心の経営コンサルタント/中小企業診断士/東洋思想実践家

之を楽しむ。論語

心の経営コンサルタント(中小企業診断士)白倉信司の仕事

為さざる有るなり、而して後、以て為す有るべし。孟子

      

 

論語意訳-完

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 2007.9.9  論語意訳−完


堯曰篇第二十


「堯曰篇」について、貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

この篇は「堯曰わく」の第一章にはじまる。舜が天命を受けて帝になったときの、天命の内容を堯の任命のことばによって描く。それが禹に伝わり、さらに殷の開祖の湯王によって受け継がれる。またさらに周の文王・武王にも伝わる。この伝授されてゆく天命の内容を紹介するのがこの篇である。そして、「命を知らざれば、以て君子と為すことなきなり」の孔子の語によって、それが受けられる。要するに、天命の継承の歴史を述べたものであるが、中間に(第二章)、政治についての子張と孔子の問答がはいって印象がぼやけてしまった。しかし、孔子がもっとも語ることを好まなかった「天命」の、古代の伝承を説明するために、この篇は書かれたものである。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

…全書二十篇の最後に位するこの篇は、大変特殊な篇である。…郷党第十も、内容と構成が特殊であったが、この篇は一層甚だしい。
すべて三篇。第一章は堯、舜、禹、武王の、王朝の交替に際しての言葉、その集録であるが、その文章は、どう見てもよくつづかぬ個所がある。孔子のいだいた政治の理想は、堯舜以来の伝統を基礎とするゆえに、それらを列記したと、皇侃の「義疏」は説く。
次に第二章は、そうした伝統を承けた孔子が、子張の問いに答え、自ずからの政治学説の要点を、「五美を尊び、四悪を屏(しりぞ)く」と、まとめたのであって、「孔子の徳の、堯舜諸聖に同じきを明らかにする也」であると、これもまた皇侃の説である。
そうしてさらに皇侃は、第三章、そうして「論語」全篇の最後の章である「孔子曰わく、命を知らざれば、以て君子と為す無き也」は、孔子は、堯舜らと同じく、帝王となる能力をもっていたにも拘わらず、時代がそれを許さぬという「天命」を知っていた故に、帝王とならなかった、そのことを明らかにしたのだという。


一.「堯曰第二十、第一章」

堯曰、咨爾舜、天之暦数在爾躬。允執其中。四海困窮、天禄永終。舜亦以命禹。曰、予小子履、敢用玄牡、敢昭告于皇皇后帝。有罪不敢赦。帝臣不蔽。簡在帝心。朕身有罪、無以万方。万方有罪、罪在朕躬。周有大賚。善人是富。雖有周親、不如仁人。百姓有過。在予一人。謹権量、審法度、修廃官、四方之政行焉。興滅国、継絶世、挙逸民、天下之民帰心焉。所重民食喪祭、寛則得衆、信則民任焉、敏則有功、公則説。

堯曰く、「咨(ああ)爾舜、天の暦数(れきすう)爾の躬に在り。允(まこと)に其の中を執れ。四海困窮せば、天禄永く終らん」。舜も亦た以て禹に命ず。曰く、「予(よ)小子履(り)、敢えて玄牡(げんぼ)を用いて、敢えて昭(あき)らかに皇皇たる后帝に告ぐ。罪有れば敢えて赦さず。帝臣蔽(おお)わず。簡(えら)ぶこと帝の心に在り。朕(わ)が身罪あらば、万方(ばんぽう)を以てする無し。万方罪あらば、罪朕が躬に在り」。周大賚(たいらい)あり。善人是れ富む。「周親ありと雖も、仁人に如かず。百姓(ひゃくせい)過(とが)むるあり。予一人(いちにん)に在り」。権量(けんりょう)を謹み、法度(ほうど)を審(つまび)らかにし、廃官(はいかん)を修めて、四方の政行わる。滅国(めっこく)を興し、絶世を継ぎ、逸民を挙げて、天下の民心を帰す。重んずる所は民の食喪祭(しょくそうさい)、寛(かん)なれば則ち衆を得、信なければ則ち民任じ、敏なれば則ち功あり、公なれば則ち説(よろこ)ぶ。


第一段:
堯がおっしゃった。「ああ舜よ。天の定め(帝位の継承)は君にある。まことに帝位に就くべきである。ところで、天子として政治を行うにあたっては、一方に偏らない中道を固く守っていくがよいであろう。もし中道を失って、天下の万民が困り苦しむことがあれば、せっかく天に与えられた幸いも、永久になくなってしまうだろう」。
第二段:
その舜もまた、堯に教えられた言葉を禹に命じた。(その後、禹の夏王朝は世襲され時が流れたが、後の桀〔けつ〕王が悪逆無道であったので、殷の湯王〔とうおう〕が桀王を伐って天子となった。)
第三段:
湯王が(諸侯に)おっしゃった。「不束(ふつつ)な、わたくし履(り:湯王の名)が、ここに犠牲の雄牛を供え、天下に明々白々と、大いなる天帝に申し上げます。自分は天に代わって国を治める者でありますから、罪人は厳正に処断いたします。天帝の家来である諸侯に、正しく美しい行いがあれば、それを蔽い隠すことはいたしません。わたくしに罪がある時は、諸侯たちの万国を責めませんし、万国に罪がある時は、責任はわたくしにございます」。
第四段:
(そして、殷王朝が続き、紂王の時、紂王が悪逆無道であったので伐たれて、周王朝となった。武王は紂王を伐つ兵を挙げた時、集まった軍団に対して次のようにおっしゃった。)
「わが周家には大きな宝物がある。すぐれた人材(善人)が沢山いるということである。周家に親族はあるけれども、すぐれた人材(仁人)には及ばない。また、人々(百姓)に過ちがあれば、その責任はわたしにある」。

第五段:
(こうして建てた周王朝は、)秤(はかり)や升目(ますめ)など基準を守り、制度(法度)を整理し、廃止されていた官職を補充して政治を行った。また、滅びた国を再興して諸侯とし、絶えていた賢者の家の子孫を立てて家系を復活させて、野に下っていた賢人を登用するなど情を尽くした政治を行ったので、天下の民の心は周王朝に向かったのである。(こうした歴史に鑑みると、政治において)重視するものは、民の生活の基本である「食」、人の死を哀しむ「喪」、祖先の霊を敬う「祭」である。政治が寛大であれば人々に支持され、為政者が言行一致であれば人々から信頼され、処理が迅速であれば実績が上がり、公平であれば人々は喜ぶ。このようにして初めて国を治めることができるのである。


この章の解説:

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

(第一段、引用者注)
堯帝のたまえり。
「おお、なんじ舜よ。天の運行、なんじ一身にかかる。しかと中なる旗竿を握りしめよ。四海の民困窮せば、天の賜いし至福、とこしなえに尽きん」
(第二段、同)
舜帝、これをもて禹に命じたまえり。
(第三段、同)
またいえらく。
「小子なる、われ履、あえて黒毛の雄牛ささげて、明らけく上帝に申す。『扉あらばあえて赦すことなかれ。帝の臣の罪隠れなき、帝の御心のままに裁きたまえ。わが身に罪あらば、万国に責めなく、万国に罪あらば、その罪わが身にあれ』」
(第四段、同)
周に天より大なる賚(たまもの)ありき。そは善き人の富めることなり。周に一族ありといえども、仁徳の人には及ばず、国民(くにたみ)に過ちあれば、その責め、わが一身にこそあれ。
(第五段、同)
慎みて権(はかり)・量(ます)を正し、審(つまび)らかに法度(しゃくど)を定め、廃(すた)れる官を修むれば、四方(よも)の政行われざるはなし。滅びたる国をふたたび興し、絶えたる世に後継ぎをたて、世を逸(のが)れたる民を挙ぐれば、天下の民の心は君に帰服せん。国民の重んずるところは、食・喪・祭にあり。寛き心をもってすれば衆の心を得、ことばたがうことなければ、民は役に務めん。勉めて怠ることなければ、必ず事成就せん。よろずのこと平らかに扱えば、国民よころばん。
第一段は、きわめて難解であって、異説が多い。私は「允(まこと)に其の中を執れ」の「中」の意味の解釈を手がかりとしてとらえよう。殷代の甲骨文字に「中を立つ」という文がある。中は…旗の形をかたどっている。広場の中央に大きな旗竿を立てることがある。それは天象を観測する基準となるものである。日月星の南中する時間を、この直立の柱によって正確に知るためである。そのもとには、その時間を正確に記録するための筮竹(ぜいちく)、竹の簡(ふだ)のめどぎ(「めどぎ」とは、占いの道具のこと、引用者注)が置かれる。天体の運行は、このめどぎの記録によって確実に知られる。それが「天の暦数」なのである。天の暦数、天の運行を正確にとらえること、これが天に命ぜられた汝の神聖な義務である。それを怠ると、季節が乱れ、農作がうまくゆかなくなり、国民は飢え、王朝は滅びることになる。第一段はこのことを述べたのである。第二段は、舜が、同じことを禹につたえたのである。第三段は、夏の暴君桀を滅ぼした殷王朝の開祖湯王、名は履が、天に向かって天命をまちがいなく守ることを誓ったことばである。第四段は、周の開国の由来を述べて、殷国の賢人が殷を見捨てて周に帰したが、それは周がこれらを好遇したからであると述べる。第五段は、将来出てくる王者は、いかなる使命をおびているか、将来の王のイメージを述べたものである。

吉田公平著「論語」には、次のように書いてあります。

この一条は、古代の聖王が禅譲したときに告げた言葉をあつめた。堯→舜→禹と帝位を禅譲したが、禹が開いた夏王朝は桀に至って殷の湯王に亡ぼされた。その殷王朝の紂王に至って周の武王に亡ぼされた。王道政治の理念をのべた語録である。


二.「堯曰第二十、第二章」

子張問於孔子曰、何如斯可以従政矣。子曰、尊五美、屏四悪、斯可以従政矣。子張曰、何謂五美。子曰、君子恵而不費。労而不怨。欲而不貪。泰而不驕。威而不猛。子張曰、何謂恵而不費。子曰、因民之所利而利之。斯不亦恵而不費乎。択可労而労之。又誰怨。欲仁而得仁。又焉貪。君子無衆寡、無小大、無敢慢。斯不亦泰而不驕乎。君子正其衣冠、尊其瞻視、儼然人望而畏之。斯不亦威而不猛乎。子張曰、何謂四悪。子曰、不教而殺、謂之虐。不戒視成。謂之暴。慢令致期。謂之賊。猶之与人也。出納之吝、謂之有司。

子張、孔子に問うて曰く、「如何なるか斯れ以て政に従うべきか」。子曰く、「五美(ごび)を尊び四悪(しあく)を屏(しりぞ)くれば斯れ以て政に従うべし」。子張曰く、「何をか五美と謂う」。子曰く、「君子は恵(けい)して費(つい)えず。労して怨みず。欲して貪らず。泰(たい)にして驕らず。威あって猛(たけ)からず」。子張曰く、「何をか恵して費えずと謂う」。子曰く、「民の利する所に因って之を利す。斯れ亦た恵して費えざるにあらずや。労すべきを択(えら)んで之を労す。また誰をか怨みん。仁を欲して仁を得たり。また焉んぞ貪らん。君子は衆寡(しゅうか)となく、小大となく、敢えて慢(まん)するなし。斯れまた泰にして驕らざるにあらずや。君子は其の衣冠(いかん)を正しくし、其の瞻視(せんし)を尊くし、儼然(げんぜん)として人望んで之を畏る。斯れ威あって猛からざるにあらずや」。子張曰く、「何をか四悪と謂う」。子曰く、「教えずして殺す、之を虐(ぎゃく)と謂う。戒めずして成るを視(み)る。之を暴と謂う。令を慢にして期を致す。之を賊と謂う。猶(ひと)しく之人に与うるなり。出納(すいとう)の吝(やぶさ)かなる、之を有司(ゆうし)と謂う」。


子張が孔先生に尋ねて言った。
「どのようなことをしたら為政者としての仕事を全うできますか」。
孔先生が言われた。
「五つの美しい徳を尊んで四つの悪をしなければ為政者としての仕事を全うすることができるであろう」。
子張が言った。
「五つの美しい徳とはどのようなことでしょうか」。
孔先生が(五つの徳を次のように)説明された。
「一.君子は民に恵み深いが無駄な費用を掛けない」、「二.民に命じて働かせても怨まれない」、「三.欲することはあっても貪ることはない」、「四.ゆったりとしており高ぶらない」。「五.おごそかであるが激しくはない」。(という五つの徳である。)
子張が言った。
「(最初の)民に恵み深いが無駄な費用を掛けないとはどういうことですか。(また、その後の四つの徳についてももっと詳しく教えてください)」。
孔先生が言われた。
「一.恵んでも無駄な費用を掛けないとは、民にとって何が利益かを見極めてから必要な費用を掛けるということじゃ」。
「二.民に命じて働かせても怨まれないとは、民が働いても良いと思っていることを選んでから働かせることじゃ」。
「三.欲することがあっても貪ることはないとは、為政者が君子として、仁を求めて仁を得たら自ずとなる境地なのじゃ」。
「四.ゆったりとしており高ぶらないとは、君子たる為政者は大勢であろうが少人数であろうが、大きかろうが小さかろうが、驕ることなく、ゆったりと振る舞いなさいということじゃ」。
「五.おごそかであるが激しくはないとは、君子たるもの衣服や冠を正しく着けて、目付きにも気を配り厳然としておれば、遠くから見れば畏れられるが、近くに寄れば穏やかに見えるということじゃ」。
子張が言った。
「(それでは、)四つの悪とはどのようなことでしょうか」。
孔先生が言われた。
「一.惨(むご)い…教育もしないで悪いことをした民を殺す(罰する)こと。二.手荒い…戒める(指導する)こともなく成果を求めること。三.損なう…ちゃんと命令(指示)しないのに期限をやかましくいうこと。四.役人根性…人に何かを与える時に出し入れをケチケチすること。以上の四つじゃ」。


この章の解説:

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

…この章は、「五美」「四悪」という教え方が、図式的であるばかりでなく、これまでの諸篇に見えた言葉と、重複するものが多い。最初の頃の「論語」のあちこちに見えた言葉を、綴り合わせ挿み込んで、無理に全篇の結語としたような感じが強い。

宇野哲人著「論語新釈」には、次のように書いてあります。

この章は政(まつりごと)に従う道を詳述したのである。孔子が政を問う者に告げたことは多いが、まだこれ程に備わったものはない。故にこれを記して帝王の治に継いだので、孔子の政をする方法が思い知られるのである(尹焞〔いんじゅん〕)。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

弟子の子張とこんな問答をしたよ。
「どうすれば政治にたずさわれますか」
「五美を尊び、四悪を斥けることだ」
「何ですか、それは」
「人民にたいしては、費用をかけずに恩恵を与える。グチを言わずに働かせる。人を押しのけずに欲張らせる。どっしりとして威張らない。威厳はあっても怖がらせない。この五つが五美だよ」
「費用をかけずに恩恵を与えるというのは、どうするのですか」
「農地開発や水利工事のような人民の利益となる事業をするのがそれだよ。それなら、結果的に税収も上がって出費はすぐに回収できるし、人民は率先して働き、グチも言わず、恨まれることもないだろう。次に、人民が人を求めるように教育すれば、人民は競って人を求めるようになるが、人は涸渇するものでないから、人を押しのける必要はないだろう。上に立つ者は、相手が多人数でも少人数でも、大物でも小物でも対等に扱って侮らない。これがどっしりとして威張らないということだ。また、きちんとした服装をして、表情を厳(おごそ)かにしていれば、人民は一目見て畏敬するが恐れはしない。以上が五美の効用だよ」
「分かりました。では四悪とは何ですか」
「人民に教育も施さずに、犯罪を犯したら即死刑にする。これは虐殺だろう。事前に警告もしないで取り締まる。これは暴力だろう。法令を勝手に変えて収奪する。これは盗賊行為だろう。出すべき費用を出さずにケチる。これは小役人根性というものだ。以上が四悪さ」


三.「堯曰第二十、第三章」

子曰、不知命、無以為君子也、不知礼、無以立也、不知言、無以知人也。

子曰く、命を知らざれば以て君子と為るなし、礼を知らざれば以て立つなし、言を知らざれば以て人を知るなし。


孔先生がおっしゃった。
「天命というものを知らなければ、人の道を歩むことは難しい。天命を知っても、礼を通じて実践しなければ己を確立することはできない。礼を通じて実践しても、知識を見識にまで高めることができなければ本当の人間というものを知ることができない」。


この章の解説:

論語最後の章について、安岡正篤先生は「朝の論語」で、次のように言っておられます。

自然と人間を一貫する絶対性、天命を知らなければ本当の人間にはなれない。自然も人間も円満な自律・諧和(和らいで親しみ合うこと、協調、辞書から)・奉公すなわち礼によって存立しているのですから、それを知らなければ人間として本当に存立することはできない。また言を知らなければ、すなわち学問・思想・言論が分からなければ、人間というものを知ることができない。
今日の時世は、命を無視し、礼を無視し、言を知らない。これほど学問が進歩しながら、これほど道を、真理を無視した思想・言論・生活がほしいままに行われておる世の中も空前でしょう。これをこのまま等閑に付しておったのでは本当にまたこの文明世界は没落するでしょう。

また、安岡先生は「知命と立命」で、次のようにも言っておられます。

人生そのものが一つの「命(めい)」である。その「命」は光陰歳月と同じことで、動いて止(や)まないから、これを「運命」という。
運命は動いて止まないが、そこにおのずから法則(数)がある。そこで自然界の物質と同じように、その法則をつかむと、それに支配されないようになる。自主性が高まり、創造性に到達する。つまり自分で自分の「命」を生み、運んでゆけるようになる。
人間は学問修養しないと、宿命的存在、つまり動物的、機械的存在になってしまう。よく学問修養すると、自分で自分の運命を作ってゆくことができる。
(中略)
自分というものはどういうものであるか、自分の中にどういう素質があり、能力があり、これを開拓すればどういう自分を作ることができるかというのが「命を知る」、「命を立つ」ということであり、それが分からなければ君子ではない。君子というのは今日の言葉で言うなら、いわゆる指導者、知識人ということだ。
すべての生物はそれぞれ独特の内容、意義、価値効用を持っている。自然科学が物質については恐ろしいまでにそれを解明している。その点においては、最も進歩しないのは人間だろうと思う。最ものんきなものは自分自身である。自分自身を知らない。いわゆる身計というものに最も疎い。それはミミズでもどじょうでも、なんでも研究をしてみたら無限の意義、作用、効用がある。決して無用な物はない。「天に棄物なし」という名言がある。いわんや人間において棄人、棄てる人間なんているものではない。
自分というものを知らないものだから、いわゆる心を尽くし、己を尽くさない。「命」を知らないものであるから、せっかくの人間に生まれて一生を台無しにする。

諸橋轍次著「論語の講義」には、次のように書いてあります。

この章は、三か条の教えを列挙したものであるが、君子ということが、或いはその三者を貫くものであるかも知れない。而してその第一節に君子の知命を掲げているが、これは学而篇一の「人知らずして慍(いか)らず、亦君子ならずや」の一節と相応ずるところがあるのであって、論語の編纂者が、ここにおいて終始をなしたものであるとも、言われているのである。

宇野哲人著「論語新釈」には、次のように書いてあります。

この章は人の知るべき肝要なことを示したのである。この三つを知れば君子の事は完備する。孔子の弟子がこれを記して論語の最後においたのは意味のないことではない。学者が幼少の時からこの論語を読んで、老年に至るまでの一言をも己の役に立てることを知らないで名利に没頭して世を送るならば、聖言(せいげん)を侮る者に近くはなかろうか。このような者は孔子の罪人である。深く念(おも)わなければならぬのである(尹焞〔いんじゅん〕による)。


以上で論語意訳は完となります。七ヶ月と十日ほどかかりました。有り難うございます!


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 2007.9.2  論語意訳−33


子張篇第十九


諸橋轍次著「論語の講義」には、子張篇について、次のように書いてあります。

この篇は、古人もいう通り、大体孔門の人々の言葉を記しているが、中でも子夏が最も多く、子貢がこれに次いでいる。顔淵の没後、聡明穎悟(えいご:すぐれて悟りのはやいこと。賢いこと)の点では子貢が第一であり、曾子を除けば、篤実なる事、子夏に及ぶ者がないので、自然この二人の言葉が多いと言われる。顔淵や子路は共に孔門の高弟ではあったが、それらの言葉の出ておらぬのは、恐らくはこの二人が孔子に先立って没し、この篇を編纂する頃には、その言葉が伝わらなかったものであろう。なおこの篇は、上述の如く門人の言葉だけであるが、しかし門人の言葉はもとより孔子の教えに基づいているものであるから、従来出て来た孔子の言葉に類似するものも多く、又この篇において門人の語として記されているものも、漢代の色々の書物には、孔子の語としている場合もある。師弟の関係の事であるから、これもまた当然のことであろう。

また、吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

この篇は、全部が弟子たちの言葉であり、孔子の言葉は含まれない。皇侃の「義疏」は全二十四章を五つに分け、第一章、第二章は子張の語。第三章から第十三章までは子夏の語。第十四、第十五章は子游の語。第十六章から第十九章までは曽参の語。第二十章から第二十四章までは子貢の語とする。

さらに、貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

子張と子夏の学派の間の相互批判と、子游と子夏との論争を述べた第三章・第十二章は、孔子の死後の学派の対立を語る儒教思想史上の重要文献である。しかしこの篇の主流は、子夏・子貢・曽子によって占められている。とくに子貢は、たびたび孔子とどちらが才がまさっているかを問題にした第二十二章・第二十三章・第二十四章・第二十五章の問答を通じて、孔子の在世時代から死後にかけて、非常に尊重され、勢力をもってきたことをあらわしている。この篇が、子貢を祖とする斉地方の学派、いわゆる斉学の伝承であるとする武内義雄博士の説はまことに妥当である。諸子の説には、孔子の語をもととしたことばが多く、孔子の語が弟子・孫弟子によりいかに発展され、伝承されていくか、その過程を示している。


一.「子張第十九、第一章」

子張曰、士見危致命、見得思義、祭思敬、喪思哀、其可已矣。

子張曰く、士は危うきを見て命を致し、得(う)るを見て義を思い、祭に敬を思い、喪に哀を思わば、其れ可なるのみ。


子張が言った。
「士たる者(できる人)とは、国や家の危機には命を投げ出して事に当たり、利益を得た時には、それが義を立てて得られた正当な利益であるのかを考え、祖先などの祭祀の時には敬する心を尽くして、葬儀の時には哀しむ心を尽くす。このようであれば、士たる者(できる人)といえる」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

士:士は道を求める者、学問を学ぶ者などいろいろの側面があるが、ここでは才能によって主君につかえる者という根本的な意味で使われている(貝塚茂樹著「論語」)。


この章の解説:

複数の解説本を参考にしながら、わたしなりに訳してみました。呉智英著「現代人の論語」には、「自分の学派をもった時、弟子にでも語ったのだろう。語られた言葉そのものは立派だが、それは魂の籠もらぬものだったのではなかろうか」とあります。わたしもそう思います。

陳舜臣著「論語抄」には、次のように書いてあります。

この子張は『論語』のなかで、最も頻繁に出てくる人物です。けれどあまり高く評価されていません。彼は子夏とよくくらべられました。二人は対照的でした。「過ぎたるは猶お及ばざるがごとし」の、「過ぎたる」ほうが子張で、「及ばざる」ほうが子夏でした(先進第十一、第十五章、引用者注)。
その子張が言いました。「君に仕える者は、危険に際しては命をささげ、利益のあるときは取るべきかどうかと考え、祭礼には敬虔の情を尽くし、葬儀には哀しみをこめ、それができればまず及第でしょう」と。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

儒教教団は孔子の死後、国家につかえて有用の材となれるように、人間的に完成された人物を形成するという教育の目標がしだいにはっきりとなっていた。子張のことばはこの教育の理念をあきらかにしたものであり、その意味で篇の第一におかれたのであろう。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

「危うきを見ては命を致す」とは、国家の危機に際会しては、生命をささげる。また利得に際会すれば、正義を思念して、利得を得てよいかどうかを検討する。祭りにあたっては、祭りの一番重要な要素である敬虔を思念し、喪には、最も重要な要素として、哀を思念する。そうであってこそよろしい。
皇侃の「義疏」に、これは政府にいる「士」、すなわち官吏のこととし、古代の制度として、祖先の祭祀は、「士」にしてはじめて可能であったと、「祭りには敬を思う」について説くのは、傾聴すべき説である。

宮崎市定著「現代語訳 論語」には、次のように書いてあります。

子張曰く、学徒たる者は、危険に際しては生命を投げ出すべきや否やを思い、利益ある時は取るべきか否やを思い、祭の際は敬虔の条を捧げんと思い、喪に臨んでは哀を尽さんことを思う。それができれば及第だ。
この章は、思義、思敬、思哀と、思を三回繰返すが、最初の見危致命、には思字がない。翻って考うるに、危険な際には、事の如何にかかわらず命を致すのは、儒教の本義ではない。ただ命を致すの覚悟は出来ているべきであって、それを実行する前にはやはり一度考えて見る必要があろう。そこで訳にはここにも思の字があるつもりで文を成した。


二.「子張第十九、第二章」

子張曰、執徳不弘、信道不篤、焉能為有、焉能為亡。

子張曰く、徳を執(と)ること弘(ひろ)からず、道を信ずること篤からずんば、焉んぞ能く有りと為さん、焉んぞ能く亡(な)しと為さん。


子張が言った。
「徳を磨く(人格を高める)としても、途中でやめてしまい、仁の道を信じても、熱心でないとしたら、それでは(道)徳があるとも、ないともいえない(ので、なんにもならない)」。


この章の解説:

加地伸行著「論語」などを参考にしながら、わたしなりに訳してみました。ひょっとして、これは子張のことではないか…と思ってしまいました。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

徳を執ること弘からず、道を信ずること篤からざる人間、そんな人間は、存在ともなり得なければ、非存在ともなり得ない。つまり世の中に対し、何の影響力をも、もたない。諸注も同じである。

五十嵐晃著「論語の訳注と考究」には、次のように書いてあります。

現代語訳:
子張曰く、道徳の信奉に熱意がなく、道徳の実行は低調である。(そのようでは)生きていても価値があるわけでもなく、死んでも惜しまれない。
考究二:「焉能為有、焉能為亡」難解の句で、次のように解釈はまちまちである。
@そんな人間は、存在ともなり得なければ、非存在ともなり得ない《吉川幸次郎》。A道徳がありともいえずなしともつかず、あぶはち取らずになってしまうぞ《穂積思遠》。Bどうして道徳有りとせんや、無しとせんやの意で、有るとも無いともいえない。存在の価値が無い《吉田賢抗》。Cどうして其の人物の存在理由が有るとか無いとか言えようか。(存在理由のない失格者だ)《木村英一》。D居るというほどのこともなく、居ないというほどのこともない。(居ても居なくても同じだ)《金谷治》。E世に生きていても何の影響なく、死んでいても何の影響もない《貝塚茂樹》。Fいったいやる気があるのだろうか、ないのだろうか《宮崎市定》。
私見によれば、この句が難解であるのは、句の末尾に、それぞれ「生」字が省略されていることに思い至らないからである。それを補って解釈すれば下記のようになる。「焉能為有生」(焉んぞ能く生有りと為さん)「焉能為亡生」(焉んぞ能く生亡しと為さん)であり、これを直訳すれば、「(どうしてよく生きたとしようか)よく生きたとはしない。(どうしてよく死んだとしようか)よく死んだとはしない」ということで、意訳すれば、「よく生きたということでもなく、惜しい死でもない」となる。さらに意訳すれば、次のようになる。「生きて価値があるわけでもなく、死んでも惜しまれない」。

わたしが参考にした加地伸行著「論語」では、次のように訳しています。

子張のことば。人格を高めるとしてもある程度で終わり、人の道を信ずるとしても熱心でないとすれば、その人に道徳があるとも言えないし、ないとも言えないことになる。〔なんにもならない。〕

わたしには、この訳がすっと入ってきましたので、加地伸行訳を下敷きにしました。


三.「子張第十九、第三章」

子夏之門人、問交於子張。子張曰、子夏云何。対曰、子夏曰、可者与之、其不可者拒之。子張曰、異乎吾所聞。君子尊賢而容衆、嘉善而矜不能。我之大賢与、於人何所不容。我之不賢与、人将拒我。如之何其拒人也。

子夏の門人、交わりを子張に問う。子張曰く、「子夏は何とか云える」。対えて曰く、「子夏曰く、『可なる者は之に与(く)みし、其の不可なる者は之を拒(ふせ)ぐ』と」。子張曰く、「吾が聞く所と異なり。君子は賢を尊んで衆を容れ、善を嘉(よみ)して不能を矜(あわ)れむ。我にして大賢ならんか、人に於いて何ぞ容れざる所あらん。我にして不賢ならんか、人将に我を拒がんとす。之を如何ぞ其れ人を拒がん」。


子夏の門人が友人との交わり(交際、つきあい)について子張に質問した。
子張が言った。
「お前の師の子夏は何と言っておられるかね」。
(子夏の門人が)答えて言った。
「先生は、『友とすべき人とはつきあい、すべきでない人は遠ざけよ』と言われました」。
子張は次のように言った。
「わたしが(孔先生から)聞いた話とは異なっている。君子は賢い友を尊敬するが、そうでない友も受け入れる。善き友を誉めるが、そうでない友には同情する。(子夏の言っていることは、)自分が賢人・善人であれば、誰もが温かく迎えてくれるが、自分が凡庸であれば、誰も迎えてくれない、拒まれてしまうことになる。どうして、そんなことができますか。凡庸な人を拒むことなどできないのです」。


この章の解説:

複数の解説書を参考にしながら、わたしなりに訳してみました。子張が子夏の弟子に向かって、子夏が言ったことを批判しているという内容です。

呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。

子張と子夏の解釈の相違は、学而篇の第六章と第八章に対応している、と先学は説く。
第六章には、こうある。「汎(ひろ)く衆を愛して仁に親しむ」。
第八章にはこうある。「己に如(し)かざる者を友とすること無かれ」。
子張は孔子の思想から「汎く衆を愛する」ことを学び取り、子夏は同じ孔子の思想から「己に如かざる者を友とすること無き」を学び取ったのだ。一見矛盾するような思想のこの断片は、しかし、孔子という一個の思想家の中では少しの矛盾もなく統合されていた。思想家を思想家たらしめている《人格力》とでもいうべきものの作用である。
それはともかく、世俗の欲望が強いやり手の秀才子張が、いわば清濁あわせ呑むような融通性を唱え、小心で生真面目な秀才子夏が、友人との交際についても厳格主義を唱えているところが、いかにもそれらしくて面白い。

仁に近い人は、「汎(ひろ)く衆を愛して仁に親しむ」ことが理想でしょうが、仁に遠い人は、「己に如(し)かざる者を友とすること無かれ」でないと、人格を磨くことは難しいでしょう。そう考えると、子夏も子張も偏っていると思うのです。孔子は、中庸であることを目指したのですから…。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

子夏の門人が人と交わる心得を子張にたずねた。子張はいった。
「子夏はなんといっているのかね」。
門人はかしこまってこたえた。
「子夏は、いい人には仲間になり、よくない人は断ったがよいといっておられます」。
子張がいった。
「その話は自分が先生からおそわったことと違う。君子は一方ですぐれた人を尊びながら一方では大衆を受け入れ、善人をほめながら、善をなす能力のない人に同情する。(かりに子夏の説によるとして)自分が非常にすぐれた人間であったら、だれにでも容れられるだろう。自分がすぐれた人間でなければ他人から拒否されるから、どうしてこちらから拒否することが起こり得るだろう」。
子夏の朋友にたいする態度は、孔子の「忠信に主(した)しみ、己に如かざるものを友とすることなかれ」(子罕篇第二十五章)ということばの趣旨にしたがっている。しかし、もし人が自分よりすぐれた人を友としようとすると、相手もまた自分よりすぐれた人を友としようとするであろうから、その関係は成立死得ぬことになる。人が内省的であって自分にたいする評価が低く、他人の長所を見て高く評価する、他人のなかに自己よりもすぐれた点を見いだしてその美点を学び、その人を友とするというところではじめていわゆる君子の交わりが成立するといえるだろう。子夏の「可なる者は之に与(く)みし、其の不可なる者は之を拒(こば)め」という単純な合理主義では、友人関係を社会関係として成立させることはむつかしい。子張の主張は子夏の説のこの欠陥をついたものではあるが、優秀な才能をもつ人が、自分より劣っている人間を寛容するという立場で友人関係が社会関係として成立するというのでは、孔子の説と正面から矛盾する。子張の説は君子の他人にたいする同情心に、朋友の成立の根拠を求めている。こういう心情の上に根拠をおく子張説にたいして、子夏のただ理性の上に朋友関係を求める説が成立する。この会話は子張と子夏の学派の対立をはっきりとみせる興味ある対論といえる。従来の注釈家は朋友関係を社会関係としてみなかったため、子張の論点をはっきりとらえることができなかった。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

年長弟子の子夏さんの門人とこんな問答をした。
「友人との交際はどうあるべきでしょうか」。
「お前の師匠の子夏さんは、どう教えている」。
「良い人とは交際し、良くない人とは交際するなと教わりました」。
「そりゃあ、わたしが大先生からお聞きしたのと大違いだ。君子は優れた人を尊ぶが、そうでない人も受け入れる。善い人は誉め、いたらぬ者には同情する。自分が優れた人間ならば、どんな人物でも受け入れられるし、自分がダメな人間ならば向こうからこっちを拒絶するだろう。なにも、わざわざこっちから交際を求めたり、断ったりする必要などないはずだ」。


四.「子張第十九、第四章」

子夏曰、雖小道必有可観者焉。致遠恐泥。是以君子不為也。

子夏曰く、小道と雖も必ず観るべき者あり。遠きを致せば恐らくは泥(なず)まん。是を以て君子は為さざるなり。


子夏が言った。
「技芸や専門的知識(小道)を学ぶことも、必ずや、そこに意義がある。しかし、大きな事を成し遂げるためには、技芸や専門的知識だけでは不足する。(単に技芸や専門的知識を得るだけではなく、それを見識や胆識に高めることが求められる。)したがって、君子(仁の人)は技芸や専門的知識を得ることを求めて学ぶのではない。(それを見識や胆識に高めていくのである。)


この章に出てくる重要な言葉(概念):

小道、遠きを致せば恐らくは泥(なず)まん

小道:道家・法家のような諸子百家つまり異端の学をさすと古注は解している。しかし、徂徠の指摘したとおり、子夏の時代はまだ諸子百家の成立以前である。朱子の注のように農・医・卜筮(ぼくぜい)などの枝芸をさすとみるほうがよい。
遠きを致せば恐らくは泥まん:小道は窮極まで知りたいと思うと障害になる、という意味。
(以上、貝塚茂樹著「論語」を参考にした)


この章の解説:

わたしの解釈で意訳しました。この章を、「技芸などの小さな道でも、見どころはあるが、それを天下国家を治めること(遠大なこと)には適用できない。だから、君子は技芸などは学ばないのである」と解釈している解説本が多いのですが、それには従わず、知識を見識や胆識にまで高めていくことの大切さを説いたものと解釈しました。

諸橋轍次「論語の講義」では、「小さな技芸の道に深入りすると、身動きが取れなくなるから、君子は小道を治めないのである」と訳して、小道の例えとして「碁・将棋などの中にも、人生を処する道を教えるものがあるが、普通の人間では、それに深入りすると、それに心奪われ、動きの取れぬ結果に陥る場合が多い」と解説しています。なるほど、一理あります。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

子夏曰わく、小道と雖も必ず観るべきもの有らん。遠きを致(きわ)めんとすれば泥(なず)まんことを恐る、是を以て君子は為さざるなり。
子夏がいった。
「取るに足りない技芸でもきっと見どころはあるものだ。しかし窮極まで知ろうとするには、障害になりがちである。君子はそれを手がけないのはそのためだ」。
子夏の門人のなかには、技芸の末にこだわる人間が多かったので、注意をあたえたことばである。「遠きを致(きわ)めん」は、その技芸をそのままやっていくことをさすと解釈されている。しかしそれは誤りで「小道」でなく「大道」つまり孔子の道に立って、窮極の知を求める者には、小さい道は障害になるとさとしたとすべきである。


五.「子張第十九、第五章」

子夏曰、日知其所亡、月無忘其所能、可謂好学也已矣。

子夏曰く、日々に其の亡き所を知り、月々に其の能くする所を忘るる無くんば、学を好むと謂うべきのみ。


子夏が言った。
「日々に新しいことを知り(知識を習得し)、月々に復習を怠らない(習得した知識を実践して習慣化する)ようであれば、その人は、まさに学を好む(活学の人)といえましょう」。


この章の解説:

思い切って意訳してみました。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

子夏がいった。
「毎日自分のまだ知っていないことを知り、毎月その結果を忘れないように心にとめておくのは、学を好む態度といえよう」。
毎日、新しいことを知ろうと努め、毎月の終わりにその結果をまとめて忘れないようにつとめる。これは子夏の学派に伝えられた伝承であるが、あらゆる学問研究に通じる道である。

陳舜臣著「論語抄」には、次のように書いてあります。

子夏のことばです。孔子の歿後、子夏が一派の長として訓辞したことばと思われます。
日ごとにまだ知らなかったことを知り、ひと月たってそれをよくおぼえているのは、ほんとうに学問を好むといえるでしょう。


六.「子張第十九、第六章」

子夏曰、博学而篤志、切問而近思。仁在其中矣。

子夏曰く、博く学んで篤く志(しる)し、切に問うて近く思わば。仁其の中(うち)に在り。


子夏が言った。
「(仁を目指す者は、まずは)博く知識を習得して、(それを見識に高めるために)志を立て、習得した知識を、「そういうことか、こういうことか」と(体現するために、)日常生活や仕事の中で具体的に実践し、習慣化できるようになれば、仁は自然と身に付くものである」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

切に問うて、近く思わば

切に問うて:「切」は「切するがごとく磋するがごとし」(学而篇第十五章)の「切」である。玉をみがくように鋭く問いかける(貝塚茂樹著「論語」)。
近く思わば:抽象的な一般論ではなくて、自分にとって分からない問題を具体的に考える(加地伸行著「ビギナーズ・クラシックス 論語」を参考にした)。


この章の解説:

わたしの解釈で意訳しました。吉田賢抗「論語新版」には、この章は「この章は学問に志す人に、その心構え、方法を教えたもので、博学・篤志(とくし)・切問(せつもん)・近思(きんし)の四つを心がけ、真剣に取り組めば、しだいに仁の徳が身に付いてくる。四書(論語・孟子・大学・中庸)の一つである『中庸』は、この考えを発展させて、博学・審問(こと細かに問いただす)・慎思(慎重に自分の身に反省して考察する)・明弁(物事の是非を明確に判断する)・徳行(誠実に心をこめて善を行う)の五つを挙げている」と書いてあります。
子張篇について、諸橋轍次「論語の講義」には、「この篇は、古人もいう通り、大体孔門の人々の言葉を記しているが、中でも子夏が最も多く、子貢がこれに次いでいる。顔淵の没後、聡明穎悟(えいご…すぐれて悟りのはやいこと)の点では子貢が第一であり、曾子を除けば、篤実なる事、子夏に及ぶ者がないので、自然この二人の言葉が多いと言われる」と書いてあります。やはり、子夏は、優れた孔子の継承者の一人なのです。

陳舜臣著「論語抄」には、次のように書いてあります。

これも子夏のことばです。
宋の朱熹(朱子)が呂祖謙(ろそけん)と共編した十四巻の、初学者むきの書物のタイトルが『近思録』ですが、いうまでもなく、この章句から採っています。
朱子学派の人たちにとっては、この本は、四書とならんで、必読書とされていました。

吉川幸次郎著「論語 下」では、次のように訳しています。

子夏の言葉。広い対象について学ぶとともに、中心となる意志の方向の密度を高め、切実な問題意識をもって、自己の周辺の近いところから考えて行く。仁はおのずから、その中に内在し、発生する。

宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。

子夏曰く、博く学んで熱心に理想を追い、切実な疑問を捕らえて自身のこととして思索をこらす。学問の目的とする仁は、その中から自然に現れてくる。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

広く学び、意志を強くし、常に疑問を持ち、身近な問題に目を向ける。そうした行為の中にこそ仁は芽生えるものだ。


七.「子張第十九、第七章」

子夏曰、百工居肆以成其事、君子学以致其道。

子夏曰く、百工(ひゃっこう)は肆(し)に居(お)りて以て其の事を成し、君子は学びて以てその道を致す。


子夏が言った。
「技術者が工場で製品を完成(研究・開発・企画・製造・販売)するように、君士たる仁の人は、知識を見識・胆識に高めることを通じて人格を練り上げる。


この章の解説:

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

子夏がいった。
「職人たちは店にいて、その仕事を完成する。君子は学問し、その道を窮極的に知る」。
 《肆》「店」にあたる。
学問を専門とする君子つまり学者の職業を、職人の職に対照することによってあきらかにした。孔子の孫弟子のころになって、知識階級つまり士の身分が確定してきたことを反映する。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

子夏の言葉。もろもろの職人は、自分の店にいることによって、その仕事を完成し、君子は学問をすることによって、その生活を推し窮める。「致」の字は、旧訓「いたす」であるが、意味は、「きわめる」「窮極する」である。ここの「致」の字は、その最も顕著な例であり、前章の「遠きを致すには恐らく泥まん」の「致」も、その方向にある。
「肆」の原義は「陳ずる也」、おきならべる、であるが、製品をつくるための道具、もしくは製品そのものをおきならべた場所、つまり「みせ」も「肆」と呼ばれる。
私はこの条を、従来、多様な道具、もしくは多様な製品、それらがあればこそ商売ができるように、君子も学問をし、多様な実証を知ればこそ、道徳の生活を完成できる、と読んで来たが、従来の説は必ずしもその方向ばかりではない。朱子の新注に、職人は店にいなければ、ほかの事に気をうばわれて、仕事に精が出ない。そのように、君子も学問をしなければ駄目になる、というのは、いかにも宋儒らしくせせこましい。また仁斎が、人にはそれぞれ仕事がある。百工には百工の仕事、君子には君子の仕事、というのは、江戸時代のヒエラルキーが、仁斎にも作用したと思われる。


八.「子張第十九、第八章」

子夏曰、小人之過也必文。

子夏曰く、小人の過ちや必ず文(かざ)る。


子夏が言った。
「小人(知識人、知識はあるが徳のない人、知識はあるが道徳心に欠ける人、知識はあり義の大切さを知っているが、礼を通して実践することをしない人、知識はあるが義を立てない人…)が過ちを犯すと、(それを過ちと認めないどころか、あるいは過ちと知っていながら、)言い訳をして、自分を取り繕うものである」。


この章の解説:

わたしの解釈(意訳)です。まさしく、そのとおりだと思います。「衛霊公第十五、第二十九章」に「過って改めざる、是を過ちと謂う」という孔子の言葉がありますが、小人は過って改めざるどころか、過って文(かざ)る、言い訳をして自分を正当化しようとするのです。
また、「子張第十九、第二十一章」に「君子の過ちや、日月(にちげつ)の食(しょく)の如し。過つや人皆之を見る。更(あらた)むるや人皆之を仰ぐ」という子貢の言葉がありますが、この章と合わせて読むと、君子(知識と道徳心を兼ね備えている人、義を立て礼を通して実践を重ね徳を発する仁の人…)と小人との違いが明らかになります。孔子が生きた時代も現代も、君子(教養人)たる人はごく少数にとどまり、小人(知識人)が犇(ひし)めいているのです。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

子夏がいった。
「小人が過ちをすると、きっとごまかす」。
「過てば則ち改むるに憚ること勿かれ」(学而篇第八章・子罕篇第二十五章)といい、また「過ちて改めざる、これを過ちと謂う」といっているのに対応する。君子は過ちを認め、これを改める。小人は過ちを認めず、隠そうとする。

宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。

子夏曰く、諸君は万一、過失を犯したなら、決して言い訳してはならぬ。


九.「子張第十九、第九章」

子夏曰、君子有三変。望之儼然。即之也温。聴其言也氏B

子夏曰く、君子に三変あり。之を望めば儼然たり。之に即(つ)けば温なり。其の言を聴けば氏iはげ)し。


子夏が言った。
「君子(教養人、知識と道徳心を兼ね備えている人、義を立て礼を通して実践を重ね徳を発する仁の人…)には三つの姿があります。遠くから見ると威厳があり厳かです。近くで見ると温和で穏やかです。話してみると自分に厳しく人に公正(厳正)です」。


この章の解説:

加地伸行「論語」を参考にして、わたしの解釈で意訳しました。

諸橋轍次著「論語の講義」に「ここの君子は、或いは子夏が孔夫子の姿を心の中に描いて述べたものであるかも知れない。述而篇三十七の『子は温にして氏iはげ)し。威あって猛(たけ)からず。恭しくして安し』とか、或いは郷党篇に『恂恂(じゅんじゅん)如(じょ)たり、侃侃(かんかん)如たり、與與(よよ)如たり』などと、孔子を表した形容詞が、みなここに当たるように思う」とあります。また、宇野哲人著「論語新釈」には「この章の『君子』は必ずしも孔子をさすのではなかろうが、孔子でなければこれを能(よ)くする者はない」とあります。
子夏は孔子の言動をよく観察していたのでしょう。それだけ孔子を慕っていたのだと思います。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

