥奪(はくだつ)されて国外に逃亡。後の内乱の遠因となった。(中略)
孔子は前年から祖国魯の政治に見切りをつけ、弟子たちを連れて諸国流浪の旅に出ていた。いや、これは祖国に見切りをつけるというようなものではなかったらしい。勢力を伸張し国政を壟断(ろうだん)している季氏一族を圧服しようとして果たさず、むしろ自分の身が危うくなって、孔子は亡命同然に国外へ逃れたのである。
この流浪の旅は、五十六歳から六十九歳まで足かけ十四年に及んだ。その間、諸侯に理想の政治を建言し、諸侯の下問(かもん)に答えた。最初に立ち寄ったのが衛の国であった。
理想の政治を説くべく衛王霊公に見(まみ)えた後のことだろうか、そのための仲介者を探していた時のことだろうか、南子から引見したいとの申し入れがあった。時に南子、数え年四十四歳。今の言葉で言えば熟女とでもなろうか。頽廃の美を妖しく放っている。史記の記述によれば、孔子はこの申し入れを一度は辞退している。おそらくは再度の強い申し入れがあったのだろう。結局、孔子は南子に拝謁(はいえつ)した。
南子の意図は何だったのだろうか。
一つには、衛の国にまで賢者の名声の聞こえている孔子に会うことによって、自分の行動の正当性を保証させようとしたのだろう。しかし、もう一つに、好色な気持ちがなかったとは言い切れない。
孔子は、役者のような美男ではなかったろうが、伝承によれば武人である父の血を受けた逞しい偉大夫。世の人は「長人(ちょうじん:背の高い人)」と称したと、これも史記にある。権力の頂点にある国君を我が者とし、絶世の美男宋朝を情夫にし、その次には、高邁な理想に生きる偉大夫をと、多淫な南子が思ったとしても不思議ではない。
拝謁の間で、薄い帷(とばり)を介して、孔子は南子に見えた。南子の身につけた玉飾りの触れ合う音が璆然(きゅうぜん)として麗(うるわ)しく鳴った、と、やはり史記は言う。しかし、二人が何を話したのかは語られていない。
(中略)
南子に会った孔子が帰って来た。高弟である剛毅な子路は、敬愛する孔子が南子のような不徳義な女と会っただけでも不快げである。先生、なぜ、あのような女と…とつめ寄った。これに対し、孔子は誓って言った。私がまちがったことをしていたら、天がこれを許すまい、天がこれを許すまい。
通説では、最後のくり返しを、孔子の強い断言と見る。しかし、弟子の詰問に師が誓ってまで答える不自然さはどうだろう。
白文では「ちかう」が「矢(ちか)う」と書かれている。古代の支那では、神かけて誓う時、矢を折って誓いの言葉を述べた。「誓」に「折」が入っているのも、それを表している(『字通』)。孔子は、弟子の詰問に対し、矢を折り神かけてまで誓っているのだ。私にはやましいことはない、と。それも、二度くり返し口にしている。
孔子の内心の動揺の現れだと見えないだろうか。

以上です。

わたしも、この章を始めて読んだときから、なぜ、孔子は二度も「私にはやましいことない」と繰り返しているのか疑問に感じました。と同時に、孔子の人間臭さをかいま見る思いがして、聖人である孔子を身近に感じ親しみをもてるようにもなりました。また、いつもは散々孔子から戒められている子路が孔子を諫めているのも面白いところです。


二十七.「雍也第六、第二十七章」

子曰、中庸之為徳也、其至矣也。民鮮久矣。

子曰く、中庸の徳たる、其れ至れるかな。民(たみ)鮮(すく)なきこと久し。


孔子先生が嘆いて言われた。

「中庸の徳は誠に申し分のない最高の徳である。しかし、人民が中庸の徳を失ってから久しいことだ」 。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

中庸:バランスのとれた道義の感覚。このことを主題にしたのが『中庸』である。もともとは日常的な倫理観であるが、朱子は、「中とは過ぎる無く及ばざる無きの名なり。庸とは平常なり」と定義する。また朱子の先輩である程子の言葉を引用しながら「偏らざるをこれ中と謂い、易(かわ)らざるをこれ庸と謂う。中は天下の正道、庸とは天下の定理」という。この定義が朱子以後には定着する(吉田公平著「論語」より)。