君子はその自由な精神の表現として、三つの変化をもつ。
最初遠くから見ると儼然として端正である。「儼」は「厳」とは、やや意味を異にし、「厳」がおごそか、厳格であり、美の観念とは必ずしも連ならないのに対し、「儼」は規格が保持されている美しさをいう。ここでは「端正」と訳してよかろう。(中略)
「之れに即くや温」、そばへ行くと、温かに、おだやかである。遠くから見ると秋の月のように、端正であるが、そばへ行くと春の風のように、おだやかに人を抱擁する。まずそうした変化がある。
更に、「其の言を聴くや氏v。古注の鄭玄に「獅ヘ厳正なり」というように、きびしさ、はげしさ、にはちがいないが、内部のエネルギーが溢れ出るゆえにのそれ、としてよい。
(中略)
皇侃は、晋の李充(りじゅう)の説を引いて、「変」というのは、他人から見れば変化があるだけで、君子自身としては、一つのものの表現であるゆえに、変化はない、といっている。「人、之れを変と謂う耳(のみ)、君子は変ずる無き也」。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

弟子の子夏さんが「君子は三つの顔を持つ。離れて見ると厳(おごそ)かで、近くで見ると穏やかで、ことばを聞くと鋭い」と言っているが、これは先生を評したものだろう。

宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。

子夏曰く、諸君に三つのあるべき姿ということを教えよう。遠くから見ると近寄りがたい。ところが実際に近寄って見ると、意外に人あたりがいい。しかしその議論を聞くと穴に入りたいほどきびしい。


十.「子張第十九、第十章」

子夏曰、君子信而後労其民。未信則以為詞ネ也。信而後諫。未信則以為謗己也。

子夏曰く、君子は信ぜられて而して後に其の民を労す。未だ信ぜられざれば則ち以て己を氏iやま)しむと為す。信ぜられて而して後に諫む。未だ信ぜられざれば則ち以て己を謗ると為す。


子夏が言った。
「教養人であり、知識と道徳心を兼ね備えている指導者は、部下の信頼を得たその後で、部下に自らの方針を伝え仕事の指示をする。部下から信頼を得ていない段階で、仕事の指示をすると、部下はその仕事を辛い事だと感じてしまう。また、教養人である指導者は、上層部の信頼を得たその後で、上層部に対する異議申し立て(諫言)をする。上層部から信頼を得ていない段階で、異議申し立て(諫言)をすると、上層部は非難されていると感じてしまう」。


この章の解説:

これもまた、加地伸行「論語」を参考にして、わたしの解釈で大胆に意訳しました。

渋沢栄一著「『論語』の読み方」に佩は、「この項は君子が下の者を使い、上につかえる道を論じている。まず下の者を使う道は、人民に信用されることが先決だ。人民に信用されるには、誠意をもって政治を行うことだ。誠意をもって政治を行えば、人民は必ず喜んでついてくる。人民が喜んで従えば、労役を命じても苦情をいわず、喜んでその労役に服してくれる。もし人民の信用を得ないうちに労役を命ずれば、人民は必ず自分たちを苦しめるといって拒む。人はもともと感情的なものだから、情意の疎通が第一だ。情意の疎通ができる間柄になれば、少々無理なことでも互いに笑って我慢し合えるが、もしこれを欠いておれば、何事にも反感をもたれる」とあります。
子夏の言葉には、孔子の言葉の生き写しのようなところがあります。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

前半は、政治の責任をとるものの、人民に対する心得、また後半は、その君主に対する心得、を説く。後半について参照すべきは、里仁第四(第二十六章、引用者注)の子游の言葉、「君に事うること数しばすれば、斯れ辱ずかしめらる」である。
なお、…仁斎は、この条の正確さは、孔子の言葉としても、区別がつかないであろうとし、「凡そ門人の話、論語に載する者は、皆な崇信して佩服せざる可からざる」ことの適例とする。

陳舜臣著「論語抄」では、次のように訳しています。

子夏が言いました。「君子たるものはじゅうぶん人民の信頼をかち得てから、彼らを使役するものです。まだ信じられていないのに使役しようとすれば、人びとはひどい目に遭ったと思うばかりです。これは一般人民にたいしてですが、君主にたいしても、やはり信じられてから諫言すべきであります。もし信じられていないのに諫言するなら、その君主は自分が謗られていると考えるでしょう。自分が謗るような人間でないことを、君主にみとめさせるのが先決です」。


十一.「子張第十九、第十一章」

子夏曰、大徳不踰閑。小徳出入可也。

子夏曰く、大徳(たいとく)は閑(かん)を踰(こ)えず。小徳は出入(しゅつにゅう)するも可なり。


子夏が言った。
「大きな徳(天地の道理に照らして義を立てて礼を通して実践を積み重ね、習慣化して徳を発するという仁の枠組み)を、踏み外してはならない。小さな徳(礼を通して実践を積み重ねる過程で生ずる些細な事)には、あまり拘らなくてもよい」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

閑、大徳、小徳

閑:法律・規則のこと
大徳:主要な道徳(高い徳をそなえた人という説もある)
小徳:細かい礼儀(身近なこまごました礼の規則を心得た人という説もある)
(以上、貝塚茂樹著「論語」を参考にした)


この章の解説:

わたしの解釈、意訳です。加地伸行「論語」は、「子夏のことば、人格者(大徳)は規範を越えることはない。(その規範について、人格者に至ろうとする途中の)未熟な者(小徳)の多少の出入りは、さしつかえない」と訳しています。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

子夏がいった。
「大きな徳については、そのこまかい規制を踏み越えてはいけないが、小さな徳については、その範囲を少々越えてもかまわない」。
これも子夏が、門人たちがあまり小さい徳つまりこまごました礼をやかましくいうので、それは二の次としてもかまわないと教訓したのであろう。

五十嵐晃著「論語の注釈と考究」では、次のように訳しています。

子夏曰く、大きい徳(孝悌などの主要道徳)については、きまりを踏み越えないように。小さい徳(細かい礼儀)については範囲を少々越えてもよろしい。

宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。

子夏曰く、修養の上では大事な点で足を蹈みはずすことがなければ、小さな過不及の誤りは数え立てるに及ばない。


十二.「子張第十九、第十二章」

子游曰、子夏之門人小子、当洒掃応対進退、則可矣。抑末也。本之則無。如之何。子夏聞之曰、噫、言游過矣。君子之道、孰先伝焉、孰後倦焉。譬諸草木区以別矣。君子之道、焉可誣也。有始有卒者、其惟聖人乎。

子游曰く、「子夏の門人小子、洒掃(さいそう)応対進退に当れば則ち可かり。抑(そもそも)末(すえ)なり。之を本(もと)づくれば則ち無し。之を如何」。子夏之を聞いて曰く、「噫(ああ)、言游(げんゆう)過(あやま)てり。君子の道、孰(いず)れを先として伝え、孰れを後(のち)として倦(う)まん。諸(これ)を草木の区にして以て別るるに譬(たと)う。君子の道、焉(いずくんぞ)誣(し)うべけん。始めあり卒(おわ)りある者は其れ惟(ただ)聖人か」。


(孔門十哲の一人で、子夏と並んで「文学」に優れていたとされ、子夏よりも一歳若い子游が、)子夏の門人を批判して言った。
「子夏の門人諸君は、水まき、はき掃除や、賓客との受け答え、身のこなしなどはよく出来ているが、それは枝葉末節のこと(小さな徳)である。天地の道理に照らして義を立て礼を通して実践を積み重ね徳を発するという、仁のサイクル(大きな徳、仁の根本)がわかっていないようだが、これはどうしたことであろうか」。
子夏がこの批判を聞いて言った。
「ああ、言游(げんゆう:子游)は間違えている。君子の道(教育)には、どれを先に伝えるべきか、後にすべきかという順序がある。その順序は、その人の成長の度合いに応じて、考えねばならない。それは、草木の成長に応じて、手入れの仕方を変えるのと同じである。であるから、その人に成熟の度合いも考えずに、仁のサイクル(大きな徳、仁の根本)を押しつけてはいけない。教育には始めもあり終わりもある。つまり、その人に応じた順序というものがある。普通の人は、仁のサイクル(大きな徳、仁の根本)を理解することから始めるよりは、礼を通した具体的な実践活動から始める方がわかりやすいのである。仁のサイクル(大きな徳、仁の根本)を理解した上で、礼を通して実践を積み重ねて大道徳を得られるのは聖人だけだろう(。それを、あらゆる人に望むのは誤りである)」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

洒掃、言游、倦(う)まん、誣(し)う

洒掃:拭き掃除
言游:言偃(げんえん)。字が子游だから言游と呼んだ
倦まん:伝える
誣う:おなじくする
(以上、貝塚茂樹著「論語」を参考にした)


この章の解説:

これも、わたしの解釈、意訳です。この章は、どの解説本を読んでも、これだ、という訳がなく、ピンとこないので、思い切って訳してみました。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

子游がいった。
「子夏の門人の若者たちは、拭き掃除、客の応対、儀式の動作をやらせるとよくできる。しかし、これらは末梢的なことで、根本的なことはまったくゼロだ。これはどんなものかな」。
子夏がこれを伝え聞いていった。
「なんだ子游め、とんでもないまちがいだな。君子のなすべき道はなにを先に教え、なにを後に教えるか(を見わけることだ)。そのやり方は、たとえば草木の種類によって育て方がまちまちのようなものだ。君子の道もどうしてすべての人に同じ教え方をおしつけようか。はじめからおしまいまでまったく同じやり方ができるのは、君子ではだめで、まず聖人以外にはないのだ」。
子游・子夏両学派の対立から生まれる相互の批判がここにあらわれている。子游は、子夏の門人が末梢的な礼の作法は心得ているが、本質的なことに無知だとそしった。そのことばはわかりやすいが、子夏の反論のほうはかなり難解で、いろいろの説があるが定説はない。ここにあげた私の訳も、一説にとどまる。

呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。

子夏が孔子より若いこと四十四歳。対するに子游は孔子より若いこと四十五歳。子游と子夏は一つしかちがわない。ともに、孔子晩年の弟子だ。…子游も子夏も同じような生真面目な秀才である。孔門の高弟十人を列挙した先進篇第三章では、「典籍に詳しいのは子游と子夏である」と評されている。よく書を読み、礼楽に関する故実(こじつ)に詳しかったのだろう。
このことが二人にライバル意識を起こさせたのかもしれない。子張篇第十二章には、孔子没後それぞれが一派を成した時のことだろう、次のような話が記されている。
子游がこんなことを言った。「子夏の弟子たちは、掃除や客の応接や立ち居ふるまいについてはまずまずだ。しかし、そんなことは末節である。根本となると何もない。これではどんなものかねぇ」。
これが耳に入った子夏は言った。
「ああ、子游はまちがっている。君子の道はどれを先に伝えるとかどれを後まわしにして放っておくとかいうものではない。草木を種類に応じて育てるように、弟子の力に応じて順序よく教えるべきだ。力のちがいを無視したごまかしの教育をしていいはずがなかろう。末節も根本も同時に習得できるなんていうのは、聖人ぐらいのものだよ」。

五十嵐晃著「論語の訳注と考究」では、次のように訳しています。

子游曰く、子夏の門下の若者たちは、拭き掃除や、客の受け答えや、儀礼の動作をやらせれば、(たしかに)結構だ。しかしながら、末のことだ。本は何もない。(こんなことでは)いかがなものであろう。子夏がこれを聞いて曰く、ああ子游の失言だ。修養の方法については(何を先にし、何を後回しにするかと決まったものではない。つまり)本を先にして、末を後にすると決まったものでもない。ちょうど、草木も種類によって(育て方を)区別するようなものだ。修養の方法を間違って発言してはいけない。(始め有り卒り有る者、つまり子游のいう所の)本末が備わっている者は聖人なのだ。(一般の人にはその末すらも身についてはいない)(だから、私はそういうことから手をつけているのさ)

なるほど、五十嵐先生の解釈には、首肯できます。


十三.「子張第十九、第十三章」

子夏曰、仕而優則学、学而優則仕。

子夏曰く、仕えて優なれば則ち学び、学んで優なれば則ち仕う。


これを普通に訳すと、次のようになります。(とはいっても、意訳ですが…)
子夏が言った。
「(就職してからは、)ひたすら、仕事に取り組むべきである。それでもゆとりがあるのなら、さらに学問をするがよい。(より一層良い仕事ができるようになるであろう)また、(就職する前の修養期間は、)ひらすら、学問に取り組むべきである。学問が成就して一定の段階に達したら、就職するがよい(。学んだことを仕事に活かせるであろう)」。

わたしは、次のように、言葉を入れ替えて考えた方が、よりわかりやすいと思います。
子夏曰く、学んで優なれば則ち仕え。仕えて優なれば則ち学ぶ。
すると、次のように訳すことができます。(これもまた、意訳ですが…)
子夏が言った。
「(就職する前は、就職することなど考えずに、)ひたすら学問に励むべきである。(やがて学問が一定の段階に達するであろう。)その段階になったら、就職を考えるがよい」。
「(就職してからは、与えられた仕事を全うするために、)ひたすら仕事に取り組むべきである。(やがて仕事に慣れてきたら、時間的な余裕ができるであろう。)その段階になったら、学問にも取り組むがよい。(仕事のレベルがさらに上がるだろう)」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

優なれば:余力があればの意(貝塚茂樹著「論語」)。


この章の解説:

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

子夏がいった。
「役人となって余力があれば学問し、学問して余力があれば役人となる」
子夏の語の前半は、孔子の「行いて余力あれば、則ち以て文を学べ」(学而篇第六章)ということばにもとづいている。後半は的確にこれと趣旨が一致する孔子のことばはない。子夏が前半の孔子のことばに裏返しの表現をつけ加えたとみられる。孔子のことばが弟子たちによって拡張され敷衍されてゆく過程がわかる。


十四.「子張第十九、第十四章」

子游曰、喪致乎哀而止。

子游曰く、喪は哀を致(きわ)めて止(や)む。


子游が言った。
「喪には、ただひたすらに哀しみを尽くせばいいのです(。その他のことを考える必要などありません。儀礼の形式よりも、心のあり方が大切なのです)」。


この章の解説:

呉智英著「現代人の論語」には次のように書いてあります。

喪は、細かな儀礼を守ることよりも、哀しみを表すことにつきる。というのだ。同じように生真面目な秀才でも、子夏に形式主義の傾向があり、子游に実質主義の傾向がある、ということになろうか。もっとも、子游の実質主義も、形式主義に流れがちなことへの自戒という一面も考えられないではない。

なるほど、と思わせる、指摘です。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

親戚の喪にあたったときは、悲哀の情を尽くせばそれでいい。古注によると、悲しみのあまりまったく絶食して、自分の生命まで危なくするのは行きすぎとする。新注では、悲哀の情がたいせつで無用の装飾を加える必要はないという。子游学派も礼を重んずるので、やはり細節にこだわる傾向がある。それを戒めたことばと見てよいであろう。

五十嵐晃著「論語の訳注と考察」には、次のように書いてあります。

子游曰く、喪(において)は悲しみをつくすだけだ。
参考言句:喪は其の易(おさ)めんよりは寧ろ戚(いた)め《八佾第三の四》、喪に臨んで哀まずんば、吾何を以て之を観んや《八佾第三の二十六》


十五.「子張第十九、第十五章」

子游曰、吾友張也、為難能也。然而未仁。

子游曰く、吾が友張(ちょう)や、能くし難きを為す。然れども未だ仁ならず。


子游が言った。
「わたくしの友人の張くん(子張)は、なかなか真似の出来ないことが出来る立派な人物だが、しかし、(誠意が乏しく、人情に篤くないから)仁の道に十分に達している(礼を通して実践を重ね、徳を発している)とは言い難い」。


この章の解説:

諸橋轍次「論語の講義」には、「これは、子游が同門の子張を批評した言葉であるが、決して競争心から生じた非難ではなく、及ばざるところを率直に指摘して、互いに反省し切磋し合って行く態度の現れたものである」と書いてあります。宇野哲人「論語新釈」には、 「この章は子游が子張を評したのである。次章で曾子も子張の仁を為すことを認めていない」と書いてあります。
諸橋先生は、「決して競争心から生じた非難ではなく…」としておられますが、実際には、曽子も含めて、子游、子張、そして子夏とは、後継者の地位をめぐって、ライバル関係にあったのではなかろうかと想像できます。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

人のできないことをやり遂げることが、仁つまり最高の徳ではないという考え方がおもしろい。だれでもできそうでできない、その平凡にして非凡なのがつまりほんとうの人間らしさであるからだ。


十六.「子張第十九、第十六章」

曽子曰、堂堂乎張也、難与並為仁矣。

曽子曰く、堂堂たるかな張や、与(とも)に並びて仁を為し難し。


曽子が(皮肉って)言った。
「いつも胸を張って堂々としており、大したものだねぇ、張くんは。(傲岸不遜な)彼と一緒に行動していると、仁の人であることは難しいと、つくづく思うんだよ…」。


この章の解説:

かなり大胆に訳しましたが、曽子の言葉にはこのような皮肉が含まれていると思います。子張は孔子晩年の弟子で子貢の弟子でもあります。子張は「先進第十一、第十四章」において、子貢を通じて孔子から次のように戒められています。
子貢問う、「師(子張)と商(子夏)とは孰(いず)れか賢(まさ)れる」。子曰く、「師は過ぎたり。商は及ばず」。曰く、「然らば則ち師愈(まさ)るか」。子曰く、「過ぎたるは猶お及ばざるが如し」。
「師は過ぎたり」。子張には出過ぎた言動があり、孔子の鼻に付くところがあったのでしょう。それに対して「商は及ばず」。子夏は控え目であったようです。一説によると、「過ぎたるは猶お及ばざるが如し」というのは、「過ぎているのは及ばないのと同じようなもの」という意味の奥に、「過ぎているよりは及ばない方がましである」という意味があるそうです。孔子の教えに忠実な曽子にとっては、子張のそういうところが許せなかったのでしょう。

呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。

子張は年齢の近い同年代の兄弟弟子たちからも疎んじられていたようだ。
子張篇では、子夏と並ぶ生真面目な秀才子游がこう言っている。
「吾が友張や、よくし難きを成す。然れども未だ仁ならず」(子張篇十九の十五)
友人の子張は、なかなかできないことをやる。だが、あれではまだまだ仁ではない。
続く第十六章では、これまた生真面目な秀才曾子がこう言っている。
「堂々たるかな張や、与に並んで仁を為し難し」(子張篇十九の十六)
堂々たるものだな、子張は、しかし、一緒に仁を行うことは難しい。
同輩からこうまで言われているのは子張だけである。

一方で、次のような指摘もあります。(貝塚茂樹著「論語」から)

子張はよほど容貌が美しく、押し出しがいい人物であったらしい。あまり容貌態度がりっぱなので、友人たちはいっしょに並んで仕事をするのを敬遠した。仁を行う段になっても、並んでいっしょに行いにくいというのが曽子の批評である。容貌はりっぱだが、内容がともなわない、仁のほうはどうかという注もあるが、それは考えすぎであろう。


十七.「子張第十九、第十七章」

曽子曰、吾聞諸夫子、人未有自致者也。必也親喪乎。

曽子曰く、吾諸(これ)を夫子に聞く、人未だ自ら致す者あらず。必ずや親の喪か。


「わたしは孔先生から次のように学んだ」。
「人間というのは、なかなか真心を尽くせないものである。もし、尽くすことがあるとすれば、両親の喪に服する時であろうか」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

自ら致す:自力で窮極までゆく(貝塚茂樹著「論語」から)。


この章の解説:

諸橋徹次「論語の講義」によると、この章は「親子の情愛は人間の自然に発した最高のもの」であり、「孝を以て百行(すべての行い)の本となすのは、そのためであろう」とあります。なるほど、孝の人、曽子ならではの言葉でしょう。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

曽先生がいわれた。
「わたしは先生からうけたまわった。『人間はなかなか自分を出しきることはできない。しいていえば親の喪のときかな』と」
今までの子游・子夏・子張らは孔子のことばをそのまま引用せず、自分の解釈をつけて自分のことばとして語っている。それにたいして曽子は、孔子のことばを直接引用している。若い曽子が、魯国において孔子の死後結局教団を相続したので、常に孔子を背景として発言することになったのであろう。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

曽子が、夫子すなわち孔子から、聞いた言葉としていう。人間の行為のうち、自力だけで究極まで行けるものはない。必ず学問なり教養の助けを借りて、はじめて究極まで行ける。「致」はやはり究極の意。
しかしこの原則にはずれるものがある。ほかでもない、親の喪における態度である。自己の内心から湧き起こる悲哀、それのみによって究極の完全な態度に到達できる。

五十嵐晃著「論語の訳注と考究」では、次のように訳しています。

曽子曰く、私は先生からこういうことを聞いた。「人が自分の真情の限りを出すというのはなかなかないことだ。あるとすれば親の喪の時ぐらいだろうよ」。

宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。

曾子曰く、私は先生に聞いたことがある。人間はなかなか自分の全力を出し尽くすということの出来ぬものだ。もしありとすれば、自分の親の葬式の場合だろう、と。

以上、各先生方の解釈を引用しました。約一月前(三月五日)に父を亡くしたわたしは、この章の言葉を、体験的に理解することができます。正直なところ、それまではピンと来ませんでしたが、自分が体験することによって、なるほど、たしかに、そのとおりだ、と実感できるのです。論語の魅力とは、自分が体験を重ねることによって、ああ、なるほど。孔子はそうことを言っていたのか、と気づくことにあります。孔子は本当に人間というものを知り尽くしていたのです。


十八.「子張第十九、第十八章」

曽子曰、吾聞諸夫子、孟荘子之孝也、其他可能也、其不改父之臣与父之政、是難能也。

曽子曰く、吾諸(これ)を夫子に聞く、孟荘子の孝や、其の他は能くすべし、其の父の臣と父の政とを改めざる、是れ能くし難し。


曽子が言った。
「わたしは孔先生から次のように学んだ」。
「(魯国の大夫の)孟荘殿の行った親孝行は、一つのことを除くと、誰でもできることである。しかし、孟荘殿の父親が亡くなった後で、その父親の家来を引き続き任用して、政治のやり方をも、そのまま受け継いだことは、なかなかできることではない」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

孟荘子:仲孫(孟孫)氏、名は速、諡は荘。父孟献子を継いでから間もなく死んだ。前五五四年から五五〇年まで大夫の職にあった(貝塚茂樹著「論語」から)。


この章の解説:

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

曽先生がいわれた。
「私は先生からうけたまわった。『孟荘子どのの孝行ぶりは、たいていは他人もまねできるけれども、亡くなった父上の家来と政治のしくみを変えなかったこと、これだけはだれもできにくいことである』と」。
孔子には、「三年父の道を改むるなきを、孝と謂うべし」(学而篇第十一章・里仁篇第二十章)ということばがある。孟荘子はこれを実行した。彼の在政期間は短いから、在喪の期間だけでなく彼が死ぬまでつづいたので、こんなにほめられているのかもしれない。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

やはり曽子が孔子から聞いた言葉。孟荘子とは、魯の家老仲孫速(ちゅうそんそく)。父孟献子の地位を世襲した。「左伝」では襄公十六年、十九年、つまり孔子が襄公二十二年に生まれるより先に、家老として行動が記されている。孔子がその人物を批評して、孟荘子の孝行は、その他の点はだれでもできる。ただ父の代からの家来と、父の代からの家政のやり方とを、変えなかった点は、だれでも出来ることではない。

宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。

曾子曰く、私は先生から聞いたことがある。孟荘子の孝行は有名だが、大ていのことは真似ができる。ただ父の使ってきた側近と、父のやってきた方針を改めることがなかったのは、真似のできぬ点だ。


十九.「子張第十九、第十九章」

孟氏使陽膚為士師。問於曽子。曽子曰、上失其道、民散久矣。如得其情、則哀矜而勿喜。

孟氏、陽膚(ようふ)をして士師たらしむ。曽子に問う。曽子曰く、上(かみ)其の道を失い、民散ずること久し。如し其の情を得ば、則ち哀矜(あいきょう)して喜ぶこと勿れ。


(魯国の大夫の)孟孫氏が、(曽子の門人の)陽膚(ようふ)を士師(裁判官兼検事)に任用しようとした時、陽膚が師である曽子にたずねた。
(弟子の質問に対して、)曽子は、次のように答えた。
「(今の魯国においては、)人の長たる為政者が、天地の法則である『道理』に外れた行いを続けたので、人民の心がすっかり離れてしまった。(であるからして、そういう事情を心得れば、)人民が罪を犯したとしても、その責任の大半は人に長たる為政者にあるものと心得えて、罪人を取り調べる時には、有罪とする証拠が明らかになったとしても、それを士師(裁判官兼検事)としての手柄だと喜ぶことなく、その罪人に対する哀しみと憐れみの心を注ぐようにしなさい」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

陽膚、士師、民散ず、哀矜

陽膚:曽子の弟子らしいが不詳
士師:裁判官の長官
民散ず:離散し、法を犯す者があらわれること
哀矜:「哀」「矜」ともにあわれむ意
(以上、貝塚茂樹著「論語」から)


この章の解説:

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

「孟氏」とは、家老孟孫子の当主であるにちがいなく、…(中略)…陽膚は曽子の弟子。士師は「典獄の官」、つまり司法の長官。
孟氏の意志で司法長官の地位についた陽膚は、この役目についての心得を、先生の曽子にたずねた。
曽子はいった。為政者たちが政治の道徳を見失ったため、人民の心理も中心を失ってしまってから、ずいぶんになる。「散」の字は、そうした意味であろう。つまり人民たちが、なかなか本音を吐かず、取り調べに困難を感ずるのは、為政者が其の道を失ったことに、原因がある。あるいは犯罪そのものの発生も、為政者の責任でないといえない。
「如し其の情を得れば」、「情」は「実」と訓ずる。もし取り調べの結果、真実がわかったならば、まずかわいそうだと思って、同情しなければならない。うまく事実がつかめたといって、ゆめ得意になってはならぬ。

五十嵐晃著「論語の訳注と考究」には、次のように書いてあります。

魯の大夫の孟氏(の当主)が(曽子の弟子の)陽膚を司法官にした。陽膚が曽子に(その心得を)尋ねた。曽子曰く、上に立つ者が正しい道を失って、民が放逸に堕してから久しい。もし犯罪の実情がつかめたら、不憫に思って、決して得意になったりしてはいけない。
■考究【民散】普通は次のように解釈している。
@人民の心理が中心を失う《吉川幸次郎》。A人民がゆるむ《金谷治》。B人民は…流浪し離散する《吉田賢抗》。C民心がバラバラになる《木村英一》。D民心が離れ去る《宮崎市定》。E民心離散し、道義退廃せる《穂積重遠》。F人民が離散し、法を犯す《貝塚茂樹》。
しかし、これでは次句の「如し其の情を得れば、則ち哀矜して喜ぶこと勿れ」との結びつきがよくない。そのためか、「散」字に離散の他に「道義退廃」とか「法を犯す」とかの意を持たせるという無理をして敢てしたりしている。私は「散」字には「ほしいまま」「ゆるやかに」という意があることに注目して、「民散ず」は「民が放逸に堕す」という意味にとった。


二十.「子張第十九、第二十章」

子貢曰、紂之不善、不如是之甚也。是以君子悪居下流。天下之悪皆帰焉。

子貢曰く、紂の不善は是(かく)の如く甚だしからざるなり。是(ここ)を以て君子は下流に居るを悪む。天下の悪皆焉(これ)に帰す。


子貢が言った。
「(殷の最後の王で、酒池肉林に耽り、賢人の胸を割いて心にあるといわれた七つの穴を検するなど、ありとあらゆる罪を重ね、悪逆無道の王の標本とされている)紂(は、多くの不善を重ねているであろうが、そ)の不善の程度は、世間で言われているほどには、ひどくなかったであろう。(それなのに、悪逆無道の王の標本とされているのは、平素不善をしていたので、他の罪まで被ることになったためであろう。)そういうことだから、君子は川の下流にいるように、悪い評価が増幅されていくことを嫌うのである。(川の下流にいるように、一度悪い評価を下されると、)天下の悪がみなそこに集まってくる(ように、悪い評価が固まってしまう)からである」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

紂:殷王朝三十代目の、最後の君主。暴君で天下の人民を苦しめ、ついに周の武王の軍と戦って敗れ、滅亡した(貝塚茂樹著「論語」)。と言われているが、本当は暴君ではなかったという説もある。この章では、子貢も、紂は世間で言われているほど、悪くなかったであろう。しかし、悪いという烙印を押されてしまうと、してもいないことまで、したことにされてしまうのであろう、と語っているのである。


この章の解説:

呉智英著「現代人の論語」では、次のように解説しています。

殷の紂王は、殷朝最後の帝である。政治を省みず、寵姫(ちょうき…君主の愛妾、引用者注)妲己(だっき)に溺れ、酒で池を作り乾し肉を林のようにし(酒池肉林)、日夜淫楽にふけった。民心は離反し、国は乱れ、遂にBC一〇二七年、周の武王によって滅ぼされた。孔子の時代より五百年前のことである。
さて、この紂王について、子貢がこのように言った。
「紂王の善(よろ)しからざる悪逆ぶりは、いろいろなものが伝えられてはいるが、実はそのように甚だしいものではない。だからこそ、君士たるものは下等な位置にいることを嫌悪するのだ。なぜなら、その社会のすべての悪の責任が、自分のものであろうとなかろうと、ことごとく自分に帰せられるからである」。
古来、悪王と言えば、夏の桀(けつ)王と殷の紂王、この二人を並べて「桀紂」と称する。注意しなければならないのは、桀王も夏王朝最後の帝であったことだ。王朝最後の帝が、名君だとは言いがたいことも確かだが、同時に、不当に暗愚暴戻(ぼうれい)な帝とされがちなことも確かである。歴史は、古い王朝を滅ぼし新しい王朝を打ち立てた者の立場で書かれる。当然、旧王朝の最後の帝は、滅ぼされてもしかたがないような悪逆非道な人間として描かれるはずだ。イデオロギーを排し、歴史を冷静に眺めようとするならば、旧王朝最後の帝に関する「不善」の伝承や記録については懐疑の眼差しを忘れてはならない。「是(かく)の如く甚だしからざるなり」と。
事実、孔子の時代から四百年下った史記では、紂王について、酒池肉林に象徴される悪行とともに、衆に抜きん出た能力についても公平に記している。「弁舌の資質があり、行動は敏捷ですばやく、情報には鋭敏であり、こうした才能だけでなく腕力も並外れ、素手で猛獣を撃ち倒す」と。決して無能な暗君ではなかった。だが、勝者の歴史が紂王を較べるもののないほどの悪王に変えたのである。歴史は注意深く読まなければならない。
現代では常識となっている(かどうかは心許ないが)こういう歴史認識が、孔子とどの弟子たちの時代に常識であったとは思えない。歴史と神話すら未分化だった時代だからである。しかし、怜悧なる子貢は、歴史を客観的に見る目を持ち、しかも歴史から学ぶことも知っていた。
なるほど、頭脳明晰な子貢の面目躍如というところでしょうか。前掲書では、子貢のことを次のように評しています。
論語の中の弟子たちの言葉は多く師との対話として記録されている。孔子に質問し、答えを得る、という形だ。質問は、問われた師の知性を試すだけではない。問う弟子の知性をも試す。弟子たちの質問の大半が、ただ自分の理解できないことを問うているのに対し、子貢の質問は、師の思想をさらに明らかに照らし出す働きをすることもしばしばである。(中略)それはまた、対話ではなく、子貢一人の言葉を記録した章にも顕著である。

子貢一人の言葉によるこの章がそうだ、ということです。前掲書の著者である呉智英氏もまた、頭脳明晰な人なのでしょう。そのことは前掲書を読めばわかります。これに対して、下村湖人氏は、「論語物語」で知に寄りかかり過ぎる子貢が孔子に戒められて茫然自失とする場面を描いています。人物評というのは、それを評価する人の価値観に左右されるのです。わたしとしては、子貢が頭脳明晰であるから素晴らしいとは、まったく思えません。愚鈍であろうと、人間としてどう考え、どう生きるかが大切だと考えるからです。しかし、だからといって子貢を低く評価しているのではありません。子貢の本当の素晴らしさは、その怜悧な頭脳にあるのではなく、師である孔子のことを心の底から敬愛して、孔子の思想を自分のものにしようと努めているところにあると考えるからです。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

子貢がいった。
「紂王の悪事もそれほどひどいものではなかったのだ。だから君子は川の下流に住むことをいやがる。汚水の流れこむように、天下の悪事がその身にあつまるからである」
天下の悪人が下流にいる紂王のところへ流れこんできたから、悪逆がひどくなったという説もある。しかし、暴君として有名になったため、他人のやった悪事もすっかり彼にくっつけられたのだ。悪事に関する伝説が集中してきて、悪逆が誇張されて伝承されるようになった過程を、近代の古代史家顧頡剛(こけつごう)は実証している。子貢のことばもそんなふうに解していいであろう。秀才で政治家・資本家でもあった子貢は、人間の評判や世論がどうして形成されてゆくかをよく知っていた。悪人という名がたったら、その人のすることはみな悪いこととされる、子貢はそんなありさまをさんざん経験したにちがいない。

陳舜臣著「論語抄」には、次のように書いてあります。

『論語』の時代でさえ、紂はそんなに悪くはなかっただろうと言われていました。そうすると、紂を討った周をもちあげている学者は困るのです。子貢はそう言っているが、紂はやはり罪があったのだと、朱子はこのくだりで発言しています。
一八九九年におびただしい甲骨片(こうこつへん)が出土して、殷の歴史がよくわかるようになりました。古代にあっては神の意をむかえるために、人間をいけにえにしたものです。紂の父の帝乙(ていいつ)や祖父の太丁(たいてい)や曾祖父の武乙(ぶいつ)の時代はそれがきわめて多いのに、紂の治世六十四年にはほとんどありません。まだ出土していないのかもしれませんが、しきりに東方に出兵している記録はあります。奴隷や捕虜を殺すのが惜しかったという見方がありますが、私はやはり(紂の治世に、引用者注)人間を尊重する気風があらわれたとみたいのです。そうみるほうが、周の聖王と時代的にもつながりやすいと思います。


二十一.「子張第十九、第二十一章」

子貢曰、君子之過也、如日月之食焉。過也人皆見之。更也人皆仰之。

子貢曰く、「君子の過ちや、日月(じつげつ)の食の如し。過つや人皆之を見る。更(あらた)むるや人皆之を仰ぐ」。


子貢が言った。
「(仁を実践する、すなわち、天地の道理に照らして義を立てて、義に基づいて身近な事から改めてこれを習慣にするまでやり続け、徳を体現しようと試みる人、すなわち君子たる者は滅多に過ちを犯さないものであるが、時に、過ちを犯すこともある。)君子の過ちは、(それは滅多にないことであるから、まるで)日蝕や月蝕のようなものである。(君士たる者は過ちを犯しても、それを隠したり飾ったりしないので、)その過ちは、誰もが目にするのである。(しかし、日蝕や月蝕が、またもとに戻り光り輝くように、君子が、過ちを)改めると、誰もが仰ぎ見るのである」。


この章の解説:

この章は見事に孔子が理想とした人間像を表現しています。それにしても子貢の表現力はすばらしい。「君子の過ちや、日月の食の如し」と謎をかけ、「過つや人皆之を見る」と日蝕・月蝕の際に人間が月や太陽を観察することに例え、また、「更むるや人皆之を仰ぐ」と日蝕・月蝕が終わると人間はほっとして月や太陽を畏敬して仰ぎ見ることに例えているのです。まさに孔子がそういう人だったのでしょう。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

この条の背景として、日月食に対してむけられた古代人の意識をいえば、日食は早くから注意された。最古のクロノロジー(年代学:歴史上の事実の年代を追求する学問、引用者注)である「春秋」には、日食の起こった日附けが、きちんと記されている。またその発生の時期を予測する方法も、子貢のころには、すでに知られていた。しかしなお、天地の異変の一つとされ、その際に行う儀礼が、「礼」のあちこちに見える。月食の方は、まれに記載され、この章もそのまれなものの一つである。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

子貢が君子を日食月食にたとえた比喩は、さすがに巧妙である。その巧妙さはむしろ師の孔子をしのぐかもしれない。


二十二.「子張第十九、第二十二章」

衛公孫朝、問於子貢曰、仲尼焉学。子貢曰、文武之道。未墜於地。在人。賢者識其大者。不賢者識其小者。莫不有文武之道焉。夫子焉不学。而亦何常師之有。

衛の公孫朝(こうそんちょう)、子貢に問うて曰く、「仲尼は焉(いずく)にか学べる」。子貢曰く、「文武の道未だ地に墜ちずして人に在り。賢者は其の大なる者を識(しる)し、不賢者は其の小なる者を識す。文武の道あらざる莫し。夫子焉にか学ばざらん。而して亦た何の常の師か之れあらん」。


衛の(大夫である)公孫朝(こうそんちょう)が子貢にたずねた。
「仲尼(ちゅうじ:孔子の字〔あざな…通称〕)は、誰に学んだのかね」。
子貢が答えた。
「(周の)文王・武王の(礼楽の)道は、(衰えたりといえども)まだ地に墜ちて滅んだわけではなく、心ある人の中には生きております。(それは、礼楽として連綿と継承されておるのです。ですから、)賢人はその(礼楽の)道の重要(本質的)なところを学び取り継承しますが、普通の人は、細々としたところ(枝葉末節)しか学び取ることができません。(繰り返しますが、周の)文王・武王の(礼楽)の道は滅んだわけではありません(。心ある人の中には生きております)ので、孔先生ほどの人物になりますと、どこにいても、(文王・武王の礼楽の道)を学ぶことができるのです。したがって、特定の師というものは(孔先生の場合には、)必要がなかったのです」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

衛の公孫朝、仲尼

衛の公孫朝:公孫朝という人は『左伝』に四人あらわれる。それほど多い名であったから、衛の公孫朝と呼んだのである。しかし、その伝記はあきらかでない。姓名から衛の君主の一族と推定されるだけである。
仲尼:孔丘。字は仲尼。仲尼というのは、他人が孔子を呼ぶときの名で、夫子・子というのは、弟子たちの師にたいする尊称である。
(以上、貝塚茂樹著「論語」から)


この章の解説:

紀元前一一〇〇年ごろ、中国には殷という国があり、そのことは甲骨(こうこつ)文字として記録されています。殷の時代は神があらゆるものの最上位に位置しており、人間はすべてを神に委ねていました。殷の首都の「商」には宗廟が建立され、そこに神を祀り、神官が神の意志を受けて国を統治していたのです。そして、その神官が殷の王だったのです。いわば殷王朝の王は神の意志を受けた天子として地上の世界を統治していたのです。やがて、殷の王は神の僕(しもべ)から離れて世俗的な独裁者と化しました。その象徴が殷王朝最後の王となった紂(ちゅう)王なのです。紂王は、絶対的な権力と財力を手に毒婦といわれる妲己(だっき)とともに栄華を貪っていましたが、その悪徳非道な政治は、殷の西の国「周」によって滅ぼされます。殷を滅ぼした周の君主が武王であり、武王の父が文王なのです。殷滅亡の原因は、殷王朝の王が神の意思を受けた天子としての統治から、世俗的な独裁者として政治を行うようになり、人心が離れたことにあり、その象徴が毒婦に溺れた紂王です。その独裁者としての政治は、神の意志を受けた天子として為されたものでありますから、本当の意味で、殷滅亡の原因は「神権政治」という政治のスタイルにあったともいえます。「神権政治」とは人間の存在を考えない政治のスタイルであり、たとえば捕虜を奴隷として酷使することなど、すべて神の意志として為されたのです。そのような政治のスタイルが人心が離れていった根本にあり、殷王朝は滅びるべくして滅びたといってもいいでしょう。殷の滅亡により、「神権政治」の時代が終わり、神から距離をおいた政治がはじまりました。それを担ったのが殷を滅ぼした周であり、当時の君主である武王とその父文王であったのです。その政治は絶対的に神を仰いだ神権政治に比べて、人間の存在を大切にした政治であり、礼楽とは、神と人間をつなぐ、政治の仕組みといえるものだったのです。
孔子は、その(周の)文王・武王の(礼楽の)道をさらに進化させた、(周の)成王(武王の子)の叔父(武王の弟)である周公旦の礼楽制度をさらに発展させようとしていたのです。子貢はそのことを知り抜いていたので、公孫朝(こうそんちょう)の「仲尼(ちゅうじ)は焉(いずく)にか学べる」という問いに対して、「文武の道未だ地に墜ちずして人に在り。賢者は其の大なる者を識(しる)し、不賢者は其の小なる者を識す。文武の道あらざる莫(な)し。夫子焉(いずく)にか学ばざらん。而して亦た何の常の師か之れあらん」と答えたのです。さすが子貢、といったところでしょうか。

陳舜臣著「論語抄」には、次のように書いてあります。

子貢は大富豪であり、人柄もよく、みなから慕われていました。彼は衛の人で、姓は端木(たんぼく)、名は賜、字が子貢です。孔子の一番弟子は、その早死にが惜しまれた顔回でした。子貢は顔回にたいして、けっしてライバル意識をもっていません。孔子から顔回のことをきかれて、
‥‥‥回は一を聞いて十を知りますが、私は一を聞いてせいぜい二を知るていどです。
と、答えています。
そのころ世間では、子貢は孔子よりもえらいのだ、という噂が立っていました。たしかに、商才にすぐれているといった面からみると、子貢のほうが上であるかもしれません。孔子は弟子たちを連れて母国の魯をはなれ、諸国を流浪しましたが、その費用は子貢が負担したにちがいないのです。いつのまにか、子貢のほうが孔子よりすぐれているという話が巷間(こうかん)に流れるようになりました。「そんなことはありません」と、子貢はけんめいにうち消します。とくにこの子張第十九にはそんな文章がならんでいるのです。
ここでいう「文武の道」とは、ふつう「文武ともにすぐれている」の用例にみられるのとはちがいます。周の文王と武王の道、すなわち聖人の道ということです。
衛の大臣の公孫朝が、子貢にたずねました。「仲尼(孔子)はどなたについて学んだのですか?」。子貢は答えました。「聖人すなわち文王、武王の道は地上から消え失せたのではなく、民間に伝わっています。賢者はその重要なものを理解し、あまり賢くない人はその小さなものを記憶しているのです。そうしたちがいはあっても、どこにも聖人の道でないものはありません。夫子(孔子)がどこでも学ばれなかったところはないのです。そしてまた、きまった先生とていませんでした」。
一般の人は孔子のことを仲尼と呼びます。本名は丘です。孔子の母親が尼丘山という山に登って祈り、子を授かったので、本名(諱:いみな)を丘とし、字を仲尼としたと伝えられています。むかしの中国人は、諱は親とか目上の人が呼ぶもので、一般には字で呼ばれました。だから孔子は「尼」と呼ばれ、その上に兄弟の順序を表わす、伯・仲・叔・李をつけます。仲は正確には二番目ですが、これもおよそです。李は一ばん末っ子ですが、李とつけたのにつぎの子が生まれると困ります。だから固定したものではありません。
余談ですが、親の名の一字を子に伝えることは中国ではタブーです。日本ではよくあります。たとえば詩人の西脇順三郎の長男は順一ですが、こんなことは中国ではありえません。子供が生まれると、六代前までの先祖の名を調べて、それを「忌避の字」として、それ以外の字で命名するのです。子供ですから大人や仲間たちは呼びすてにするでしょう。それが父や祖父の名であっては具合がわるいのです。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

公孫朝は、古注の馬融(ばゆう)に、「衛の大夫」。そのころ同名の人物があちこちにいたので、「衛」の字を加えて区別した…。事蹟は不明であるが、「公孫」といえば、衛の公室の同族であったにちがいない。その人物が子貢にたずねた。
仲尼、すなわち孔子の字であるが、あなたの先生は、どこで、だれについて勉強されたのですか。
子貢はこたえた。文明の創始者である周の文王、武王の方法は、まだこの地上に墜落し消え失せてしまってはいません。脈脈として人間の間に存在しています。すぐれた人間は、その重大な部分を知り、すぐれない人間も、その小さなものを知っています。どこへ行っても、文王、武王の方法が、存在しないということはないのです。すると先生は、どこでも勉強をされなかったというところはない。「常師」、一定の先生が、どうしたかたちで存在したでしょうか。すべての場所が、先生の勉強の場所であり、すべての人が、先生の師であった。
人類のある限り、文明の伝統は不滅である。そうした確信が、子貢の言葉の前提としてあること、いうまでもない。子罕第九(第五章、引用者注)で、孔子が、「天の未だ斯の文を喪さざるや」云云という信念は、弟子にも強く継承されていた。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

弟子の子貢が衛の国の家老の公孫朝殿に、「あなたの先生は誰に学問を学んだのですか」と問われたので、こう答えてくれたそうだ。
「周の文王様や武王様の築かれた文化や学問は朽ち果ててしまったわけでなく、今日まで伝承されております。奥義は賢者に伝わっておりますし、並の者でも一般的な慣習を知っております。両王様の文化はいたる所にあるのです。ですから、先生は誰にでも学ばれましたし、特定の先生につくことはありませんでした」と。


二十三.「子張第十九、第二十三章」

叔孫武叔語大夫於朝曰、子貢賢於仲尼。子服景伯以告子貢。子貢曰、譬之宮牆、賜之牆也及肩。窺見室家之好。夫子之牆数仞。不得其門而入、不見宗廟之美百官之富。得其門者或寡矣。夫子之云、不亦宜乎。

叔孫武叔(しゅくそんぶしゅく)、大夫に朝に告げて曰く、「子貢は仲尼に賢(まさ)れり」。子服景伯以て子貢に告ぐ。子貢曰く、「之を宮牆(きゅうしょう)に譬うれば、賜の牆(しょう)は肩に及ぶ。室家(しつか)の好(こう)を窺い見る。夫子の牆は数仞(すうじん)なり。其の門を得て入(い)らざれば、宗廟の美(び)百官(ひゃくかん)の富を見ず。その門を得る者或いは寡(すく)なし。夫子の云う、亦た宜(むべ)ならずや」。


(魯の大夫の)叔孫武叔が朝廷で同僚の大夫に向かって(仲尼〔ちゅうじ:孔子〕のことを非難して)、次のように言った。
「(人は仲尼を聖人だとか君子だとか言っておるが、その弟子である)子貢の方が仲尼よりも賢(まさ)っておる」。
(これを聞いた大夫の一人であり、孔子のことを尊敬している)子服景伯が、(この讒言を不服に感じて、)子貢に(このことを)告げた。(このことを聞いた)子貢が言った。
「孔子先生とわたし(子貢)の人物としての違いを、垣根にたとえてみますと、わたしの家の垣根の高さはせいぜい肩までしかありませんから、外から垣根の中にある建物を覗くことができます。(それに比べて)孔先生の家の垣根の高さは数仞(すうじん:四メートル前後)もあります。(ですから、外から家の中を覗くことはできません。その素晴らしい建物を覗こうと思ったら、)その(孔先生の家の)門から入ってはじめて、垣根の中にある壮麗な宗廟の美しさや優れた家臣や弟子が沢山いることを見ることができるのです。(しかし、)その(孔先生の家の)門から入って中を見ることができる人は極めて少ないものですから、あの方(叔孫武叔)が、そのような的はずれなことを言われるのも、致し方ないことだといえるでしょう」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

叔孫武叔、子服景伯、数仞、夫子

叔孫武叔:魯の叔孫氏、武は諡(おくりな)。魯の大夫として、かつて孔子と同役であった。
子服景伯:魯の大夫。叔孫氏の一族である子服氏。憲問篇第三十八章で孔子を信奉する役で登場。
数仞:「仞」は、両手をひろげた長さ。当時の七、八尺、今の約一、五メートル。
夫子:前の「夫子」は孔子を、後の「夫子」は叔孫武叔をさす。
(以上、貝塚茂樹著「論語」を参考にした)


この章の解説:

子貢は弁が立つから、誰の目にも、頭脳明晰であることがよくわかりますが、孔子は言葉を控えますから、凡人の叔孫武叔には、その偉大さがわからず、子貢の方が賢くみえたのでしょう。あるいは、三桓家の権勢を削ごうと画策する政治家孔子への怨みがあったのかもしれません。
酒見賢一著「陋巷に在り」によると、この章で叔孫武叔の讒言を子路に告げた子服景伯は、三桓の一つである孟孫氏の家臣であります。孔子はある時期、魯の定公に仕えて中都の宰相として実績を上げ、その後、司寇(しこう:次官)、大司寇(法務大臣)に抜擢され三桓家の権勢を削ごうと画策しており、三桓家の一つである孟孫氏にとっては政敵となるわけですが、子服景伯は高所大所から物事を判断することが出来る人物で、孔子のことを尊敬しておりました。論語ではこの章以外に憲問第十四、第三十八章にも次のような内容で登場します。
公伯寮(こうはくりょう)、子路を季孫に愬(うった)う。子服景伯(しふくけいはく)以て告げて曰く、「夫子固(もと)より公伯寮に惑志(わくし)あり。吾が力猶(な)お能(よ)く諸(これ)を市朝(しちょう)に肆(し)せん」。
(子路が魯の大夫の季孫氏に仕え、孔子の言葉に従って、三桓〔季孫、孟孫、叔孫の三家〕の直領地である費、郈、郕の三都を取り壊させる計画を実行していた時の話である。季孫氏は、三桓の力を殺ぐことになる、この孔子の言葉に従った子路の計画に不満を抱いていた。孔子の門弟の公伯寮は、子路が孔子の言葉に従って、計画を実行しているにも関わらず、季孫氏に取り入ろうとしたのである。)
公伯寮(こうはくりょう)が季孫氏に対して、ありもしないことを挙げて子路の悪口を言った。(魯国の大夫であった)子服景伯(しふくけいはく)がそのことを孔子先生に話し、次のように言った。
「季孫氏は、公伯寮の讒言に惑わされておりますぞ。ことによると、子路は退けられるかもしれません。そんなことにならないように、私は微力ではありますが、公伯寮を公衆の面前に晒し者にすることぐらいはできますが、いかがなものでしょうか(。それにしても、公伯寮は、とんでもない野郎です)」。
「陋巷に在り」はフィクションですので、子服景伯が本当に孔子を尊敬していたのかわかりませんが、論語に登場する子服景伯の言葉を見る限り、そのように解釈して妥当だと思います。

金谷治著「孔子」には、次のように書いてあります。

子貢のほうが孔子よりもすぐれているという評価、それは孔子の悪口をともなっていたらしいが、そんなことが魯の朝廷で大夫たちの間でささやかれた。そして、そのことをわざわざ子貢のところに知らせてきたものもあった。子貢を喜ばせようとしたのでもあろうか。しかし、子貢は敢然とそれをはねつける。とんでもない話だ。
「宮牆つまり屋敷の塀にたとえるとすれば、賜(わたし)のほうの塀はやっと肩までだから、家の中の小ぎれいなのがのぞいて見られる。しかし、先生の塀は七、八メートルもの高さがあるから、門の入口を見つけて中に入るのでなければ、内部の豪壮な宗廟(おたまや)とかたくさんの役人たちとかの立派なありさまはとても見られない。しかも入口を見つけられる人も少ないようだから、あの叔孫氏がわたしのほうがすぐれているなどと言ったのも、いかにも尤もなことだ」。孔子の真価はふつうの人にはわからない。わからないからおとしめたりする。しかし、孔子の偉大さは知る人ぞ知るである。それは比較を絶したものだ。
同じ子張篇のこのあと二章も、いずれも孔子をたたえた子貢の熱っぽいことばである。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

叔孫武叔は、魯の大夫…であり、「左伝」では、定公十年に、自己の相続に異議を唱えた家臣公若(こうじゃく)の立てこもる都市、郈(こう)を包囲した事件で、その名がはじめて見える。この年はすなわちまた、五十二歳の孔子が、同じく魯の重臣の一人として、魯侯の介添となり、夾谷(きょうこく)の会見で斉侯をやりこめたことを、「左伝」が記す年である。…武叔は、孔子よりやや年の若い同僚であった。「左伝」では、七年のちの哀公二年、つづいて三年にも、この人物の名が見え、そのとき孔子は、既に魯を去っている。つぎの章とあわせ考え、孔子に好意をもたぬ男であった。
その男が、「朝」、すなわち政府の事務室で、他の重臣たちにいった。人人は孔子をほめるけれども、弟子の子貢の方が、先生の孔子よりもえらいよ。
その席にいた子服景伯、これは前の憲問第十四に、子路の擁護に立った人物として見え、孔子とその弟子たちに、好感をもつ人物であるが、それがそのことを、子貢に話した。
子貢はいった。事柄を、構えの塀にたとえましょう。「宮」とはひろく、構え、屋敷の意であって、必ずしも宮殿ではない。
賜、すなわち子貢の実名であるが、私、賜の塀は、せいぜい人間の肩までの低い塀です。そのため、中の建物のよさを、のぞき見ることができます。「室家」は、…要するに内部の建物の意。
一方、先生の塀は、何仞もの高さです。…その入口を見つけて中へはいらない限り、かまえの中にある祖先の霊を祀る宗廟の美しさ、またいろんな役人が事務をとる建物の豊富さ、それらを目にすることはできません。ところで、入り口を見つけうる人間は、少ないかも知れない。
「夫子」、閣下とは、すなわち叔孫武叔であるが、彼の言葉は、そうした関係から起こった誤解です。それももっともなことでしょうて。…
文中に見える二つの「夫子」、前者は孔子、後者は叔孫武叔を指すこと、いうまでもない。

宮崎市定著「現代語訳 論語」には、次のように書いてあります。

魯の叔孫武叔が朝廷で同僚の大夫たちと話している間に、子貢は孔子よりも賢い、と言った。子服景伯がそれを子貢に話した。子貢曰く、それはとんでもない。例えば邸宅の垣根で言うならば、私の垣根は肩の高さにすぎません。誰でも人はその上から、部屋の内部の奥深い所まで窺(のぞ)きこめます。先生の垣根の高さは数メートルもありますから、門から入って行くのでなければ、内部の建物、祖先を祭る宗廟の美しさ、部局に分かれた財貨の蓄積の莫大なのを見ることができぬでしょう。かつて先生は、その門に入ることの出来る者は、甚だ少数に限られる、と申されましたが、まことにもっともなお言葉であったと思います。
文中、しかも子貢の言葉に夫子という言葉が二回繰返されているのを、従来は、前者を孔子、後者を叔孫武叔と別箇に解釈してきたが、これは少しおかしくないだろうか。しかも最後に子貢が、不亦宜乎、と言って賛成の意を表わしているのが、叔孫武叔の発言に対してであるなら、理窟の上からもいよいよおかしい。そこで私は、得其門者或寡矣、の句を孔子の言と取り、子貢はこの言に対し、まことその通りではないか、と相槌を打ったものと解した。


二十四.「子張第十九、第二十四章」

叔孫武叔毀仲尼。子貢曰、無以為也。仲尼不可毀也。他人之賢者丘陵也。猶可踰也。仲尼日月也。無得而踰焉、人雖欲自絶、其何傷於日月乎。多見其不知量也。

叔孫武叔、仲尼を毀(そし)る。子貢曰く、「以て為すなきなり。仲尼は毀るべからず。他人の賢は丘陵なり。猶お踰(こ)ゆべし。仲尼は日月なり。得て踰ゆるなし、人自ら絶たん欲すと雖も、其れ何ぞ日月を傷(そこな)わんや。多(まさ)に其の量を知らざるを見るなり」。


(おそらく、孔子が魯の定公に仕えて中都の宰相として実績を上げ、その後、司寇(しこう:次官)、大司寇(法務大臣)に抜擢されて三桓家の権勢を削ごうと画策していたころ、三桓家の一つである叔孫氏の一員で魯国の大夫である)叔孫武叔が仲尼を誹謗中傷した。(孔子の政治手腕により三桓家の権勢が衰退しかねないという怨みからだと思われる…)
(それに対して、)子貢が(次のように)諭した。
「そんなことをおっしゃるのは、おやめなされ。仲尼(孔先生)を非難することなどできません。また非難する資格のある人など今の世には存在しません。(孔先生以外の)賢人といわれる方々は、いかに優れていても、せいぜいそこらにある丘のようなもので、越えようと思えば、越えることが出来ます。(しかし、)仲尼(孔先生)は、太陽や月のように遙か高いところにいらっしゃいますので、それを越えることなど誰にも出来はしないのです。(また、天地人というこの世の構成要素の中で、人を超えた天地に位置するような偉大な方なのです。そのような方は、永い人類の歴史の中で、孔子先生かお釈迦さまかキリストさまの三人だけです。だから、三聖人と仰がれるのです。ちょっと話が横にそれましたが、そのように偉大な方である孔先生を誹謗中傷して、その影響を)絶とうとしたところで、それは出来ないことであり、太陽や月のような存在である孔先生にとって何の痛みにもなりません。ですから、あなた(叔孫武叔)がそのようなことをおっしゃるのは、自分の身のほど知らずを人前に暴露するだけですぞ」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

毀(そし)る、多(まさ)に

毀る:そしる。非難する
多に:かえって…だけ、の意
(以上、貝塚茂樹著「論語」を参考にした)


この章の解説:

話の背景を推測しながら、大胆に訳してみました。
孔門四科(しか…徳行、言語、政事、文学)十哲(じってつ…十人の高弟)の中で、言語、則ち弁舌に優れた秀才の筆頭株であった子貢は、ただ頭脳明晰だったのではなく、孔子のことを心の底から尊敬しておりました。ですから、叔孫武叔の孔子に対する誹謗中傷に対して、手厳しく反論したわけです。叔孫武叔は魯の大夫であり三桓家の一つである叔孫氏に属しており、子貢とは比べようがないほど、社会的地位が高い人です。その人に対してこれだけ手厳しく諭すことができたのは、子貢の孔子に対する敬愛の心があったからです。

陽明学の開祖、王陽明の「伝習録」には、この章について、次のように書いてあります。(吉田公平著「伝習録〜『陽明学』の真髄」(タチバナ教養文庫)から引用しました。王陽明の弟子が、師である陽明に質問する形式になっています。)

おたずねします。「『論語』に『叔孫武叔が孔子を誹謗した』(子張篇)とありますが、偉大な聖人でありながら、どうして誹謗を免れなかったのでしょう」。
先生(王陽明)がいわれた、「誹謗というのは、外からやってくるものだから、聖人といえどもどうして免れることができようか。人は自らの人格を陶冶することをひたすら重視するべきである。もしも自分が本当に聖賢あったなら、たとえ人々がこぞって誹謗しようとも、(聖賢の本質を損なう中傷は)人々は言えはすまい。それはちょうど空に浮かぶ雲が太陽を蔽(おお)うのと同じであって、どうして浮き雲が太陽の光を損なうことができようか。もし自分が『象恭(うわべをつくろい…書経堯典)』『色荘(もったいぶる…論語先進篇)』くせに軟弱でだらしないのでは、たとえ誰一人非難するものがいなくとも、その人の悪事は結局はきっといつの日か露見する。だから、孟子は『完全であろうと努力しながら誹謗されることもあり、考えもしなかった賞賛を博することもある』(離婁篇上)といったのである。誹謗・賞賛は外より生起することだから、どうして回避することができようか。問題はいかに自己の人格を陶冶するか、それだけだよ」。

さすが、王陽明ですねぇ。「誹謗・賞賛は外より生起することだから回避できない。問題はいかに自己の人格を陶冶するか」。まさに、そのとおりです。そのとおりですが、言うは易く行うは難しでなかなかできることではありません。その自己陶冶を怠らずに人格を高めていったのが孔子であり、子貢は孔子を理想の人、憧れの人として心から尊敬したのです。


二十五.「子張第十九、第二十五章」

陳子禽謂子貢曰、子為恭也。仲尼豈賢於子乎。子貢曰、君子一言以為知、一言以為不知。言不可不慎也。夫子之不可及也。猶天之不可階而升如。夫子之得邦家者、所謂立之斯立、道之斯行、綏之斯来、之動斯和、其生也栄、其死也哀。如之何其可及也。

陳子禽(ちんしきん)、子貢に謂って曰く、「子は恭を為すなり。仲尼は豈(あに)子に賢(まさ)らんや」。子貢曰く、「君子は一言以て知と為し、一言以て不知と為す。言は慎まざるべからざるなり。夫子の及ぶべからざるや。猶お天の階(かい)して升(のぼ)るべからざるが如し。夫子にして邦家(ほうか)を得(え)ば、所謂之を立つれば斯(ここ)に立ち、之を道(みち)びけば斯に行い、之を綏(やす)んずれば斯に来(きた)り、之を動かせば斯に和し、其の生(い)くるや栄とし、其の死するや哀しむ。之を如何ぞ其れ及ぶべけんや」。


(子貢晩年の弟子〔孔先生の直弟子ではなく孫弟子〕の)陳子禽(ちんしきん)が自分の師である子貢に向かって(次のように)言った。
「(子貢)先生は謙遜されています。孔先生がどうして(子貢)先生より賢いものですか。(わたしは〔子貢〕先生の方が〔孔先生よりも〕ずっと賢いと思います)」。
(わが弟子の浅薄さに呆れてつつも、)子貢は(次のように)答えた。
「(…。陳子禽や、よく聞きなさい。)君子たるものは、(見る人が見れば、)その一言で賢者であることがわかり、(また、その)一言で愚者であることがわかってしまうのだよ。(だから、)言葉は慎重でなければならないのだ。孔先生が(とてもわれわれの)及ぶことができない方であることは、ちょうど天に梯子をかけて昇ることができないのと同じなのだよ。もし先生が国家を治めることになれば、いわゆる『民の産業を興そうとすれば、産業が発展し、民を(道徳で)教え導けば、民がこれに従い、民の暮らしを安心させようとすれば、遠方の民も集まってきて、民を励ませば、民の心は和らぎ仲良く暮らす』ことになるだろう。孔先生が生きておられるときは皆が栄え、亡くなられたときは、皆が哀しみ傷んだのである。(このわたし如きが)どうして先生に及ぶことができるであろうか。(陳子禽や、二度と、わたしが孔子先生に賢っているなどと言うでないぞ)」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

陳子禽:学而篇第十章に登場して、子貢に孔子のことを質問している子禽と同一人物。孔子の弟子という説もあるらしいが、ここでは子貢の弟子とした。


この章の解説:

陳子禽(ちんしきん)は子貢晩年の弟子だそうです。子貢は孔子よりも三十一歳若く、孔子が亡くなったのは七十四歳(または七十三歳)といわれておりますから、その時、子貢は四十三歳(または四十二歳)であります。つまり、陳子禽が子貢の弟子になった時は、孔子が亡くなってから随分経ってからであり、陳子禽は孔子と直接話したことがなく、見たことすらなかったかもしれません。だから、「子は恭を為すなり。仲尼は豈(あに)子に賢(まさ)らんや」などという暴言を吐くことができたのでしょう。あるいは、頭脳明晰で切れ者である子貢が、陳子禽には眩しいほどに輝かしい存在だったのかもしれません。

呉智英著「現代人の論語」には、子貢について、次のように書いてあります。

子貢は小賢しい才人とも見られがちだ。しかし、論語をよく読めば、子貢の言動の随所にその優れた資質がはっきり現れているのがわかる。孔子が子貢をたしなめることが多かったのも、資質を認めた上での叱咤なのであった。子貢もそれをわかっていたからこそ、師を敬愛すること一方(ひとかた)ではなかった。冒頭掲出の一章(この章のこと、引用者注)には、それがよく描かれている。(中略)
子貢はおそらく本当に孔子よりも頭が良かったのだろう。そして、子貢はその頭の良さの故に、わずかな頭の良し悪しを超えた思想家孔子の偉大さがわかったのだろう。子貢の言葉に孔子への諂(へつら)いはいささかも感じられず、孔子の弟子であることの誇りが生来の修辞の才を十分に発揮させているようにさえ思える。(中略)
冒頭掲出章(この章のこと、引用者注)にある「夫子にして邦家を得るならば(孔子先生がもし国家を治めることになれば)」という言葉に、孔子を敬愛する弟子たちの無念の想いも読み取れる。孔子ほどの人物が不遇であり、亡命同然の流浪の旅さえ経験しているのだから。後世、儒者たちの間で、孔子を「素王(そおう)」すなわち無冠の帝王とする萌芽がここにある。しかし、政治の実務能力に関しても、あるいは子貢の方が孔子より優れていたかもしれない。史記によれば、子貢は謀略的な外交手腕を発揮し、外国同士を戦わせて魯国を侵略の危機から救っている。
史記はまた、孔子死後の弟子たちの行動について、こう伝える。孔子は死後、魯城の北、泗水(しすい)のほとりに葬られた。弟子たちは三年の喪に服した後、各地に散っていった。ただ子貢のみは、孔子の墓の傍(かたわら)に庵(いおり)を作り、六年の間そこに留まった。
子貢は、孔子の最も良き理解者であったかもしれない。

知の人子貢は、孔子を敬愛するという面では情の人でもあったのです。


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 2007.8.26  論語意訳−32


微子篇第十八


まず、微子篇全体について、貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

微子・箕子(きし)が、滅亡に瀕した殷国を去って身を隠す第一章にはじまって、この篇は、乱世をのがれる隠士を主人公とする物語が中心となっている。第五章の、孔子のそばを歌って過ぎた楚のにせ狂人接輿(せつよ)、第六章の、渡し場を問うた子路に、孔丘にしたがうのをやめ、われら隠士の群れにはいれとすすめた長沮、桀溺、第七章の、同じく子路に向かって孔子を批判した丈人(じょうじん)を主人公とする物語は、『論語』のなかでも、もっとも興味に富んだ説話といえる。孔子は、ここでは、いくら労しても効果が上がらないにきまっている政治運動に、身を粉にして働いている、おめでたい人物として戯画化されている。これらには無為の生活を至上とする老子学派の影響が濃厚に見られる。しかし、春秋時代の末期の中国は、内乱と戦争に明け暮れ、貪欲な豪族と、それを囲む権力亡者の佞臣とによって、醜悪な権力闘争がくり返されていた。この乱世に絶望して、政治の舞台からのがれて隠士の生活を送る賢人がたくさん出てきたらしい。彼らは社会のすみに隠れているため、ほとんど歴史に姿をあらわさないが、その片鱗は『左伝』などにもあらわれている。乱世において、一身の幸福をはかるには、隠士の生活がもっともまさっているからだろう。老子の無為思想は、民間に自然に発生した隠士思想を体系化したものにすぎない。第五章・第六章・第七章は、自然的に発生した隠士の生活を、道家の無為思想によって理想化したものであって、道家の影響は濃厚にしみこんでいる。各章の終わりに、孔子や子路の口をかりて、老子の隠士思想への批評がつけ加えられている。戦国時代の儒教の教団は、これらの説話を取り入れながら、最後に道教の無為思想を批判することによって、儒教の権威を保持しようとしたのであろう。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

以下の三篇、すなわち微子第十八、子張第十九、堯曰第二十、いずれもこれまでの篇とは異なった特殊な体裁と内容をもち、全書の附録であるごとく感ぜられる。
うちまずこの微子篇の特殊さは、「子曰わく」で始まるものが一章もないことである。中ほどの第三章から第七章までは、孔子の伝記の何節かをしるすものであり、いずれも、孔子がその周辺との間にもった矛盾、またそれによって生まれた不遇を、主題とする。その前後には、古今の人物に関する章があり、そのあるものは、極度に断片的であるが、いずれも孔子が好意を寄せた人物のように感ぜられる。つまり孔子と矛盾しない人物についての記述である。
なににしても、孔子の思想を、直接に記録するよりも、孔子の周辺についての記述のあつまりである点が、この篇の特殊さである。
この篇の編者は、周囲との矛盾に耐えて生きた孔子の伝記を、いくつかの挿話によってしるすとともに、その矛盾の克服のために、孔子のはげましとなったであろう過去の人物、また同時代の人物についての記録をも、あわせしるしたのであろう。


一.「微子第十八、第一章」

微子去之、箕子為之奴、比干諫而死。孔子曰、殷有三仁焉。

微子は之を去り、箕子(きし)は之が奴(ど)と為り、比干(ひかん)は諫めて死す。孔子曰く、「殷に三仁あり」。


(殷の紂王の暴政を嘆いて、)微子(殷の紂王の異母兄)は、国を捨てて荒野に逃れた。(そこに殷の祭器を保ち、今にも絶えんとする殷の祭礼を保存することに努めた。)箕子(紂王の叔父)は紂王を諫めて捕らわれて幽閉され、比干(紂王の叔父)は、諫めたあげく殺された。(やり方は異なるが三人とも紂王の暴政を諫め、志は立派であった。そこで、)孔先生が言われた。「殷には仁の人が三人いたのだ」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

微子、箕子、比干

微子:殷王朝最後の紂王の兄になる王子。紂王の暴虐に愛想をつかし、国を捨てて逃亡した。周王朝が殷王朝を征服すると、民間に身を隠していた微子を呼び出して、宋国の国君として、殷王朝の祖先の祭祀を行わせた。
箕子:殷の紂王の叔父にあたる王族。紂王の虐政を諫めたが聞き入れられないので、髪をふり乱して狂人をよそおい、奴隷の群れにはいって、姿をくらましたという伝説がある。周の武王が殷を滅ぼした後、箕子を召し出して、殷王朝に伝わる教訓、つまり『書経』の洪範(こうはん:「書経(周書)」の編名。伝説では、禹が尭舜以来の思想を整理・集成したもので、殷の箕子を経て周の武王に伝えられたという。天の常道と治世の要道を九つの範疇によって示す。辞書より)の伝授を受けた。箕子はその後、朝鮮、じつは東北地方に封ぜられたという。
比干:紂王の叔父にあたる王族。賢者であった比干は、紂王を激しく批判したため、王の怒りをかい処刑された。
(以上、貝塚茂樹著「論語」から)


この章の解説:

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

この篇のはじめに、殷の王族の三賢者を持ち出したのは、乱世に処する賢者の態度をあきらかにしようとするためである。虐政に正面から抗議して死する比干、諫めが聞き入れられねば政治から逃避して身をまっとうする微子・箕子、それぞれべつの生き方をした。孔子は、どれを最善としたわけでもないが、乱世には隠士となるしか仕方がないという道家の無為思想の影響のもとにあった。戦国時代の儒教教団においての、孔子のことばと伝承すべきであろう。

陳舜臣(ちんしゅんしん)著「論語抄」には、次のように書いてあります。

殷末の紂王の時代、紂の兄にあたる微子は、紂の無道を怖れて逃亡しました。紂の諸父(おじ)にあたる箕子は紂を諫めましたが、きき入れられなかったので、狂人をよそおって奴隷となりました。おなじ紂の諸父の比干は、紂を諫めて殺されました。孔子は「殷には三人の仁者がいた」と言いましたが、この三人のことです。
殷の紂王は暴虐の天子として知られています。
しかし、伝えられているほどの大悪人でないと、ほかならぬ『論語』のなかで、子貢のことばとして引用されているのです(子張第十九、第二十章、引用者注)。吹き溜まりのような場所(下流)を避けよ、というくだりにあります。紂王も下流にいたので、あらゆる悪という悪が、彼のしたこととされたというのです。
伝えられているほどの大悪人ではないが、王朝が滅亡したのですから、悪人であることにはまちがいないというのが、孔子時代の紂王評価でしょう。
国が滅亡すると祭祀が絶え、祖先の霊が滅ぼした側にたたるという考えがあり、周も殷を滅ぼしたあと、殷の遺民を宋という国にうつし、祭祀を継続させました。遺民の国「宋」のあるじとなったのが、ここに出てくる微子だったのです。
孔子その人も殷の遺民の末裔でした。孔子はその死にあたって、自分はもともと殷人だから、殷の礼式に従って葬ってほしいと遺言しています。
箕子はのちに朝鮮の国王になったと伝えられています。ただし箕子朝鮮は伝承的色彩が強く、史実として認められるには至っていません。
孔子は殷人の末裔ですが、それほど殷人意識は強くありません。殷が周によって滅ぼされたのは、孔子より六百年も前のことです。孔子が聖人とあがめ、年老いてその夢をみることがすくなくなったと嘆いたのは、ほかならぬ殷を滅ぼした周の人の周公でした。
殷の紂王の兄にあたる微子は、ここにあるように逃亡しています。殷を滅ぼしたあと、周は出奔した微子をさがし出して、宋という国を与えました。
孔子にとって周は、殷を滅ぼしはしましたが、その一族の残亡勢力の微子に、小国ではありますが宋という国を与え、祭祀をつづけさせてくれた恩人でもあったのです。
表面的には殷は全滅を免れましたが、やはり亡国の民として、いろいろとつらい目に遇っていたのでしょう。
春秋時代、殷の遺民の国宋も力をつけ、その国のあるじ襄公は、覇者争いの一角に名をつらねるようになりました。紀元前六三八年、宋は楚と戦いました。楚が布陣する前に攻めれば勝てるのに、襄公は「君子は敵が準備しないときに戦うものではない」と、楚が布陣してから攻めて敗れたのです。人びとは無益のなさけをかけることを「宋襄の仁」というようになりました。まのぬけたやり方とからかっているのですが、宋が亡国の末裔だという、一種の蔑視もあったようです。
兎がたまたま切株に頭をぶつけて死んだので、農夫が耕作しないで、株ばかり見張ってつぎの兎を得ようとした話があります。これは『韓非子』にある話ですが、この「守株(しゅしゅ)」のまぬけ男は宋の農夫となっているのです。
当時亡国の子孫をからかう、こんな笑い話がたくさん作られたのでしょう。六百年前に滅亡した殷人意識はないとはいえ、孔子はこんな蔑視を受けたグループに属していたのです。


二.「微子第十八、第二章」

柳下恵為士師、三黜。人曰、子未可以去乎。曰、道直而事人、焉往而不三黜。枉道而事人、何必去父母之邦。

柳下恵(りゅうかけい)士師となり、三(み)たび黜(しりぞ)けられる。人曰く、「子未だ以て去る可からざるか」。曰く、「道を直(なお)うして人に事うれば、焉(いずく)に往(ゆ)くとして三たび黜けられざらん。道を枉げて人に事うれば、何ぞ必ずしも父母の邦を去らん」。


柳下恵は魯国の裁判官に任命されたが、三回も罷免された。
ある人が言った。
「あなたは、なぜ三度も罷免されたのに、魯国から他国へ亡命しなかったのですか」。
柳下恵は、次のように言った。
「良心に従って仕事をすれば、どの国へ行っても同じように三回罷免されるでしょう。どの国でも罷免を避けるためには良心を捨てて仕事をしなければならないのならば、何も父母の生まれた国を去って他国へ亡命することがありましょうか。魯国で良心に従って仕事をするまでです」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

柳下恵、士師、黜けられる

柳下恵:魯国の賢者として有名。柳下は家に柳があったから、人がそう呼んだのだともいう。
士師:周代の裁判官の長官。
黜けられる:地位を下げられる。罷免される。
(以上、貝塚茂樹著「論語」を参考にした)


この章の解説:

思い切って意訳してみました。こんな感じだと思います。柳下恵は衛霊公第十五、第十三章と、本篇、第八章にも登場します。

貝塚茂樹著「論語」には、「悪政府のもとで辛抱してつかえる賢人の、ひとつの典型が書かれている」とあります。

陳舜臣著「論語抄」には、次のように書いてあります。

柳下恵は魯の国の人ですが、孔子より百年ほど前の人でした。士師(裁判官)となって三度も罷免されています。ある人が彼に「そんな目に遭って、どうして立ち去って外国で仕えないのですか」とたずねました。
柳下恵は答えました。「どこもそんなに変わりはありませんよ。正しい道で人に仕えるなら、どこへ行っても、三べんくらいは罷免されるでしょう。まがった道で人に仕えるなら、罷免されないでしょうが、それなら何を好んで、父母の国から出て行くことがあるものですか」。

諸橋轍次「論語の講義」には、次のように書いてあります。

官途を失うことは、常人に取っては重大な問題であるが、三度黜(しりぞ)けられてなお且つ平然としてこの言葉をなしておる柳下恵は、さすがに称すべき一人物であり、その鷹揚たる態度、正道を以て君に仕える態度、父母の国を思う態度が、自然にこの文中ににじみ出ている。孟子には、柳下恵が汚君(おくん)を羞じず、小官を辞せず、しかもよく正道を守ったことを称して、聖の和なる者と述べている。なおこの章には孔子の評語がない。亡逸したものであるかも知れぬが、或いは又、この全章が孔子の語った言葉であるかも知れない。この篇の終わりに出て来る三つの章(九・十・十一)の場合もまた同様であろう。


三.「微子第十八、第三章」

斉景公待孔子曰、若季氏則吾不能。以季孟之間待之。曰、吾老矣。不能用也。孔子行。

斉の景公孔子を待ちて曰く、「季氏の如きは則ち吾能(あた)わず。季孟(きもう)の間を以て之を待たん」。曰く、「吾老いたり。用うる能わず」。孔子行(さ)る。


斉の君主である景公が孔先生を任用しようとして、次のようにおっしゃった。
「魯国の実権を握っている季氏に相当する待遇をすることはできかねますが、季氏と孟氏の中間くらいの待遇ならすることができます。いかがでしょう。わが国に仕えてみませんか」
(しかし、孔先生を任用することについて、斉国内での反対意見に押されて…)
しばらくして、景公はおっしゃった。
「私はすっかり年を取ってしまいまして、(私の意見を押し通すことができませんでした。したがって、)あなたを任用することができなくなりました」。
孔先生は、斉国を去った。


この章の解説:

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

斉の景公は長命の君主で、前五四七年から四九〇年の死亡まで五十八年間君位にあった。父の霊公が魯から夫人をめとったのは前五七四年か五七三年ころのことと推定され、即位時は二十七歳であった。孔子が魯の昭公のあとから斉国におもむいたのは前五一七年であり、斉国から魯国に帰ったのは、翌年または翌々年、つまり前五一六年か五一五年のことであったとする説がある。そのとき斉の景公の年は、五十九歳あるいは六十歳くらいであった。景公が老年を理由に孔子の任用を中止したというこの話が、孔子が斉を去るときの景公の推定年齢とよく合っているからである。(中略)この伝説は次章と関連して、孔子がどんな理由で国家から去って行くか、孔子の国家から逃げ出す逃げ出し方を説いているのである。

諸橋轍次著「論語の講義」には、次のように書いてあります。

魯の三桓は、兄弟の順からいえば、孟孫氏が長兄で、次は叔孫、その次が季孫となる訳であるが、孟孫氏の慶父(けいほ)と叔孫氏の叔牙(しゅくが)とが共に罪を得たため、その後は季孫氏が最も高い地位に就いた。すなわち季氏は上卿で、魯国の収入の半分を占め、孟・叔の二氏は下卿で、残りの半分を互いに折半し合っていた。季・孟の間とは、この季氏と孟氏の中間程度という意味であり、これを斉についていえば、陳氏の下、他の諸大夫の上程度の地位を指したもののようである。なお孔子が遂に斉を去ったのは、言うまでもなく、この自分に対する待遇上のことからではなく、『吾老いたり。用うる能わず』という景公の弁解の言葉に悟るところがあったからである。


四.「微子第十八、第四章」

斉人帰女楽。季桓子受之、三日不朝。孔子行。

斉人(せいひと)女楽を帰(おく)る。季桓子之を受け、三日朝(ちょう)せず。孔子行(さ)る。


(魯の定公の十二年、孔先生は魯の司法長官となり、国政を着々と整えられた。隣国の斉は、魯が強大になることを恐れた。そこで…)
斉国から魯国へ女楽(舞人)を贈った。(魯の大夫の)季桓子はその演技に心を奪われて、三日間も朝廷を欠席した。 そこで、孔先生は愛想をつかして魯国を立ち去られた。


この章の解説:

陳舜臣著「論語抄」には、次のように書いてあります。

この二つの章(微子第十八、第三章、第四章、引用者注)はおなじ句で終わっています。それは「孔子行」の三字です。孔子が去って行ったのですが、どこから去ったのでしょうか。
最初は斉から去ったのです。
つぎは生まれ故郷の魯から立ち去りました。
孔子の斉国訪問は、彼が四十になったころのことです。魯は家老の勢力を抑えることができず、主君の昭公は斉に亡命しています。このころは商人や旅行者がよく外国へ旅行していました。
(中略)
魯の家老の専横に悲観した孔子が、国外で就職して礼の制度をひろめようとしたのもあやしむに足りません。四十前の孔子は、まず斉で職を得ようとしたのです。
そのとき斉のあるじは景公でした。彼には孔子を登用する意思があり、その処遇について、はじめ「魯の国が季氏にたいするほどのことはできませんが、季氏と孟氏のあいだぐらいでどうでしょうか」と言いました。ところが、『論語』には出ていませんが、斉では孔子登用について、家老の晏嬰をはじめ反対する者が多く、意志薄弱の景公はとうとうとりやめたのです。その理由を「私はもう年老いたので、あなたを用いることができません」と、言いのがれしています。
(中略)
もし仕官に成功しておれば斉の臣となっていたでしょう。常識からいえば、これは二君に見えることですが、それを悪とする考えは、当時にはなかったのです。
この事件からだいぶたって、孔子は魯の国の司寇すなわち法務大臣となりました。これは魯の定公十四年、孔子五十六歳のときであるとされます。
孔子たちが大臣として国政改革に努力したので、魯の国勢は伸長しました。これに危機感をもったのが、隣国の斉です。
そこで国じゅうの美女を選抜し、女子歌舞団八十人を魯に贈りました。ときの魯の実力者季桓子はそれに心を奪われ、三日も朝廷の仕事を休んだということです。
これをみて、孔子は絶望して魯を立ち去りました。
これは『論語』と『史記』に記されていますが、『春秋左氏伝』に出ていないので、疑問視する学者もいます。けれども孔子と三桓氏との軋轢は、一つや二つではありません。さまざまなことが重なって、孔子の出奔となったのでしょう。
弟子を連れての外遊は、十三年にも及びました。ふたたび故郷の魯に帰ったとき、孔子はすでに六十九歳になっていたのです。


五.「微子第十八、第五章」

楚狂接輿歌而過孔子曰、鳳兮鳳兮、何徳之衰。往者不可諫。来者猶可追。已而已而。今之従政者殆而。孔子下、欲与之言。趨而辟之、不得与之言。

楚の狂(きょう)接輿(せつよ)歌うて孔子を過ぎて曰く、「鳳や鳳や、何ぞ徳の衰えたる。往く者は諫むべからず。来る者は猶お追うべし。已(や)みなん已みなん。今の政に従う者は殆し」。孔子下り、之と言わんと欲す。趨って之を辟(さ)け、之と言うを得ず。


楚の狂者(志大にして自ら狂者を装い世を逃れている者)である接輿(せつよ)が、歌いながら孔先生の車の前を通り過ぎた。(その歌は)「鳳(ほう)よ、鳳よ、何と徳の衰えたことか。(鳳凰という鳥は、道があれば世に現れ、道がなければ世を隠れるのである。それなのに隠れもしないのはどういうことだ。)過ぎ去ったことをあれこれ気にせず、これからのことを考え(て、隠れてしまい)なさい。やめなさい、やめなさい、今の世の政治に関与するのは危険なことだ」(というものであった)。孔先生は車から降りて話をしようとされたが、接輿が小走りで逃げたので、話はできなかった。


この章の解説:

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

乱世のころであったから、狂人といってもほんとうの狂人ではなく、狂人のふりをして身をくらましている隠士がたくさんいた。ほうぼうでこんな隠士から、政治なぞに手を出すのはやめたほうがいいと、それとなくたしなめられる。孔子はそんな経験をたびたびもったことであろう。これは楚に出かけたとき、つまり流浪して葉公(しょうこう)などに会った前四八九年のことにあてられる。しかし、ここに書かれていることが、そのとおり歴史的にあったのではない。そういう伝説が伝わっていたというだけである。


六.「微子第十八、第六章」

長沮桀溺耦而耕。孔子過之、使子路問津焉。長沮曰、夫執輿者為誰。子路曰、為孔丘。曰、是魯孔丘与。曰、是也。曰、是知津矣。問於桀溺。桀溺曰、子為誰。曰、為仲由。曰、是魯孔丘之徒与。対曰、然。曰、滔滔者天下皆是也。而誰以易之。且而従其従辟人之士也、豈若従辟世之士哉。耰而不輟。子路行以告。夫子憮然曰、鳥獣不可与同群。吾非斯人之徒与而誰与。天下有道、丘不与易也。

長沮(ちょうそ)・桀溺(けつでき)耦(ぐう)して耕す。孔子之を過ぎ、子路をして津(しん)を問わしむ。長沮曰く、「夫(か)の輿(よ)を執(と)る者を誰と為す」。子路曰く、「孔丘と為す」。曰く、「是れ魯の孔丘か」。曰く、「是なり」。曰く、「是ならば津を知らん」。桀溺に問う。桀溺曰く、「子を誰と為す」。曰く、「仲由と為す」。曰く、「是れ魯の孔丘の徒か」。対えて曰く、「然り」。曰く、「滔滔たる者天下皆是れなり。而(しか)して誰と以(とも)にか之を易(か)えん」。且つ而(なんじ)其の人を辟くるの士に従わんよりは、豈世を辟くるの士に従うに若(し)かんや」。耰(ゆう)して輟(や)めず。子路行(ゆ)きて以て告ぐ。夫子憮然として曰く、「鳥獣は与(とも)に群を同じうすべからず。吾斯(こ)の人の徒と与するに非ずして誰と与にせん。天下道あれば、丘与に易えず」。


下村湖人著「論語物語」を参考にして、物語風に訳していきます。

(春はまだ寒かった。傾きかけた日が、おりおりかげって、野づらは明るくなったり、暗くなったりしていた。孔子は車にゆられながら、目を閉じてじっと考えに沈んでいた。手綱(たづな)を執っている子路は、一時間近くも黙りこくっている。ほかの弟子たちもずいぶん疲れたらしく、とぼとぼ足を引きずっている。「しばらく休むことにしたら、どうじゃ」。孔子は子路に言った。「もうすぐ渡し場だと思います」。子路はぶっきらぼうに答えた。それから十分もたったころ、子路は急にぴたりと車を止めた。孔子が渡し場に着いたのかと思って、顔を出したところ、道が二つに分かれている。子路は手綱を握ったまま腕を組んで、じっと前方を見つめている。「どうしたのじゃ」。孔子が半身を車から乗り出して言った。「渡し場に行く道はどっちだか、考えているところです」。孔子は微笑した。「考えたら道がわかるかね」。孔子はふとそんな皮肉を言った。そしてにこにこしながら子路に言った。「考えているより、たずねた方が早くはないかね。ほら、あそこに人がいる」。子路はきょとんとした顔をしている。「すぐに行って、渡し場をたずねておいで。手綱はわしが持っている」。子路は大急ぎで、二人の農夫のところに走り出した…)
(そこには、)長沮(ちょうそ)と桀溺(けつでき)が二人並んで(畑を)耕していた。孔子(一行)がそこを通り過ぎた時に、子路に渡し場をたずねさせた。(すると、)長沮(ちょうそ)が(子路)にたずねた。「あの手綱を持っているのは、誰ぞい」。子路が答えた。「孔丘(こうきゅう)です」。
長沮…「あいつが魯の孔丘か」。
子路…「そうです」。
長沮…「それなら(あちこちぶらついとるらしいし、物知りだというから)渡し場がどこにあるのかぐらいは知っとるだろう」。
(そこで子路は)桀溺(けつでき)にたずねた。
桀溺…「おぬしは誰じゃい」。
子路…「仲由(ちゅうゆう)です」。
桀溺…「魯の孔丘の子分かい」。
子路(丁重に)…「そのとおりです」。
桀溺…「(ところで、)どこもかしこも乱れとるわなぁ。みなあきらめとるのじゃ(川の流れは滔々としてせき止められないのじゃ)。おぬしも、ぶらぶらと浪人しておる孔丘などに付いていくよりも、人を選んだ方がいいじゃろう。どうだ、静かに隠居して暮らしておるわしらに付いてくるほうが、よっぽどましだぞ」。
そう言って、(畑を)耕すことをやめなかった。子路は去って(孔子のところに)戻り、(以上のことを)報告した。孔子はがっかりして次のように言われた。
「わしは、鳥や獣ではないからのぉ。人間じゃからのぉ。人間社会に背を向けるわけにはいかないのじゃ。(隠居して静かに暮らすことを善しとする人もおるが、)わしは、濁った社会の中で苦しんでみたいのじゃ。理想どおりの社会が実現しておれば、今ごろわしも、こうあくせくと旅を続けることもないのだがのぉ…」。
(暮れ近い光の中に、人生の苦難を抱きしめて済みきっている聖者の姿を、子路はその目ではっきりと見た。そして、ぽろぽろと涙をこぼした。孔子は、車の窓から手綱を子路に渡した。そして弟子たちを顧みながら、朗らかに言った。「子路の好きな方に行ってもらおう。まちがっていたら、もう一度引き返すまでのことじゃからのぉ」。みんなが思わず笑い出した。子路も赤い目をしながら笑った。その時、二人の隠士は、鍬を杖にして、一心にこちらを眺めていた。子路には、それがあたかも二つの案山子のように思えてならなかった。)


この章に出てくる重要な言葉(概念):

長沮・桀溺:だれか有名な賢者が変名して姿を隠しているのであろう。沮は沼地、溺は人間の排泄物。どちらも農業に関係した農民らしい名で呼ばれている。
耦(ぐう)して耕す:中国の古代には鋤(すき)で土地を耕すのにふたりが一組となり、ひとりが鋤を打ち込むと、他のひとりがそれをひっくり返して土をはね上げる仕組みになっていた。
輿(よ)を執(と)る:御者をしている子路が下車したので、孔子が代わって馬の手綱をとった。
人を辟くる:孔子が政治運動をしながら、政治家の人物を批評してえり好みしているのを皮肉った。
世を辟くる:特定の人間が悪いのではなく、世の中、社会が悪いのだからそれから逃避する。
耰(ゆう)して輟(や)めず:種まきしたあと、鳥につつかれないように土をかぶせる手をやめないこと。
(以上、貝塚茂樹著「論語」を参考にした)


この章の解説:

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

長沮・桀溺などという名前は、『荘子』のたとえ話、つまり寓話に出てくるように、ひょっとすると架空の人物であるかもしれない。この話自体そういう人物を設定して、孔子や子路に問答させた。『荘子』によくある寓話かもしれない。孔子も子路も戯画化されて出てくる。憮然として語っている孔子のことばをくっつけているが、それは結局言いわけで、すっかりふたりの隠士に皮肉られ、この勝負は隠士の勝ちとみられる。

金谷治著「孔子」には、次のように書いてあります。

微子篇のこの章の前後と、憲問篇の後半とには、道家的な隠者と孔子との出合いの話がいくつか出てくる。そして近年の批判的な研究では、おおむね道家の人びとの作り話だとされている。だが、『荘子』などの道家の文献の孔子説話と比べてみると、こちらでは道家思想に対する儒家としてのはっきりした主張があって、儒家資料としての独自の意味がある。この章なども、作り話めいた誇張もあるとはいえ、あくまで人間社会のために考え、行動してゆきたいとする孔子自身の願望、ひいては儒教の核心にふれるものがあるように思う。

安岡正篤著「朝の論語」には、次のように書いてあります。

…夫子憮然として曰く、鳥獣は与に群を同じくすべからず。人間は鳥獣とは一緒に暮らせない。結局人間は人間仲間と暮らす外はない。わしは人間を相手にしないで、何を相手にすることができよう。世の中に道があるなら、世の中にちゃんと筋道が立っておるなら、わしはどうしようというものでもない、悠々自適もしよう。本文の易は易えるでもよい。易(おさ)めるでもよろしい。弊を去り新しく創造する意です。どこまでも人道的精神に徹した孔子の本意を、はっきり表した感慨深い一文であります。