この章の解説:

吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてあります。

「中庸」という言葉が、儒家のきわめて尊重する概念であったことは、もっぱらその価値を説く「中庸」という独立の文章が、孔子の孫である子思の作として、漢代では「礼記(らいき)」四十九篇中の一篇となり、さらにまた宋以後は、「四書」の一つとして、極度の尊重を受けたことでも、示される。(中略)私の憶説をいえば、中とは黄金律のように、もののあるべき道理として、最上のものであるが、最上の道理は、つねにものの中央にある、と考えられるところから、中と呼ばれるのであり、また、庸とは、常であって、偏頗(へんば…偏っていること、引用者注)でないもの、そうしてそれこそやはり最上の道理であることを、意味しよう。要するに中庸とは、もっともすぐれた常識、を意味するというのが、私の感じである。
ところで、この条の意味は、中庸の、人間の道徳としての価値は、至上のものである。しかるに、「民鮮きこと久し」とは、(中略)その能力をもつ人間が、鮮(とぼ)しくなってから、ずいぶんの時間を経た、というのである。


二十八.「雍也第六、第二十八章」

子貢曰、如有博施於民、而能済衆、何如。可謂仁乎。子曰、何事於仁。必也聖乎。堯舜其猶病諸。夫仁者、己欲立而立人、己欲達而達人。能近取譬、可謂仁之方也已。

子貢曰く、「如(も)し博(ひろ)く民に施(ほどこ)して能(よ)く衆を救うことあらば如何(いかん)。仁と謂うべきか」。子曰く、「何ぞ仁に事(とど)まらん。必ずや聖か。堯舜も其れ猶(なお)これを病めり。それ仁者は己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す。能(よ)く近く譬(たとえ)を取るを、仁の方(ほう)と謂うべきのみ」。


(ある時、)子貢が(孔子先生に)たずねた。

「(先生、)もし広く民全体に恩恵を施して(人々を物心両面で豊かにして)、苦しんでいる人々を救うことができる人がありましたら、いかがなものでありましょうか。仁者(天地の道理に照らして義を立てて、それを正しく実践して徳を発する人=人格者)ということができるでしょうか」。

孔子先生はお答えになった。

「(賜よ、)どうして、それが仁者(人格者)に止(とど)まろうか。それができるようであれば、まちがいなく聖人(完全なる人格者)といってよかろう。そのようなことは、古(いにしえ)の聖人である堯や舜でさえなかなか成し遂げられなかったことであるのだ。(ところで、お前は、仁ということを、概念で捉えようとしておるが、仁ということは、身近なところにあるのだ。たとえば、)仁(人格者)であろうとする人は、自分の身を立てたい、地位を得たいと思っても、その前に、人の身を立たせ、地位が得られるように尽力する(例えば、部下を引き立て、自分の地位を脅かすとしても、その地位に押し上げたりする)のじゃ。また自分が、ある境地に達したい、ある地位に達したいと思っても、その前に、人をその境地や地位に導いていく(例えば、自分に組織の長になる器があっても、自分よりも経験が豊富な先輩に組織の長の座を譲る)のじゃ。このように、仁を、(お前が考えているような、難しい概念として捉えるのではなく、)身近なこととして実現させようとすることが、仁に到達する(人格者になる)方法なのじゃよ」。


この章の解説:

吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてあります。

子貢が人間としての最高の道徳を提起したのに対し、より近い、より到達し易い仁者の道徳は、いかにあるべきかを、説く。仁者は自分が何かを樹立しようとねごうときには、自分だけで樹立せずに、他人にもそれを樹立させる。自分が何かに到達しようとおもえば、他人にも、そこに到達させる。「博く民に施して衆を済(すく)い」、すべての人に恩恵を施して、すべての人を済う、ということは、困難であるにしても、手近なところから、善意を人におよぼし、わかとう、とする。そうして「能く近く譬えを取る」。譬えとは、類似、相似の意味であって、何事をも、身近な自分の身の上について事がらを考える。あることを他人にしようとする場合には、それがみずからの身の上に加えられた場合には、どうであろうかと、(中略)考える。それはつまり、「己の欲せざるところを恕(はか)りて、人に施すことなし」であると、(中略)いう。こうした心がけこそは、仁の道徳の方法であるといってよろしい。
人間は社会的存在である、ということを、人間はつねに考えなければならない、とするのが、儒家の主張の一つであるが、この条はそれを最もよくあらわすものの一つであろう。(中略) 人間への愛は、広漠な、したがって空漠な、人類愛、というかたちから出発するよりも、そうした理想をもちながらも、実践は近くからはじめねばならぬ、という儒家の考え方をも、この条は示しているであろう。


以上の論語意訳は、昨日書き上げたものです。助かりました。有り難うございます!これで「雍也篇六」を書き終えました。明日からは、「述而篇七」に進みます。有り難うございます!日経に目を通してから、三十分ほど坐禅を組みました。落ちつきました。有り難うございます!山日に目を通します。さて今日は坐禅会の日です。5時半前に円光院に向かいます。いつものように木板を叩かせて頂きました。有り難うございます!坐禅は、前半後半ともに、まずまず落ち着いて坐ることができました。有り難うございます!坐禅の後は茶礼です。坐禅の後で頂くお茶は本当に美味しいのです。ご馳走さまです。有り難うございます!今日は武田住職が用事で出掛けたのでわたしが無門関の法話を朗読させていただきました。勉強になりました。有り難うございます!

家に戻ったのは8時半前。仏間の仏壇にもお線香をあげ、御錀をチーンと鳴らし、「ご本尊様、ご先祖様、今日もみんな幸せでした。長生きすることもできました。有り難うございます」と合掌しました。有り難うございます!台所の神棚に二礼二拍手一礼をします。有り難うございます!朝ご飯を頂きます。坐禅会の後に頂く朝食はそれはもう本当に美味しいのです。ご馳走さまです。有り難うございます!一休みしてから、HPを更新します。今日は午後一で「論語塾(基礎篇)」を開催して、そのまま某塾の「蕎麦打ち大会」に参加します。帰宅するのが20時頃になると思われるので、ちょっと早いのですが日記はここで締めたいと思います。有り難うございます!

好評開講中 生き方塾(安岡正篤篇)    読書塾(論語に学ぶ) 好評開講中

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(毎月第二、第四日曜日、午後2時〜5時) 

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2006.10.30(月)  昨夜寝たのは23時頃。3時半ちょっと前にセットした目覚ましの音で一度起きたものの、また寝てしまい、布団から出たのは4時半前でした。寝坊しましたが、まぁ一応早起きでしょう。有り難うございます!
新たな一日が始まります。湯の盤の銘に曰わく、「苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」。誠に有り難いことです。感謝、感激また感謝。有り難うございます!
事務所の縁側に出て、東の空を背景にした愛宕山に向かい「おはようございます。今日も良い一日でした。誠に有り難うございます」と過去形で合掌 しました。有り難うございます!蹲いの横で微笑んでいるお地蔵さまに合掌しました。有り難うございます!事務所の仏様にお線香を立てて合掌し、神様に水を入れて柏手を叩きます。神仏習合。正しい日本人の習慣です。有り難うございます!和室でお茶と梅干しを頂きます。有り難うございます!
今日もまた無事に一日を迎えることができました。有り難いことです。有り難うございます!
さて「論語意訳」は今日から、述而編に入ります。 有り難うございます!