七.「微子第十八、第章」

子路従而後。遇丈人以杖荷蓧。子路問曰、子不見夫子乎。丈人曰、四体不勤、五穀不分、孰為夫子。植其杖而芸。子路拱而立。止子路宿、殺鶏為黍而食之、見其二子焉。明日子路行以告。子曰、隠者也。使子路反見之。至則行矣、子路曰、不仕無義。長幼之節、不可廃也。君臣之義、如之何其廃之。欲潔其身、而乱大倫。君子之仕也、行其義也。道之不行、已知之矣。

子路従って後(おく)る。丈人(じょうじん)の杖を以て蓧(あじか)を荷(にな)うに遇(あ)う。子路問うて曰く、「子、夫子を見ざるか」。丈人曰く、「四体(したい)勤めず、五穀分かたず、孰(たれ)をか夫子となす」。其の杖を植(た)てて芸(くさぎ)る。子路拱(きょう)して立つ。子路を止めて宿(しゅく)せしめ、鶏を殺し黍(きび)を為(つく)りて之を食(しょく)せしめ、其の二子(にし)を見(まみ)えしむ。明日(みょうにち)子路行(ゆ)いて以て告ぐ。子曰く、「隠者なり」。子路をして反(かえ)って之を見(み)しむ。至れば則ち行(さ)れり、子路曰く、「仕えざれば義なし。長幼の節は廃すべからず。君臣の義は之を如何ぞ其れ之を廃せん。其の身を潔くせんと欲して大倫(たいりん)を乱る。君子の仕うるや其の義を行うなり。道の行われざるは已(すで)に之を知れり」。


(これもまた天下周遊の途中のことである。)
孔先生の供をしていた子路が、孔先生を見失って後れてしまった。
(子路がとぼとぼ歩いていると、)杖をついて竹の器を担(かつ)いでいる一人の老人に出会った。子路が(その老人に)聞いた。
「あなたは、わたしの先生を見かけませんでしたか」。
(すると)老人は、(なぜか不満げな顔つきで)
「身体を動かして仕事もせず、五穀の区別さえつかない人を誰が先生と呼ぶのかね」と言って、(子路の質問に答えようとせず、)その杖を立てて草取りを始めた。
子路は(この老人がただ者ではないと気がついて)恭しく敬礼をして、敬意を表した。
(その子路の態度を見て、)老人は子路(が行こうとするの)を止(とど)めて(家に連れて行き)一泊させ、(その晩は)飼っていた鶏をさばいて、きびもちを炊いてもてなした。また、自分の二人の子どもを(子路に)引き合わせ(て年長者に対する敬意を表し)た。
翌日、子路は(老人の家を)立ち去って、(孔先生一行に追いつき、昨日の出来事を)話した。
(すると)孔先生は、「(その老人は)隠者であろうなぁ」とおっしゃり、
(「その老人は、おまえが敬意を表したことを見てとって、家に連れて行き、鶏ときびもちでもてなし、長幼の節義を示して前に子どもを引き合わせたのじゃ。ちょっと、会ってみたいものだねぇ」と言われて)子路を再び引き返させて様子を見に行かせた。
しかし、子路が再び訪ねてみると、老人は留守であった。
(子路は孔子が老人に伝えたかったであろうと思われることを、)二人の子どもに話して伝えた。「主君に仕えないと君臣の義が廃れてしまう。(昨夜、あなた方のお父様が、あなた方をわたしに引き合わせて長幼の節義をお示しになったように、)長幼の節義はなくてはならないものである。(それと同じように、あるいはそれ以上に、)君臣の義はなくてはならないものである。どうしてこれをなくしてよいものであろうか。(よいはずはない。)」。
「自分の身を清く保つために隠遁してしまうのは、君臣の義を乱すことにつながる。仁を追求する(義を実践する)君子が主君に仕えようとするのは、君臣の義を実践するためである。今の世の中が乱れており、(仁を追求する)道が行われていないことは重々承知しているが、だからといって、どうしてこれをそのままにほっておくことができようか。(これが孔子先生をはじめ、われわれ門人の気持ちである、とお父様にお伝えいただきたい」。
(子路が、孔先生一行のところに戻って、以上のことを伝えたところ、孔子は、「また、由がよけいなことを言いおったわい…」と呟いて、苦笑した。)


この章に出てくる重要な言葉(概念):

丈人(じょうじん)、蓧(あじか)、五穀、拱(きょう)して

丈人:「丈」は「杖」に通じる。年老いて杖をつく人という意味。
蓧:竹かごの類。
五穀:ふつう、黍(もちきび)・稷(こうりゃん)・麻・麦・菽(まめ)をさす。麻の代わりに稲を入れることもあり、いろいろの説がある。
拱:立ったまま両手を組み合わせて挨拶すること。
(以上、貝塚茂樹著「論語」を参考にした)


この章の解説:

複数の解説書を参考にしながら、わたしの言葉で大胆に訳してみました。
六十九歳で息子の鯉に先立たれ、七十一歳で顔回を亡くした孔子は、七十三歳で子路を失い、翌年七十四歳で世を去る(呉智英著「現代人の論語」)のです。孔子と年齢が離れている他の弟子とは違い、九歳しか離れていない子路は、孔子にとって弟のような存在だったのでしょう。

呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。

儒教の弱点の最大のものは、実学の軽視である。(中略)
微子篇には、隠者の老人が子路に向かって孔子を次のように評している。
「四体勤めず、五穀分かたず、孰をか夫子と為さん」(微子篇十八の七)
身体を動かして仕事もせず、五穀の区別さえできず、そんな人を誰が先生と呼ぶのかね
隠者というのは、乱れた世を嫌って世間から身を隠し、現世の決まりごとに背を向け、警句を吐いて生きている皮肉屋である。彼らはおおむね下層の人たちが就く仕事をして暮らしていた。
そうした隠者のこの評言は確かに当たっている。微子篇には、原理的に儒教とはちがう道家思想(老荘思想)が紛れ込んでいる。結論部では、孔子が隠者に敬意を表しつつも、現世を避ける皮肉な生き方を批判する形になるが、この評言そのものは首肯できる。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

『史記』では、この章を前章につづけて、楚地方を旅行していたときの一連の物語とする。しかし、前章が主人公の名からしていちじるしく寓話的であるのに、本章は丈人の名をあきらかにしていない。立ちすくんでいる子路を哀れと思った老人が、一夜泊めてやり、下にも置かずもてなし、二子を引き合わせてやる。平凡な郷村の牧歌的な生活がありのままに出ていて、あまり作為の跡が見えない。老子の尊ぶ自給自足の農村共同体の無為の生活が具体的に表現されているとしても、この伝説を老子の無為の思想の影響のもとに発生したとするのは独断的解釈である。孔子が遊歴の旅のなかで、こういう隠士に出会ったことはおおいにありうる。『左伝』のような貴族の政治生活をあらわしたものには、政治の表面から脱落した隠士の存在はまったく閑却(かんきゃく)されている。このことによって、春秋末期にはまだ隠士がいなかったと積極的に論断することはむりであろう。しかし、孔子がこういう隠士に出会ったという話は、老子学派の間でおおいに話の種となったことは事実であろう。こういう話にたいして、儒教学派としては、ひとつの立場をとって反撃することが必要である。最後の、子路が孔子の立場を代弁したことばは、その意味でつけ加えられたのであろう。君臣の大義を強調するこの『論語』の章は、戦国時代の君臣観念を反映している。

宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。

子路が孔子に従行して、後にとりのこされた。追いかけて行く途で老人が杖に竹のかごを下げて荷(にな)っているのに出会ったので尋ねた。貴方は私の先生に遇いませんでしたか。老人曰く、身体の労働をしたことがなく、五穀の見さかいもない者が、何で先生なものか、と言って杖を地面に立てて、草をむしり出した。子路は両手を組んで敬意を表しながら、老人と立ち話を始めた。老人は子路をひきとめ、家へつれ帰って泊らせ、鶏を殺し、黍の飯をつくって御馳走をし、二人の子供を紹介した。明日子路は立ち去って孔子に追いついて、このことを話した。子曰く、隠者だな、(それなら言うことがある)と。子路に命(いい)つけて、もう一度たち戻って面会してこいと言った。子路がその家へ行って見ると、もう行方知れずであった。孔子が子路に言わせようとしたのは次の通りであった。曰く、宮仕えしないという主張には何の根拠がない。尊長と卑幼との間の序列は無視することができぬ。(現に子路は貴方を老人の故に尊敬し、貴方はまた二子を年長の子路に引合わせて敬意を表せしめたではないか。)それと同じように、君主と臣下との関係は、無視しようとしても無視できぬものだ。貴方は一身を清くしようと思うあまり、無視することのできぬ大事な人間関係を強いて無視しようとなされる。我々の仲間が君主を求めて宮仕えしようとするのは、人間たる者の義務を行おうとするのである。ただその理想が実現できないものであることぐらいは、万々承知の上だ。


八.「微子第十八、第八章」

逸民、伯夷・叔斉・虞仲・夷逸・朱張・柳下恵・少連。子曰、不降其志、不辱其身、伯夷・叔斉与。謂柳下恵・少連。降志辱身矣。言中倫、行中慮。其斯而已矣。謂虞仲・夷逸。隠居放言。身中清、廃中権。我則異於是。不可無不可。

逸民(いつみん)は伯夷・叔斉・虞仲(ぐちゅう)・夷逸(いいつ)・朱張(しゅちょう)・柳下恵(りゅうかけい)・少連(しょうれん)。子曰く、「其の志を降(くだ)さず、其の身を辱しめざるは伯夷・叔斉か」。柳下恵・少連を謂う。「志を降し身を辱しむ。言倫(げんりん)に中(あた)り、行い慮(りょ)に中る。其れ斯れのみ」。虞仲・夷逸を謂う。「隠居放言す。身清(みせい)に中り、廃権(はいけん)に中る」。我は則ち是に異なり。可もなく不可もなし。


世捨て人(志高くして位なく、世を逃れ隠れている賢人として名高い人)に、伯夷・叔斉・虞仲・夷逸・朱張・柳下恵・少連がいる。
孔先生がそれらの人々を批評して言われた。「いかなる場合にも自分の志を保ち、わが身を清く保って人から辱めなかったのは、伯夷・叔斉であろうか」。(伯夷・叔斉は、天子といえどもこれを臣とせず、諸侯といえどもこれを友とせず、その志を高尚に保ち、悪人と同席すれば、立派な礼装をして泥や炭の中に座るが如き気持ちで接して、人から辱めを受けることがなかった)
次に、柳下恵・少連を批評して言われた。「志を保つことなく、人から辱めを受けることに甘んじていた。しかし、言葉は道にかなっており、行いは思慮深く道にかなっていた。そのような人物であった」。(少連は三年の喪にいて、悲哀の情を尽くした。柳下恵は、この篇に三たび退けられても平然としてそこに止まったことが記されており、狂人と同席しても平然としていたという。これが「志を降(くだ)し身を辱しむ」の所以である)
次に、虞仲・夷逸を批評して言われた。「家に隠れて(世を逃れて隠居して)言いたい放題だった。しかし、隠居における身の処し方は清らかそのものであり、世を捨てからの隠居の仕方も極端でなく程よいものだった」。(以上、孔子の人物評は六人で止まっており、朱張が省かれているが、二人ずつ取り上げることが口調の上でよかったためで、深い意味はないと思われる。おそらく、朱張は虞仲・夷逸の中に加えられる人だったであろう)
(以上の人々は、それぞれタイプが異なるが、一つの価値観だけを固く守っている点では共通している。これに対して)「私は彼らとは違う。仕えるのがよいとも、よくないとも決めつけはしない」。(その時に応じて対応して、一つの価値観に固執することはない)


この章に出てくる重要な言葉(概念):

伯夷・叔斉、虞仲、夷逸・朱張・少連、柳下恵

伯夷・叔斉:殷末の賢者兄弟。周の武王が殷を滅ぼしたとき、これをやめるように諫めて聞き入れられず、首陽山にのがれて、わらびを食べて生きていたが、ついに餓死した。(公冶長篇第二十三章・述而篇第十四章・季氏篇第十二章参照)
虞仲:呉の泰伯の弟。泰伯とともに位を末弟の周の季歴に譲って江南にのがれた仲雍(ちゅうよう)にあたるとされてきた。(泰伯篇第一章参照)
夷逸・朱張・少連:不明の人物。
柳下恵:魯の大夫展獲。(衛霊公篇第十四章・本篇第二章参照)
(以上、貝塚茂樹著「論語」を参考にした)


この章の解説:

宮崎市定著「現代語訳 論語」には、「この章は意味の上で372(憲問第十四、四十章、引用者注)と接続するものの如くである。孔子の一つの談話を、弟子二人が記憶し別々に筆記したのが二箇所に収められたものと思われる」と書いてあります。

また、貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

ここにあげた逸民七名という数は、第十一章の周の八士などの例からすると、八名がもとの数であったろう。虞仲の前に泰伯があったのが、泰伯は呉国の開祖であるため抜いたのであろう。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

「逸民」とは、古注に「節行の超逸なる者」、つまり常識を超越した生活者。新注では「位無きの称」、つまり出仕しないもの。普通には、両者の条件を兼ねて解する。
この条はそうした「逸民」の範疇に属する人物七人を列挙して、孔子がそれらを批評し、また、それらを比較の媒介として、孔子自身の態度を述べた。ただし七人のうち、朱張に対する批評はない。
「逸民」にもいくつかの種類があるが、自己の主張を低いレベルにおとさず、その身の上に辱めを受けなかったのは、伯夷と叔斉であろうか。伯夷、叔斉はすでに、公冶長第五(第二十三章、引用者注)、述而第七(第十四章、引用者注)、季氏第十六(第十二章、引用者注)に見える。
つぎに柳下恵と少連とを批評して、かれらは伯夷、叔斉とは異なり、志を降し、身を辱かしめたが、言葉は道理に的中し、行為は正しい思慮に的中した。「其斯而已矣」は、ただそれだけである、とけなす意味でなく、その点が尊い、という意味であろう。柳下恵については、この篇の前の章に、事蹟が見えるが、少連の事蹟はわからない。(中略)
つぎには虞仲と夷逸の二人を批評して、世の中からかくれて住み、言葉を放棄して沈黙を守った。その身は清潔という概念に一致し、その隠遁放棄は、「権」、つまり、やむを得ざる生き方、それに合致すると。うち虞仲は、周王朝の創業者文王のおじの一人、仲雍とするのが通説である。すなわち文王の父である季歴を、祖父の相続人とするため、もう一人の兄の泰伯、すなわち泰伯第八(第一章、引用者注)に、「泰伯は其れ至徳と謂うべきのみ」という人物であるが、この兄と二人で、南方荊蛮の地に亡命し、末子季歴への相続を完成させた。もうひとりの夷逸の方の事蹟は、わからない。(中略)
最後に孔子はいった。私はかれらとはちがって、「可も無く不可も無し」。私は一定して容認するものもなければ、一定して容認しないものもない。古注の馬融に、「亦た必ずしも進まず、亦た必ずしも退かず、唯(ひとえ)に義の在る所なるのみ」。上論の言葉としては、子罕第九第四章の、「子四を絶つ、意毋(な)く、必毋く、固毋く、我毋し」が思いあわされる。「孟子」「万章(ばんしょう)」下篇のはじめの章は、「論語」のこの章の演繹であり、次のごとくである。
「孟子曰く、伯夷は目に悪しき色を視ず、耳に悪しき声を聴かず。其の君に非ざれば事えず。其の民に非ざれば使わず。治まれば則ち進み、乱るれば則ち退く。横しまなる政の出づる所、横しまなる民の止(お)る所、居るに忍びざる也。郷人と処(お)ることを思うに、朝衣朝冠を以て、塗炭に坐するが如き也。紂の時に当りて、北海の浜に居り、以て天下の清まるを待つ也。故に、伯夷の風(ふう)を聞く者は、頑夫も廉に、懦夫も志を立つる有り」。
(中略)
「柳下恵は、汙君(おくん)を羞じず、小官を辞せず、進めば賢を隠(さまた)げず、必ず其の道を以てす。遺佚せられて怨まず、阨(やく)窮して憫(うれ)えず、郷人と処(お)るに、由由然(ゆうゆうぜん)として去るに忍びざる也。爾は爾を為せ、我れは我れを為す。我が側(かたわら)に袒裼裸裎(たんせきらてい)すと雖も、爾焉んぞ能く我れを浼(けが)さんや。故に柳下恵の風を聞く者は、鄙夫も寛(おおら)かに、薄夫も敦(あつ)し」。
次に孔子について、
「以て速やかなるべくして速やかに、以て久しかるべくして久しく、以て処(ひそ)むべくして処み、以て仕(つこ)うべくして仕うるは、孔子也」。
としたうえ、
「孟子曰く、伯夷は聖の清き者也。…柳下恵は聖の和(やわ)らげる者也。孔子は聖の時なる者也。孔子を之れ集大成と謂う」。
また伯夷と柳下恵については、その「尽心(じんしん)」下篇にも、「孟子曰く、聖人は百世の師也。伯夷と柳下恵と、是れ也。故に伯夷の風を聞く者は」云云と、同趣旨の言葉がある。
(中略)
なににしても、やや奇妙な章であるが、自由に生きる隠遁者が、後世でも、ある価値をもちつづけたのは、この章が、重要な基礎となっている。「後漢書」の「逸民伝」、「晋書」の「隠逸伝」、以下、後世の正史にも、それぞれの時代の「逸民」のための巻があり、たとえば陶淵明は、その一人である。

五十嵐晃著「論語の訳注と考究」では、この章を次のように訳しています。

世捨て人としては、伯夷・叔斉・虞仲・夷逸・朱張・柳下恵・少連とがいる(と伝えられている)。子曰く、志を高く持ちつづけて、わが身を汚さなかったのは伯夷・叔斉だな。(世間では)柳下恵・少連を「志を(高く持ちつづけられないで)低くしてしまい身を汚したが、言う事は道理にかなり、行動は思慮分別にかなっている」と批評しているが、そのとおりだ。虞仲・夷逸のことを(世間では)批評してこう言っている。「隠れ住んで言いたいほうだいを言っているが、身の持ち方は清潔で、世を捨てたのも臨機の措置だ」と。だが私はそうは思わない。可もなく不可もないといったところだ。

これに対して、宮崎市定著「現代語訳 論語」には、「この章の本文、子曰、以下は凡て孔子の言葉である。しかるに従来の解釈では、謂柳下恵少連、謂虞仲夷逸の二句を取り出して、これを地の文と読むために意味が疎通しない。実はこの二句も孔子の言葉の内に含めて解すべきである」と書いてあります。

五十嵐先生も、宮崎先生も、最後の「我は則ち是に異なり。可もなく不可もなし」という言葉を、孔子の虞仲・夷逸に対する批評と解釈しておられますが、わたしは、孔子が最後に、これら逸民の価値観に対する自分自身の価値観を表明したものと解しました。


九.「微子第十八、第九章」

大師摯適斉。亜飯干適楚。三飯繚適蔡。四飯缺適秦。鼓方叔入於河。播鼗武入於漢。少師陽、撃磬襄入於海。

大師摯(たいしし)は斉に適(ゆ)く。亜飯干(あはんかん)は楚に適く。三飯繚(さんぱんりょう)は蔡に適く。四飯缺(しはんけつ)は秦に適く。鼓方叔(こほうしゅく)は河(か)に入(い)る。播鼗武(はんとうぶ)は漢に入る。少師陽(しょうしよう)、撃磬襄(げきけいじょう)は海に入る。


大師(たいし:魯国の音楽長官)の摯(し)は斉の国に行き、亜飯(あはん:第二の助演者)の干(かん)は楚の国に行き、三飯(さんぱん:第三の助演者)の繚(りょう)は蔡の国に行き、四飯(しはん:第四の助演者)の缺(けつ)は秦の国に行った。鼓(つつみ)打ちの方叔(ほうしゅく)は黄河の畔(ほとり)に入り、播鼗(はんとう:でんでん太鼓)の武は漢水の畔(ほとり)に入り、少師(しょうし:第一の助演者)の陽(よう)と撃磬(げきけい:石の楽器の奏手)の襄(じょう)は海の畔(ほとり)に入った。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

大師摯、亜飯干、三飯繚、鼓方叔、播鼗武、撃磬襄

大師摯:大師は楽師長、摯はその名。
亜飯干:天子の朝食のときの音楽の担当者とされるが確かでない。干は名。
三飯繚:天子の昼寝のときの音楽をつかさどる楽師。名は繚。
鼓方叔:太鼓の鼓手。名は方叔。
播鼗武:播は揺らすこと。鼗は小鼓つまりでんでん太鼓。武は名。
撃磬襄:磬は石で作った打楽器の一種(憲問篇第四十一章参照)。襄は名。
(以上、貝塚茂樹著「論語」を参考にした)


この章の解説:

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

古注では魯の哀公のとき、魯国の国勢は衰え、礼楽が崩壊し、楽人が四散したときの記事だとする。…殷末に殷王朝を見捨てた楽師たちにあてている。その考証は的確ではないが、周の楽はがんらい殷王朝から受け継いだものであるから、周王朝の世襲の楽師たちはその先祖についてこんな伝説を語りついできたのであろう。

五十嵐晃著「論語の訳注と考究」では、次のように訳しています。

楽師長の摯(し)は斉の国に去り、亜飯(あはん:二度めの食をすすめる時の奏楽者)の干(かん)は楚へ去り、三飯(さんぱん:三度めの食をすすめる時の奏楽者)の繚(りょう)は蔡へ去り、四飯(しはんの缺(けつ)は秦へ去り、鼓手の方叔(ほうしゅく)は黄河流域に入り、でんでん太鼓を揺らす武は漢水流域に入り、楽師長補佐の陽(よう)と磬(けい)をうつ襄(じょう)は渤海(ぼっかい)沿岸に入った。

諸橋轍次「論語の講義」には、次のように書いてあります。

この章は、魯国の衰乱と共に、雅楽を職とした多くの音楽家達が、魯を去り世を遠ざかって行ったことを述べたものである。

一方、宮崎市定著「現代語訳 論語」には、次のように書いてあります。

(殷が滅びる時)指揮官の大師摯(たいしし)は斉の国に逃げ、第二奏者の亜飯干(あはんかん)は楚の国に逃げ、第三奏者の三飯繚(さんぱんりょう)は蔡の国に逃げ、第四奏者の四飯缺(しはんけつ)は秦の国へ逃げ、太鼓手の鼓方叔(こほうしゅく)は黄河を渡り、鼓手(つつみうち)の播鼗武(はんとうぶ)は漢水を渡り、副指揮者の少師陽(しょうしよう)、拍子係の撃磬襄(げきけいじょう)は海に乗り出して島にかくれた。
この章は恐らく礼楽の師である孔子が、授業の間に弟子たちに語った音楽史の一節であろう。亜飯、三飯、四飯は君主の食事で、その際に楽を奏する係りであると言うが、本当のことは分からない。ただ当時の主楽器は琴であったと思われるので、亜飯以下は、琴の奏者であったと想像される。


十.「微子第十八、第十章」

周公謂魯公曰、君子不施其親。不使大臣怨乎不以。故旧無大故、則不棄也。無求備於一人。

周公魯公に謂いて曰く、君子は其の親(しん)を施(す)てず。大臣をして以(もち)いられざるを怨みしめず。故旧(こきゅう)大故(たいこ)なければ則ち棄てず。備(そな)わらんことを一人(いちにん)に求むることなし。


周公が魯公(周公の子伯禽)が魯に赴任する前に訓戒した。
「君子たる者、まず、親族を無視してはならぬ。次に、国を治めるに当たっては、重臣である大臣たちに、自分の意見が用いられないと、怨まれるようであってはならぬ。また、昔から縁のある人はよほどの過失がない限り、見捨ててはいけない。そして、君子たる者、一人の人間に対して、完璧主義で臨むことなく、寛大でなければならぬ」。


この章の解説:

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

周公は周初の名相周公旦。魯公はその子で、この国に封じられた伯禽にあたる。魯国に伝承される周公の遺訓から出たものであろう。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

周公はすなわち周公旦。文王の子、武王の弟として、周王朝創業の聖人の一人であるとともに、諸侯としては、魯のくにの最初の君主である。魯公とは、その子伯禽であって、父の周公は中央の政務にいそがしかったため、魯に国入りせず、子が魯公として国入りしたが、父は子の国入りに際し、君主たる者のいましめとして、重要なことがらのいくつかを告げたとするのが、新注の見方であり、それがよかろう。(中略)
君主たる者の要諦の第一は、自己の親族を大事にすることである。(中略)
次に、大臣から、一向いうことを聞いて貰えず、お役に立ちそうもない、という不平が、起こらないようにせよ。(中略)
「故旧」、古なじみの人間は、「大故」、大きな悪事がない限り、見捨ててはいけない。
ただ一人の人間に、完全さを要求してはいけない。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」には、次のように書いてあります。

わが魯国の始祖である周公様は、ご子息に次のように教訓されていらっしゃる。
「一つ、人の上に立つ者は身内の者を見捨ててはならない。二つ、部下が意見を採用されないことを怨みがましく思うような状況を作ってはならない。三つ、よほどの過失がない限り昔なじみを切り捨ててはならない。四つ、人間には得手不得手があるから、部下を使う時には一人に万能を求めてはならない」と。一々まったくごもっともだよねエ。
周公は周王朝を建てた武王の弟、名は旦。「吐哺捉髪(とほそくはつ:為政者の、賢者を求める気持ちの強いたとえ。握髪吐哺ともいう。〔周公は客が来ると洗髪中でも髪を握ったままで、また食事中には口に入れた食物を吐き出してすぐに出て会ったという「韓詩外伝」「史記(魯周公世家)」の故事から〕、以上辞書を参考にした)」の故事成語で知られる賢人であり、孔子が敬愛してやまなかった人物。


十一.「微子第十八、第十一章」

周有八士、伯達・伯适・仲突・仲忽・叔夜・叔夏・季随・季騧。

周に八士(はちし)あり、伯達(はくたつ)・伯适(はくかつ)・仲突(ちゅうとつ)・仲忽(ちゅうこつ)・叔夜(しゅくや)・叔夏(しゅくか)・季随(きずい)・季騧(きか)。


周に八人の賢人がいた。 その名は、伯達(はくたつ)・伯适(はくかつ)・仲突(ちゅうとつ)・仲忽(ちゅうこつ)・叔夜(しゅくや)・叔夏(しゅくか)・季随(きずい)・季騧(きか)である。


この章の解説:

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

八人の事績はよくわからない。たぶん伯・仲・叔・季すなわち長男・次男・三男・四男の二組の四人兄弟の賢士がいて、周の勃興期を象徴する存在であったという伝説があったのだろう。

五十嵐晃著「論語の訳注と考究」には、次のように書いてあります。

周に八人の人物がいた。伯達(はくたつ)に伯适(はくかつ)、仲突(ちゅうとつ)と仲忽(ちゅうこつ)、叔夜(しゅくや)に叔夏(しゅくか)、それに季随(きずい)と季騧(きか)である。
伯・仲・叔・季は長幼の序列。四組の双生児とみられている。

伊與田覺著「現代訳 仮名論語」には、次のように書いてあります。

実はこれらの人に就いては時代も事蹟も分からない。只一人の母から生まれた四組の双生児が揃って賢人であったのは、当時として珍しいことであったので、ここに挿入されたのではなかろうか。


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 2007.8.19  論語意訳−31


陽貨篇第十七


貝塚茂樹著「論語」には、この篇について、次のように書いてあります。

「陽貨、孔子を見んと欲す」ではじまる第一章の最初の二字をとって名としたこの篇の特色をなすのは、第一章と、公山不擾が孔子を召した第五章、仏肸(ひつきつ)が孔子を召した第七章などである。陽貨は才知・武勇にすぐれ、季氏の執事、魯国の陪臣として、季氏をはじめ三桓氏を圧して数年間にわたって国政をほしいままにし、ついに国外に追われた専制者である。公山不擾は季氏の本城である費の城主で、陽貨の一味となって独立を企てた、魯国の反逆者である。仏肸は晋の豪族范(はん)氏の私城である中牟(ちゅうぼう)の城主であったが、范氏が晋国の指導権をもつ趙(ちょう)氏の攻撃を受けると、中牟に拠り、衛国にたよって独立した。孔子は、これらの魯・晋の内乱の謀主から招聘を受けたとき、たとえ結局は実現しなかったにしても、一応その招聘に応じようとした。これは大義名分を尊んだ孔子にふさわしい行動とは考えられない。経学者や史学者のなかには、これらの孔子の聖賢をそこなうような『論語』の記事を歴史的事実でないとして、孔子の節操を弁護しようとするものもあるくらいであった。魯国に任用される以前から、魯国を亡命して各国を渡り歩いていた中年期の孔子は、豪族の専制を打倒し、魯国の君主権を回復し、さらに内乱に悩む中国の統一を再興しようという理想のもとに、自己の政策を採用するものを求めていた。魯国に限らず、豪族の伝統的権力の強い各国では、とてもこの新政策を受け入れるものがない。孔子はその国の反逆者であっても、豪族を打倒し新政策を採用するものと協力しようとしたのであった。この行動は、既存の政治秩序を支持する保守主義的な儒教の大義名分論からみると、背徳の所業ととられるかもしれない。しかし、孔子が、ある場合には大理想の実現のためには、手段を選ばぬ気持ちになったこともありえない話ではない。


一.「陽貨第十七、第一章」

陽貨欲見孔子。孔子不見。帰孔子豚。孔子時其亡也、而往拝之。遇諸塗。謂孔子曰、来、予与爾言。曰、懐其宝而迷其邦、可謂仁乎。曰、不可。好従事而亟失時。可謂知乎。曰。不可。日月逝矣、歳不我与。孔子曰、諾、吾将仕矣。

陽貨、孔子を見んと欲す。孔子見(まみ)えず。孔子に豚を帰(おく)れり。孔子其の亡きを時として、往(ゆ)いて之を拝す。諸(これ)に塗(みち)に遇(あ)えり。孔子に謂いて曰く、「来(きた)れ予爾と言わん」。曰く、「其の宝を懐(いだ)いて其の邦を迷わす、仁と謂うべきか」。曰く、「不可なり」。「事に従うを好んで亟(しばしば)時を失う。知と謂うべきか」。曰く。「不可なり」。「日月(じつげつ)逝(ゆ)く、歳(とし)我と与(とも)ならず」。孔子曰く、「諾、吾将に仕えんとす」。


(魯の大夫で実力者の)陽貨が孔子に会いたがっていたが、孔子は面会を断っていた。(当時の習慣として、大夫が下級者に贈り物をした時、下級者が家にいなかった場合は、改めて大夫の家に赴いて挨拶することを礼とした。そこで)陽貨は(孔子の不在を見計らって)孔子に豚を贈った。孔子は(当然、陽貨の邸に挨拶に行かねばならぬのであるが、陽貨の術中に陥ることを避けようとして)陽貨の留守中を見計らって挨拶に行った。(ところが運悪く)その途中で陽貨に出会ってしまった。陽貨は孔子に向かって「来られよ。わたしはあなたに話したいことがある」と言って、次の問答を取り交わした。
陽貨:「宝物(孔子のこと)をいだきながら国を迷わせたままにする(孔子が仕えないこと)のは、仁といえますか」。
孔子:「いえないでしょう」。
陽貨:「政治に従事したがり(孔子が仕えることを求め)ながら、しばしば時機を失っている(志と違うので仕えないでいる)のも仁といえますか」。
孔子:「いえないでしょう」。
陽貨:「月日は流れ、歳月は待ってくれない。(だから、自分に仕えるべきであろう)」
孔子:「承知しました。私もやがて仕えます。(だけど、あなたには仕えないでしょう)」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

陽貨、孔子に豚を帰る、来たれ予爾と言らん

陽貨:陽貨は『左伝』に出てくる陽虎のことだとされる。陽虎は魯国の季孫氏の家令として、主人をしのぐ実力者となり、前五〇五年ついに季桓子をとらえて魯国の独裁者となったが、前五〇二年、孟孫・叔孫・季孫三氏の反撃によって国外に逃亡せざるをえなくなった。

孔子に豚を帰る:大夫から士に進物を贈ると、士はその家に出向いて答礼せねばならない。面会を拒否した孔子に、むりに会おうとして陽貨はこの計を立てたのである。

来たれ予爾と言らん:郷党の塾で若者は立って、老人にせがんで昔話をしてもらう。そのとき老人は「来たれ、予爾と言らん」とか「座せよ、吾爾に語らん」とか前置きして昔話をはじめる。孔子の学園は郷党の塾を典型にしていたので、やはりこの習慣を取り入れていた。先生つまり子が、弟子つまり小子に物語りするときは、やはりこの形式をもって語るのが例であった。陽貨は勇士であるとともにたいへんな才物であったので、おどけてこの孔子の一門の礼式をもじって話しかけたのである。


この章の解説:

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

陽貨が季氏の家令として三桓氏に並ぶ実力者となったのは、おそくとも前五一五年ごろからで、この実力を背景として前五〇五年の陽貨のクーデターは成功し、その政権は前五〇二年ごろまでつづく。斉国にのがれていた孔子は、前五一〇年ごろ魯国に帰っている。孔子と陽貨との出会いは、前五一〇年以後ならいつでも成立する可能性はある。しかし、陽貨が魯の全権をにぎった前五〇五年、政権の安定をはかるため、四十八歳に達し、しだいに名声の上がってきていた学者の孔子を任用して、看板にしようとしたと見るのが妥当である。この物語によると孔子は心ならずも反逆者陽貨に屈して、任官を承諾せざるをえなかった。もしこれが事実とすれば、偉大なる道徳かである孔子の純潔さを傷つけることになる。実証主義的な古代史家崔述は、陽貨・陽虎別人説を提出して、孔子の名誉を擁護しようとしたが、その説得性を欠いている。学会は陽貨・陽虎同人説が有力で、私もこの立場をとるものである。陽貨すなわち陽虎は孔子を迎えようとしたが、孔子はこの臨時政権に協力するのをためらい、その面会の申し込みを拒否した。実力者陽貨はこんなことでは思いとどまらない。彼一流の悪智恵を働かせ、孔子の留守に進物を届けた。礼を重んずる孔子に、どうしても答礼に来させるように仕向けたのである。みすみすこの策謀にのるのがしゃくにさわった孔子はまた相手の計略を逆用し、陽貨の留守を見すまして、答礼に出かけようとして、途中で運悪く陽貨に出会ってしまったのである。『論語』にはそう書いてあるが、陰謀家の陽貨のことであるから、孔子の策略はとうに計算ずみで、留守の噂を流して孔子をおびき寄せたのかもしれない。そして孔子はうまうまとこの陽動作戦にひっかかったのではないかと私は想像する。孔子と道路で出会うと、目下の孔子に向かって陽貨のほうから話しかけた。この話しかけに、…孔子一門における師匠が弟子に物語りする形式を使ったのは、さすが一世の政治家陽貨らしい気転のきかせようである。以下の陽貨のことばは、四字句を主体とて荘重な調子をとっている。あっけにとられすっかり圧倒されてしまった孔子は、切り返すどころか、いずれ時を見てといった意味のことをいって時間を少しかせぐだけで、原則的には任官することを承諾してしまったのである。今までの注釈家は、この会話のやりとりで、陽貨が孔門の問答形式を使っていることに気づかなかった。私の新解釈によってはじめてそのおもしろさがあきらかになった。要するに大学者の孔子も実力政治家、しかも勇気と才気にすぐれた陽貨の前には、完全に手玉に取られた形である。陰謀が職業の政治家に弄されたのは、学者としての孔子にとって名誉ではないが、やむをえないところがあって必ずしも不名誉ではない。

呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。

孔子が陽貨を拒んだのは、その有能辣腕ぶりに比してあまりにも理想が乏しかったからである。そして、理想を持たない分、陽貨は激しい野心を持っていた。孔子はそこを嫌ったのである。小説風に心理描写をすれば、孔子は陽貨に自分の陰画(ネガ)を見ていたのかもしれない。容貌、体格、教養、手腕、あらゆるものが孔子と陽貨は酷似していたといわれる。ちがっていたのは、理想に生きるか野望に生きるかだけであった。皮肉なことに陽貨は野望が潰(つい)えて国外に亡命し、孔子は理想が破れて国外に亡命している。野望も理想も、人を安穏な生涯にとどめておかないのである。
十四年に及ぶ孔子の亡命は、陽貨の亡命の四年後のことである。亡命の二年目、孔子五十七歳の時、匡の町で命を落としそうな危難に遭った。匡がどこにあるのか定説がない。孔子一行が衛から晋に向かう途中の事件とされているから、両国の国境に近い町だろうか。その匡で町の兵に包囲され、五日間も拘禁された。理由は、そもそもがいかがわしい一行だったからであるが、孔子が陽貨とまちがえられたためでもある。
孔子と陽貨の酷似については、儒教の対極の立場にある荘子(そうじ)の秋水篇に出てくる。題材は、同じく匡の災難の話である。
孔子が匡に滞在中のことである。衛の兵隊たちが孔子一行を幾重(いくえ)にも取り囲んだ。孔子は泰然として琴を弾じ歌を歌っている。弟子の子路は焦りの色を見せるが、孔子は運命に身を任せ、悠然としている。やがて、部隊長が進み出でて、お辞儀をして言った。
「陽虎と思う、故に囲あり。今、非ざるなり。謂う、辞して退(しりぞ)かん」。
陽虎(陽貨)だと思って包囲しました。しかし、今、まちがいだとわかりました。お詫びして撤退いたします。
(中略)
陽貨は、孔子が匡に来る前に、兵を率いてこの町を侵攻したことがあった。史記によれば、まだ魯で権力を揮(ふる)っていた頃のことだとし、白川静によれば、亡命の後、晋の軍に従ってのことである。どちらが正しいにせよ、匡の人たちにとって、陽貨の名は忌まわしく恐ろしいものであった。


二.「陽貨第十七、第二章」

子曰、性相近也、習相遠也。
子曰く、性(せい)は相(あい)近し、習えば相遠し。


先生がおっしゃった。「人間というものは、生まれつき持っている性質は同じようなものじゃが、その後の躾や習慣によって、大きな差が開くものなのじゃよ」。


この章の解説:

伊與田覺著「『人に長たる者』の人間学」には、次のように書いてあります。

先師がいわれた。「人の生まれつきは大体同じものであるが、躾によって大きく隔たるものだ」。
この「習」という字を習慣の「習」ととってもいいんです。人間は躾によって大きく変わってくるということです。二千五百年前に、既にこういうことがいわれていたわけです。
まあ、人間の生まれ、人間性というものは、そう大きく変わるものじゃない。他の動物と人間とは違うが、人間同士はそう大きく変わるものではない。しかし、躾によって大きく変わるということなんですね。
そこで、習慣の具体的なものとして二、三考えてみたいと思います。
『小学』という書物の中に挙げられている習慣に「灑掃・洒掃(サイソウ)」というのがあります。サンズイがついていることからわかるように、水を注いだり雑巾で拭いたりすることを「灑・洒(サイ)」といいます。「掃(ソウ)」はいうまでもなく「掃く」ということでありますから、「灑掃・洒掃」とは我々が使っている「掃除」のことであるといっていいのであります。つまり、掃除の習慣をつけるということ、これが『小学』の習慣における非常な重要項目であるということです。
掃除とはいうまでもありません。部屋をきれいにする、洗濯するなども「灑掃・洒掃」の中に入れてもいいぐらいでありますけれども、要するに外面的にきれいにすることを行うと精神が育てられていくのです。
人間は生まれながらにして清潔を好む。赤ん坊がおしっこをしたり、うんこをしたりしたら泣き出しよるのは清潔でありたいから、親に「取り替えてくれ」と要求しておるのです。汚れているのが嫌なんです。それを取り替えてやれば、またスヤスヤと眠る。
掃除というのは、そういう生まれながらにして誰にでも与えられている清潔を好む心を育てていくものです。
昔のお母さんというのは偉かったと思います。オシメを替えるのね、大変だったと思う。最近は紙おむつなんかできて、おしっこをしてもお母さんは知らん顔をしとる。これはあんまり良くないですね。手間は省けるかもわからんけれども、子供の清潔を好む心を育てるうえにおいては必ずしもプラスではない。
それから、人間は生まれながらにして明るい面を好む。赤ん坊のときには首も回らんような児が、いつの間にか窓のほうを見ている。「ああ、こりゃいかん」と向きを変えてやったりする。あれは明るいほうを求めとるんですな。
子供は暗いところで育ててはならん。日中は明るいところで育てることが大切ですね。その明るい心を掃除することによって育てるのです。子供というものは神のごとく素直な心を持っている。この素直な心を育てていく。清く明るく直(なお)き心。これを育てる。この心が日本の神道の精神であります。神の心です。
掃除をすることによって、段々人間を高い境地に近づけていく。掃除はこういう効用を持っておるんです。
松下幸之助さんは、「このままではいかん。政界も乱れてきている。これを覚醒せにゃいかん」と日本の将来を憂えて「松下政経塾」というのを興しました。その政経塾の学生というのは大学を卒業した優秀な者が多いわけですが、塾生に向かって松下さんがいつもいった言葉は「毎日掃除をしてるか」「素直な心が大事だよ」。これだけは必ずいったそうです。子供にいうようなことですが、これが大切だ。まさに「清明直の心」、これが基本だぞといっております。
京都は禅宗のお寺の多いところです。禅宗の修行の大切なことに掃除がある。永平寺にでも行ってご覧なさい。一キロも続いているような長い廊下を、雲水は朝早く起きて、四つん這いになって拭いています。床に顔が映るくらいまで磨いています。ワックスをかけて磨いたわけじゃないんですね。
それから一番大事なのが庭の掃除。苔の中にある小さな草一本までも取る。あれが一本一本丁寧にひけるようになったら修行がだいぶ進んでおる。ええ加減にやっとるのではないんです。お宮も草一本なく掃き清められた境内に入ると、自ら清明直の神の心に通ずるのであります。
だから「灑掃・洒掃」というのは単なる外面的なものではなくて、人間の心を育てるうえにおいて欠くことのできない非常に大切なことなのです。
習慣の中には「応対」というのもある。「応」というのは「応ずる」ということで、呼ばれたら「はい」と返事をするのが「応」であります。「対」というのは、聞かれたらそれに対する適切な言葉をもって答えることです。人間関係というものは応対によってスムーズにいくわけです。
その応対で大切なのが「禮(礼、引用者注)」というものです。「禮(礼、同)」は元来神様に対するところから起こったものです。
「礻」は「示す」という字です。神にかかわるものには「示す」がついている。神社の「社」もそうですね。それから、つくりのほうは高い足のついた台、それに形よくお供え物を載せた象形文字です。そのお供えが多いときには、一本中に入って「ホウ(豊、引用者注)」という字に変わります。
神様にお供え物を捧げる、これが「禮」であります。「祭り」という字は「神を祭る禮」であります。
この「祭」の「月」は肉を表す、「又」は手を表す、「示」は神を表す。つまり、「神様に肉を捧げる」というのが一番丁重なお祭りなんです。日本では四足は捧げませんけれど、生の鯛を捧げます。そういうわけで、「禮」というのは神様に対するような気持ちで人間と人間とが交わるということです。
つまり、我々お互い同士の礼も、「こちらの心を相手に伝える」ことが本来であります。その心を伝える手段として、いろんな形があるわけです。だから、形はよく整っていても心がこもってない場合には、相手には通じない。これを「虚礼」といいます。(中略)
「礼」のまず第一の心は「敬」。「敬」には「慎む」という意味があります。「慎む」というのは、自己自身を慎むということです。体と心を引き締める。これを「慎む」というのです。礼の原典になる『礼記』という書物には、「礼は慎みにあり」といっています。これが根本です。人に対する前に自分自身をグッと引き締める。そうして相手を敬う。
次に「謝」。神に対すると同じように「謝」する感謝の心が大切です。
そして「謙」「譲」。二宮尊徳の思想の中で一番大切なのは「譲る」ということです。自譲とか他譲とか推譲なんていう言葉を使って「譲の精神」の大切さを教えています。上杉鷹山が貧乏の米沢藩を立て直した根本の精神も「譲」でした。米沢に行くと興譲館というのがあります。譲を興す。この「興譲」は『大学』の中にある言葉です。
それから「和の精神」が大切です。
こういう心を内に秘めながら頭を下げる。「敬」「謝」「謙」「譲」「和」という精神で「礼」を行えば相手に通ずる。日本では頭を下げるのが「礼」です。握手するのも「礼」の一つです。形はいろいろ違って参りますけれども、根本にそういう心を持つことが大事なんです。
その「礼」の中で、我々が日常一番よく行っておるものは「挨拶」であります。「挨」も「拶」も「触れる」とか「押す」という意味があります。石と石が触れ合ったら火花が飛ぶ。電気が触れ合うと稲妻が出る。人間が触れ合ったときには、挨拶によって人間関係はスムーズにいくんですね。だから、挨拶にはじまって挨拶に終わるということは、今更私がいうまでもないことです。
(中略)
礼についてはもう一つ、「坐作進退(ざさしんたい)」が大切です。平たくいえば「立ち居振る舞い」のことです。立ち居振る舞いというものは、国により、あるいは民族によって違っておるものです。だから、それぞれ自分のところの礼儀作法を十分わきまえて、また相手のそれをもよく知って、「郷に入れば郷に従え」で相手に合わすだけの素養をもたなくてはなりません。
日本には日本の立ち居振る舞いがあります。ところが今の日本人は、日本人自身の立ち居振る舞いを知らないまま外国に行って、外国のやり方がいいんだとそのままに模倣している。その結果、立ち居振る舞いのあり方がはなはだ混乱しているというのが現実でしょう。
(中略)
ともかく、日本の立ち居振る舞いというものを我々はわきまえておかなければならない。最近は相当洋式になりましたが、まだ畳の間もありますし、そういう場を歩くときの歩き方、座り方、立ち方、こういう作法もちゃんとあるわけです。平素から心してわきまえておく必要があります。
日本では履物を上履きと下履きとを明確にしています。これは日本人の特色だと思います。
(中略)
先ほど申しましたが、京都は禅寺の多いとこです。禅寺に行ってごらんなさい。玄関によく「脚下照顧」と書いた立札がある。脚下とは「足元」、照顧とは「振り返ってみる」。履物がちゃんと脱げているか振り返って見よ、これが人間修行の第一歩だぞ、と暗に教えているのです。


三.「陽貨第十七、第三章」

子曰、唯上知与下愚不移。

子曰く、唯(ただ)上知(じょうち)と下愚(かぐ)とは移らず。


先生がおっしゃった。「(ほとんどの場合は、生まれつきの性質は同じようなものじゃが、ごくまれに、)生まれつきの大天才と、生まれつきの大馬鹿者がおってのぉ、そういう場合は躾や習慣によっても変わらないこともあるのじゃよ…(。しかし、ほとんどの場合は躾や習慣によって変わるのじゃ)」。


この章の解説:

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

先生がいわれた。
「ただ最上の知者と最下の愚物とは、習いによって変化しない」。
前章の人間の性質に生まれつき違いがなく、習いにより勉強しだいで変わってくるというのにつづいて、上知と下愚は例外と考えた。経験主義者の孔子は原則を大上段に振りかぶらず、いつも理論の限界を考えるのであった。孔子のことばには、いつもいいすぎがない。たぶん孔子は前のことばを述べたあとで、すぐいいすぎに気がつき、あらためてことばをついだのが、この章なのであろう。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

前章と連関した言葉であって、前章では、人間は習慣によって、いかようにも変化するというのに対し、例外として、変化しない人間があることを、この章はいうように見える。
「上知」、最上の知者は、どんな境遇にいても堕落することなく、「下愚」、最下の愚者は、習慣、教育によっても向上しない。この二つの種類の人間は、移動しない。つまり人間の中には、先天的に性質を固定したものとして、絶対の善人と、絶対の悪人が存在するという、決定論的なひびきをもつ。前章とつらねて一章とする説、独立した別の章とする説、前章とつらなるからには、再び「子曰」があるべきでないとする説、などがある。
この章はさきの雍也第六(第十九章、引用者注)の、中人以上は、以て上を語る可き也、中人以下は以て語る可からざる也と、結合し、後代の人間論に、興味ある波紋を生む。漢の斑固(はんぼ)の書いた歴史書「漢書」には、「古今人表(ここんじんぴょう)」と名づけ、有史以来の人物を、その徳性により九段階に分類列記した巻がある。上上、上中、上下、中上、中中、中下、下上、下中、下下の九段階であり、うち上上の欄にならぶのは、すなわちこの章の「上知」にあたるものとして、斑固が思惟した人物であって、更に別の言葉でいえば「聖人」である。具体的には…武王、周公、仲尼、の十四人をあげる。またその表の下下の欄にならぶのは、ここの「下愚」であって、…衛の霊公、南子、…陽虎すなわち陽貨、…など百数十人があげられている。
ところで「上知」すなわち聖人、さらにいいかえれば絶対の善人の存在は、儒家がのちにいたるまでずっと主張しつづけて来たところである。しかし「下愚」すなわち絶対の悪人の存在は、かならずしも主張されつづけたようでない。もっとも早くして孟子が、人間の可能性を強調して、「人は皆以て堯舜と為るべし」という。すべての人間は聖人への可能性をもつというのであり、つまり「下愚」の存在は否定されることとなる。この孟子の主張は、のち宋儒に至って、一そう強調されるのであり、そのため朱子のこの章の注は、いろいろと苦心を費やしている。
「論語」の原義がどうであるかはしばらくおくとして、宋儒以前では、「上知」と「下愚」が、絶対の善人と絶対の悪人、として対立し、いずれも地上での存在であるけれども、いわば神と悪魔の如き形で考えられた時期のあることを、あまり他の学者の注意に上らないようであるから、ここに附記しておく。
たとえば唐の孔穎達(こうようだつ)が「書経」を解釈した「尚書正義」には、その主張がある。「堯典」篇で、舜の父の瞽叟(こそう)は「下愚」であったから、とても改心の可能性はなかったという説、また「多方(たほう)」篇で、「狂」すなわち「下愚」はどんなに道徳を思念しても向上の見込みはないと強調する説などが、それである。ことに後者は「書経」の本文の意味をふみ出してまでの強調であるが、論拠は、もっぱら「論語」のこの章にある。孔穎達の説はおおむね六朝人にもとづくから、六朝(中国で、後漢滅亡後、建業(南京)を都として江南に興亡した六つの王朝、辞書から。三国志(魏、呉、蜀)の時代、引用者注)の人間観、またそれにもとづく「論語」のこの章の説き方も、そのよう(「上知」と「下愚」が、絶対の善人と絶対の悪人、として対立し、いずれも地上での存在であるけれども、いわば神と悪魔の如き形で考えること、引用者注)であったろう。聖徳太子の「十七条憲法」が、独断をいましめ、衆議の尊重を説くにあたり、「彼必非愚、我必非聖」というのも、こうした六朝的な思考にもとづく論理に相違ない。「下愚」という存在、また聖人すなわち「上知」という存在、ともに現実にはめったにない存在であるから、彼も我もそれであるはずは必ずないというのである。

諸橋轍次「論語の講義」には、次のように書いてあります。

これも前章同様、一般の人は習慣或いは修養によっていかようにも変化するという意を述べたものである。上知とは、生まれながらにして知る、聖人の如き人物を指したのであろうし、下愚は、人間の中で最も下等の人、いわゆる自暴自棄の者を指したのであろう。自分から正しい道を信じようとしない者が自暴であり、自分は正しい道に進むことが出来ないと、みずから我を棄てる者が自棄であり、この二者は、共に愚かであって、移り得ない者である。季氏篇、九に、人を四種類に分けて、生まれながらにして知る者、学びて知る者、困しみて学ぶ者、困しみて学ばざる者の四つを挙げているが、この章の上知は彼の生知の人であり、下愚は彼の困しみて学ばざる者である。而して普通人は、学知・困知であって、共に本人の心掛け次第によって移り得る者である。

宇野哲人著「論語新釈」には、次のように書いてあります。

常人は習う所によって善にも悪にも移るけれども、ただ上知の者と下愚の者とは善悪が一定していて習う所によって善にも悪にも移らないのである。
上知=いわゆる生まれながらにして知る者の類である。下愚=困(くる)しんで学ばざる者の類である。
この章は習う所によって移らない者をあげたのである。この章は上の章と合わせて一章となるので、初めの「子曰く」の二字はよけいなものが入ったのだろうという説がある。もっともと思われる。

以上の説と、中庸の言葉を結びつけて考えてみます。

中庸には次のような言葉があります。(以下、安岡正篤著「友経 内篇」から抜粋)

知仁勇の三者は天下の達徳なり。之を行う所以の者は一なり。或いは生にして之を知り、或いは學んで之を知り、或いは困(くるし)んで之を知る。其の成功に及んでは一なり。
【大意】
知(智恵)・仁(思いやり)・勇(勇気)の三徳は、だれでも、いかなる場合でも、身に修めなければならぬ必要にして十分なる徳である。根本は、唯一つである。(このような道と徳は、だれでも知って行うべきものであるが、)あるものは、生まれながらにしてこれを知り(生知)、あるものは、学んでのちはじめてこれを知り(学知)、あるものは、学んだうえに苦労してこれを知る(困知)。(このように知る才能、早いか遅いかちがいがあるが)しかし一度これを知ってしまえば、どれも全く同一である。

以上の中庸の言葉と論語のこの章の言葉とを、結びつけて考えますと、論語でいう「上知」とは、中庸でいう「生知」と同じであり、論語でいう「下愚」は、中庸にそれを指す言葉はありませんが、いわば「困知」に劣る者、すなわち困しんでも学ばない者を指すと思われます。
つまり、孔子は、人の道である徳を学ぼうとしない者に、いくら躾や習慣を身に着けさせようとしても、それは非常に難しい、不可能といってもいい、と説いているのです。

以上、わたしの解釈でした。

金谷治著「論語」では、次のように訳しています。

先生がいわれた、「〔だれでも習いによって善くも悪くもなるものだが、〕ただとびきりの賢い者とどん尻の愚か者とは変わらない」。

宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。

子曰く、天才はどんな壁をも突き破ってその天才を発揮し、馬鹿にはつける薬がない。

これは、ちょっと…。

加地伸行著「論語」では、前章と合わせて、次のように訳しています。

老先生の教え。〔人間は〕先天的には差はない。後天的に差が生まれてくるのだ。老先生の教え。〔しかし、例外がある。〕天才と凡人とは、どのようにしてもその差は埋められない。

以上、いろいろな先生方の解釈を取り上げて参りましたが、わたしの解釈がいちばんしっくりくると自画自賛して、この章の解説を終えたいと思います。


四.「陽貨第十七、第四章」

子之武城、聞絃歌之声、夫子莞爾而笑曰、割鶏焉用牛刀。子游対曰、昔者偃也聞諸夫子。曰、君子学道則愛人、小人学道則易使也。子曰、二三子、偃之言是也。前言戯之耳。

子、武城に之(ゆ)き、絃歌(げんか)の声を聞く、夫子莞爾(かんじ)として笑うて曰く、「鶏を割(さ)くに焉(な)んぞ牛刀を用いん」。子游対えて曰く、「昔者(むかし)偃(えん)や諸(これ)を夫子に聞けり。曰く、『君子道を学べば則ち人を愛し、小人道を学べば則ち使い易し』と」。子曰く、「二三子、偃(えん)の言(げん)是(ぜ)なり。前言は之に戯るるのみ」。


先生は(弟子の子游が長官を務める)武城(ぶじょう)に行かれた。
(村の至るところで)絃歌(げんか)の声(琴の音と歌声)が聞こえてきた。(「おお、子游はわしの教えをそのまま、守っておるわい」と感心する一方で、「それにしても、この小さな村でこれほどの礼楽を用いるのはちと、大げさじゃのぉ」と思い、「ちと、からかってみることにするか」と悪戯心から)孔子はにっこりと笑って言われた。
「子游や、鶏(小さな村)をさばくのに、どうして牛を切る包丁(大げさな礼楽制度)を使うのかのぉ(。いくらなんでも、これは、ちと、やりすぎではないかのぉ)」。
(これをユーモアと解さず、そのまま受け取った)子游が(次のように)言った。
「昔、わたくしは先生にお聞きしました。『君子が道を学ぶと人々を愛し、小人が道を学ぶと使い易くなる』と(。ですから、その通りにしているのであります。小さな村でもきちんとした礼楽制度を用いることの、どこがいけないのでしょうか)」。
(ユーモアを理解しない、生真面目な子游の態度に苦笑して、)孔子が(周りにいた他の門人たちに、次のように)言われた。
「諸君、偃(えん)君(子游のこと)が言っていることが正しいじゃよ。(わしの)さっきの発言は、生真面目な子游を、ちと、からかってみただけじゃ。ハッハッハ…」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

武城、絃歌、鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いん
武城:現在の山東省費県にあたる。魯の都の曲阜からすると東南の辺境の城である。この時代では、揚子江流域の新興の覇者の呉国、さらに少しおくれて越国が北進してくる交通路にあたっていて、魯の南方の重要な場所である。子游がこの町の宰つまり城主に任ぜられたことは、子游の才を買っての任用である。注釈家がこれを取るに足りない職としたのは、歴史にたいする無知から生まれたまったくの誤解である。
絃歌:当時の詩は、すべて音楽にあわせて歌われた。正式には琴や簫(しょう)や鐘などの絃・管・打楽器の合奏をともなって歌われた。略式には琴の伴奏だけによっている。孔子の学園でも琴の伴奏によって詩を学習していたことは、曽ル(そうせき)が琴の一種である瑟(しつ)をならしていたという話で察せられる(先進篇第二十六章)。現在、絃歌といえば、芸妓を呼んで宴会で騒いでいることをあらわす語として使われる。ここでは、絃歌は文字通り、絃に合わせて詩を歌うことを人民に教えていたのである。
鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いん:孔子は、当時はやっていた諺を引用し、こんな町を治めるのに礼楽を用いるのは少し大げさすぎると風刺したのである。皇侃の『義疏』には、子游の牛刀のような大才をこの小さな町の長として使うのは、惜しいという感慨がこもっているという説がのせられている。武城は前の注であきらかにしたように、魯国が南方の新興の強国・呉・越を防ぐ関門である。ここの城には厳重な防備が施され、守兵も多くつけられていた。これを守る城主の任務はかなり重いので、子游の才はかなり高く評価されていたのだ。皇侃の引く説は、この意味では歴史の実際から遊離した想像説にすぎない。子游は辺境の要地の城主として赴任していた。この祖国の南方の国防をになう城で、ゆうゆうとして絃歌を教えている。緊張した辺境の空気にそぐわない感じを与える。孔子の風刺は、この異様な対象からひき起こされたとみられないでもない。


この章の解説:

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

孔子は子游の居城にきて絃歌の声を耳にし、諺を引いて子游をからかって、まじめに反論され、前言を取り消さねばならぬことになった。孔子のこんな失敗談を平気でのせているところが、『論語』である。孔子はけっして過失のない神のような存在でなく、過ちも行いかねない人間として書かれているのは、聖書のキリストの取り扱い方などとちがっている。孔子は「過てば則ち改むるに憚ること勿かれ」(学而篇第八章)という自分のモットーを忠実に実行し、さっそく自分の非を認め、かえって聖人の聖人たるところを発揮しているともいえるだろう。

呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。

孔子は弟子たちを伴って魯国内の小さな町武城に赴いた。武城では子游が「宰」(取締り)となっていた。あるいは、弟子の仕事ぶりを見るためであったのかもしれない。
さて、武城の町を歩いていると、礼楽の作法に則(のっと)った琴と歌が聞こえてくる。礼楽、すなわち文化こそが政事(まつりごと)の基本だというのが、孔子の思想である。それにしても、武城の如き小さな田舎町で文化とは! 孔子は思わず笑って言った。「鶏をさばくのに牛刀を使うこともあるまいにな」。師の傍らに立って町を案内していた子游が謹厳な顔を一層硬くして言った。「以前、この偃(えん:子游の本名)は先生からこうお聞きしております。為政者が礼楽の道を学べば人民を愛するようになり、民衆が礼楽の道を学べば民度が高まる、と」。こんな小さな武城の町でも礼楽を優先させたのだと、真顔で孔子を見上げる。孔子はおかしさを噛み殺しながら言った。「うむ、そうだ。諸君、子游の言葉が正しいのだぞ。なに、先程のはちょっと冗談を言ったまでだ」。
子游を除く一行の顔に笑いが浮かんだことが想像できる。孔子も再度「莞爾としてとして笑」ったことだろう。これもまた想像である。しかし、本章には明らかに「莞爾」「笑」「戯」という言葉が出ている。孔子は謹厳すぎる弟子をからかい、自分の思想をあまりにも細かく実現することもからかった。
孔子と「笑」、孔子と「戯」。これは意外と言えば意外である。現に、劇作家の飯沢匡は『武器としての笑い』(岩波新書)でこう書いている。
「笑いが下剋上の本質を持っていることを徳川の為政者は知っていた」「〔そのイデオロギーである〕儒教そのものも凡そユーモアのない道徳律であって、孔子の伝記を読むと、斉の景公のところで喜劇役者を斬り殺している。笑いにとって孔子は大きな敵なのである。論語を読んでもユーモアはどこにもない」。
斉の景公の前で喜劇役者を斬ったのは笑いを敵視したからではなく、随伴した魯の定公を暗殺から守るためであったし、そもそもこの事件(夾谷の会)そのものが史実かどうか疑わしい。
憲問篇にもこうある。
「楽しみて然る後に笑う、人その笑うことを厭わざるなり」(憲問十四の十四)。
楽しい時に笑うのは、これを軽薄だとして厭う人はいない。
論語は大きな誤解の中にある。論語を読んだことさえない知識人によって、誤解はさらに広められている。

諸橋轍次「論語の講義」では、次のように訳しています。

孔子は嘗て武城に行った。当時、門人の子游が宰(代官)としてこの武城を治めていたが、子游は礼楽による教化に努力したため、この村の至る所に琴を弾き歌を歌う声が聞かれた。この音声を聞いて子游の態度を打ち喜んだ孔子は、にっこり微笑を浮かべて、これは少し勿体なさすぎるようだ。小さな鶏の肉を切りさくには、牛をさく大きな刀を用いる必要はなさそうだが、と言った。(この言葉はもちろん、小村を治めるには子游では勿体ないと、子游を称賛した言葉であったが、子游はそれを文字通り、小村を治めるに礼楽の大道を用いる必要はない、という意味に解釈したらしい。そこで孔子に向かって、)むかし私(偃は子游の字)は、先生からこういうお話を伺ったことがあります。それは、上に立つ者(君子)が道を学べば、自然人民を愛するようになり、下にいて治められる者(小人)が道を学べば、自然使いやすい従順な人柄となる。要するに、治める者も治められる者も道を学ぶことが大切である、という教えでありました。それで私も武城において礼楽の道を以て教えているのであります、と答えた。これを聞いて孔子は供に従った門人達を顧み、なんじらよ、只今、偃が言った言葉が本当である。先ほど私が、鶏を割くに牛刀を用いる必要はないと言ったのは、偃に冗談を申したに過ぎない、と釈明した。

なるほど、学者の先生らしい正当派な解釈です。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

弟子の子游が武城の町の代官だった時に遊びに行ったら、音楽会で歓迎してくれたんだがね、曲が高尚なクラシックばかりだったんだよ。そこで、「町民にこんな高尚なものばかり聞かせているのかい。まるで、鶏を料理するのに牛を料理する大包丁を振りかざしているようだな」とからかったら、子游のやつがムキんなって、「わたしは、かつて先生から『政治家が文化を学べば人民を愛するようになり、庶民が文化を学べば使いやすくなる』とお聞きしました」と反論したんだ。部下たちの前で彼の顔をつぶすわけにもいかんから、「諸君、彼の言う通りだ。先ほどのは冗談だよ」と頭を下げたが、理論と実践のサジ加減を教えるのは難しいものだなァと、改めて思い知った次第だよ。

これは、思い切った解釈です。さすが、慶應義塾高校で生徒に最も人気のある授業をされた先生ですねぇ。実際は、こういうことだったのかもしれません。


五.「陽貨第十七、第五章」

公山弗擾以費畔。召。子欲往。子路不説曰、末之他已。何必公山氏之之也。子曰、夫召我者豈徒哉。如有用我者、吾其為東周乎。

公山弗擾(こうざんふつじょう)、費を以て畔(そむ)く。召(よ)ぶ。子往(ゆ)かんと欲す。子路説(よろこ)ばずして曰く、「之(ゆ)くこと末(な)からん。何ぞ必ずしも公山氏に之れ之(ゆ)かんや」。子曰く、「夫(そ)れ我を召(よ)ぶ者にして豈(あに)徒(と)ならんや。如(も)し我を用うる者有らば、吾は其れ東周を為さんか」。


呉智英著「現代人の論語」と諸橋轍次著「論語の講義」を参考にして現代訳します。

(孔子が数え年五十一歳の時のことという。孔子の生まれた魯の国では、野心家たちが国政を蹂躙していた。孔子は正しい政治のあり方を説いていたが、その言葉に耳を貸そうとする為政者はいなかった。)
(ある日、季〔孫〕氏の臣で費の宰である)公山弗擾〔こうざんふつじょう〕が(自分の治めている費の住民を率いて季〔孫〕氏に)謀叛を起こした。
(公山弗擾は、同じく季〔孫〕氏の臣でありながら魯の国を牛耳っていた陽虎と通じて、季〔孫〕氏の当時の君主である季桓子を捕らえて反旗を翻したのである。)
(そして、)公山弗擾は、孔子を(執政官として)招請した。
(譬えてみれば、革命軍の総司令官が臨時革命政府の首相として孔子を招いたのだ。)
孔子はこの招請に応じて出掛けようとした。(一本気の)子路はこれを不愉快に感じて次のように(孔子を)諫めたのである。
「(先生、招請に応じるのは)やめられたほうがよいでしょう。何もわざわざ謀叛人の公山弗擾の所に出掛けることはないでしょう」。
(この意見に対して、)孔子は次のように反論した。
「そもそも(正しい政治のあり方を説き続けている)自分を招く以上は、意味のないことではなく、何か考えることがあるからであろう。もし、(そのような気持ちで)私を用いてくれる者があれば、(それがどんな人物であろうとも、)出掛けて行って、かつての周のような理想的な社会をこの東方の魯の地に実現してみせるのじゃ」。
(これは、理想とする周のような国を、この魯の地において、是非とも実現してみたいという、孔子の強い希望を述べたのである。)


この章に出てくる重要な言葉(概念):

公山弗擾、東周

公山弗擾:姓や公山。『左伝』では不狃(ふじゅう)と書かれる。擾と狃とは音が通じるからである。字は子洩(しえい)という。
東周:周は陝西(せんせい)省の西安付近に都を置いていたが、幽王が犬戎(けんじゅう)に滅ぼされたため、子の平王が東遷(とうせん)して洛陽に都を立て、周王朝を復興した。幽王以前の周を西周といい、平王以後を東周と呼ぶ。孔子は公山弗擾の独立した費の町において、東周のように周を復興してみせるといったのである。
(以上、貝塚茂樹著「論語」から)


この章の解説:

現代語訳にあたり参考にした、呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。

…実は論語は読まれていない。読まれないまま、論語は、目上の者に随順たれと説いた書物だと思われている。そう思う人の論語評価は二つに分かれ、一派は、だから古くさい抑圧的な道徳の書だと批判し、反対の一派は、古くさく見えるけれどこれこそが真実の道徳だと擁護する。しかし、そもそも、論語は、目上の者に随順たれと説いているのだろうか。確かに、そのように説いた省もある。それとは全く反対のことを説いた章もある。本章のように、叛乱軍への参加を表明した章さえある。
(中略)
公山弗擾(こうざんふつじょう)の叛乱の結末がどのようなものであったのか、また、孔子が実際に叛乱に加わったのか否か、よくわかっていない。しかし、孔子は乱に参加しようとはしたのだ。
これだけではない。同篇第七章には、別の叛乱に孔子が参加しようとした話が出てくる。
「佛肸(ひつきつ)、召く。子往(ゆ)かんと欲す」(陽貨篇十七の七)。
これは、孔子六十三歳の時のことだとされる。孔子の生国魯の北西方向にある晋の国の中牟(ちゅうぼう)という町で、佛肸(ひつきつ)が叛乱を起こし、やはり孔子を召請した。この時も、孔子は「往かんと欲す」。そして、やはり子路が反対し、やはり同じような問答が続いている。
陽貨篇のこれらの章は、論語を買って書棚に置いただけの読者は知らない。経学儒教では、なるべく触れないようにしている。逆に強調されるのは、…「孝弟にして上を犯すことを好む者は鮮なし」の章である。しかし、これは孔子の言葉ではない。高弟の有子の言葉なのである。
孔子もむろん目上の者への敬意は説いた。その一方で、…叛乱軍に加わる意欲さえ持っていた。
論語は、しばしば体制変革期にその拠りどころとなった。とりわけ本章は、清末の思想家康有為(こうゆうい)が重視した。康有為は複雑な軌跡を持つ興味深い人物だが、旧弊を廃し社会変革を説く主著『大同書(だいどうしょ)』は「まぎれもなくラジカルな革命の書であった」。
論語について、孔子について、我々は知らないことが多すぎる。読んでもいないのに、知ったつもりになっていることが多すぎる。
ユニークな孔子像を描いた『孔子‥‥聖としての世俗者』(平凡社ライブラリー)の著者、ハーバード・フィンガレットは、同書の冒頭でこう語り始める。
「孔子を初めて読んだとき、私には、かつて世界の果てにいた凡庸な道学者としか映らなかった。彼の言葉を編んだ『論語』は、現代には通用しない大昔の教訓に過ぎないと感じた。しかしそれから次第に、孔子が私の知りうるかぎりでもっとも偉大な思想家の一人だと思うようになった」。
東洋思想を研究するカリフォルニア大学の哲学科の教授でさえ、論語を始めて読んだ時には「凡庸な道学者」の説く「大昔の教訓」だと思った。読んでさえいない人たちが、退屈な道徳書だと思うのも無理もない。

同じく、現代語訳の参考にした諸橋轍次著「論語の講義」には、次のように書いてあります。

君に弓引く謀叛人のもとに出掛けることは、もちろん名分上の一つの問題ではある。しかしそれにもまして孔子は、我が道を実現して、ともかくもこの乱世を平治することが自分に与えられた至上の命令と感じ、そのためには用いる人の如何は、必ずしもこれを問おうとしなかったのである。

この章から見えてくるのは、孔子の乱世を平治しようとする強い意欲と、普段説いている「正しい政治のあり方」との溝の深さに苦しんでいる俗人的な姿です。これが聖人の前に一人の人間である孔子像として、多くの人に共感されるのではないでしょうか。また、孔子に最も近い弟子である子路の、善く言えば信念を貫く、悪く言えば融通が利かない、その一本気な性格も浮き彫りになっています。他の弟子の誰よりも孔子を敬愛する子路が師を諫めている姿にも、多くの人が共感するのではないでしょうか。
いずれにしても、孔子も子路も「どう行動すべきか」ということに苦しんでいるわけでありまして、その人間的な葛藤がわたし達の心に響くのです。

そして、貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

公山不擾が孔子を召し出し、孔子がこれに応じようとした出来事をいつのこととするか、多くの異説がある。またこれを歴史的事実でないとして、この章全体を抹殺しようとする論者もある。異説を詳細に検討した結果、私はこれを歴史的事実と認め、…魯の定公八、九年つまり前五〇二年から五〇一年の間の出来事と定めた。定公八年、かねがね不遇であった季氏の一族と費宰の公山弗擾とが陽貨に保護を求めていた。陽貨は孟・叔・季三族を除く計画で、まず季桓子を殺して保護していた季寤(きご)を後継ぎとし、叔氏は好意をもつ叔孫輒(しゅくそんちょう)を後継ぎに立て、自分は孟懿子に代わって孟孫子の後となろうとした。兵を都内であげたが、失敗して国外に逃亡した。『左伝』によると、季氏の費城の城主であった公山不擾は、遠隔の地にあったため曲阜都内の戦闘には出兵が間に合わなかったが、おそらくこのとき季氏に反旗をひるがえしたと想像される。『左伝』には定公十二年、孔子が季氏の宰となった子路をして費城の城壁を破壊させようとしたとき、公山弗擾が費の兵を率いて曲阜都内に攻め込んだ事件がある。注釈家は公山不擾が費によって反乱したという『論語』の記述を、この『左伝』の十二年に結びつけるものがある。公山不擾が費城によって独立したのはこの年にはじまるのではなく、定公八年の陽貨のクーデターの後にはじまると解釈し、『論語』の話はこのときの反乱をさすとする…説である。私はこれをとったのである。公山不擾の加わった陽貨の挙兵の理由は、さきに述べたように季氏らの三氏を除くことにあった。三氏の専制に反感をいだき、この専制を打破することをはかっていた孔子は、これにかなり心を引かれたにちがいない。陽貨は晋国に亡命して…軍士として大功をたてているから、勇士としては抜群であった。第一章にあるとおり人を人とも思わぬ強引さは、孔子をして反発を感じさせ、三氏排撃の目的には共鳴しながら、そのもとに仕官することをためらわせた。…『左伝』によると(公山不擾は、引用者注)定公十二年の乱に敗れ、叔孫輒とともに斉国に逃亡している。哀公八年、呉国が魯国を北伐しようとしたとき、叔孫輒は魯国内の事情を述べて大いにこれを勧めた。公山不擾は「君子は亡命しても祖国の内情を敵国にもらすのは礼にそむく」として、叔孫輒を非難した。これによると、公山不擾は陽貨に比較すれば、礼を解する君子らしい面をもっていたのである。陽貨に反発した孔子が、公山不擾のもとにおもむこうとしたのはけっしてありえないことではないのである。


六.「陽貨第十七、第六章」

子張問仁於孔子。孔子曰、能行五者於天下、為仁矣。請問之。曰、恭・寛・信・敏・恵。恭則不侮。寛則得衆。信則人任焉。敏則有功。恵則足以使人。

子張 、仁を孔子に問う。孔子曰く、「能(よ)く五者を天下に行うを仁と為す」。之を請い問う。曰く、「恭・寛・信・敏・恵。恭なれば則ち侮らず。寛なれば則ち衆を得。信なれば則ち人任(にん)ず。敏なれば則ち功あり。恵なれば則ち以て人を使うに足る」。


子張が「仁(の人)とは、どのようなこと(人)でしょうか」と孔先生にたずねた。
孔先生は、次のように答えられた。
「五つのことを世に行うことができれば、それは仁(の人)といえるじゃろうのぉ」。
(子張は、)その五つのことを教えてくださいと、さらにたずねた。
孔先生は、次のように答えられた。
「(うむ、その五つのこととは、)恭・寛・信・敏・恵である。恭、すなわち、己を慎んで驕らなければ、人に侮られることはないはずじゃ。寛、すなわち、度量が大きければ、人望を得られる。信、すなわち、誠、言行一致であれば、人から信頼されよう。敏、すなわち、言に訥にして、行動に敏であれば、功績をあげることができるじゃろうのぉ。恵、すなわち、惜しまずに与えることができれば、(人が寄ってくるので、)人を使うことができるのじゃよ」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

侮らず、人任ず

侮らず:人から侮られないこと
人任ず:人から信頼されること


この章の解説:

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」には、次のように書いてあります。

弟子の子張が「仁とはどういうことですか」と訊くので、「まあ、いかなる環境でも五つのことを行えたら仁と言えるだろう」と答えたんだ。すると、「その五つをお教え下さい」と言うから、「恭・寛・信・敏・恵の五つさ。恭しければ人から侮られないですむ。寛容ならば人望を得られる。誠実であれば人から信用される。敏活だと仕事をこなせる。恵み深ければ、人も骨身を惜しまず働いてくれるだろう」と説明してやったよ。
「於天下」は「広い地域」というのが従来の訳だが、「いかなる状況や環境」の方が理解しやすいだろう。
堯曰第二十の三に、ほぼ同じことばが繰り返されている。


七.「陽貨第十七、第七章」

佛肸召。子欲往。子路曰、昔者由也聞諸夫子。曰、親於其身為不善者、君子不入也。佛肸以中牟畔。子之往也、如之何。子曰、然、有是言也。不曰堅乎、磨而不磷。不曰白乎、涅而不緇。吾豈匏瓜也哉。焉能繋而不食。

佛肸(ひつきつ)召(よ)ぶ。子往(ゆ)かんと欲す。子路曰く、「昔者(むかし)、由や諸(これ)を夫子に聞く。曰く、『親(みずか)ら其の身に於いて不善を為す者は、君子は入らず』と。佛肸中牟(ちゅうぼう)を以て畔(そむ)く。子の往くや之を如何」。子曰く、「然り、是(そ)の言あり。堅きを曰わずや、『磨すれども磷(りん)せず』と。白きを曰わずや『涅(でつ)すれども緇(し)せず』と。吾豈(あに)匏瓜(ほうか)ならんや。焉(いずく)んぞ能く繋(かか)りて食(くら)わざらん」。


(晋の大夫の趙〔ちょう〕氏の家来の佛肸〔ひつきつ〕が、自分が宰〔長官〕を務めている中牟〔ちゅうぼう〕という土地を拠点にして謀叛を起こした。)
(その)佛肸が(公山弗擾〔こうざんふつじょう〕の場合と同じく孔子を)招いた。孔子はその招請に応じて出掛けようとした。(すると、また一本気な)子路が(孔子の行動に反対して)次のように(孔子を)諫めた。
「昔、私(由)は、『自ら不善を行っている者の所には、君子は立ち入らないものである』と、先生から聞いております。しかしながら、佛肸は、中牟を拠点として、主君である趙(ちょう)氏に謀叛を起こしており、これは正に自ら不善を行っている者であります。そのような所に先生が行かれるというのは如何なものでしょうか。(日頃、先生が言っていることと今回やろうとしていることは矛盾するのではないでしょうか)」。
(これに対して)孔子は、次のように反論した。
「うむ。たしかに、嘗(かつ)てそのように言ったことがある。しかしながら、世間の諺に『本当に堅いものは、どんなにそれを磨いても薄くはならない』と言っておる。また、『本当に白いものは、どんなにそれを染めても黒くはならない』とも言っておる。つまり、本当に身を持することができる者は、いかなる境遇に入ろうとも、周囲の影響によって汚されることはない、ということじゃよ。(わしは仏肸の如き不善者の影響で汚されることは絶対にない。だから、心配するではない。由よ)それに、わしは苦瓜(にがうり)ではないぞ。苦瓜というのはのぉ、ただ木にぶら下がっているだけで、人に食べられることはない。(つまり、役立たずじゃ。由よ)わしはのぉ、苦瓜のような境遇に甘んじたくないのじゃ。(それが日頃言っておることと多少矛盾するところがあったとしても、わしはのぉ、今の乱れている世の中を変革したいのじゃよ)」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

佛肸、中牟

佛肸:晋の范氏の臣で、中牟の邑の宰であった。前四九七年、晋の趙簡子(ちょうかんし)が中牟を横領しようとして范氏、中行(ちゅうこう)氏を攻めたとき、これに抵抗するために衛国に帰属した。
中牟:中牟という地名は各地にあるので、そのどころあたるか、注釈家の間にいろいろの意見がある。
(以上、貝塚茂樹著「論語」を参考にした)


この章の解説:

ちょっと強引に訳したところもありますが、こんなところではないでしょうか。

諸橋轍次著「論語の講義」には、雍也第十七篇のこの章(七章)と五章については、叛乱の起こった時期からみて孔子が招請されるはずがなく、論語が編纂される過程で、戦国策士の筆が入ったのでないかという説が紹介されています。孔子を聖人として崇拝する立場からは、謀叛した者に荷担することになりかねない孔子の発言は認めがたいものであると思われます。しかし、その真偽の是非はさておき、わたしとしては、このように迷える「人間孔子」に魅力を感じます。「本当に堅いものは、どんなにそれを磨いても薄くはならない」とか、「本当に白いものは、どんなにそれを染めても黒くはならない」とか屁理屈を言って自分を正当化して、「わしは苦瓜(にがうり)ではないぞ。苦瓜というのはのぉ、ただ木にぶら下がっているだけで、人に食べられることはない。(つまり、役立たずじゃ)」と子路に語りかける孔子に魅力を感じるのです。そして、孔子がそのような本心を言える相手は恐らく子路しかいなかったではないでしょうか。子路はそれほどまで孔子に信頼されていたのです。孔子と子路の師弟関係は、他の弟子のそれとは、比べようがないほど深かったのでしょう。

宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。

仏肸なる者が孔子を招いたので、孔子が往きかかった。子路曰く、以前に私は先生から承りましたが、自分から進んで不善を為す者とは、諸君を決して仲間になるでない、とのことでした。仏肸は中牟の邑に拠って叛乱を起こしている所へ、先生が往かれるとは、どうしたことでしょうか。子曰く、そうだ。確かにそう言った。だが別の考えようもある。堅いことを形容する言葉に、いくら磨いてもすりねらぬ、というのがあり、白いことを形容する言葉に、いくら墨を塗っても黒く染まらぬ、というのがある。その続きに、匏瓜(ひょうたん)のように味のないことを形容して、ぶらりとさがったまま食われない、というのがあるが、君の言うようにすれば、私はまるで匏瓜のような役立たずということかね。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

晋国の佛肸がわたしを招いた時に、わたしは招きに応じようとしたんだが、弟子の子路とこんな問答をして、よしたことがあるよ。
「先生、わたしは以前に先生から『自ら進んで不善をなすような者のそばには君子は近づかないものだ』と教わりました。佛肸は中牟の地を拠点に謀反を起こしています。そんな奴の所へ先生はどうして出かけようとなさるのですか」。
「そう。確かに以前そう教えたのを覚えているよ。しかし、こういう諺もあるだろう。『ホントに堅いは、いくら研いでも薄くはならぬ。ホントに白いは泥にも染まらぬ』ってね。このわたしが佛肸ごときに丸め込まれると思うかい。わたしはね、ニガウリにはなりたくないんだよ。ぶらさがったまま人に食べられもせずに一生を終えるわけにはいかないんだよ」。


八.「陽貨第十七、第八章」

子曰、由、女六言・六蔽聞。対曰、未。居、吾女語。仁好学好、其蔽愚。知好学好、其蔽蕩。信好学好、其蔽賊。直好学好、蔽絞。勇好学好、蔽乱。剛好学好、蔽狂。

子曰く、「由や、女(なんじ)六言(ろくげん)・六蔽(ろくへい)を聞けりや」。対えて曰く、「未だし」。「居(お)れ、吾女に語(つ)げん。仁を好んで学を好まざれば、其の蔽や愚。知を好んで学を好まざれば、其の蔽や蕩(とう)。信を好んで学を好まざれば、其の蔽や賊。直を好んで学を好まざれば、その蔽や絞(こう)。勇を好んで学を好まざれば、その蔽や乱。剛を好んで学を好まざれば、その蔽や狂」。


(ある日、)孔先生が(子路の名を呼んで、次のように)言われた。「由よ、お前は六つの美徳には六つの弊害があることを聞いたことがあるかね」。
(子路が畏〔かしこ〕まって)応えて言うには、「まだ(聞いたことは)ございません」。
(すると、孔先生は姿勢を正して、次のように言われた)
「(そうか。まだ話しておらなかったか…。)まあ、そこに坐りなさい。(よい機会じゃ、)わしが話して聞かせよう。(簡単に言うと、六つの美徳はいずれも学が伴ってはじめて成就するのじゃ。これを詳しく言うと、)どんなに仁を好んでも(天地の道理に照らして義を立てて実践を重ねても)、学問をさぼっておると、心が蔽(おお)われて(仁が成就しないから)愚かになりがちじゃ。知識を習得することを好んでも、(実践が伴う)学問(活学の実践)をおろそかにすると、心が蔽(おお)われて(知が成就しないから、)やることなすこと、出鱈目になりがちじゃ。信を好んでも学問をさぼっておると、心が蔽(おお)われて(的はずれになり信が成就しないから、)人を傷つけ損なうことになりがちじゃ。直(素直であること)を好んでも、学問をさぼっておると、心が蔽(おお)われて(素直さが迷走・暴走して、直が成就しないから、)心が狭い窮屈な人間になりがちじゃ。勇を好んで(何事にも果敢に取り組んで)も学問をさぼっておると、(血気が勝り、勇が成就しないから、)単なる乱暴者になりがちじゃ。剛を好んで(固く決心して、それを貫き通して)も、学問をさぼっておると、心が蔽(おお)われて(独りよがりになるから、)徒(いたず)らに力を振り回す(軽挙妄動)ようになりがちじゃ」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

蔽:弊と通じる。さしさわり、つまり弊害。(貝塚茂樹著「論語」から)。


この章の解説:

複数の解説書を参考にしながらも、わたし自身の言葉で、大胆に意訳しました。子路はじっくりと考える前に実践してしまうタイプの人物です。ここで言う学を好むというのは、単に知識を習得するということではなく、習得した知識を実践する(所謂、学んで時に之を習う)ことです。子路は「聞くことありて未だ之を行うこと能(あた)わざれば、惟(ただ)聞くことあるを恐る(聞いたことを実行できないうちは、新たに聞くことをひたすら恐れた)公冶長第五、第十三章」という人物です。インプット知識をひたむきに実践して、自分のものにする(アウトプットする)までは、新しい知識をインプットすることができない性分だったのです。それが場合によっては六つの弊害につながることがないように、孔子は子路に六つの美徳と弊害の関係を諭したのでした。

呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。

…子路は俗物ではない。子路は孔子より若いこと九歳、孔子最初期の弟子である。おそらく孔子が三十歳代の頃に入門したのだろう。当時孔子は無位無官の思想家、いや反社会的な危険分子と思われていた可能性もある。その弟子になろうというのだから、栄達を求める秀才タイプであろうはずがない。書記の弟子として記録に残っている者は少ないが、彼らは概して秀才型ではない。なかでも、子路はとりわけそうである。子路は元遊侠の徒であった。
それが何故孔子の弟子となったのか。
遊侠の徒子路は、孔子なる人物が賢者だという評判を聞いて、腹が立った。なにが賢者だ。そいつと俺とどっちが強い。子路は鶏の羽根でけばけばしく飾った冠をつけ、太刀を佩(は)いて、孔子の住居(すまい)に赴いた。出てきたのは、武人である父の血を引く大柄な男。しかし、物腰は穏やかで、子路に脅える様子もない。
孔子は子路にこう問うたと、中島敦は『弟子』に書く。
「汝、何をか好む」。
子路は昂然と答える。
「我、長剣を好む」。
孔子は、子路のその気負った態度に微笑をもって答え、学問の意義を諄々と説いた。
「勇を好みて学を好まざれば、其の蔽や乱」(陽貨篇十七の八)。
勇を好んでも学を好まなければ、その弊害は乱れとなって現れるのだよ。
子路はこのような言葉を初めて聞き、このような自信にあふれた人間に初めて出会った。そして、たちまち孔子に惚れ込み、弟子となった。
…聖書の中のペテロを思い浮かべる(マタイ福音書四の十八から二十)。
イエスがガリラヤの海岸を歩いていると、二人の若者が海に網を打っているのに出会った。ペテロとアンデレの兄弟である。イエスは二人に言った。
「私について来なさい。お前たちを人間を漁(すなど)る漁師にしてあげよう」。
ペテロとアンデレは、ただちに網を捨ててイエスに従った。
ペテロはその名の通り岩(ペテロ)のようにがっしりしており、イエス逮捕の時は剣を抜いて捕吏に切りつけている(ヨハネ福音書十八の十一)。
こんなにも強健な人間が、言葉の力の前に首を垂れる。そして理想の無力なるに、健全な疑いを抱く。思想をめぐるドラマの原型がここにある。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

この条も前につづいて子路との問答のかたちをとる。
由よ、お前は六つの概念についての六つの弊害、それを聞いたことがあるか。「六言」とは、すなわち下に見える仁知信直勇剛であると、古注にいう。子路の答え。いやまだ承っていません。
居れ、吾れ女に語(つ)げん。お坐りなさい、話してあげよう。「居」の字の原義は、「すわる」であり、ここは原義のままに使われている。先生に教えを請う場合、弟子は一度立ちあがること、「礼記」の「曲礼」の上篇に、「業(おしえ)を請えば則ち起ち、益を請えば則ち起つ」とあるように、子路も一度立ちあがったのを、坐らせたのである。
仁は美徳である。しかし盲目的に仁を好むばかりで学問を好まなければ、その弊害はただのお人よしになる。以下同じように、学問を伴わない盲目的な知識の愛好、その弊害はでたらめ。盲目的な信義の弊害は、過度の深刻さ。盲目的な正直の弊害は、人を絞め上げるような窮屈さ。盲目的な勇気の弊害は、無秩序。盲目的な硬骨の弊害は、狂気。
学問教養による調整を経ない限り、六つの美徳は、六つの弊害を生む、というのである。適当な教えであるといわねばならない。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

この孔子の子路に語ることばは、「居れ、吾女に語らん」と前置きしている。これは、この篇の第一章で述べたように、孔子の学園で師匠が弟子にあらたまって教訓や故事などを語り聞かせるときのいい出しの形式である。弟子は座から立ち上がって先生に教訓をせがむ。先生は弟子をすわらせ、いずまいを正し、あらたまって物語をはじめる。その内容は、この章のように教訓を箇条書きにしたものが多く、暗唱に便利なように句の形が整理され、図式的になっている。

諸橋轍次著「論語の講義」には、次のように書いてあります。

要するに、六者は美徳ではあるが、その美徳を全うするためには、広い見識を立てるための学問が必要であることを教えたものである。

宇野哲人著「論語新釈」には、次のように書いてあります。

この章は子路に学を好んでその徳を為すべきことを告げたのである。信・直・勇・剛はすべて子路の好むところについて言ったのである。仁知は天下の大道(だいどう)の名目を統(す)べて言ったのである。故にこれを先にしたのである。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

弟子の子路に「お前は六つの徳に関する六つの弊害ということを聞いたことがあるかい」と訊いたら、「いいえ、聞いておりません」と答えるから、「じゃあ、お坐り、教えてあげよう。慈愛を好んでも、行きすぎれば情に流される。知識を好んでも、それだけではただの物知りで終わってしまう。誠実を好んでも軽信や過信という弊害を生む。正直を好んでも偏屈になってしまうこともある。勇気を好んでも行きすぎればただの乱暴と変わりない。剛毅を好んでもバランスを欠けば激情となる。せっかくの徳が弊害に陥らないようにするにはどうしたらいいか。学問の裏付けが肝心なんだよ。先人の行為や業績をしっかりと学んで独断に陥らないようにすることがね」と話して聞かせたよ。


九.「陽貨第十七、第九章」

子曰、小子何莫学夫詩。詩可以興、可以観、可以郡、可以怨。迩之事父、遠之事君、多識於鳥獣草木之名。

子曰く、小子何ぞ夫(か)の詩を学ぶ莫き。詩は以て興すべく、以て観るべく、以て郡すべく、以て怨むべし。之を迩(ちか)くしては父に事え、之を遠くしては君に事え、多く鳥獣草木の名を識(し)る。


先生がおっしゃった。
「諸君は何故あの詩経を学ばないのじゃ。詩経を学べば、喩えてものを言う柔らかな言葉遣いができるようになる。風俗人情を観察することもできる。衆人と共にいて和らぐこともできる。怨みが怒りに発して過ちを犯すこともなくなる。また、身近なところでは家庭において父母に仕える道を知ることができる。さらに、遠いところでは社会において君に仕える道を知ることができる。おまけに、沢山の鳥獣や草木の名を覚えて博識になることもできる。(それなのに、どうして詩経を学ばないのじゃ…)」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

小子:郷党で、老人の師つまり子が、若い衆を少子と呼んだ。孔子の学園では、その形式を取り入れた。子つまり孔子は、弟子を若い衆と呼んだ。(貝塚茂樹著「論語」から)