【論語意訳】述而篇


一.「述而第七、第一章」

子曰、述而不作、信而好古。竊比於我老彭。

子曰く、述べて作らず、信じて古を好む。竊(ひそ)かに我が老彭(ろうほう)に比(ひ)す。


孔子先生がおっしゃった。

「わしは、古人の遺(のこ)した教えを祖述するが、自ら教えを創作しない。古人の遺した教えは時代の篩にかけられておるから、これを信じて好んでいる。昔、殷の老彭(ろうほう)という賢人がいて、古人の遺した教えを述べて、これを好んだが、わしはひそかに老彭に自分を重ねておるのじゃ」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

述べて作らず、老彭(ろうほう)

述べて作らず:述は循で、何かにしたがうこと、つまり先人の学問を祖述することである。作は創作、新しい文化を創造すること、とくに礼楽の制度を創設することを意味する。
老彭(ろうほう):殷王朝につかえた賢者、彭祖(ほうそ)は長寿で有名であったので、老彭と称したという説と、老子と彭祖の二人の先賢をさしたという説がある。
(以上、貝塚茂樹著「論語」より)


この章の解説:

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

孔子の学問の傾向をよくいいあらわしている。内省的な孔子は、自己の学問のやり方を、他人を批判するように客観的にとらえている。「祖述するだけで創作しない」とは、たいへん謙遜しているように見えるが、この立場を確固として守るところに、強い自信があらわれている。作を創作と訳したが、漢語の創作は日本語の創作が文学作品、とくに小説を書くのとちがっている。それは、もっとひろく、とくに礼楽の制度を立案し実施することをさす場合が多い。周公が周の礼を作ったことが典型的な創作であった。それは、文化的なことであるが、それを実行するのは政治的な行動であった。孔子が「述べて作らず」といったときには、こういう政治的な世界から絶縁したことが意味されている。

金谷治著「孔子」には、次のように書いてあります。

孔子はいう、「古い伝承を祖述して新しい創作はしない、むかしのことを厚く信じて愛好する。そんな自分をこっそりとわが信愛する老彭の態度にも比べている」と。孔子が新奇を好む人でなかったことは、はっきりしている。古い伝承をたいせつにして、そのなかで、当代に新しく生み出されたものよりももっと新鮮なものが息づいていることを、孔子は認めていた。創作にともなう独断の危険を知っていたのであろう。そして、無けなしの知識をふりまわして新しいことを言いたがる人を軽蔑したのであろう。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

わたしは古代の聖人たちの業績を伝えることを自分の任務と心得ており、新説を創り出すつもりはないんだ。次から次に新しいものを追いかけるよりも失われた良きものを発掘して評価することが大切だよ。(以下省略)


二.「述而第七、第二章」

子曰、黙而識之、学而不厭、誨人不倦、何有於我哉。

子曰く、黙して之を識(しる)し、学んで厭わず、人に誨(おし)えて倦まず、何んぞ我に有らんや。


孔子先生がおっしゃった。

「物事の道理を聞いて、これを口に出さずに心に留めて忘れないこと、学問を好んで厭きないこと、人に教えて怠らないこと。この三つだけが、わしの出来ることで、それ以外には何の取り柄もないのじゃ」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

黙して之を識(しる)す:口に出さずに心に留めること。之は道理を指す


この章の解説:

「何か我に有らんや」を「この三つのことはわたしにも出来る」と訳しましたが、「この三つのことがわたしに出来るであろうか(。いや、出来ない)」という解釈もあります。

金谷治著「孔子」には、次のように書いてあります。

「何か我れに有らんや…何有於我哉」は難解な句で異説もあったが、用例を帰納すると、特別のものとしてあるのではない、つまり特にむずかしいことではないという意味で、そこに自負の気分もふくまれている。「だまって覚えておき、あきることなく学び、倦み怠ることなく人を教える、このぐらいのことは、わたしにとって何でもないことだよ」という。(中略) これこそが自分の本領で、自分の取りえなのだと、孔子は自負する。人びとの教師として、その勉学を見ならってほしい、という気持ちもあったかもしれないが、むしろここまでが自分のできること、自分の本領だとして、さらけ出した趣がそこにはある。

吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてあります。

この条は、読みやすいように見えて、しかも読み方がいろいろさまざまである。(中略) 「黙して之を識(しる)す」とは、いろいろと言(こと)あげせずに、沈黙のうちに、事柄をよく認識する。「学んで厭わず」とは、学問というものは、すればするほど新しい境地が開け、従って新しい責務を感ずるものであるがいや気をおこさず、学問を持続する。「人に誨(おし)えて倦まず」とは、教育というものは、相手があっての事柄であり、相手はなかなかこちらのいうことを納得しないものであるけれど、そのために熱意をうしなわない。この三つのことだけは、「何んぞ我れに有らんや」、私にとって特別に困難なことではない。(中略)
仁斎は、それらのことだけには自信があるが、そのほかのことは、何が私に有ろうか、と読み、(中略)別の一説もそれに同じいが、やや無理であろう。また新注が、(中略)これらの道徳は、どうして私にあろうか、私にはない、とするのは、おそらく何有の二字の原義ではない。

古川先生は、「やや無理であろう」と書いていますが、わたしは、仁斎の「それらのことだけには自信があるが、そのほかのことは何が私に有ろうか」とした解釈を採用しました。


三.「述而第七、第三章」

子曰、徳之不修、学之不講、聞義不能従、不善不能改、是吾憂也。

子曰く、徳の修まらざる、学の講ぜざる、義を聞いて従(うつ)る能(あた)わざる、不善改むる能わざる、是吾が憂いなり。


孔子先生がおっしゃった。

「徳を十分に発せられないこと、学んでも道理が明らかにならないこと、正義を聞いても実行できないこと、善くないことを改められないこと、以上が、いつも気がかりなのじゃ」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

講ずる:道理を明らかにする


この章の解説:

諸橋轍次「論語の講義」には、「吾が憂いなりとは、自分はその事に念々心を労しておるという意味で、出来ないから心配するという意味とは幾分違っている」とあります。

渋沢栄一著「『論語』の読み方」には、次のように書いてあります。

孔子が「徳を修めない、学問を習わない、正義を聞いてもついていけない、善くないことが改められない。これが私の心配事だ」と言った。これは、あたかも自分の不徳を責めているようだが、実のところ、自分になぞらえて門人たちを諫めたものであろう。私なども他人に忠告するときには、自分は不徳だとか菲才(ひさい)だとか前置きを言って、それからいまの世の中が軽薄で、犠牲の精神に乏しく、利己的だというふうに警告を与えている。孟子は「人の性は善である」と言っている。まさに人間本来は善である。悪は誰しも好まない。そうであるならば、正義を聞けばすぐ従い、善くないことはすぐに改め、徳を修め学問に精を出しそうなものであるが、実際はなかなかそうはいかない。孔子でさえも「これわが憂いなり」と嘆くように、意志と行動とは一致しにくいものである。それはなぜかというと、人間には私心というものがあって、七情(喜・怒・哀・楽・愛・悪=憎・欲)に動かされるからである。勝手気ままな行いをして、世間に迷惑ばかりかけている人でも、他人のことになれば、批判が正確になり、あれは善いとか悪いとかと、正しい判断を下せるが、自分のこととなれば、判断が全く狂ってしまう。

吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてあります。

朱子がいずれも、孔子自身の行動についての憂いであったとするのに、徂徠は反対して、門人の行動についての心配であったとするが、普通には朱子のように、自ずからの憂いとして読んでおり、またその方がおだやかであろう。


論語意訳を書き終えたのは6時頃。今日も何とか朝の日課をやり終えました。やれやれです。有り難うございます!
日経と山日に目を通してから、庭に来る雀のために餌(ご飯粒)を投げます。日本の清々しい朝です。有り難うございます!
事務所和室の御錀をチーンと三回大きく鳴らして仏間の仏壇にお線香をあげ、御錀をチーンと鳴らし、「ご本尊様、ご先祖様、今日もみんな幸せでした。そして長生きできました。有り難うございます」と合掌しました。有り難うございます!台所の神棚に二礼二拍手一礼をします。有り難うございます!そして朝ご飯を頂きます。コープやまなしの白米に大根と葱と油揚げのみそ汁、焼き鮭に大根おろしに韓国海苔にハムという正しい日本人の朝食です。ご馳走さまです。美味しかったです。有り難うございます!さて、昨日は午後から「論語塾」を開催しました。出席者は三名、みなさん大変熱心に取り組んでくださいました。有り難うございます!

夜は、某