この章の解説:

諸橋轍次著「論語の講義」には、「詩経の詩は、比喩を以て物を諷することが多い。又詩は人情の自然の発露であり、自然に世態人情を観察することができる。また人情に発しているから、大勢の人と共に和らぐことができる。そして怨みを以て怒りに発することがない。さらに詩を学べば家庭・社会・国家における人としての道を知ることができる。さらに詩経の詩は、その中に森羅万象を詠じているから、おのずから博識となる(以上白倉が要約)」とあります。

呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。

論語の中には「詩」という言葉がよく出てくる。これは現代人の思い浮かべる詩とは少しちがう。我々は詩一般を考えがちだが、論語に言う詩とは詩経にある詩、もしくは詩経そのもののことである。詩経に収められた詩は、諸国の民間歌謡(国風)、宮廷詩人の詩歌(雅)、先王たちの事績を称えた詩歌(頌)から成り立っている。日本における万葉集のようなものだと思えば、わりと近いだろう。
(中略)
孔子は弟子たちに言う。君たち、詩経を学ばなければいけない。なぜならば、詩は感動を呼び興こし、また、観察力を養い、さらに、ともに詠ずれば友情が深まり、しかも、社会批判を巧みに表現することもできるからだ。身近には、孝について考えさせ、広くは、政治について考えさせ、博識になって鳥獣草木の名にも詳しくなる。
「小子(君たち)」という呼びかけの言葉が入っている分だけ、いささか噛んで含める趣きがある。怠惰に流れがちな弟子たちに、勉強するとこんなにいいことがあるんだよと、効用主義的に叱咤激励しているのだ。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

わたしは常々こう言っているんだ。「弟子たちよ、もっともっと詩を学ばにゃいかんぞ。詩は心の反応を豊かにし、観察力を増すぞ。詩を通して友人や仲間もつくれるし、政治は批判だってできるじゃないか。家にいては親に仕え、世の中に出ては君主に仕えるのにも役立つんだよ。第一、鳥獣や草木の名前を沢山覚えられるじゃないか」とね。


十.「陽貨第十七、第十章」

子謂伯魚曰、女為周南・召南矣乎。人而不為周南・召南、其猶正牆面而立与。

子、伯魚に謂いて曰く、「女周南(しゅうなん)・召南(しょうなん)を為(まな)びたりや。人にして周南・召南を為ばずんば、其れ猶お正しく牆(かき)に面して立つが如きか」。


先生が息子の伯魚に向かって言われた。
「お前は(詩経の)周南・召南を学んだか。周南・召南を学ばなかったら、顔を壁に面と向けて立っているような(人の内面的な美しさが見えない、情の欠けた)人になってしまうぞ。(だから、周南・召南を学びなさい)」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

周南・召南:『詩経』国風の最初の二巻の名。周の名相周公・召公の感化の及んだ地方の国風、国ぶり歌。民謡の形式をとっている。(貝塚茂樹著「論語」から)


この章の解説:

宇野哲人「論語新釈」には、「この章は孔子が己の子に詩を学ぶ要処を告げたのである。周南・召南には人情と道理が備わっている。人情と道理の上に通じないところがあれば家庭の間でも多くの障碍(しょうがい)がある」とあります。

伯魚には、孔子の血が受け継がれておらず、その教えを継承することはできませんでした。不肖の息子と言っていいでしょう。しかし、自分の息子ですから可愛かったのだと思います。それは人の親になって初めて分かる気持ちでしょう。伯魚は凡才でしたが、その子、つまり孔子の孫である子思は孔子の血を引き継いでおり、孔子晩年の弟子たちと共に論語の編纂にあたったと言われております。

呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。

周南・召南というのは、詩経国風の初めに出てくる周南地方の歌と召南地方の歌のことである。その最初の「関雎(かんしょ)」は、河の中州に水鳥(雎)が楽しげに鳴き交わし(関はその声)ながら遊ぶ様を歌い、本来は恋歌、結婚歌であったらしい。孔子は、こののびやかな歌を好み、「関雎の終わりは、洋々乎(ようようこ)として耳に盈(み)てるかな」(泰伯篇八の十五)、関雎の歌の終わりのところは、のびのびとしていて耳に満ちあふれるようだね、と絶賛している。
その周南・召南の詩を、お前は学んだか。孔子は息子の鯉に問う。人間として、周南・召南を知らなかったら、まるで塀を前にして立っているようなもので、何も見えないのだよ。
…効用主義というほどではないにしろ、詩によって人生を学べと教えているようにも思える。一説には、鯉が結婚を考える年齢になっていたからだと言われるが、それも納得できないではない。

諸橋轍次「論語の講義」には、「この章も前章同様、詩経の大切であることを教えたものである」と書いてあります。

宇野哲人「論語新釈」には、「この章は孔子が己の子に詩を学ぶ要処を告げたのである。周南・召南には人情と道理が備わっている。人情と道理の上に通じないところがあれば家庭の間でも多くの障碍(しょうがい)がある。故に『牆(かき)に面す』と曰ったのである(徐岩泉〔じょがんせん〕による)」と書いてあります。


十一.「陽貨第十七、第十一章」

子曰、礼云礼云。玉帛云乎哉。楽云楽云。鐘鼓云乎哉。

子曰く、礼と云い礼と云う。玉帛(ぎょくはく)を云わんや。楽と云い楽と云う。鐘鼓(しょうこ)を云わんや。


先生がおっしゃった。
「礼だ、礼だとよくいうが、(それは礼物として用いる)玉(ぎょく)や帛(はく)のことをいうのかね。(そうではなかろう。礼の根本は敬う心にあるのじゃ。)また、楽だ、楽だというが、(楽器の)鐘や太鼓のことをいうのかね(。そうではなかろう。楽の根本は和らぐ心にあるのじゃ)」。


この章の解説:

呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。

「先生がおっしゃった。礼だ礼だと言う。それは、儀式に使う玉器(ぎょくき)や絹衣(きぬごろも)のことなのか。楽だ楽だと言う。それは鐘や太鼓のことなのか」。
えてして体系化された文化は形式主義に陥りやすい。孔子はそれを厳にいましめてもいるのである。

また、次のようにも書いてあります。

先生がおっしゃる。礼、礼といっても、正装で身につける玉の飾りや絹布のことだろうか。楽、楽といっても、鐘や太鼓のことだろうか。礼も楽も、道具や形式より、その精神が大切なのだ。
礼楽は仁を実現するためのものではないか。
「人にして仁ならずんば、礼を如何。人にして仁ならずんば、楽を如何」(八佾篇三の三)。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

礼では玉帛のような文物制度のきまり、音楽では楽器のことをやかましくいうが、弟子たちとくに子張・子夏・子游などの若い弟子たちは、とかく本質、礼楽の精神を忘れているので、戒めたのであろう。


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 2007.8.12  論語意訳−30


季氏篇第十六


「季氏篇」について、貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

この篇は、第一章の「季氏、将に顓臾(せんゆ)を伐たんとす」の最初の二字をとって名づけられた。第一章は『論語』の中では長文の章であるにもかかわらず、その歴史的現実性はかなり問題とされている。この篇を特徴づけるのは、むしろ第二章・第三章の、春秋時代の下剋上の政治社会の不安定性を指摘し、来たるべき社会の姿を暗示した孔子の予言的発想にある。それにつづいて、第四章・第五章・第六章・第七章・第十章などは、益者三友・損者三友・益者三楽・損者三楽・三愆(けん)・三戒・三畏・九思など、箇条書きにした徳目の叙述がある。孔子が世を去り、すでに孔子をまのあたりに見ることができなくなった孫弟子以下の時代になると、孔子に人格的に接触し、会話を通して教育を受ける道は閉ざされてしまった。孔子のことばをまとめ、教義として固定し、徳目を箇条書きにして暗唱して伝える傾向が出てきた。この篇の大部分は、こういう時代の孔子学園の中で編纂された、後期の『論語』諸篇のもつ一つの性格を典型的に示しているといえよう。

また、吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

朱子の集注に、「洪氏曰わく、此の篇を、或るひとは以て斉論なりと為す」というのを引用する。洪氏とは南宋初年の文献学者洪興祖(こうこうそ)であり、「斉論」とは、斉すなわち山東地方の学者の伝えた「論語」のテキストを意味する。漢時代の「論語」のテキストには、古代文字で記した「古論」と、魯の地方の学者の伝えた「魯論」と、斉の地方の学者の伝えた「斉論」と、以上三つの種類があったことが、「漢書芸文志(かんじょげいもんし)」その他に見えるが、この篇は、他の篇との間に、内容の差違が感ぜられるところから、他とは伝承の経過を異にして、「斉論」ではないか、と疑ったのである。…この篇では、孔子の言葉を、つねに「孔子曰わく」としるし、「子曰わく」といわない点、三友、三楽、九思など個条書きが多い点、などから思いついたらしく、はっきりした証拠を、それ以上もつわけではない。しかし卓抜な見解と思うのであって、果たして「斉論」の系統であるかどうかはさておき、内容なり書きぶりが、他の篇と異なることは、たしかである。


一.「季氏第十六、第一章」

季氏将伐顓臾。冉有季路見於孔子曰、季氏将有事於顓臾。孔子曰、求、無及爾是過与。夫顓臾、昔者先王以為東蒙主。且在邦域之中矣。是社稷之臣也。何以伐為。冉有曰、夫子欲之。吾二臣者、皆不欲也。孔子曰、求、周任有言、曰、陳力就列、不能者止。危而不持、顚而不扶、則将焉用彼相矣。且爾言過矣。虎兕出於柙、龜玉毀於櫝中、是誰之過与。冉有曰、今夫顓臾、固而近於費、今不取、後世必為子孫憂。孔子曰、求、君子疾夫舎曰欲之、而必為之辞。丘也聞、有国有家者、不患寡而患不均。不患貧而患不安。蓋均無貧、和無寡、安無傾。夫如是。故遠人不服、即脩文徳以来之。既来之、則安之。今由与求也、相夫子、遠人不服而不能来也。邦分崩離析而不能守也。而謀動干戈於邦内。吾恐季孫之憂不在顓臾、而在簫墻之内也。

季氏将に顓臾(せんゆ)を伐たんとす。冉有、季路、孔子に見(まみ)えて曰く、「季氏将に顓臾に事あらんとす」。孔子曰く、「求、及(すなわ)ち爾の是れ過(あやま)りてる無からんや。夫(そ)れ顓臾は昔者(むかし)先王以て東蒙(とうもう)の主と為す。且つ邦域の中(うち)に在り。是れ社稷の臣なり。何ぞ伐つを以て為さん」。冉有曰く、「夫子之を欲す。吾二臣は皆欲せざるなり」。孔子曰く、「求、周任(しゅうにん)言えることあり、曰く、『力を陳(の)べて列に就き、能(あた)わざれば止(や)む』と。危うくして持せず、顚(くつがえ)りて扶(たす)けずんば、則ち将(は)た焉んぞ彼の相(しょう)を用いん。且つ爾の言過(あやま)てり。虎兕柙(じこう)より出で、龜玉(きぎょく)櫝中(とくちゅう)に毀(やぶ)るれば、是誰の過ちぞや」。冉有曰く、「今夫の顓臾は、固くして費に近し、今取らずんば、後世必ず子孫の憂いを為さん」。孔子曰く、「求、君子は夫の之を欲すと曰うを舎(お)き、而して必ず之が辞を為すを疾(にく)む。丘や聞く、『国を保ち家を有(たも)つ者は、寡(すく)なきを患えずして均(ひと)しからざるを患う。貧しきを患えずして安からざるを患う』と。蓋(けだ)し、均しければ貧しきこと無く、和らげば寡なきこと無く、安ければ傾くこと無し。夫れ是(かく)の如し。故に遠人(えんじん)服せざれば即ち文徳を脩めて以て之を来す。既に之を来せば則ち之を安んず。今由と求とは、夫子を助け、遠人服せざれども来す能わず。邦分(ぶん)崩離(ほうり)析(せき)すれども守る能わず。而して干戈(かんか)を邦内(ほうだい)に動かさんことを謀る。吾は恐る、季孫の憂いは顓臾に在らずして簫墻(しょうしょう)の内に在らんことを」。


(魯の大夫の)季(孫)氏(当主は季康子…きこうし)が、(魯の属国である)顓臾(せんゆ)に侵攻しようとしていた。(季〔孫〕氏の家臣となっていた)冉有(冉求)と季路(子路)の二人が孔先生に面会して、次のように言った。
「季(孫)氏が顓臾(せんゆ)に戦いをしかけようとしております(が、如何でしょう)」。(孔子の助言により、その可否を決定しようとしたのであろう。しかし、冉有は季〔孫〕氏のために重税を課して民を苦しめ季氏を富ませようとしていたことから)孔先生は(冉有のことを責めて)次にように答えた。
「求(冉有)よ、お前は間違っているのではないか。顓臾(せんゆ)という国は、その昔、周王(成王とその叔父周公旦)がわが国(魯)の東蒙山(とうもうざん)の麓に封(ほう)じて、その山の祭りをつかさどらせた国であり、魯の領地内の国である。すなわち、(別格ながらわが国魯と運命をともにする)わが国魯の臣である。(季〔孫〕氏がこれを攻めるのは、周王〔成王と周公旦〕の命を無視することになるのに)どうしてそれを侵攻しようとするのか」。
(季〔孫〕氏が顓臾〔せんゆ〕を侵攻しようとしたのは、魯の哀公十一年の事実である。当時、魯国の収入の四分の二を季〔孫〕氏が取り、孟孫氏、叔孫氏がそれぞれ一を取って、周王の系統である君主はそれ以外の収入に依っていた。顓臾〔せんゆ〕は君主に直属する国であるが、季〔孫〕氏はそれを攻めて、勢力の拡大を謀ろうとしていたのである。)
(すると)冉有は次のようないいわけを言った。
「季(孫)氏が望んでいるのでありまして、われわれ二人は望んでいるのではありません」。
(それに対して)孔先生は次のように言った。
「求よ、古(いにしえ)の史官である周任(しゅうにん)がこう言っている。『力を尽くして職にあたり、駄目な時には辞める』と。危なくなっても支えることなく、転びそうになっても助け起こすことができないようであるならば、いったいどうしてあの方(季〔孫〕氏の当主である季康子)の補佐が務まろうか。そのうえ、お前(求)の言うことは間違っている。虎や野牛が檻(おり)から脱走したり、占いで用いる亀の甲や玉が箱の中で壊れてしまったとしたら、それは誰の責任であろうか(管理者である、お前の責任ではないのか)」。
(すると)冉有は次のようなこと(本音)を言った。
「今の顓臾(せんゆ)は城郭が堅固で軍備も整っております上に、(季〔孫〕氏の領地である)費の近くにありますから、今のうちに攻めておかないと、後世、必ず子孫にとって火種となります」。
(それに対して)孔先生が次のように言った。
「求よ、君士たる者は、本音を隠して、あれこれ理屈を言ってはならんのだ。わしはこう学んだ。『国や家を治める者は、民が少ないことなど気にしないで、政治が公平に行われていないことを気にするのである。また、財政が乏しいことなど気にしないで、民が平安に暮らせないことをきにするのである』。つまり、政治が公平であれば、民が少ないなどということはない。平安に暮らせれば(財政が乏しくて)国が傾くことなどない。こういうことであるから、(為政者の目が届かない)遠くの人が服従しないのであれば、(為政者は)人の道(文徳)を尽くして、民が自然に服するようにするべきである。(そして、)民が自然に服するようになったら、民が平安に暮らせるようにするのである。(それなのに、)今、由と求は、あの方(季〔孫〕氏の当主である季康子)を補佐する立場にありながら、遠くの人を服従することができないでいる。(このまま顓臾〔せんゆ〕を侵攻すれば、)国は乱れて運営することができなくなってしまう。しかも武器(軍隊)を(対外的ではなく)国内で用いようとしている。(わしは思うのだが、)季(孫)氏の心配事は、顓臾(せんゆ)の問題にあるのではなくて、国家組織の内側に問題があるのではないか」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

顓臾(せんゆ)・東蒙(とうもう):周のはじめ魯国が曲阜に建国したとき、この地方の原住民は…魯の属国とされた。顓臾はその一国、東蒙の山神の祭主となったという。その東蒙山すなわち蒙山は魯の東方、山東省蒙陰県の南にあり、季氏の本拠の費城に近い。
社稷の臣:社は土神、稷は穀物の神。魯国の君は都にこの神社を設置して祭った。社稷は春秋時代には国家の象徴として考えられたから、社稷の臣とは国家に直属するもの、つまり属国であることをさしている。
周任(しゅうにん):周の開国時代、文王のころの周の大史、つまり歴史記録官であったという。この人のことばというのが断片的に引用されて残っている。
虎兕柙(じこう)より出ず:「柙」は穀物を入れておく檻(おり)。兕は野牛に似た一角の獣。虎と兕が檻から逃げ出すというのは、何か古い故事、つまり伝説があるのかもしれない。
龜玉(きぎょく)櫝中(とくちゅう)に毀(やぶ)る:亀の甲は神聖な卜(うらな)いの道具として貴重品であり、「玉」はこれと並ぶ宝物であった。「櫝」はまた匱(き)といい、貴重品をしまう箱である。これも物語となっていたらしい。
簫墻(しょうしょう):門内が見通しになるのを防ぐため門内の正面に作った塀である。「簫墻の内」とは、門内、この場合はつまり季氏の家の内。そこから災いが起こるとは、季氏の執事の陽虎が前五〇五年に季桓氏を捕らえて、前五〇二年まで魯を専制することをさすというが、これは問題である。
(以上、貝塚茂樹著「論語」を参考にした)


この章の解説:

この章では子路の影は薄く、冉有が主人公で。冉有の精神的な弱さが見事に描き出されています。最初、冉有は孔子に対して、「冉有と子路が仕えている君が望んでいるのであり、われわれが望んでいるのではない」と言っておきながら、「実は、君が望んでいる通りにやらなければ、国が危ういのです」と本心では自分も望んでいることを漏らします。すかさず、孔子は、「君子は、本音を隠して、あれこれ理屈を言ってはならん」と冉有を諭します。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

魯国の原住民の属国で、東蒙の山神の祭祀を受け持っていた顓臾を、季氏が征伐しようと企図しているのを、季氏の臣となっていた冉有・子路が報告にきて、孔子から激しくしかられた。この出来事はいつのことであるかは問題である。…この章で述べられているように両者が季氏の朝に並び立ったことはありえないという。…ここでは冉有が主役で、子路はまったくあってもなくてもよい端役でしかない。子路を冉有の同役とした点は、この章の筆者の誤りかもしれない。子路を除き、冉有だけの問題とすると、それは歴史的事実であるかもしれない。顓臾を征伐する計画はあったが、孔子から元気づけられた冉有が、いさめて季氏に思いとどまらせたので、歴史の表面に出ていないのだとすれば説明がつくからである。
(中略)ただこの孔子の長い弁論を歴史的事実に結びつけるときに、多くの時代錯誤が起こった。冉有と子路とを同時に季氏の宰として取り扱ったのが第一点である。孔子の予言を陽虎のクーデターと結びつけるのが第二点である。陽虎のクーデターは前五〇五年から五〇二年である。これにたいして冉有は、二十年後の前四八四年にはじめて季氏の宰となったのであるから、この話は時代的に成立しないのである。


二.「季氏第十六、第二章」

孔子曰、天下有道、則礼楽征伐自天子出。天下無道、則礼楽征伐自諸侯出。自諸侯出、蓋十世希不失矣。自大夫出、五世希不失矣。陪臣執国命、三世希不失矣。天下有道、則政不在大夫。天下有道、則庶人不議。

孔子曰く、天下道あれば則ち礼楽征伐天子より出づ。天下道なければ則ち礼楽征伐諸侯より出づ。諸侯より出づれば、蓋(けだ)し十世失わざること希(まれ)なり。大夫より出づれば五世失わざること希なり。陪臣国命を執れば、三世失わざること希なり。天下道あれば則ち政大夫に在らず。天下道あれば則ち庶人(しょじん)議せず。


孔先生がおっしゃった。
「天下に道がある時は、礼楽や征伐(の命令)は天子から出される(ように、実権が天子にある)。天下に道がない時は、礼楽や征伐(の命令)は諸侯から出される(ように、実権は諸侯にある)。(命令が)諸侯から出されると、およそ十世代の間に失敗しない者は希である(ように、やがて世が乱れる)。大夫から出されると、五代の間に失敗しない者は希である(ように、やがて世が乱れる)。陪臣(家来)が国の要(かなめ)を握ると、三世代の間に失敗しない者は希である(ように、やがて世が乱れる)。天下に道があれば、政治の実権は大夫の手には落ちないし、天下に道があれば、下々(しもじも)の者は政治の話などしない(ですむほど、平和な世の中が続く)ものである」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

大夫、陪臣
大夫:諸侯の重臣
陪臣:諸侯の大夫の家につかえる家臣。諸侯から見ると陪臣になる
(以上、貝塚茂樹著「論語」から)


この章の解説:

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

春秋時代は下剋上の世界であった。周王朝の天子の全国を支配する権利は、諸侯とくにその中の覇者の手に移っていた。諸侯の国家を支配する権利は、その大夫つまり豪族の重臣の手に帰し、さらに豪族の家令つまり陪臣の手に移った。しかし、下剋上の運動は加速度をもって進行するので、その政権の安定する期間は十代から五代、三代と縮まってきた。こういう下剋上の政権の転移のありさまを図式によって示すとともに、この無秩序の状態はいつかは極限に達し、天下に新しい秩序が回復される事態が再び出現することを予見し、また待望しているのが、この孔子のことばである。こういう未来への予見と待望は、晩年の孔子の心の中にしだいに起こって来つつあった。しかし、孔子の頭脳の中で、ここに述べられたような図式が、はっきりと形成されたわけではない。孔子の学説が弟子・孫弟子、さらにその弟子に伝わってゆく間に、しだいに体系化され、図式が明瞭になっていったのである。現在、儒教学説史の研究家、たとえば武内義雄博士は、魯から斉に移った孫弟子以後の時代に、この図式は成され、孔子が『春秋』を制作することにより、この図式を暗示し、未来にたいして到来する社会を予言し暗示したという説を生んだのだとされる。ここに引かれた孔子のことばも、この斉学派の解釈によって書かれているので、孔子のもとのことばではないとされている。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

この条を理解するためには、儒家が理想とした社会体制、それをまずいっておくのが便利であろう。すなわち世界は次の五つの身分による秩序から、成り立つべしとするのである。
一、王、またの名は天子。世界全体の文化と政治の責任者として、世界全体に君臨する。ただし直接に統治するのは、王城と呼ばれる首都周辺の畿内の土地と人民だけである。その身分は世襲であり、革命によらない限り、交替しない。周の時代では、周の王。
二、諸侯。各地方の君主として、領土と人民をもちつつ、最高の君主である王すなわち天子に服属する。たとえば孔子の生国である魯では魯侯。その身分は世襲である。
三、大夫。重臣。王もそれをもつが、多くの場合、諸侯のそれを意味する。その諸侯に対する関係は、諸侯の王に対する関係に似るが、諸侯の身分が必ず世襲であるのに対し、大夫は必ずしも世襲でない。また諸侯が必ず領土と人民をもつのに対し、大夫は必ずしももたない。現実には、魯の季孫氏、叔孫氏、仲孫氏のように世襲であり、領土と人民をもつものが多かったが、孔子自身のごとく、世襲によらずして大夫の地位にいる場合もあった。
四、士。王の政府もしくは諸侯の政府における大夫以外の官僚。官職をもつだけで、領土をもたない。またその身分は世襲でないのを理想とする。
五、庶人。あるいは庶。一般人。上述の王、諸侯、大夫、士の四者は、治者であり、政治と文化への責任を、その身分に応じて分有するのに対し、庶はもっぱら被治者であって、政治と文化に対する責任を、直接にはもたない。
さてこの条の孔子の言葉の意味は、世界に秩序がある時代には、文化の法則である礼と音楽についての掟、また不正なものを除去するための戦争、いずれも世界全体に対する責任者である天子を中心として、発動される。つまり天子が文化と政治の源泉である。しかるに世界が秩序を失えば、諸侯がそれらの源泉となる。これは、正しからぬ状態であるから、ある世代まではつづくとしても、十世代もつづけば、おおむね失敗し、崩壊する。「失わざること希なり矣」、失敗しない場合は、むしろまれである。さらに秩序を失って、もう一つ下の地位である大夫が源泉となれば、五世代のうちに崩壊する。さらに一層秩序を失って、「陪臣」、というのは大夫の家臣であって、上の五種類の規定としてはあらわれない身分であるが、それが国家の政令をにぎれば、三世代たたぬうちに失敗する。いいかえれば、世界に秩序がある場合には、政治は家老の手にない。また世界に秩序がある場合には、最下の身分である庶民は、政治についての議論をしない。
以上のように読めるこの章は、明らかに、民主的な思想でない。文化も政治も、一人の天子を中心にして行われることが、最も秩序ある世界と考えられている。人間の社会が秩序をもつためには、身分、階層を必須とするという考え、それが孔子にあったことは、「論語」の他の条からも推測されるが、ここに提示された図式はあまりにもきびしい。この条が孔子の言葉そのままであるかどうか、私には疑問に思える。あるいは、孔子のころの中国の現実は、この条に述べるところとは、甚だしく異なっていたところからおこった反撥なのであろうか。天子すなわち周の王室の権威は失墜し、斉の桓公、晋の文公以後、礼楽征伐は、諸侯から出ていた。また魯の国内では、季孫氏その他の大夫が実権をにぎり、魯侯は虚位を擁するのみであった。さらにまた、その季孫氏のいえでも、家臣である陽貨、すなわちこの条の言葉をつかえば「陪臣」である陽貨が、主人の季孫氏をしのぐ、という下剋上の状態が、現実にはおこりつつあった。

呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。

本講で紹介する章は、さほど面白い章ではない。しかし、論語への誤解を解く意味において注目すべき一章である。
前にも述べたように、我々は何となく、論語には、目上の者に随順たれという道徳がくり返し説かれていると思っている。なぜなら、儒教的な“封建道徳”なるものは「支配的立場にある人が下の人を、文句を言わ〔さ〕ずに服従させる」(『新明解国語辞典』)ためにあると思っているからだ。当然、社会の最も上にある人、すなわち「天子」への随順は最も強調され、論語中に頻繁に出てくると、何の根拠もなく信じている。
しかし、論語全五百章に「天子」の語が出てくるのは、クリールの指摘にあるように、この章を含む二章だけである。しかも、その中(うち)の一章は、地の文にではなく、引用された詩経の言葉として出てくる。八佾編である。
「三家者、雍を以て徹す。子曰わく、相くるはこれ辟公、天子穆穆と。なんぞ三家の堂に取らん」(八佾篇三の二)。
魯の国政を壟断する世襲貴族三家では、自分の家の廟の祭りで供物を下げる時、雍の歌を歌わせていた。先生がおっしゃる。詩経の雍の歌には「助けるのは諸侯、天子はうるわしく」とある。その諸侯に仕える三家で歌う歌だろうか。
三家の思い上がり、専横ぶりを、孔子は非難慨嘆したのである。とりたてて、天子への随順を説いたわけではない。
「天子」が地の文に出てくる唯一の章が、冒頭掲出の(この、引用者注)章である。通釈してみよう。
孔子先生がおっしゃる。天下に道義がある時には、文化も政治も天子から起こる。天下に道義がない時には、文化も政治も諸侯から起こる。諸侯より起こると、まず、十代で失敗しないことはない。諸侯に仕える大夫から起こると、五代で失敗しないことはない。大夫に仕える陪臣が国命を司るようになると、三代で失敗しないことはない。天下に道義がある時には、政治が大夫の手にあるようなことはない。天下に道義がある時には、民衆はあれこれ不満を言うこともない。
これもまた当時の乱れた社会への怒りを表したものにすぎない。天子、諸侯、大夫、陪臣、そして庶人、という順位も、主権の発動する順位を示しただけのことである。どんな社会であろうと、政治権力の順位、また権力内部の指揮系統はあるに決まっており、ない方がむしろ異常である。もっとも、このように整理された主権発動順位が意識されるのは、孔子よりはるかに時代が下ってからのことだという指摘もある。それによれば、本章の成立はかなり後世のものであり、それを論語の中にすべり込ませたのだということになろう。


三.「季氏第十六、第三章」

孔子曰、禄之去公室、五世矣、政逮於大夫、四世矣。故夫三桓之子孫、微矣。

孔子曰く、禄の公室を去ること五世、政大夫に逮(およ)ぶこと四世。故に夫(か)の三桓の子孫微(び)なり。


孔先生が(しみじみと)おっしゃった。
「禄(租税権など)が公室(魯公)を離れてから五代。政治の実権が大夫に移ってから四代。(大夫は五世にして失わざること希である。)故に、あの三桓(桓公の子孫)も衰えたのじゃよ…」。


この章の解説:

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

孔先生がいわれた。
「爵禄(しゃくろく)を与える権利が魯の君から離れてから、宣公・成公・襄公・昭公・定公の五代たった。政権が大夫の手に移ってから、季武子・季悼(とう)子・季平子・季桓子の四代たった。あの孟孫・叔孫・季孫の三桓の子孫も衰えたものだ」。
孔子が活動した時代は、定公から哀公にかけての時代であるが、定公の五年、季孫氏つまり季氏の家令の陽虎が季桓子を捕え、魯の国政をほしいままにした。この政権は間もなく没落するが、三桓の政権にひびがはいって、もとの権威は回復できなかった。この魯国の現実の政権の転移、下剋上の具体相を感慨深く述べた孔子のことばは、前章のことばとちがって孔子のもとのことばであろう。そして前章の図式は、これをもとにして後代に付加されたとみてよい。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

まえの条に関連した言葉であるにはちがいない。しかし前の条のように、ぎくしゃくしていない。あるいは、まずこの言葉があり、それを演繹した図式として、前の条が生まれたのかも知れぬ。
古注の鄭玄の説に、これは魯の定公の初年の言葉とする。魯の定公元年、孔子は四十三歳である。また仲孫氏、叔孫氏、季孫氏、この三軒の家老を「三桓」というのは、かれらはみな、魯の桓公の後裔であること、源氏が清和天皇の後裔であり、平氏が桓武天皇の後胤(こういん)である如くであるからである。


四.「季氏第十六、第四章」

孔子曰、益者三友。損者三友。友直、友諒、友多聞、益矣。友便辟、友善柔、友便佞、損矣。

孔子曰く、益者三友(さんゆう)。損者三友。直を友とし、諒を友とし、多聞(たぶん)を友とするは、益なり。便辟(べんぺき)を友とし、善柔を友とし、便佞(べんねい)を友とするは、損なり。


孔先生がおっしゃった。
「有益な友だちに三つのタイプがあり、無益な友だちに三つのタイプがある。正直(直言実行)な人、誠(誠実)の人、物知り(博識)の人を友だちとすれば、有益である。もったいぶった(直言しない)人、へつらい上手な人、口先ばかりな人を友とすれば、無益である」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

諒、便辟(べんへき)、善柔、便佞(べんねい)

諒:誠のあること。誠実なこと。
便辟:体裁のいいこと。
善柔:人あたりのいい態度やことばで接すること。
便佞:口先のたっしゃなこと。
(以上、貝塚茂樹著「論語」から)


この章の解説:

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

孔先生がいわれた。
「ためになる三種の友人、損になる三種の友人。正直な人を友とし、誠実な人を友とし、博学な人を友とするのはためになる。見かけがいいだけの人を友とし、はだざわりがいいだけの人を友とし、口先のうまい人を友とするのは損である」。
孔子のこのことばから益友・損友ということばがいまでも使われる。友を選ぶ心得を述べた金言として現代にもそのまま生きている。こういう益友三種、損友三種に整理した形で述べる孔子のことばはどうしてできたか。孔子の学園で、孔子のことばがしだいに教条化され、教訓を箇条書きにして暗記する学習法がとられてきたあらわれである。孔子と弟子たちとの人格的な接触から生まれる会話の生き生きした味はなくなってくる。この傾向は次章以下によくあらわれている。

安岡正篤著「人物を創る」には、次のように書いてあります。

《益になる三種類の友達と、徳を損ずる三種類の友達がある。正直な人を友とし、誠のある人を友とし、‥‥諒は諒解の諒で、「うん、もっともだ」とうなずける誠‥‥見聞の広い人を友とする。自分の知らないいろいろの見聞に長じておって、珍しい話をきかせてくれる友達は実に楽しいものであります。これが益者三友。これと反対にいわゆる世慣れた人を友とし‥‥便辟は便利・利益本意、あるいは抵抗のない安直なの意。辟はかたよる、あるいは避に同じで、厄介なことは避けて、相槌をうつ、調子を合わせるの意。気軽に調子を合わせてゆく誠意や実意のないことを便辟という‥‥また善であるけれども、ぐにゃぐにゃして事なかれ主義の人を友とし、調子を合わせて媚びる人を友とする。これは損者三友である》。
便佞の佞という字は、信と女をくっつけた佞と、仁に女を加えた佞と二通りありますが、したがって元来は善い意味を持った文字であります。仁愛に富んだ信のある女の言葉は必ずやさしいものである。行き届いて気持ちがよい。そこで信から出る行き届いた挨拶・言葉遣いを「佞」と言う。それができぬというので、つまりろくな挨拶もできぬという意味で、自分のことを「不佞」というのであります。ところがだんだん意味が変わってきて、口先だけの信のないことを佞というようになり、佞奸などと使われるのが普通になってしまったわけであります。

加地伸行著「ビギナーズ・クラシックス 論語」には、次のように書いてあります。

人間は生まれますと家族とともに生活をして成長してゆきます。社会生活は家族との生活から始まります。
しかし、すこし大きくなってきますと、子どもは同じ年ごろの子どもといっしょに遊ぶようになります。友だちができるわけです。《子ども》と《友だち》と‥‥この二つのことばづかいに気をつけましょう。「子ども」の「ども」とは、どちらかと言えば、親から見て自分の子を未熟な者として下に見る感じです。しかし、同じ子どもであっても、他人の子どもに対しては、親もすこし敬意を表して「子たち」と言います。そのように、「たち」には、一種の敬意の気持ちがあります。
「友だち(たち)」の「たち」にもそういう気持ちがあります。もし「子ども」の「ども」を使って友だちを「友ども」と言いますと、なんだか見下したかのような感じとなり、とても仲よくやってゆけないでしょう。
そのように、相手に対して敬意の気持ちを持つ、このことによって、同じ年ごろの子どもたちが友だちとなってゆくわけです。
「友」という漢字…は、手を取りあって助けあう、仲よくするというところから来ています。そうした仲の良さとは、上下の関係ではありません。左右の関係すなわち平等の関係なのです。
では、左右をつなぐものは何でしょうか。上下の場合ですと、結びつけるものは、年齢であったり、力であったりしますが、左右はそのようなものではなくて、相手に対する信頼です。中国古典では、それを《信》と表現しました。朋友(友人)には信です。「信」とは、ことばと行動とが一致するということで、つきつめれば《まごころ》ということでしょう。
『論語』の中には、孔子の弟子たちの間のさまざまな友情が語られています。

そして加地伸行先生は、この章を次のように訳しておられます。

孔先生の教え。自分にとっては有益な三種の友がある。〔逆に〕有害となる三種の友がある。まっすぐな友、義理固い友、博識の友、これは有益である。しかし、追従する友、裏表のある友、口先の巧みな友、これは有害である。

渋沢栄一著「『論語』の読み方」には、次のように書いてあります。

孔子は、有益な友人が三種、有害な友人が三種ある--それは、正直な友、誠実な友、物知りな友が有益であり、有害なのが、お調子者、うわべを飾る者、口達者な者である、といった。友に損益二種あるから、益友を選び損友から遠ざかるべきことを説いている。また孔子は、「三人行けば、必ず我が師あり(述而篇)」、「友を以て人を輔(たす)く(顔淵篇)」と説いているので、各章を参照するとよい。善友は助け合って成功し、悪友は誘い合って堕落する。吉田松陰は、「徳を成し材を達するは、師恩友益多きにおる。ゆえに君子は交遊を慎しむ」と教えている。


五.「季氏第十六、第五章」

孔子曰、益者三楽、損者三楽。楽節礼楽、楽道人之善、楽多賢友、益矣。楽驕楽、楽佚遊、楽宴楽、損矣。

孔子曰く、益者三楽、損者三楽。礼楽を節するを楽しみ、人の善を道(い)うを楽しみ、賢友多きを楽しむは、益なり。驕楽(きょうらく)を楽しみ、佚遊(いつゆう)を楽しみ、宴楽(えんらく)を楽しむは、損なり。


孔先生がおっしゃった。
「有益な楽しみが三つ、有害な楽しみが三つ。礼楽を適度に行うことを楽しむ、他人の長所を言うことを楽しむ、賢い友だちが沢山いることを楽しむ、これらは有益じゃ。(それとは反対に、)驕り高ぶりわがまま勝手に楽しむ、(博打などに耽って)だらしなく遊んで楽しむ、酒盛りに耽って楽しむ、これらは百害あって一利なしじゃ」。


この章の解説:

安岡正篤著「友経 内篇」には、次のように書いてあります。

【要旨】
人の好み楽しむ所に、益となるもの三、損となるもの三をあげて対比している。
【大意】
孔子言う、「人には好み楽しむものがあるが、好み楽しんで益となるものが三つ、損となるものが三つある。礼儀と雅楽を、適度に好み楽しみ、人の善言善行を口にするのを好み楽しみ、すぐれた友の多いのを好み楽しむのは、有益だ。おごりわがままを好み楽しみ、怠け遊ぶことを好み楽しみ、酒色にふけることを好み楽しむのは、有害だ」と。

貝塚茂樹著「論語」では、次のように訳しています。

孔先生がいわれた。
「ためになる楽しみ三種、損になる楽しみ三種。礼と音楽を節度を以て行う楽しみ、他人の美点をたたえる楽しみ、すぐれた友をたくさん持つ楽しみ、これらはどんなにためになることだろう。おごりたかぶる楽しみ、家を外にして帰ることを忘れる楽しみ、酒食荒淫(こういん)の楽しみ、これらはどんなに損になることだろう」。

宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。

孔子曰く、有益な道楽が三種、損害をうける道楽が三種ある。礼儀、音楽をほどほどに愛好し、他人の善事を吾が事のように吹聴しては喜び、賢友を増やして行っては悦に入るのは有益だ。奢侈を極めた享楽に耽り、物見遊山に遠出する癖がつき、酒を飲んで騒いで楽しむのは損害だ。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

有益な楽しみが三種、有害な楽しみが三種あるよ。礼式と音楽の調和を楽しむ。人の善行を話題にして楽しむ。優れた友人が増えるのを楽しむ。これが有益な三種だ。わがまま放題・遊び放題・呑み放題が有害な三種だ。


六.「季氏第十六、第六章」

孔子曰、侍於君子有三愆。言未及之而言。謂之躁。言及之而不言。謂之隠。未見顔色而言。謂之瞽。

孔子曰く、君子に侍(じ)するに三愆(さんえん)あり。言未だ之に及ばずして言う。之を躁と謂う。言之に及んで言わず。之を隠と謂う。未だ顔色(がんしょく)を見ずして言う。之を瞽(こ)と謂う。


孔先生がおっしゃった。
「君子の側(そば)にいる時に、(小人は、往々にして次の)三つの過ちをしかねないのじゃ」。
あるいは、「目上の人と話すときに気をつけねばならぬ過ちが三つあるのじゃ」
「まだ言うべきタイミングではない(まだ早い)のにべらべらと話しはじめるのをせっかちというのじゃ。言うべき時(絶妙のタイミング)なのに何も言わないで黙っておるのを隠すという。相手の顔色も見ないで(相手におかまいなく、ピントが外れた)話をするのをめくらというのじゃ」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

愆、躁

愆:過ち。
躁:せっかち、がさつ。(以上、貝塚茂樹著「論語」)


この章の解説:

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

孔先生がいわれた。
「君子のおそばにいるにあたっての過ち三種。まだ発言すべきでないのに発言する、これをがさつという。発言すべきときに発言しない、これを隠という。顔色を見ないで発言するこれを瞽(めくら)という」。
これは孔子の学園で教習する弟子たちへの心得書であろう。しかし、目上の人ばかりに限らず、現代のあらゆる会合における会話の作法として通用する。外国では社交会話の厳重な作法がある。他人の発言をさえぎってはいけないし、他人と発言がかち合うと、必ずあやまって相手に先を譲る。こういう作法は中国でも日本でも古くから家庭や塾の中では守られてきた。この社交の作法を身につけていない現代日本人が、外国旅行に出かけると、あるいは無作法者と笑われ、あるいは手も足も出なくなってみじめになる。会話に限らず、もう一度新しい時代に生きる作法を復活しなければならない。中国から日本に伝わったこの会話の作法もその基本となるだろう。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

ここの「君子」は、目上の人、を意味し、「愆」は、古注の孔安国に「過まち也」。目上の人と話をしていて、話題がまだそこへ行かないのに、先取りしていいだすのは、がさつ。話題がそこへ来ているのにいわないのは、かくし立て。相手の顔色を見ずに、一方的に発言するのは、めくら。
これは人に卑屈を教えるものではない。社会人として生きてゆく上に、心得ておくべき礼儀である。この礼儀は、中国では、現在でもよく生きている。日本人はこの訓練に乏しいようである。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

上司に仕えて犯しやすい過ちが三種あるな。言うべき時でないのに言うのが悪乗り。言うべき時なのに言わないのが乗り遅れ。上司の反応を無視して発言するのが暴走だ。
これは、現代的でわかりやすい訳です。


七.「季氏第十六、第七章」

孔子曰、 君子三戒。少時、血気未定。之戒色在。其壮及、血気方剛。之戒闘在。其老及、血気既衰。之戒得在。

孔子曰く、 君子に三戒あり。少(わか)き時は、血気未だ定まらず。之を戒むること色に在り。其の壮なるに及んでは、血気方(まさ)に剛なり。之を戒むること闘うに在り。其の老ゆるに及んでは、血気既に衰う。之を戒むること得るに在り。


孔先生がおっしゃった。
「君子に戒め三つ。若い時は血気がまだ定まっておらぬから、異性関係について戒めなければならぬ。壮年になると血気が盛んになるから、争うことについて戒めなければならぬ。年を取ると血気が衰え、安逸を得ようとするので、欲張ることを戒めなければならぬ。(以上の三つじゃ)」。


この章の解説:

吉川幸次郎著「論語」には、次のように書いてあります。

孔子の人間観察の深さをもっとも示す条である。「血気」とは、人間の生理の根本は、血液の運行によるエネルギーにあると意識しての言葉。「色」とは、むろん色欲。色欲は血気の発動であり、一概に否定すべきではないが、わかい時は、生理が不安定であるから、血気の過剰による色欲の失敗をいましめとせよ。「壮」とは三十代以後の壮年。血気方剛の「方」の字は、すべて状態が盛んな絶頂にあるのをいう副詞。この時期に警戒すべきものは「闘」、すなわち喧嘩。老人になれば、生理がおとろえ、能動の部分が少なくなるとともに、受動的な利益をほしがる。つまり警戒すべきものは、貪欲。

安岡正篤著「友経 内篇」には、次のように書いてあります。

【要旨】
君子が少・壮・老の時に従って欲を制する工夫の要点を示す。
【大意】
孔子言う、「君子には、それぞれの時に従って警戒すべきことが三つある。青年期には、血気がまだ定まらないで欲情が強く、中でも色欲を戒めなくてはならない。壮年期には、血気が盛んで自我も強いので、人と衝突しがちなので他と争い闘うことを戒めなくてはならない。老年期にあると血気が衰えて安逸になるので、財貨を貪る欲得を戒めなくてはならない」と。
佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。
ひとかどの人物になろうと思うなら、三つの戒めに気をつけることだ。青年期は血気が不安定だから、気をつけるべきは性欲。壮年期は血気盛んだから、権力欲だ。出世競争などに夢中にならないことだ。老年期は血気は衰えるが、それに反比例して増してくる名誉欲に気をつけるんだな。


八.「季氏第十六、第八章」

孔子曰、君子有三畏。畏天命、畏大人、畏聖人之言。小人不知天命而不畏也、狎大人、侮聖人之言。

孔子曰く、君子に三畏あり。天命を畏れ、大人(たいじん)を畏れ、聖人の言を畏る。小人は天命を知らずして畏れず、大人に狎(な)れ、聖人の言を侮る。


孔先生がおっしゃった。
「君子には畏れ敬うことが三つあるのじゃ。それは、天命を畏れ敬い、大人(たいじん、ほぼ君子と同義)を畏れ敬い、聖人(完全なる君子)の言葉を畏れ敬うことである。小人は天命を知らないので畏れ敬うことがない。じゃから、大人(君子)には馴れ馴れしくして、聖人(完全なる君子)の言葉を侮るのじゃよ」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

畏れる、天命、大人
畏れる:たんなる普通の人間関係にたいする恐れではなく、人間をこえたものにたいしての恐れである。敬虔の感情に近いが、それがむしろ禁止的にはたらくので、的確には、敬虔の感情をともなった憚りの意識である。
天命:人間の意志を越えた秩序。中国の古代人は、天の神が人間にあたえた命令と理解した。(現在では、)天の神にたいする信頼が薄れて、それと関係なく、超越的な理性の意味になる。
大人:『易経』にもっともよく出てくることばであるが、その定義はむつかしい。したがって異説が多い。大人と賢人とはきわめて近い観念である。どちらも道徳が常人よりもすぐれているが、大人は君子と同じく支配者である。しかし君子と大人との区別はあきらかでない。
(以上、貝塚茂樹著「論語」を参考にした)


この章の解説:

この章で言う「天命」とは、万物の霊長である人間に与えられた宇宙人生。すなわち、この大宇宙の生成発展に寄与すべく人間として行うべき使命のことを言い、「君子」とは、徳ある人間(仁者)を追求する人、「大人」とは、徳あり且つ社会的地位のある人のことを言うのだと思います。「聖人」とは、「大學」に言う「明徳を明らかにし、民に親しみ、至善を尽くす」ことを全うした人、いわば完全なる君子。そして「小人」とは、わたし達凡人、すなわち目に見えない徳よりも目先の利益に眩まされる俗物のことを言うのだと思います。ですから君子は、大宇宙から与えられた人間としての使命である「天命」を畏れ敬い、その天命により、社会的地位を得た「大人」を畏れ敬い、宇宙人生を完全に生き抜いた「聖人」を畏れ敬うのであります。そして小人すなわち凡人は、天命(この大宇宙の生成発展に寄与すべく人間として行うべき使命)に気がつかず、目先の利益に惑わされ、社会的地位のある君子に媚びへつらい、完全なる君子である聖人の言行を「そんな綺麗事を言ったってできっこないじゃないか」と、せせら笑うのです。

安岡正篤著「友経 内篇」には、次のように書いてあります。

【要旨】
君子と小人との心構えの差異。
【大意】
孔子言う、「君子に三つの畏れ敬うことがある。天命を畏れ敬い、それに違わないように常に戒慎する。徳と位を兼ねて天命を完うした大人を畏れ敬う。天命を教える聖人の言を畏れ敬う。小人は、天命を知らないから、天命を畏れ敬わない。大人の師とすべきことを知らないで、無礼を働き、聖人の言を迂遠(まわりくどいさま)なものとして侮辱する。君子と小人との心の差異はここになる」と。
※天命は、人がこれを受けると「徳命」と「禄命」との二つに別けられると解釈される。徳命は、天が人に与えた正しい道理、仁義礼智のような道徳で、これを実践するのが君子である。禄命は、人の遭遇する吉凶禍福・天寿貧富のことをいう。

また、同じく安岡正篤先生の著書である「朝の論語」には、次のように書いてあります。

文明の危機というのも一の天命であり、近代人は之を畏れず、先覚者を馬鹿にして、こうなってしまったのです。正しい人は天命を畏れる。天命とは言うまでもなく絶対者の作用であります。自然と人間とを一貫する至上命令であります。厳粛な律法です。違反は絶対に許さない。自然は法の支配する所rule of lawであり、人も亦自然法・道徳法の支配によって生きる。その自律of lawを知らず、刑律by lawしか知らない所に堕落がある。これを知る者が大人であり、聖人であります。故にその言葉は真理です。人体で申しますならば、生理の法則というものは、一つの天命であります。従って生理学者・医学者は大人であり、その叡智者はその道の聖人であります。神聖な知識の持主であります。そういう人の諸説は尊重しなければなりません。しかるに小人はそういうものを無視します。馬鹿にして、それらの貴い言を侮る。しかしその結果は長い目でみれば明確であります。信賞必罰に狂いはありません。
ここに一つ思い出す好いお話がございます。かつて日本におりまして、日本に精通しておった立派なカトリックの神父でありましたカンドーさんのことでありますが、このカンドー神父の書に、こういう感銘深い一文がございます。自分がまだ若いフランスの将校で気のきいた制服を着て好い気になっておった頃のことです。或る日休暇を利用して親戚の訪問に出掛ける途中、小さな海岸の漁村の宿屋に泊まりました。その宿のおかみさんがただ者でなかったと見えまして、生意気盛りの私と話をしておる中に、明日の朝早く起きて海岸に出て見ませんかと申しました。何か面白いことがあるのかと聞きますと、漁夫達が漁に出掛ける前にお祈りをするから、それをお聞きになって見ませんかというのです。私は何だか馬鹿にされたような気がして、席を立ったのですが、部屋に帰って一人考えて見ると、自分は正直なところ方向を失っている青年のような気がしてなりませんでしたので、思い直して翌朝海岸へ出掛けて見ました。すると漁夫達は小さなベレー帽を横に被って、舟の方に歩いておりましたが、乗りこむ時にみなそのベレー帽をとって空を仰ぎながら、「神よ我々の船は小さく、生みは果てしなく広い。どうか我々をお護り下さい」と祈りを上げて乗りこむのでした。生意気盛りの私にとって、この見聞が如何に尊いものであったか。今になっても忘れることのできないことなのです。私はその晩だけは本当に祈りました。「神よ、我等の頭脳は小さく、真理の海は果てしなく広い。どうか我等を導き給え」と。その時に私の人生の要ともいうべき信念を決めることができたのであります。
これは実に善い話だと存じます。ところがこういう精神はだんだん薄れて、この頃は人間が次第に横着になるようであります。厳粛な真理や法則を侮るように、まるで解しなくなるようでありまして、もっとも純真、もっとも真面目であるべき青少年達すら、だんだんそうなるようであります。厳粛な真理や法則を侮るように、まるで解しなくなるようでありまして、もっとも純真、もっとも真面目であるべき青少年達すら、だんだんそうなるようであります。このことについては、もう今に始まったことではないのでありまして百年も前から心ある者は皆この傾向を炯眼(けいがん、本質を見抜く眼力、引用者注)に観察しておりました。多くの日本人が愛読しております、スイスの詩人哲学者・アミエルH.F.Amiel(一八二一〜一八八一)の日記に書いております。青年達は近頃だんだん素直でなくなる。そしてどうかすると我々の先生は我々の敵だと標榜しているようにみえる。少年は青年の権利を得ようと主張し、青年は大人の特権を持とうとする。要するにこれらすべて事物を平等化しようとするデモクラシー制度の自然の成り行きである。質の相違が、政治において公然無視される時、年令・知識・職能・権威いづれも消滅する。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

孔先生がいわれた。
「君子に三種の敬虔さが要求される。天命にたいして敬虔であり、大人にたいして敬虔であり、聖人のことばにたいして敬虔であるということである。小人は天命を解しないのでこれに敬虔でなく、大人になれてずうずうしくなり、聖人の言葉を軽視する」。
日本人は無宗教であるといわれる。そのことは、人間を超越するものを信ぜず、敬虔の感情を持たないということである。中国のかつての支配者は、天にたいして敬虔であった。西洋の支配者は神にたいして敬虔であった。日本の現代の支配者は自分より強い権力者は恐れるが、それだけで、敬虔の感情を持たない。私はこういう権力者の感情と行動にたいしてあわれみを感じる。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

…君子は、三つのものに対して敬虔である。
第一は、天命に対して敬虔である。「天命を畏る」。この世界には、合理的な法則が流れており、それは合理的であるゆえに統一を保ち、人間にとって可解である。その意味では天の与える使命として理解される。それとともに、人間の世界には、統一した法則からはずれたような、不可解なことがらが起こるが、それをも結局人間は、天のあたえるものとしてうけとる。その意味では天の与える運命である。かく使命とも感ぜられ、運命とも感ぜられるものを、統合した観念が、天命である。いいかえれば、人間のもつ可能性と限界、そのいずれも世界の意志であると感じたときに、それを「天命」とよむ。天命の語は、「論語」では、ここともう一つ、為政第二(第四章、引用者注)、孔子が自ずからの経験を述べて、「五十にして天命を知る」というのと、二つ見える。
君子はまず、こうした「天命」の存在を意識して、それに対して敬虔でなければならない。
(中略)
かく天命に対して敬虔である君子が、同時に敬虔であるものの第二として、「大人」、第三として「聖人之言」があげられているのであるが、うち「大人」の語は、ここのみに見え、解釈が二つに分かれる。すぐれた道徳者とするのが第一説。高い身分の人とするのが第二説である。…仁斎や徂徠は両説を調停し、「大人」もすぐれた道徳者であるが、同時代のそれ(高位の人、引用者注)…とする。

諸橋轍次著「論語の講義」には、次のように書いてあります。

天命の説は極めて難しいが、古人はこれを徳命と禄命(ろくめい)との二つに説いている。徳命とは、我々が天から授かった道徳上の使命である。世にはこの使命を授けられながら、それを完うしないものが多いが、君子は常にその使命を畏れ慎んで、完うすることに努力するというのである。孔子が匡人の厄において、『天徳を予に生(くだ)せり、匡人其れ予を如何せん(述而、二十二)』と揚言(ようげん)したのは、この徳命を畏れての、最も大きい叫びであったのである。次に禄命とは、我々の遭遇する吉凶禍福の宿命であって、人力の如何ともなし得ないところである。人事を尽くしてこの禄命に安んずることが、又天命を畏れることでもある訳である。小人はすべてこれらの事を知らず、従って畏れることもない。大人とは、賢徳あって、位を得ている者をいうのであろう。この位を得ている者は、社会における階級の秩序を維持する人である。社会に生を営む者は、それぞれの分を守って社会の安寧に協力しなければならぬが、そのためには、大人を畏れ敬うことが、大切である。小人はその事実を忘れて、ただ大人の徳の寛大さに狎れ近付かんとする。聖人の言は、万世の基準であり、道徳の本則である。これを畏れることが道に進む第一歩である。要するに、天命を畏れることは、信仰の権威を慎むことであり、大人を畏れることは、社会秩序の権威を貴ぶことであり、聖人の言を畏れることは、道徳の権威を尊重することであろう。

宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。

孔子曰く、諸君は三つのことを尊敬してほしい。不可知な神秘力である天命、有徳の大人、経書に記された超人的な聖人の言葉の三つだ。ところが世の中にはうつけ者があって、天命の存在を知らぬから尊敬もしない。有徳の大人をからかい、聖人の教を鼻であしらう。


九.「季氏第十六、第九章」

孔子曰、生而知之者上也。学而知之者次也。困而学之又其次也。困而不学、民斯為下矣。

孔子曰く、生まれながらにして之を知る者は上(じょう)なり。学んで之を知る者は次なり。困(くる)しんで之を学ぶは又其の次なり。困しんで学ばず、民斯(これ)を下となす。


孔先生がおっしゃった。
「生まれながらにして人の道を知っている者は最上の人格者である。学んで人の道を知ろうと努力する者はその次の人格者である。何か困難な問題に直面してそれを乗り越えるために学び人の道を知ろうと努力する者はまたその次の人格者である。何か困難な問題に直面しても、それでもまだ学ぼうとせず、人の道を知らない者は、人間として最低である」。


この章の解説:

人は何のために学ぶのか。「中庸」には次のように書いてあります。以下、安岡正篤著「友経 内篇」に掲載されている「中庸」の一節を引用します。

下位に在りて上を獲ざれば、民得て治む可からず。獲る(う)に道有り、朋友に信ぜられざれば上に獲ず。朋友に信ぜらるるに道有り。親に順ならざれば、朋友に信ぜられず。親に順なるに道有り。諸(これ)を身に反(かえ)って誠ならざれば親に順ならず。身を誠にするに道有り。善に明(あ)かなざれば身に誠ならず。誠は天の道なり。之を誠にするは人の道なり。誠は勉めずして中(あた)り、思わずして得(う)。従容として道に中るは聖人なり。之を誠にすとは、善を擇(えら)んで固く之を執る者なり。博く之を學び、審(つまびら)かに之を問い、愼んでこれを思い、明らかに之を辨(べん)じ、篤く之を行う。學ばざる有り、之を學んで能くせざれば措(お)かず。問わざる有り、之を問うて知らざれば措かず。思わざるあり、之を思うて得ざれば措かず。辨ぜざる有り、之を辨じて明らかならざれば措かず。行わざるあり、之を行うて篤からざれば措かず。人一たびして之を能くすれば、己之を百たびす。人十(と)たびして之を能くすれば、己之を千たびす。果して此の道を能くすれば、愚(おりか)なりと雖も必ず明かに、柔なりと雖も必ず強なり。
【要旨】
誠を身につける方途‥博学、審問、慎思、明弁、篤行
【大意】
下位の官職にある者のばあい、上位の者の信任を得なければ、人民をよく治め、道を実現することはできない。ところで、上位者の信任を得るには、方法がある。朋友(友人)に信用がなければ、上位者に信任されない。朋友に信用されるには、方法がある。親に従順でなければ、朋友に信用されない。親に従順であるためには、方法がある。自分自身に反省して、それが誠から出ているものでなければ、親に従順ではないのである。さらに自分自身を誠にするには、方法がある。それは、善とはなんぞやということを明らかにすることである。善の認識なくして、身を誠にすることはできないのである。誠は、天の道である。
(天の運行には、一つの誤りもない。)人は、天から与えられた誠をもって自分の性としている。しかし、常人は多く、人欲・私心が働いて天が与えた誠にそむきがちになる。そこで努力して天の命ずる誠を、自分自身に実現するのが、人としてなさなければならない道である。天与の性である誠というものは、ことさらに努力しなくても道に適合し、ことさらに思索しなくても、道を得ることができ、心の欲するままにして自然に道に適合するということである。この誠を完全に備えているものは、聖人(高い学識・人徳や深い信仰をもつ、理想的な人)である。努力勉行して誠を身に備えようとする者は、物事について最善のことを選びとって、それを固く守って失わないようにしなければならない。誠を身に備えること、つまり最善をわが身につける方法として、
第一には、博く学ぶこと、
第二には、審(つまびら)かに(詳しく扱う)問うこと、
第三には、慎んで思うこと、
第四には、明らかに弁ずる(物事をわきまえる)こと、
第五には、篤く(心入れの程度が大きく)行うことである。この五つを体得(理解して自分のものにすること)して心を誠にすることである。
そこで人は、学ばないことがあれば、これを学びおおせずにはおかない。問いもらしていることがあれば、これを問いただし、知り尽くさずにはおかない。思い足りないところがあれば、これを思い、思い尽くさずにはおかない。分析し足りないことがあれば、思慮を重ねて、分析し尽くさずにはおかない。十全に実行することができないことがあれば、努力してこれを行ない、忠実に実行せずにはおかない。そのように徹底した努力を重ねるのである。他人が一度でよくするならば、自分はこれを百度する。他人が十度して成し遂げるならば、自分は、千度くり返して成し遂げる。何事においても、このようにすれば、たとえどんなに愚鈍(判断力・理解力がにぶいこと)な者でも、必ず明知(はっきりと知ること)の人となり、どんな柔弱(気力や体質が弱々しいこと)な者でも、必ず強勇(勇気があってものおじしないさま)の人となって、よく誠を身に備えることができる。

「中庸」からの引用は以上です。

ちょっと難しいかもしれませんが、人間が学ぶということは、天から与えられた誠を身に備えるため、最善をわが身につけるためであります。したがって、学ぶことをしない者は、人欲・私心が働いて、天から与えられた誠に背いた生き方をすることになる。言い換えると人の道、天の道に背いた生き方をすることになるのです。ですから、わたし達は学び続けなければならないのです。
孔子は、そのことを「生まれながらにして人の道を知っている者は最上の人格者である。学んで人の道を知ろうと努力する者はその次の人格者である。何か困難な問題に直面してそれを乗り越えるために学び人の道を知ろうと努力する者はまたその次の人格者である。何か困難な問題に直面しても、それでも学ぼうとしない、人の道を知ろうとしない者は、人間として最低である」と言っているわけです。

諸橋轍次著「論語の講義」では、「孔子言う、人間の天稟(てんびん)には四通りの等差がある。第一に、生まれながらにしてあらゆる徳義を知り尽くしている者があるが、これが最上級である。(恐らくは聖人がこれに当たる。世々にして出ずるものではない)。第二に、学問によって知る者がその次であり、第三に、初めは学に志さず、いよいよ行き詰まって困った挙句、学問する者があるが、これが又その次である。而して第四に、行き詰まって困りながらも、学問することを知らない者があるが、これが人民の中においては最下級である」と訳してから、「孔子は嘗て『上知と下愚とは移らず(陽貨、三)』と言っているが、この章の生まれて知る者は上知であり、困しみて学ばざる者は、下愚であろう。普通の人は、恐らく学びて知る者か、困しみて学ぶ者の中に入るのであろう。なおこの章の言葉から、生知の人、学知の人、困学困知の人などの語が出来ている」と解説しています。

渋沢栄一著「『論語』の読み方」には、次のように書いてあります。

孔子は、「生まれつきの物知りは一番上で、学んで知るのが二番目。行き詰まって学ぶのがその次で、どういう状態でも学ぼうとしないのが最下等である」と言った。「中庸」に「生まれながらにしてこれを知る。あるいは学んでこれを知る。あるいは困ってこれを知る。これを知ることは一つである。また安んじてこれを行い、あるいは利してこれを行い、あるいは努力してこれを行う。そこ功を成すことは一つである」と説いてある。生・知・安・行は聖人の分について言っているが、聖人といえども学習せずに、物事の理を知得したのではない。ただ聡明で一を聞けば十を知り、良心を曇らせないことで、ふつうの人よりすぐれているだけだ。現代は諸種の学校設備があり、人おのおの知識のレベルに従って教育が受けられる。自分の才知に見切りをつけず努力して、最下等の愚民にならないようにしたい。

加地伸行著「論語」では、次のように訳しています。

孔先生の教え。生まれつき道徳(人の道)を理解している人間が、最高である。学ぶことによって〔すぐに〕道徳を理解する者は、それに次ぐ。〔すぐにではなくて〕努力して道徳を学ぶ者は、さらにそれに次ぐ。努力はするものの〔結局〕道徳を学ぼうとしない。そういう人々、これは最低である。
注‥「困」は、よく「困ることがあって」と解されるが、「学ぶときの努力」と解する。

宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。

孔子曰く、生まれつき道を知る者があれば、それは最上だ。勉強した上でそれを知る者が次に位する。行き当たってから必要を感じて勉強しだすのが、またその次だ。行き当たっても平気で、勉強しようともせぬのは最低だ。

多くの人は、「行き当たってから必要を感じて勉強しだす」のだと思います。わたしもそうです。今論語を学んでいるのも「行き当たってから必要を感じて」いるからです。人により「行き当たる」のが何時か、また「必要を感じる」のが何時かが異なると思いますが、「行き当たっても平気で、勉強しようともしない」という生き方だけはしないように心がけたいものです。


十.「季氏第十六、第十章」

孔子曰、君子有九思。視思明、聴思聡、色思温、貌思恭、言思忠、事思敬、疑思問、忿思難、得見思義。

孔子曰く、君子に九思(きゅうし)あり。視ることは明(めい)を思い、聴くことは聡を思い、色は温(おん)を思い、貌(かたち)は恭(きょう)を思い、言は忠を思い、事(こと)は敬を思い、疑わしきは問いを思い、忿(いか)りには難を思い、得るを見ては義を思う。


孔先生がおっしゃった。
「君子は、己の言行を考え、また反省することが九つあるのじゃ。視る時は、はっきり視ようと考え、また反省する。聴く時はちゃんと聴こうと考え、また反省する。顔色はいつも穏やかであろうと考え、また反省する。姿はいつも恭しくあろうと考え、また反省する、発する言葉は誠実であろうと考え、また反省する。仕事は天から授かったものだから大切にしようと考え、また反省する。疑わしいと感じた時にはすぐに問おうと考え、また反省する。怒りを発する時に、後で困難なことが待ち受けていることを覚悟しようと考え、また反省する。利益を得る時には義に基づいたものであろうと考え、また反省する」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

思う:日本の「思う」は漠然としていて、たんなる欲望も含まれる。中国古典語の「思」は、「考える」「反省する」「思索する」に限定して用いられる。ここでは生活の経験に即して考慮することで、行動の前に、行動しつつ、また行動のあとで「どうだかな」と考えてみることをさす。
(貝塚茂樹著「論語」から)


この章の解説:

安岡正篤著「人物を創る」には、次のように書いてあります。

《君子に九つの思いがある。視るときは明らかに見たいと思い、聴くにははっきりと聴きたいと思い、顔色はおだやかでありたいと思い、姿形は恭々(うやうや)しくありたいと思い、言葉は良心に恥じぬように思い、行動は慎重でありたいと思い、疑わしいことはしかるべき人に問うことを思い、一時の怒りには後の面倒を思い、利得を前にしたときは道義を思う》。
世界最初の医書と言われる『素問』の第一章には、「聖人は恙嗔(ようしん、恙は憂い、嗔は怒り)の心なし」と言っている。近代アメリカ医学は、人間の感情と汗や呼吸などとの関係を調べて、怒りがもっとも毒素を出すことを証明している。その毒素を注射したモルモットは頓死したという。癌に罹る人に怒りっぽい人が多いそうであります。したがって、「おんにこにこ、腹立つまいぞや、そわか」(明治初年、曹洞宗の耆宿〔「耆」は老、「宿」は旧の意。経験・徳望のある老人。経験豊かな老大家、辞書より〕・西有穆山)が一番良いのであります。しかしあまり怒らぬと人間はだれる。私憤はいけないが公憤は良い。それよりも自分の不肖に対する怒りは大いに発したいものであります。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

もっとも箇条書き的な条である。視覚をはたらかすべき行為に対しては、その理想的な状態である「明」を思いつづけ、聴覚をはたらかすべき行為に対しては、その理想的な状態である「聡」を思念する。以下みな同じ関係にある。顔色は「温」を思う、については、似た表現として、「詩経」「秦風(しんぷう)」「小戎(しょうじゅう)」の、「言(わ)れ君子を念(おも)うに、温として其れ玉の如し」が思い合わされる。「言(ことば)は忠を思い」の「忠」は、忠実。「事は敬を思い」の「事」は行動である。「疑わしきは問うを思う」。しかるべき人に質問して疑いを解こうと思念する。公冶長第五(第十四章、引用者注)に孔文子をたたえて、「敏にして学を好み、下問を恥じず」。「忿りには難を思う」。一時の怒りが、その結果として生むであろう困難な事態を思念する。…顔淵第十二(第二十一章、引用者注)に「一朝の忿りに、其の身を忘れ、以て其の親に及ぼすは、惑いに非ずや」。「得るを見ては義を思う」。利益を目にした場合は、正義を考えて吟味する。憲問第十四(第十三章、引用者注)に「成人」を論じて、「利を見て義を思う」。

諸橋轍次著「論語の講義」では、「孔子言う、君子には身の行いをなすに当たり、特に思いをいたして念願することが九つある。一つは、物を見る場合に、誤りなく明らかに見たいと考えることである。(黒白を誤ることはもとより明を失うことであるが、人には色眼鏡をかけて物を見ることがある。これまた不明であって、君子はそれらを斥〔しりぞ〕けたいと念願するのである)。二つは、物を聞く場合に、さとく明瞭に聞き分けたいと念願することである。(この場合も、世間には人の言葉を自分の私心によって無理に誤解し、曲解して聞き取ることがある。君子はそれを斥けて聰を念願するのである)。三つは、自分の顔色容貌は常に温雅(おんが)であるように心掛けることであり、四つは、自分の態度は常にうやうやしく慎みのあるように心掛けることである。(以上の四点は天から授かった五感を正しく働かせようとする心掛けである)。次に五つには、自分の言葉は心の誠から出すようにと心掛ける。六つには、事を執り行う場合には、過ちなく執り行うように心掛ける。七つには、疑問に突き当たった場合には、下問を恥じず、すべての人に尋ね問うように心掛ける。八つには、忿怒の情の起こった場合には、一時の怒りのために、後難をいたしはせぬかと、その点に思いをいたす。九つには、利得に直面した場合には、それを得ることが正しい道理に叶っておるか否かについて思いをいたすのである。(この後の五者は、外部の事物に接する場合の君子の願望である)」と訳して、「ここに九思の各項目が出されているが、それらの中、初めの八つ、すなわち、視と聴、色と貌、言と事、疑と忿とは、それぞれ相配して用いられ、最後の見得は独立した形である」と解説しています。

渋沢栄一著「『論語』の読み方」には、次のように書いてあります。

思いとは思慮分別である。君子の自省すべき項目を説いている。物には法則があり、天地間のことはみな天の法則に従う。君子は天の法則を思慮して、無理のないように行動する。その項目は九つある。@視るときにははっきり見たいと思い、A聴くときには細かく聞き取ろうと思う。これは私欲や外物に邪魔されず、事物の真相・実体をつかもうと思っているからだ。また、B自分の顔色を温和にさせようと思い、C姿形はうやうやしくなろうと思い、D言語は誠実であろうと思う。これは自分の内面を磨いて、外に表れるものを美しくしようと思っているからだ。また、E仕事をするには慎重にして、軽率にならないことを思い、F疑問が生じたら先生や友人に問うて、正しい解決をしようと思うことである。G怒りが生じたら、その一念がわれを忘れさせ、その結果への非難が父母にまで及ぶことを考え、H利益を獲得するときには、それが義にかなった手段・方法で得ようとしているものかどうかを考えて、取るべきは取り、取ってはいけないものは取らない。君子はこのように、すべての物事を慎重に思慮して、気を抜いてはならない。以上が君子の四六時中思慮すべき項目で、われわれもぜひとも学びたい教えである。

貝塚茂樹著「論語」では、次のように訳しています。

孔先生がいわれた。
「君子には九通りの考え方がある。見るときははっきり見たいと考える。聞くときにははっきり聞き取りたいと考える。顔つきは温和でありたいと考える。態度はうやうやしくありたいと考える。ことばは誠実でありたいと考える。仕事は慎重にやりたいと考える。疑わしいことは問いただしたいと考える。怒ったときはやっかいができないかと考える。利益を前にして取るべき筋合いかどうかと考える」。

伊與田覺著「仮名論語」では、次のように訳しています。

先師が言われた。
「君子に九つの思いがある。見るときには、明らかに見たいと思い、聴くときには、さとくありたいと思い、顔色には、常にあたたかくありたいと思い、姿には、うやうやしくありたいと思い、ことばには、まことでありたいと思い、仕事には、つつしんで過がないように思い、疑わしいときには、遠慮せずに問うことを思い、怒りの心が起こったときは、あとにくる難儀を思い、利得を前にしては、道義を思うのである」。

加地伸行著「論語」では、次のように訳しています。

孔先生の教え。教養人には心を尽くす九つのことがある。見るときには明瞭に、聴くときはうわべだけでなく、顔色はやわらかに、態度は謙遜して、ことばはまごころこめて、仕事には慎み深く、疑問には問うて残すことなく、腹立ちには他に難儀が及ばないように、利得があるときは正・不正を見きわめ、というようにだ。

なるほど、これは名訳でしょう。

宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。

孔子曰く、諸君に九つの心掛けを注文したい。物を見るには細かい所まで見届け、聞く時ははっきりと、顔付きはおだやかに、身ぶりはつつましく、物言うときは真心こめて、仕事をするには注意深く、分からない点は質問を怠らず、腹がたっても後難を考え、最後に一番大事なのは、利益を前にしてそれが正当かどうかを一度考えてみることだ。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

人の上に立つ者には、守るべき以下の九つの心得があるよ。物を見る時には明確に見ること。聴く時には誤りなく聞き取ること。表情を穏和に保つ。立ち居振る舞いを上品にする。ことばを違えない。仕事は慎重にする。疑問があったら問うことを恥じない。見境なく怒らない。道義に反した利益を追わない。まっ、こんなところだろうかね。


十一.「季氏第十六、第十一章」

孔子曰、見善如不及、見不善如探湯。吾見其人矣。吾聞其語矣。隠居以求其志、行義以達其道。吾聞其語矣。未見其人也。

孔子曰く、「『善を見ては及ばざるが如くし、不善を見ては湯を探るが如くす』。吾其の人を見る。吾其の語を聞く。『隠居して以て其の志を求め、義を行って以て其の道を達す』。吾其の語を聞く。未だ其の人を見ず」。


孔先生がおっしゃった。
「善いことを見れば、自分には及ばないのではないかと自らを省みて、善くないことを見れば、熱湯に手を入れた時のように、すぐにやめるという人を、わしは見たことがあるし、そのような言葉を聞いたことがある。(しかし、)世間から身を隠して(隠居して、家に引き籠もって)自分の志を高く立て道を求め、(いざ、世間に出た時には)正義を行って自分の道を達成しようとする言葉は聞いたことはあるが、それを実践した人を見たことはないのじゃ」。


この章の解説:

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

善を見れば、早く追求せねばおっつかないかのように熱心に追求し、不善を見れば、あつい湯の中につっこんだ手を、さっと引っこめるように遠ざかる。そうした人間を、私はこの目で見た。またそうした人間の存在を、古い言葉としても聞いている。ところで下積みの隠遁者として生活しながら自己の理想を追求しつづけ、正義を行って自己の方法を貫通しようとする人間、それはその存在を、古い言葉としては聞くが、現実にはまだめぐりあわない。
大体以上のように読める。前者もむろんすぐれた道徳であるが、より忍耐を要する、より困難な事態として、後者が考えられているように見える。…「隠」は隠遁の意にはちがいないが、必ずしも逃避的な消極的な隠遁者ではなく、社会の下積みとして、目立たぬ生活をするものをいうと、解すべきである。

諸橋轍次「論語の講義」では、次のように訳しています。

孔子言う、善を見たならば、あたかも人を追いかける時の、追いかけても追いかけても、なお追い付き得ないような気持ちで、一意専心その善を追求して行くようにするがよい。又不善を見たならば、あたかも熱い湯の中に手をさし入れて慌てて手を引く時のように、一瞬の猶予もなくその不善から遠ざかるようにするがよい、という古い言葉がある。私はかくの如く善を追求するに急なると共に不善から遠ざかるにも急なる人を実際に見たこともあり、又その言葉を人から実際に聞いたこともある。一方、世から用いられず退き隠れている時には、自己の志を高く保って、自己の満足出来る心の姿を維持し、一度(ひとたび)出で仕えて君臣の義を行い得る時には、平素自己の修めた道を堂々と実行してこれを天下に広めるがよい、という古い言葉がある。しかし、この言葉については、私は人から実際にその語を聞いたことはあるが、この言葉通り実行した人は未だ見たことがない。
そして、次のように解説しています。
これは、その人が世に出ることを切望する言葉である。前半の事項は、道の修養に志しておる人であれば、或いは普通の人でもなお、よくなし得るところであり、従って其の人を見たりと言ったゆえんであろう。これに対して後半の事項は、行蔵(こうぞう:世に出て道を行うことと、隠遁し世に出ないこと)顕晦(けんかい)時に中する者でなければ、なかなか実行し得ないところであるから、従って未だ其の人を見ずと嘆息したゆえんであろう。而して伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)が周の武王につかえてはその道を尽くし、その道の行われざるを知っては隠居して飽くまでその志を高尚に保ったという如きは、恐らくこの種の人の姿であろう。

加地伸行著「論語」では、次のように訳しています。

孔先生の教え。善業を見ると、とても自分には及ばない、という〔反省の〕気持ちとなり、悪業を見ると、熱湯に手を入れるようなものと思う。そういう人物を私は見てきたし、そういう古語を学んだ。乱世のときには隠れ住んで自分の志を深め、〔ひとたび見出されたときには、その志に基づく〕道義に従って人の道を世に広める。そういう古語を私は学んだが、それを実行に移した人物と出会ったことはない。

宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。

孔子曰く、善を行う機会があれば、逃げられはせぬかと恐れるようにとびつく。不善を行う誘惑があれば、熱湯の中から物を取り出す時のように急いで手をひっこめる。そういう人間は確かに私のこの目で見届けたことがある。なおその他にも居るという話も聞いている。だが、ひっそりと暮らして自分の生き方を生きる、正道を蹈(ふ)んで自分のやり方に満足する、そういう人はこの世にいるという話は聞いているが、まだ実際に会ったことがない。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

「善を見たら押っ取り刀で追いかける。不善を見たら熱湯を浴びたように飛び退去(すさ)る」という言葉があり、わたしはそういう人を見たこともあるし、そういう言葉を人が口にするのも聞いたことがあるよ。「隠居後も理想を高く正義を行い、道を究めん」という言葉も聞いたことがあるが、あいにく、そうした正義の人物にお目に掛かったことはないね。一つわたしがお手本になろうかね。


十二.「季氏第十六、第十二章」

(孔子曰、誠不以富、亦祗以異。)斉景公馬千駟。死之日、民無徳而称焉。伯夷叔斉、餓于首陽之下。民到于今称之。其斯之謂与。

孔子曰く、『誠に富を以てせず、亦た祗(まさ)に異なるを以てす』と。斉の景公馬千駟(うませんし)あり。死する日、民徳として称するなし。伯夷・叔斉首陽の下に餓(う)う。民今に到るまで之を称す。其れ斯を之れ謂うか。


孔先生がおっしゃった。「『詩経』に、『まことに人に称賛されるのは富の力ではなく、ひとえに常人と異なるからです』とある。斉の景公は四千頭もの馬を持っていたが死んだ時に、人民は誰も景公を徳のある人だと誉めなかった。(それに対して、)伯夷・叔斉は首陽山のふもとで飢え死にしたが、人民は今に至るまで誉めておる。『詩経』に書いてある言葉は、このことをいうのじゃろうよ」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

斉の景公:名は杵臼(しょきゅう)、前五四七年から四九〇まで在位。孔子より年長で、ほぼ孔子の時代まで生きていた。欲張りな君主として有名であった。
(貝塚茂樹著「論語」から)


この章の解説:

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

朱子の説によれば、この章は本文に脱落がある。まず章のはじめに、「孔子曰」の三字がなければならないのが、ぬけている。また最後の句の、「其れ斯を之れ謂うか」につき、このいい方は、いつも、あることわざを挙げ、そのことわざに該当するのは、ほかならぬこの事実であるというときのいいかたであるのに、ここには、ことわざらしいものが引かれていない。一方、前の顔淵第十二(第十章、引用者注)の、「子張、徳を崇(たか)くし惑いを弁(わきま)えんことを問う」の章の最後に、「誠不以富、亦祗以異」と、その章の結末としては理解しにくい二句八字がある。すなわち「詩経」「小雅」の「我行其野(がこうきや)」を題とする詩の文句である。それは元来、この章の「其斯之謂与」の上にあったのが、あちらの顔淵篇にも、斉の景公を論じた条が次にあるところから、あちらへまぎれ込んでしまったのであり、それをここへ移せば、この章もきちんと読める、とする。
朱子のこの説は、北宋の程子からみちびかれており、大胆な説のようであるが、なるほどよく通ずる。いま、それに従って訳す。
斉の景公は金持ちであり、馬車を曳かせる四頭一組みの馬を千組み、つまり四千頭の馬をもっていたが、凡庸な君主であったため、かれが死んだとき、人民からたたえられるべき道徳を、なにももたなかった。…景公の死はBC四九〇、孔子六十二歳のとき、在位五十八年目であった。
それに対し、伯夷と叔斉の兄弟は、すでに公冶長第五(第二十二章、引用者注)などに見えるように、周の武王の武力革命に抵抗し、首陽山の下で餓死した。孔子のときから数百年前のことであるが、人民たちは、現在に至るまでかれらを賞讃している。

貝塚茂樹著「論語」では、次のように訳しています。

孔先生がいわれた。
「『ほんに人をはかるには金は無用、人にすぐれたところが大事じゃ』という諺がある。斉の景公は馬を四千頭所有したが、死んだ日、人民はだれも景公を徳あるものとしてほめるものがなかった。伯夷・叔斉は首陽山のもとで餓死したが、人民は今に至るまでほめたたえている。これが、すなわち諺のいうことなのだ」。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

詩経に「ホントだよ、世俗の富でなくってね、ホントの富があるんだよ」と詠まれているが、斉の国の景公は四千頭の馬を持つほど豊かな生活をしていたが、死んだ時には、その徳を讃える国民は一人もいなかった。一方、王位を継承する高貴な地位に生まれながら筋を通して隠者となって首陽山の麓で餓死した殷の伯夷と叔斉の兄弟は、今にいたるまで人民に誉め称えられている。さあ、どっちが真に豊かで高貴な人生を送ったと言えるかね。


十三.「季氏第十六、第十三章」

陳亢問於伯魚曰、子亦有異聞乎。対曰、未也。嘗独立。鯉趨而過庭。曰、詩学乎。対曰、未也。不学詩無以言。鯉退而学詩。他日又独立。鯉趨而過庭。曰、学礼乎。対曰、未也。不学礼、無以立。鯉退而学礼。聞斯二者。陳亢退而喜曰、聞一得三。聞詩聞礼、又聞君子之遠其子也。

陳亢(ちんこう)、伯魚に問うて曰く、「子も亦た異聞(いぶん)あるか」。対えて曰く、「未(いま)だし。嘗て独り立つ。鯉趨(はし)って庭を過ぐ。曰く、『詩を学びたりや』。対えて曰く、『未だし』。『詩を学ばざれば以て言うなし』。鯉退いて詩を学べり。他日又独り立つ。鯉趨って庭を過ぐ。曰く、『礼を学びたりや』対えて曰く『未だし』。『礼を学ばざれば以て立つなし』。鯉退いて礼を学べり。斯(こ)の二者を聞けり」。陳亢退いて喜んで曰く、「一を聞いて三を得たり。詩を聞き礼を聞き、又君子の其の子を遠ざくるを聞けり」。


(孔先生の弟子の一人である)陳亢(ちんこう)が伯魚に尋ねた。
「あなたは(孔先生のご子息だから、わたし達弟子が聞いたことがない)特別なお話を聞かれたことはありませんか。(きっと、あるでしょう)」。
伯魚が答えた。
「いいえ、そのようなことは一度もありません。あえて言えば、ある時、私が小走りで庭を通り過ぎますと、父が『お前は詩を学んだか』と言われたので、『まだです』と答えると、父は『詩を学ばないと、人に接したとき十分な言葉が言えない(。詩は人情の美を尽くし、その言葉は洗練されているから、詩を学びなさい)』と言いました。それ以来、私は詩を学ぶようになりました」
「また、ある時、私が小走りで庭を通り過ぎますと、父が『お前は礼を学んだか』と言われたので、(同じように、)『まだです』と答えると、父は『(礼は世に処するときの人として踏むべき道であるから、)礼を学ばないと人間として自立できない(。だから、礼を学びなさい)』と言いました。それ以来、私は礼を学ぶようになりました」
「もし私が特別の話を聞いたとすれば、この二つだけです」。
陳亢は伯魚のもとから退出して、次のように言ったという。
「私は今日一つのことを質問したが、その一つの質問から、三つのことがわかった」
「(その三つとは、)詩を学ぶことが大切であること、礼を学ぶことが大切であること、君子は自分の子を特別扱いすることをせず、むしろ遠ざけていることである」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

陳亢(ちんこう)、伯魚
陳亢:陳子禽のこと。(学而篇第十章参照)
伯魚:孔子の息子、孔鯉(こうり)。字は伯魚。前四八四年、孔子六十九歳のとき死亡して孔子を悲しませ、老年の孔子の孤独感はますます深まった。
(以上、貝塚茂樹著「論語」から)


この章の解説:

緑川祐介著「孔子の一生と論語」には、次のように書いてあります。

孔子は母が亡くなった後、委吏(下級役人…引用者注)等になる前に十九歳で結婚している。そして「鯉」(字は伯魚)と名付けた子供がある。孔子の妻となった女性は宗の幵官氏(けんかんし)という人。彼女の略歴などは記録に残っていない。子供が生まれてまもなくして孔子は妻と離別したという説もある。しかし、略歴もないくらいなので、孔子といつまで過ごしたのかの記録もない。そこで、離婚説が出たのかも知れない。儒教では離婚などについてはタブーなので、語りたがらないからこのへんはあまり追求しなかったのであろうか。家庭を平和にできない者が天下国家を平和にすることなどできないと固く信じているが故に、孔子の離婚などは隠しておきたいのだろう。しかし、離婚をしたとしても孔子自身の人格を左右することはできない。そういう苦汁をなめたからこそ人生についての深い考えも出てきた、と見ることの方が妥当である。(中略)孔子は結婚して一年後に男の子を授かった。その子は「鯉」と命名された。字を「伯魚」という。鯉は、孔子よりも先に五十歳で亡くなっている。家族主義を唱えた孔子ではあるが、自分自身のこととなると、家族には恵まれなかったようである。ただ、そのような険しい環境がかえって孔子を強くしたという見方もできる。孔子が子供である鯉をどのように教育したかは、定かでない。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

陳亢は身分のある人であったらしく、これへの伯魚のこたえはたいへん丁寧である。「君子は子を易えて教える」という礼があって、身分のある人は自分の子を直接教えないたてまえであった。それは子を愛する愛情が、かえって教育の妨げになることを恐れたからであろう。子は教えないというたてまえを守りながら、片言隻句でよく子を教えている孔子はさすがにりっぱであった。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

「孟子」の「離婁(りろう)」篇上に、かの有名な条がある。「君子の、子に教えざるは何ゆえぞや」という公孫丑(こうそんちゅう)の問に対し、孟子は答えていう。教育は正しさをもってしなければならないが、親の私生活をよく知っている子供は、お父さんは正義正義と子に押しつけながら、お父さん自身は、正義ばかりで生きていないじゃないかということになれば、父子は憎みあうことになる。だから、「古は子を易えて之れを教う」、お互いの子を取り換えて教育した。
(中略)
「詩を学ばざれば、以て言う無し」、とここでいう詩の効用については、次の陽貨第十七(第九章、引用者注)に、さらにくわしく言及がある。また「礼を学ばざれば以て立つ無し」と照応するのは、泰伯第八(第八章、引用者注)の、「子曰く、詩に興り、礼に立ち、楽に成る」である。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

弟子の子禽さんが先生のご子息の鯉さんにインタヴューをしたことがあった。
「あなたは先生から何か特別の奥義のようなものを伝授されましたか」
「いいえ、全くありません。そうですね、かつて父が庭先に独りでいた時に、わたしが傍らを走り抜けようとしたら、『詩を勉強しているかい』と訊かれました。『まだです』と答えると、『詩を勉強しないと言葉づかいができないよ』と言われました。そこで、わたしは部屋に戻ってから詩の勉強を始めました。又ある日、父が庭に独りでいる前を走り抜けようとすると、『礼を学んだかい』と訊かれたので、『まだです』と答えました。すると父は『礼を学ばないと立ち居振る舞いができないよ』と言いました。そこで、わたしは部屋に戻ってから礼を学び始めました。まあ、父から伝授されたと言えるのは、この二つくらいでしょうか」。
子禽さんはインタヴューの後で、「一つ質問しただけなのに、三つもいいこと聞いちゃった。詩が大切だってことと、礼が大切だってことだろう、それに君子はわが子を特別扱いしないってことだよ」と小躍りしていた。


十四.「季氏第十六、第十四章」

邦君之妻、君称之曰夫人。夫人自称曰小童。邦人称之曰君夫人。称諸異邦曰寡小君。異邦人称之亦曰君夫人。

邦君(ほうくん)の妻(さい)、君(きみ)之を称して夫人と曰う。夫人自ら称して小童(しょうどう)と曰う。邦人(ほうじん)之を称して君夫人(くんぷじん)と曰う。諸(これ)を異邦(いほう)に称して寡小君(かしょうくん)と曰う。異邦の人之を称して亦た君夫人と曰う。


(諸侯の殿さまの配偶者には色々な呼び名がある。)宮中において殿さまがその配偶者を呼ぶ時には夫人という。 夫人自身は自分のことを小童(しょうどう)という。国内において国民が呼ぶ時には君夫人(くんぷじん)といい、外国との関係において、国民が外国の人に対して呼ぶ時には寡小君(かしょうくん)といい、外国の人がこちらの夫人を呼ぶ時には、やはり君夫人(くんぷじん)という。


この章の解説:

吉川幸次郎著「論語」には、次のように書いてあります。

これはいわゆる「称謂(しょうい)」の問題である。一人の人物が、場合場合によって、いかなる呼び方をされ、またするかは、いまの日本語でも、御父上、お父さん、父、と場合によって呼び方をかえるように、東方の社会では、いまでも重要な慣習であり、古代は殊にそうであった。但しそれは中国古代の学問では、礼の学問の扱う問題であり、「礼記」の「曲礼」篇などに、いろいろと規定が見え、ここにいうような諸侯の妻に関する規定も含まれている。「論語」の中に、突然孤立して現れるのは、奇異の感をまぬがれない。一篇の終わりのことでもあり、他の書物の竹の簡(ふだ)の破れたページが、まちがってとじ合わされたのかも知れない。


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 2007.8.5  論語意訳−29


衛霊公篇第十五


二十八.「衛霊公第十五、第二十八章」

子曰、人能弘道、非道弘人。

子曰く、人能く道を弘(ひろ)む。道の人を弘むるに非ず。


孔先生がおっしゃった。
「人が道を切り開いていくのじゃ。道が人を導いてくれるのではないぞ」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

道:天の道に沿った人の道、大宇宙の生成発展に寄与すべく宇宙人生を生きる人間の道。


この章の解説:

以下、安岡正篤著「友経内篇」から引用します。

第一章 天命
天命之を性と謂ひ、性に率(したが)ふ之を道と謂ひ、道を修むる之を教(おしえ)と謂ふ。道は須臾(しゅゆ)も離るべからざるなり。離るべきは、道に非ざるなり。是の故に君子は其の賭(み)ざる所に戒愼(かいしん)し、其の聞かざる所に恐懼(きょうく)す。隠れたるより見(あら)はるるは莫く、微(かすか)なるより顯(あきらか)なるは莫し。故に君子は其の獨(ひとり)を愼(つつし)む。
【要旨】
性と道と教‥修己の基本
【大意】
天が人に、人としてあるべき根本(おおもと)として命じ与えたもの、これを性というのである。その性にしたがい行ない、生きていくあり方、これを道というのである。この道を修め身につけていくこと、これを教えというのである。そこで、この道というものは、人が一瞬といえども離れられないものであり、離れられるとすれば、それはもう真の道ではないのである。このため君子は、(はっきり見聞できることについてはもちろん)目に見えないことについても戒め(前もって注意すること)慎み(慎重に事をなす)、その耳に聞こえないことについても恐れつつしむのである。かくれたことほど人前に露見(ばれる)しやすく、見えにくいものほど顕現(はっきりとした形で現れること)しやすいという諺の通りに、人知られない隠しごとこそ最も慎まねばならない。だから君子は、人の知らない、自分ひとり知る所においても、戒め慎しむものである。
第二章 大学の道(一部抜粋)
大學の道は明徳を明らかにするに在り、民を新(あらた、親)にするに在り、至善に止(とど)まるに在り。止まるを知って后(のち)定まる在り。定まって后能く静かなり。静かにして后能く安し。安くして后能く慮(おもんばか)る。慮って后能く得(う)。物に本末あり、事に終始あり。先後(せんこう)するところを知れば則ち道に近し。(以下、省略)
【大意】
学問の集大成(多くのものを集めて、一つのまとまったものにすること)としての大人、君子の学の目的とするところは、
第一には、天から与えられた明らかな徳性(道徳心)、良心を磨きあげることであり、
第二には、自分ひとりがそうするだけでなく、それを人にも推し広めて、世の人びとも、日々新たに、明徳(天から与えられたすぐれた徳性)を明らかにさせることにある。
そして第三には、第一・第二の事項とともに最も善い状況を推持し、そこから動かないことである。
至善に止まる、いちばんよいところを目標として動かなければ、志も、一定している。それが一定してくれば、心が惑いなく静かになることができる。心が静かになってくれば、心安らかにゆとりをもつことができる。心安らかにゆとりをもつことができれば、正しい判断、思慮ができる。正しい判断、思慮ができれば、的確な対処ができるようになる。ところで、いかなる物にも、本と末とがあり、何事にも、始めと終わりがある。人の生き方においても、本末の重要度の区別があり、何から始め、何で終わるかの終始の順序がある。その本末先後(物事の始めと終わり順序)を見きわめて誤らぬことが、成就(物事を成し遂げること)への近道である。

以上、安岡正篤著「友経内篇」からの引用でした。

ちょっと難しいかもしれませんが、簡単に言うと、「道」とは天から与えられた人間としての徳性を明らかにして「宇宙人生」を生き抜くことであります。「宇宙人生」とは、わたし達を生かしてくれている曰く言い難い大きな力、宇宙根源の力を、何と有り難いことであろうかと感謝する心を持ち、素に行じて自らを得るが如く(素行自得)に生き抜く人生のことであります。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

「道」とは、思想・主義・宗教などすべて一定のイデオロギー形態をさすと考えてもよいであろう。人は思想・主義・宗教などが独自で存在しているように誤って考えるが、あくまで人間が主体であり、人間によって考えられ、人間によって信じられ、人間によって主張されつつ世の中にひろまり、後世に残ってゆく。ここに孔子の人間中心主義、いわゆる人本主義がある。

呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。

人間こそが理想の道を弘めるのである。理想の道なるものが最初からどこかにあって人間を使嗾(しそう、けしかけること、引用者注、辞書より)するのではない。
この孔子の言葉を、何人かの先学のように、イデオロギーよりも人間を優先する人間主義の表明とするのは、いささか言い過ぎかもしれない。それでも、抽象化された理念が先にあるのではなく、その理念を生み、それを実践する人間がまずあるのだ、と孔子が言いたかったことはまちがいなかろう。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」には、次のように書いてあります。

われわれ一人一人が道徳を身につければ、社会はその分だけ確実に善くなるんだよ。だから、道徳や誰かが社会を善くしてくれるのをボケーッと待っているべきではないんだぞ。
「道が人間を広めるのではない」というのが従来の訳だが、意味不明なので蛇足を加えて訳した。

加地伸行著「論語」では、「人間が(努力して)道徳を実質化してゆくのであって、道徳が(どこかに鎮座していて、それが自然と)人間を高めてゆくわけではない」と訳しています。

宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。

子曰く、人間は努力して正義の道を拡充しなければならない。どうかすると人間は、正義の道に乗りかかって自分の名を売り拡めようとする。


二十九.「衛霊公第十五、第二十九章」

子曰、過而不改。是謂過矣。

子曰く、過って改めざる。是を過ちと謂う。


孔先生がおっしゃった。
「(よいか、弟子ども、よく聞けよ。過ちは誰にでもあることじゃ。しかし、)過ったことに気付いても、言い訳したり正当化したりして、それを改めようとしない。それが、本当の過ちというのじゃ」。


この章の解説:

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

「過てば則ち改むるに憚ること勿かれ」ということばが二度『論語』に出てくる。(学而篇第八章・子罕篇第二十五章)。たんなる過ちは問題でない。過ちの処置がたいせつである。

渋沢栄一著「『論語』の読み方」には、次のように書いてあります。

人間、誰でも過ちはあるものだ。過ちに気がついてこれを改めることができれば、これはもう過ちではない。過ちをごまかして改めないことを、真の過ちという。そしてその過ちのもたらす災害を受ける。この項は過ちをごまかす悪習を戒め、『子罕篇』の「過っては則ち改むるに憚ること勿れ」(過ちがあれば、素直に認めてすぐさま訂正することだ)の意味をさらに厳しくいったものだ。仏道では懺悔を成仏の法とし、神道では「みそぎ」の法がある。それで罪科や汚れを祓(はら)い去るのである。いずれも悔悟・改心を期待しているのだ。過ちをさっさと改めるのを君子の道という。青年諸君に深く心がけてもらいたいのは、この君子の道である。

吉田賢抗・加藤道理著「論語新版」には、次のように書いてあります。

『論語』の中には、人間の過ちについて言及する章が多いが、孔子は決して、人間の過ちそのものを批難してはいない。学而篇には「過ちては則ち改むるに憚ること勿れ」とあるように犯した過ちを改めないことがほんとうの意味での過ちなのだとする。だからこそ、顔回を「八つ当たりせず、同じ過ちを繰り返さなかったので、学問を好んだ(雍也篇)」と称賛するのである。この孔子の教えを理解した弟子の子夏は、「小人の過ちや必ず文(かざ)る〔いろいろ表面をつくろって言いわけをする〕(子張篇)」と言い、子貢は「君子の過ちは日食や月食のようにめったにないものだから、過ちを犯すと、人が皆驚くが、たとえ過ちを犯しても、すぐ改めるので、さすが君子だと仰ぎみるのだ(子張篇)」と言っている。心したいことである。


三十.「衛霊公第十五、第三十章」

子曰、吾嘗終日不食、終夜不寝、以思。無益。不如学也。

子曰く、吾嘗(かつ)て終日食(くら)わず、終夜寝(い)ねず、以て思えり。益なし。学ぶに如かざるなり。


孔先生がおっしゃった。
「わしは、その昔、一日中、それこそ何も食べず、寝もしないで、一生懸命仁道を考えたのじゃが、何も思い浮かばなかった。やはり、古典から学んで、自分なりに咀嚼して、生活や仕事に取り入れ見識を高めていくこと尽きるということを、つくづくと感じたのじゃよ」。


この章の解説:

安岡正篤先生は、秘蔵講演実録「論語講座(四)」(財団法人郷学研修所・安岡正篤記念館)の中で、次のように話しておられます。

論語を知らないものは無い論語を持たんものは無い論語を読まぬものはないけれども、大体皆論語読みの論語知らずであるお互いという。人を責めるのではないお互いにそうなんだとそれで本当によくわからんものがたくさん集まっててんやわんやと騒いでおるこれが特にこの大衆時代の特徴である。そこでこの時代この人類は如何にすれば救われるかということになると『学ぶに如かざるなり』と。論語に書いてある。その通り。終日物を思えども何にもならん、『学ぶに如かざるなり』だ。でもすがるものを覚えてもこれまた何にもならん。『学ぶに如かざるなり』であります。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

孔子が「思いて学ばざれば則ち殆(うたが)う」(為政篇第十五章)といったのは、ここで体験として述べたことを、たんなる思索では学問が成り立たないと一般化して述べたのである。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

「思」、すなわち空漠な思索、それはたとえ寝食を忘れてのものであっても、「学」、すなわち読書による経験の堆積に及ばないことを、もっともはっきりいいきった条である。以思、無益、という二つの二字句が、いい切りを強める。「荀子」なり「大戴礼(だいたいれい)」なりの「勧学」篇では、「孔子曰わく、吾れ嘗て終日にして思う、須臾(しゅゆ、たまゆら:しばし、引用者注)の学ぶ所に如かざる也」と、一そう強い言葉となっている。

宇野哲人著「論語新釈」には、次のように書いてあります。

この章は思うて学ばざる者のために発したのである。為政篇に「学びて思わざれば則ち罔し。思ひて学ばざれば則ち殆し」といってるくらいで、学と思とは偏廃(へんぱい)すべからざるものであるから、この章でも決して思うことを排斥したのではない。

加地伸行著「ビギナーズ・クラシックス 論語」には、次のように書いてあります。

人間としての魅力は、物知りだからというのではなくて、その人の人柄から生まれます。たとえば、物ごとの判断をするとき、己のためではなくて、みなのためという立場に立つ人には、魅力が生まれます。たとえば、友情として自分を犠牲にする人には、魅力があります。たとえば、家族を愛する人には、魅(ひ)きつけられます。そうです、《人間的魅力》、それを私たちは求めているのです。
その求める相手は狭い交流範囲においてそうですが、さらに広く為政者に対しても求めます。現代におきましても、一国の指導者には、その人なりに人間的魅力があります。
では、そういう魅力は、どのようにして生まれてくるのでしょうか。
もちろん、生まれつきの場合もありますが、けっしてそればかりではありません。たとえば、苦労に苦労を重ねて、しかしなにか一つのことを完成した人には、なんとも表現のできない魅力があります。その魅力とはその人が持っている《ものの考えかた》にあります。人生観と言っていいでしょう。さらには広く世界観にもなっているでしょう。そういう自信に満ちた《ものの考えかた》を持ち、それに基づいて発言し、行動する生き生きとした姿には魅力があります。
孔子は、その魅力を引き出す元となっているものを教えたのです。人間に対する見かた、人間に対する気持のありかた、人間に対する愛のありかた、人間に対する想いの深さ‥‥‥人間、人間、人間、人間を説き続けたのです。それは、人間性の教育でした。人間を鍛え、人間を作るという、教育の本当の姿がありました。その教育的内容が孔子にとっての学問でした。
だから、学問は《深い知識》だけではなくて、人間としての十分なありかた、人間性の培養を求めたのです。これは、広くは《豊かな道徳性》と言っていいでしょう。すなわち、《深い知識》に加えて、《豊かな道徳性》があること、つまりは《教養人の養成》でした。この教養人であること、それを為政者の条件としたのです。
今日、この《為政者》とは各種社会の指導者に相当すると言っていいでしょう。

孔子の言う「学ぶ」とは、知識だけではなく、人間として如何に在るべきかということなのです。


三十一.「衛霊公第十五、第三十一章」

子曰、君子謀道不謀食。耕也餒在其中矣、学也禄在其中矣、君子憂道不憂貧。

子曰く、君子は道を謀りて食を謀らず。耕すや餒(うえ)其の中(うち)に在り、学ぶや禄其の中に在り、君子は道を憂えて貧を憂えず。


孔先生がおっしゃった。
「君子たるもの、人の道を歩もうと努力するが、食べることなど心配しないものじゃ。食べることを心配して農業に従事しても不作で飢えることもある。学問を究めれば(やがて)職を得ることができる(ので、結果として食べることができるのじゃよ)。君子たるもの人の道に外れることを憂うべきで、生活が貧しいことなどを憂いてはいかんのじゃ」。


この章の解説:

安岡正篤著「友経 内篇」には、次のように書いてあります。

【要旨】
君子は道徳(本)を第一とし、生活(末)を第一としない。
【大意】
孔子言う、「君子は道を得ようとつとめるが、食を得ようとはつとめない。(食を得ようとして)耕しても飢えることはあるが、(道を得ようとして)学んでいれば、俸禄はそこに自然に得られる故に、君子は道のことを心配するが、貧乏なことは心配しない」と。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

先生がいわれた。
「君子は道を得ようとして考えるが、食を得ようとは考えない。耕作していても、年により飢えることもある。学問していても、俸給はその中に生まれる。君子は道を気にかけるが、貧乏を気にかけない」。
食を得るために農業に従事していても、年によって飢饉のため食が得られないことがある。これに反して、食を得ることを目的として学問してはいないのに、学問ができ上がると、自然に諸侯や貴族に招かれて俸禄にありつける。この逆説がないと、このことばはまったく平凡なお説教におちいる。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

君子は道徳を第一とし、生活を第一としないのをいった条である。道を謀り、食を謀るの「謀」の字は、「かんがえる」と訳しうる。紳士は道徳のことは考えるが、生活のことは考えない。何となれば、農耕は生活を安定させる道であるけれども、飢饉その他による飢餓の要素も、内在する。学問は生活の手段ではないけれども、「禄」すなわち経済的幸福への要素も内在する。農耕か学問か。君子の憂え、関心は、道徳にあって、貧乏にはない。
大体は以上のごとく読める。ただし言葉の背景となった条件を、私は充分に理解しているわけではない。皇侃が、学問のない人は、農耕につとめても作物を他人にうばわれるから餓え、学問をするものは、パトロンの支持を受ける、というのは、現実的に過ぎる。なお禄在其中は、為政第二(第十八章、引用者注)にも、同じ表現がある。
何にしても、「学びて禄其の中に在り矣」の一句は、貧乏に耐えながら学問をする人人を、鼓舞しつづける。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

思慮のある人物は道義を第一に考え、食い扶持(ぶち)を第一には考えないもんだよ。たとえ農業に従事していても異常気象などで飢えることがあるが、学問をしていればいずれ必ず俸給が得られ、飢えずにすむようになると分かってるからさ。だから、思慮ある者は修行中に道義が身につかないことを心配しても貧乏であることを悩んだりしないもんなんだよ。

宮崎市定著「現代語訳 論語」には、次のように書いてあります。

子曰、君子謀道不謀食。耕也在其中矣、学也禄在其中矣、君子憂道不憂貧。
子曰く、君子は道を謀りて食を謀らず。耕すや、(いい)其の中(うち)に在り。学ぶや、禄其の中に在り、君子は道を憂え、貧なるを憂えず。
子曰く、諸君は修養に専念して、衣食のことは心配せぬがよい。農夫が耕作すれば自然に食物の収穫が得られると同じく、諸君は学問していれば自然に俸禄が向こうの方から歩いてくるものだ。諸君は修養の足りないことに悩むのがよい、貧乏に心を痛めることはない。
餒とは甚だ字形が似ている上に、餒ととに共通して飢餓という意味がある。そこで筆写の際に誤ったことが十分考えられる。但しには飯の意味があるが、餒の方にはない。従来はあくまで餒に固執したために、耕しても餒(う)えることがある、と解し、この文章の意味が途中でねじれてしまい、下文とよくつながらなかった。


三十二.「衛霊公第十五、第三十二章」

子曰、知及之、仁不能守之、雖得之、必失之。知及之、仁能守之、不荘以@之、則民不敬。知及之、仁能守之、荘以@之、動之不以礼、未善也。

子曰く、知之に及ぶとも、仁之を守ること能(あた)わざれば、之を得(う)ると雖も、必ず之を失う。知之に及び、仁能(よ)く之を守るとも、荘以て之に@(のぞ)まざれば、則ち民敬せず。知之に及び、仁能く之を守り、荘以て之に@むとも之を動かすに礼を以てせざれば、未だ善ならざるなり。


孔先生がおっしゃった。
「いくら知識を得ても、それを仁(見識)に近づけなければ、身につけた知識は何に役にも立たないのじゃ。知識を得てそれを仁(見識)に高めても、人間としての威厳がなければ、人民(部下)に尊敬されないのじゃ。知識を得てそれを仁(見識)に高め、人間としての威厳を備えても、すべてを礼に約して徳を発しなければ(徳で治めなければ)、未だ善(仁)には達しないのじゃ。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

荘、@(のぞ)む

荘:厳格な態度、威厳。
之に@む:人民(部下)に臨むこと。


この章の解説:

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

先生がいわれた。
「知識で、その地位までゆきつくことはできるが、仁徳によってその地位を守ることができないと、きっとその地位を失うはめになる。知識でその地位までゆきつき、仁徳で守っても、おごそかに地位についていないと、人民は敬意を払わない。知識でその地位にゆきつき、仁徳で地位を守り、おごそかに地位についていても、人民を動かすのに礼の定めにしたがわないと、まだ充分ではないのである」。
「知はこれに及ぶ」の「これ」、「仁能くこれを守る」の「これ」が何をさすか、はっきりしていない。私は、「荘以てこれに@(のぞ)む」の「これ」が、おごそかに位につくことをさすことから、すべての「これ」は位をさすと考えた。

諸橋轍次著「論語の講義」では、「孔子言う、人に君たる者の知識が、あまねく民の事情に通じ及んでおっても、実際に仁恵を以て民の生活を守ってやることが出来なければ、一旦は民心を得ることはあっても、結局は必ず民心を失うであろう。而して又、いかに人君の知識があまねく民の事情に通じ、その仁恵が民の生活を守り得ても、荘重(そうちょう)な態度を以て民に臨まなければ、民は人君を尊敬しない。更に又、その知識は民に及び、その仁恵は民を守り得、荘重な態度を以て民に臨んでも、民を動かせる場合に礼を以てしなければ、まだ完全とはいえない」と訳しており、「この章は、主格となる者を明示していないが、恐らくは人君の態度について述べたものであって、人に君たる者は知・仁・荘・礼の四者を兼備せねばならぬと教えたものであろう」と解説しています。

加地伸行著「論語」では、次のように訳しています。

老先生の教え。(指導者たる者は)知識・学問が十分であっても、道徳を守ることができなければ、たとい地位を得たとしても、きっと失うであろう。知識・学問があり、道徳的であっても、どっしりとした態度で接しなければ、人々は敬意を払わない。知識・学問・道徳・厳(おごそ)かな態度がそろっていても、人々に仕事をさせるとき、人間として遇する礼儀をもってしなければ、まだ善しとすることはできない。

宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。

子曰く、智略にすぐれても、仁徳によって維持するのでなければ、一度手に入れた政権も、必ずすぐ喪失してしまうものだ。智略にすぐれ、仁徳によって維持することができても、信念をもって臨むのでなければ、人民は尊敬しない。智略にすぐれ、仁徳によって維持することができ、更に信念をもって臨んでも、自ら礼節に従って動作して見せなければ、画竜点睛を欠くものだ。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

人民を治めるには、知・仁・荘・礼の四点が肝心だ。政治的知識は十分でも仁徳がなければ、いったんは人民を従わせても結局は離反されてしまう。知識と仁徳の二点は十分でも、荘重な態度がないと人民から尊敬されないし、知識・仁徳・荘重の三点がそろっていても、人民を統治するのに礼儀を欠いていれば完璧と言うにはほど遠いね。


三十三.「衛霊公第十五、第三十三章」

子曰、君子不可小知、而可大受也。小人不可大受、而可小知也。

子曰く、君子は小知(しょうち)すべからざる、而して大受(たいじゅ)すべし。小人は大受すべからざる、而して小知すべし。


孔先生がおっしゃった。
「君子は、細かいこと(枝葉末節)には疎いが、大きな事(本質、根本、原理原則)は心得ておる。小人は大きな事には疎くて、細かいことにうるさいものじゃ」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

小知、大受

小知:小さい事柄を理解し、それを実行すること
大受:大きい任務を引き受けること
(以上、貝塚茂樹著「論語」から)


この章の解説:

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

君子は小さい範囲の観察では理解しにくいけれども、大きな利益を、一般人が、かれから受けうる。小人はその反対である。以上が古注の解釈である。
朱子の新注の解釈は、「小知」については同じであるけれども、「大受」とは、その人自身が大きな任務を引き受けること、とする。つまり、君子の人柄は、すぐにはわかりにくいけれども、大きなうつわであり、小人はその反対だとする。仁斎、徂徠、…みな新注に従う。かつ徂徠は、新注の読み方だと「小知」の主格が人人であるのに対し、「大受」の主格がその人自身となる点に、難点があるように見えるけれども、そうした文法もあるのだと、めずらしく朱子を弁護する。
私自身は、訓話的にも思想的にも、古注のほうに好意を感ずる。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

先生がいわれた。
「君子は小さいことはできないが、大きな任務を引き受けることができる。小人は大きな任務は引き受けられないが、小さいことはできる」。
古注・新注・荻生徂徠の説いずれも意味が完全には通らないので、折衷的な立場で訳した。
諸橋轍次「論語の講義」には、次のように書いてあります。
これは、君子・小人それぞれの器量に従って用いるがよいとの教えである。君子と雖も万能ではないから、細かな事まで一々治めしめることは出来ない。しかし託孤寄命(たくこきめい:泰伯、六)の如き社稷の重任を受けしめることは出来よう。小人はもちろん重任に任じ得る者ではないが、一面、小才はあろうから、細かな事柄について治めしめることが出来る。

宇野哲人「論語新釈」には、次のように書いてあります。

この章は人を観る法を言ったのである。君子は細事(さいじ)において未だ必ずしも観ることはできないが、その材徳(ざいとく)は天下の重任を引き受けることができる。小人は器量が浅狭(せんきょう)であるけれども、未だ必ずしも一の取るべき長所がなくはない(朱子による)。

加地伸行全訳注「論語」では、次のように訳しています。

老先生の教え。教養人は専門的知識が十分ではない。しかし、大任を果たすことができる。知識人は大任を果たすことはできない。しかし、専門的知識については優れている。

なるほど、これは、今までの先生方の訳に比べて、しっくりときます。

宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。

子曰く、諸君は細かい所には気がつかぬでもそれでよろしい。大局的な判断を誤らぬようになりなさい。もし大局的な判断が正しくできぬなら、どんなに細かい所に気がついても教養ある君子とは言えぬぞ。

なるほど、これは名訳だと思います。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

大人物はチマチマした仕事には向かないが、ここ一番の大仕事に能力を発揮するものだ。これに対し、小人物は大きな仕事をこなせないが、小さな仕事には存外能力を発揮するものだよ。


三十四.「衛霊公第十五、第三十四章」

子曰、民之於仁也、甚於水火。水火吾見踏而死者矣。未見踏仁而死者也。

子曰く、民の仁に於ける、水火(すいか)より甚だし。水火は吾踏んで死する者を見る。未だ仁を踏んで死する者を見ず。


孔先生がおっしゃった。
「(人が生活する上で水や火は必要不可欠なものであるが、)人の道(仁道)を全うしてゆくことは、水や火(ただ飲み食いして生活すること)よりも大切なのである。(それなのに、)水や火を得るため(生活を維持するため)に必死になる者はおるが、仁道に命を賭ける者は滅多におらんのじゃよ」。


この章の解説:

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

先生がいわれた。
「人民の仁徳に依存する度合いは、水と火にたいするよりもずっと深いものがある。水と火に依存する結果、ときに焼死や溺死する人が出てくる。ところが、仁を守ってこれに殉ずるという人を、今まで見たことがないのはどうしたことか」。
人間にとって、水と火とは欠くべからざるものである。仁徳もまた欠くべからずものであるはずだが、それが理解されていない。水火という比喩を持ち出して仁徳の尊さを説き、「水火は踏みて死す」という極限の場合を持ち出してこれを説明する。この説明の仕方は、孟子などのような戦国時代の雄弁術の影響を受け、かなり表現が戦国時代的になっているように感じられる。

なるほど、論語が編纂されたのは、孔子没後の戦国時代を経てからと言われておりますので、その時代の影響を受けて弟子たちに編纂されたのが、この章であろう、という解釈です。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

人民の仁に対する関係、すなわちそれを必要とする関係、あるいはその必要を意識せずしてしかも実はそれによって生きている関係は、水と火が生活のもっとも近い必需品であるのに似て、しかもそれよりもはなはだしい。そればかりではない。水と火は、危険をも伴うのであって、それを踏んで死ぬ者がある。しかし仁を踏んで死んだ者は、見かけない。古注の馬融の説に、「水火を踏めば、或いは時に人を殺す。仁を踏むも未だ嘗て人を殺さず」。
われわれの生活の比率でいえば、水火は、空気といい換えてよろしいであろう。人人は空気を意識せずして、しかも空気によって生きている。「孟子」の「尽心」篇に、「民は水火に非ざれば生活せず」云云というのも、この言葉の演繹であろう。
全く異なった解釈として、三世紀魏の道家的哲学者王弼(おうひつ)の説として、「民の仁に於けるや」とは、人民が仁を敬遠することとし、水と火はその中に跳びこんで死ぬ者がいるが、仁の中に跳び込んで死ぬ者はいない、というのがあり、皇侃…に引かれている。仁斎の「古義」はそれを演繹するが、要するにそうした説もあるという話柄とはなっても、徂徠が批評するように、「語意を詳(つまびら)かにするに、是(そ)の若(ごと)くならず」であろう。

諸橋轍次著「論語の講義」には、次のように書いてあります。

要するにこの章は、前段において仁が人として離るべからざるものであることを述べ、後段において仁が人の安宅たることを説明すると共に、その中に時人の仁に至る者なきを嘆く意を寓したものである。

宇野哲人著「論語新釈」には、次のように書いてあります。

この章は人に仁をなすことを勉めさせたのである。孟子は「仁は人の安宅(あんたく)なり。義は人の正路(せいろ)なり。安宅をむなしうして居らず、正路をすてて由らず。哀しいかな」と曰っている。聖賢の道を行おうとする心の切なことが窺われるのである。

加地伸行著「論語」では、次のように訳しています。

老先生の教え。人々にとって道徳(人の道)は、水や薪よりもずっと大切なものなのである。水や薪‥生活、ここに生命(いのち)を賭ける者がふつうだ。しかし、道徳的生きかたに生命を賭ける者はなかなかいない。
注‥『孟子』尽心篇に「民、水火に非ざれば、生活せず」とある。「火」は、薪(たきぎ・まき)の比喩。現代中国語で「薪水」は給料のこと。

宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。

子曰く、人民が仁の道を渇望すること、生活において水や火を必要とするが如きものがある。しかし水や火はあまり多すぎると、そこへはまって死ぬことが起きる。しかし仁の道はどんなに多く与えすぎても、それにはまって死んだ人のあることを聞かない。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

人民にとって仁愛は水や火よりも大切なものだ。しかもだ、水や火なら誤って踏み込んだ者を溺れさせたり、火傷で死なせたりするだろう。しかし仁愛は踏み入った者を絶対に傷つけたりしないんだ。人民にとって、仁愛ほど有益なものはありゃあせんよ。


三十五.「衛霊公第十五、第三十五章」

子曰、当仁不譲於師。

子曰く、仁に当っては師に譲らず。


孔先生がおっしゃった。
「仁(人の道)を貫くためには、師の言葉に反論できるほど、己の拠り所、立つ所を、しっかりと持つこと(己を確立すること)が大切なのじゃ」。


この章の解説:

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

先生がいわれた。
「仁徳を実行するにあたっては、先生にも遠慮してはならない」。
師弟の関係を非常に重く考えたこの時代に、仁徳を実行するには、先生などに気がねする必要はないという提言は、たいへん重大である。師弟の情義が昔のものとなった現代人には、この提言はひょっとすると訴えるところが弱いかもしれないけれども、私は孔子が、弟子たちがあまり自分のいうことをはいはいと聞いているのに愛想をつかし、仁に関することなら、もっと自分に反論するだけの元気を持てと鼓舞するために、こんな過激なことをいったのだと想像する。

呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。

地域共同体の規範をただ素直に信じているだけの善良な人物、すなわち「郷原」を、孔子は「徳の賊」とまで痛罵した(陽貨篇十七の十三)。それなら、どんな人物が徳の道を歩むと言えるのだろうか。論語の記述は、古代という歴史段階の書物の例に漏れず、網羅的でもなければ体系的でもない。機会に応じ、人に応じ、孔子の思想は断片的に述べられる。徳の道を歩む人物についても然り。それは例えば次のような人物である。
「子曰わく、仁に当たりては、師にも譲らず」。
解説を要しないほど現代人にとっても文章は明瞭である。仁に関しては、先生に対してでも譲歩する必要はない。孔子自らが弟子たちにこう言っているのだ。理想に対するこの意気込みを心の内に秘めていなければ、村人たちがこぞってほめそやそうとも、それは「郷原」にすぎず、「徳の賊」でさえある。
さて、徳の道を歩む理想主義者は「中行」であるのがいい。この言葉は…「中庸」と同義である。調和・均衡がとれているという意味だ。中庸というと、我々はえてして、微温的とかどっちつかずとかの印象を受ける。現在はしばしばそのように使われるからだ。しかし、それは中庸ではない。中庸とは、本質を衝いているが故に偏っていないことを言う。譬えてみれば、レンズのピントがぴたりと合い、前後左右にずれていないことである。中庸はしばしば相対立する二項目を均衡よく備えている。

諸橋轍次著「論語の講義」には、次のように書いてあります。

人は長幼朋友みな互いに譲ることが必要であるが、譲ることは師に譲るを以て最も重しとするから、ここにはその師にも譲らず‥-遠慮し後れることなく、仁を行うことに邁進せよという意である。或いは師にも負けぬ程度に強く行えと解するのも一つの解釈であろう。

宇野哲人著「論語新釈」には、次のように書いてあります。

この章も人に仁を行うことを勧めたのである。師は己の推服(すいふく:ある人を心から敬い、従うこと。心服)して及ぶことができないとして譲る者である。師にすら譲らないとすれば、仁に当っては父に対しても兄に対しても譲らないのである。

加地伸行著「論語」では、次のように訳しています。

老先生の教え。道徳(人の道)の実践においては、たとい師に対してであっても一歩も譲らない。

宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。

子曰く、仁に進む道においては、先生より先に進んでも一向構わぬ。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

仁の実行には、先生はもとより誰にだって遠慮なんかすることないぞ。


三十六.「衛霊公第十五、第三十六章」

子曰、君子貞而不諒。

子曰く、君子は貞(てい)にして諒(りょう)ならず。


孔先生がおっしゃった。
「君子は、本義(普遍的な原理原則)は貫くけれども、枝葉末節(一時的、部分的な正しさ)にはこだわらないのじゃ」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

貞、諒
貞:永久に変わらない正しさ。大きな信義。
諒:小さな信義。諒解つまり了解とする説もある。
(以上、貝塚茂樹著「論語」から)


この章の解説:

貝塚茂樹著「論語」では、次のように訳しています。

先生がいわれた。
「君子は長い目で正しさを守るが、細かい正しさにこだわらない」。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

「貞」とは、恒常的なただしさである。「易」にしばしばあらわれる字であるが、「論語」ではここだけにあらわれる。君子の人格はそれをもっている。しかし「諒」ではない。「諒」とは小さな信義であって、憲問第十四(第十八章、引用者注)に「匹夫匹婦の諒を為す」というように、無教養な人間のもつせせこましい意識、それをもたない。以上が普通の解釈である。
やや異なった説として、徂徠は、君子は貞正な不変な徳を内に保持し、人人の諒解を希求しない、とする。
さらにまた皇侃の「義疏」に引く某氏の説は、君子はつねに貞正であるゆえに、人人の諒解を得がたい、と読むごとくであり、六朝人らしい悲観の説である。
要するに、通説がもっともすぐれるであろう。

諸橋轍次著「論語の講義」には、次のように書いてあります。

貞と諒とは、操守を貴ぶ点においては、やや似たところがあるが、貞が正しくて堅い操であるに対して、諒は是非善悪におかまいなく、一方に固執して最初約束した言葉を飽くまでやり通そうとする道で、頑(かたく)なさがある。従ってややもすれば尾生(びせい)の信(公冶長二十四)に陥るものである。子貢が、「言必ず信あり、行必ず果す。硜硜(こうこう)然として小人なるかな(子路二十、田中角栄が馬鹿にされた言葉、引用者注)」と言っているのは、この諒に近い道である。

加地伸行著「論語」では、次のように訳しています。

老先生の教え。教養人は大正義に従うが、小信義にはとらわれない。

宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。

子曰く、諸君は人物が堅造だと言われても構わないが、頭の固いのは困る。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

ひとかどの人物というのは、意志強固ではあるが、頑迷牢固な石頭なんかじゃないよ。


三十七.「衛霊公第十五、第三十七章」

子曰、事君、敬其事、而後其食。

子曰く、君に事うるには、其の事を敬して其の食を後(のち)にす。


孔先生がおっしゃった。
「人に仕える時には、自分がやるべき仕事をきちんとやることじゃ。給料は、その働きぶりに応じて頂けるものだと心得よ。(給料が安いの足りないのという低レベルな不満を抱いてはならんぞ)」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

食:禄、現在の俸給(貝塚茂樹著「論語」)。


この章の解説:

思い切って、意訳しました。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

先生がいわれた。
「主君につかえるには、仕事をたいせつに行うこと。俸給は二の次にしろ」。
孔子の弟子は、才能によって各国や貴族に仕官しようとしている。弟子たちの間には、その待遇をやかましくいって、交渉がうまくいかないものもあった。このことばは、がんらいはそういう人たちに向かっての教訓であったのだろう。

宇野哲人著「論語新釈」には、次のように書いてあります。

この章は君に事える道を明らかにしたのである。まず己の職責を尽くそうとして、まず俸給を求めようとしないのが、君子の君に事える道である。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

主人持ちとなったからには、まず仕事を敬虔に大切にし、待遇のことは後廻しに考える。

伊與田覺著「現代訳 仮名論語」では、次のように訳しています。

君に事えるには、慎重にしてその職務に励み、俸禄の事は後まわしにする」。

宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。

仕官した以上は、その職責を第一と考え、その報酬のことは後まわしにする。

以上、どの先生も同じような解釈をしておられます。


三十八.「衛霊公第十五、第三十八章」

子曰、有教無類。

子曰く、教えありて類なし。


孔先生がおっしゃった。
「人というのは、教育次第でどうにでもなるのじゃ。持って生まれた才能などに大差はないのじゃよ」。


この章の解説:

伊與田覺著「『人に長たる者』の人間学」には、次のように書いてあります。

先師がいわれた。「人は教育によって成長するもので、はじめから特別の種類はないのだ」。
人間は誰でも適切な教育をすれば立派な人間になるんだというんですね。
台湾に参りますと、幾つかの立派な孔子廟がございます。台湾は教育の中心を孔子の教えに置いています。九月二十八日が孔子の誕生日ということで、この日には孔子廟で孔子を祭る厳粛な祭り「釈奠(せきてん)」が行われる。この日をまた「教師節」ともいって、祝日になっています。教育を非常に重要視して、しかもその先生の元祖を孔子に置いています。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

あるのは教育であって、人間の種類というものはない。
つまり人間はすべて平等であり、平等に文化への可能性をもっている。だれでも教育を受ければ偉くなれる。
孔子に、人間平等の考えのあったことを示す条として、貴重される。日本の儒者でこの条を最も協調するのは仁斎である。仁斎はいう、「此れ孔子の万世の為に学問を開く所以也。至れる矣(かな)、大いなる哉」。
陽貨第十七(第二章、引用者注)の「性相い近き也、習い相い遠き也」、またこの章とあい補う。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

先生がいわれた。
「人間は教育が問題で、身分の違いは問題にならない」。
《類》貴賤の身分。
孔子の教団は貴賤を問わず、学問を求める人々のために開放されているのだという。新教育のモットーのようなものであろう。

諸橋轍次「論語の講義」には、次のように書いてあります。

類は種類であり、例えば人の貴賤・老少、或いは気質・習俗の相違などはすべて類である。貴い人も賤しい人も、老人でも年少者でも、すべて教育の善悪によって支配せられ、これはこの種類の人であるから絶対に移らぬという差別はないとの意で、教育の力の偉大さを述べたのである。

宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。

子曰く、人間の差違は教育の差であり、人種の差でない。


三十九.「衛霊公第十五、第三十九章」

子曰、道不同、不相為謀。

子曰く、道同じからざれば、相為(あいため)に謀らず。


孔先生がおっしゃった。
「人として『どう生きるか』という方向性が異なっている場合は、意見を交わしても、なかなか噛み合わないものじゃよ」。


この章の解説:

子罕第九、第二十九章に「与に共に学ぶべし。未だ与に道に適くべからず」とあります。「共に同じ師について学ぶことは、誰とでもできるが、共に同じ道に志すとは限らない」という意味です。わたしの経験からも、同じ師に学んでも、その志す道が異なる、という場合は、なかなか話が噛み合わないということがありました。やはり、「どう生きるか」という基本路線が違う人とは良好な人間関係を築くことは難しいようです。そこで孔子は、「相為に謀らず」と言ったのでしょう。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

先生がいわれた。
「目的が同一でなければ、お互いに相談し合うことはできない」。
主義・主張など生活の信条を異にする人との間では、親身になって相談し合うことは不可能だし、また相談によって益を受けることはできないだろう。孔子の生きた春秋時代末期には、まったく異なる目的を立てる思想があらわれはじめてきた。孔子の力でもそれをじゅうぶん説得することはできなかった。そこでこのことばのように、それぞれ自己の志にしたがって、わが道をゆくほかはないという考え方にもなったのだろう。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

すべての人人と調和を保ちたい、というのが孔子の理想であったであろう。しかし現実は、それだけでは対処し得ない面、あるいは賢明な対処になり得ない面、それらがあることをも、孔子は知っていた。そこから生まれた言葉であるにちがいない。
「史記」の著者司馬遷は、この言葉を二度引く。「列伝」第一の「伯夷列伝」では、富貴を求めるものと、道徳を求めるものとは、別種の生活であるとし、「道同じからざれば相い為に謀らず」と孔子がいうのは、「亦た各おの其の志に従う也」という。また「老子韓非子列伝」第三では、世の老子を学ぶ者は儒学を絀(しりぞ)け、儒学も亦た老子を絀けるが、「道同じからざれば相い為に謀らず」とは、こうした場合をいうのか、といっている。

諸橋轍次著「論語の講義」には、次のように書いてあります。

孔子言う、行く道が同じでない者同志(例えば、東に行こうとする者と西に行こうとする者)は、お互いに旅程その他を相談し合っても仕方がない」と訳して、「この章は上述の通り、旅をする者に比喩を取ったのであるが、我々の修養、処世の上についても同様で、善を志す者と利に志す者とは道を異にしており、相為に謀っても無駄である。又この事は、今日の思想の相違などの場合においても言え得よう。ただこの教えを極端に取って、いやしくも我が学ぶ所と異なるものを以て、すべて異端として互いに謀ることをしないという孤介(こかい)の見解を持つことは、戒むべきことと思う。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように書いてあります。

正道を歩む話でなければ、相談に応じぬこと。
「道不同」は「道や目的が同じでない」というのが従来の訳だが、それでは不十分だろう。

宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。

職業が違った同士の間では、商売の相談をしあわない。


四十.「衛霊公第十五、第四十章」

子曰、辞達而已矣。

子曰く、辞は達して已(や)む。


孔先生がおっしゃった。
「言葉は、意味が通じればいいのじゃよ。(飾り立てる必要が何処にあろうか)」


この章の解説:

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

先生がいわれた。
「外交辞令は、意味が通じればよいのだ」。
《辞》一般には言葉を意味するが、外交の問答という特殊な用法がある。荻生徂徠、…らは、ここでは外交辞令の意味で使われたとしている。
当時の外交官の問答の例は、『左伝』にたくさんある。博学を誇示するため故事を引用し、修飾の多い文体が多かった。ややもすると内容空疎で、まったく無意味になってしまうおそれがある。孔子は、外交官ははっきると自国の主張を打ち出し、それを相手国にわからせなければいけないといっているのではなかろうか。小国の魯国に生まれた孔子は、祖国の利害を正しく大国に伝えることが困難であることをよく承知しながら、しかもこういう注文をつけずにいられなかったのだろう。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

「辞」を、一般の言語、乃至は文章、の意味に理解し、意思を伝達できればそれでよろしい、と読むのが普通の説である。元来音楽的である中国の文章が、往往にして持ち易い弊害の一つとして、過度の装飾に流れるとき、それへの弊害として、しばしば引用されるのは、「論語」のこの条である。
(中略)
普通の説によってこの条を読み、この条での孔子は、言語の質直さを尊んだとしても、孔子の考えが、一方的にそうであるのでなく、適度の装飾をも、よい言語、よい文章の条件として尊んだという資料、つまりこの条を救済する資料が、他にある。「左伝」の襄公二十五年に、「仲尼曰わく、志(古書)に之れ有り、言は以て志を足し、文は以て言を足す。言わざれば誰か其の志を知らん。言の文無きは、行われて遠からず」、つまり、言語は心理の充足であり、装飾は言語の充足である。言語でなければ心理は理解されないが、装飾のない言語は、遠くまで普及しない、という言葉が見える。それとこの条とを調和して、言語乃至は文章についても、内容と表現が釣り合って、文質彬彬たることが、後世の儒家の文学論、ないしは文章論の中心となるごとくである。あるいはまた、「易」の「乾(けん)」の卦の「九三」の「文言伝」に、やはり孔子の言葉として、「辞を修めて其の誠を立つ」、言葉をととのえて、誠実さを打ち立てる。それが文章についてのまた一つの道徳として、考察に加わることもある。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

ことばや文章表現は平易簡潔が一番だよ。

なるほど。単純明快で、わかりやすい訳です。


四十一.「衛霊公第十五、第四十一章」

師冕見。及階。子曰、階也。及席。子曰、席也。皆坐。子告之曰、某在斯。某在斯。師冕出。子張問曰、与師言之道与。子曰、然、固相師之道也。

師冕(べん)見(まみ)ゆ。階(かい)に及べり。子曰く、「階なり」。席に及べり。子曰く、「席なり」。皆坐す。子之に告げて曰く、「某(それがし)は斯(ここ)に在り。某は斯に在り」。師冕出づ。子張問うて曰く、「師と言うの道か」。子曰く、「然り、固(まこと)に師を相(たす)くるの道なり」。


盲目の音楽師である冕(べん)が(孔先生に)会いに来た。

階段まで来ると孔先生がおっしゃった。「階段ですよ」。座席まで来ると孔先生がおっしゃった。「お席ですよ」。皆が座ると、孔先生は「誰それはここに、誰それはここに」と教えた。

音楽師の冕(べん)が帰った後、子張が尋ねた。「音楽師をあのように遇されたのは、人の道としての作法に従ったのですか」。孔先生がおっしゃった。「そうじゃ。あのように遇することが人の道(作法)なのじゃ」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

師冕、相く

師冕:当時の楽人で、冕という名の人である
相く:礼では賓客を先導することを「相く」という
(以上、貝塚茂樹著「論語」から)


この章の解説:

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

孔子はかつて楽人から『詩経』の伝授を受けた。当時の楽人は盲目者であった。孔子はたんに盲目の不具者をいたわるという人道主義からだけでなく、詩については教えを受けた先輩にたいする尊敬からも、楽師を手厚く待遇したのであろう。

金谷治著「孔子」には、次のように書いてあります。

楽師の冕が会いに来たときのことである。その楽師が目の見えない人だというところに、この章の意味がある。建物の入口の階段まで来ると、孔子は「階段です」と告げ、部屋に入って敷きもののところまで来ると、「敷きものです」と知らせた。みんなが坐ってしまうと、孔子は「だれしれはそこにいます。だれそれはここにいます」と、名まえをあげて一人一人の場所を教えた。もちろん目の見えない楽師の立場を思いやってのことである。楽師の冕が退出したあと、子張がおたずねする、「あれが楽師と話すときの作法でしょうか」。孔子は答えた、「そうだ。もちろんあれこそが目の悪い楽師を助ける作法だよ」。
これもまた孔子の温かい心が伝わってくる一章である。吉川幸次郎博士は、子張の「師と言ふ」と孔子の「師を相くる」とを比べて、孔子のことばの温かさを指摘している。いかにもと思われる指摘である。子張のことさらな質問のあったことは、このような待遇が決して一般に行われていたのではなかったことを証明している。孔子の特別な心づかいのあらわれであった。

呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。

金谷治は『孔子』(講談社学術文庫)で、孔子の冕に対する心配りは当時「決して一般的な行われていたのではなかった」ものであり、それが「子張のことさらな質問」の背後にあると指摘している。盲目の音楽師に対して温かい配慮が自然にできるところに、孔子と子張の人格のちがいが現れている。本章の孔子と子張の問答は、現代人にもわかりやすい表現の中に、人格の偉大と卑小を見事に描き出している。
しかし、孔子が盲目の音楽師を大切に扱ったのは、単に障害者へのいたわりの気持ちからだけだろうか。吉川幸次郎も言うように、文化の伝承者への敬意もそこには感じられる。さらに、盲人には神の声を媒介する聖なる役割があったからではないか。
白川静は『孔子伝』(中公文庫)でこう言う。「聖とは、字の原義において、神の声を聞きうる人の意である」。また、『字通』(平凡社)では、聖の字に耳が入っていることに注意をうながしている。


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 2007.7.29  論語意訳−28


衛霊公篇第十五


十一.「衛霊公第十五、第十一章」

子曰、人無遠慮、必有近憂。
子曰く、人遠き慮(おもんばか)り無ければ、必ず近き憂い有り。


孔先生がおっしゃった。
「人間、(目先に囚われて)遠い先のことにまで思いをめぐらさないと、必ず身近な所で心配事が起こるものじゃよ」。


この章の解説:

ここで言う「遠きを慮る」とは、物事を短期的、表面的、一面的に捉えずに、長期的、本質的、多面的に捉えるという意味と同じでしょう。

渋沢栄一著「『論語』の読み方」には、次のように書いてあります。

この項の教訓は、一個人にも一家にも一国にも通じる必要なことである。目前のことだけに気を取られて、遠い先のことを考えず、今日のことだけにあくせくして、将来の計画をおろそかにすれば、必ず身近で心配事が起こる。人々も国家も、長期展望に立って、物質的には勤勉・貯蓄・保険・衛生、精神的には教育・修身・安心・信仰を計画的に実践しなければならない。


十二.「衛霊公第十五、第十二章」

子曰、已矣乎、吾未見好徳如好色者也。
子曰く、已(やん)ぬるかな、吾未だ徳を好むこと色を好むが如き者を見ざるなり。


孔先生がおっしゃった。
「もう駄目じゃなぁ(、今の世は…)。美人を好むほどに徳を好む人を見たことがない」。


この章の解説:

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

すでに子罕第九(第十八章、引用者注)にも見えた言葉であるが、ここでは、かしこになかった「已矣乎」を上にかぶせてあらわれる。二度見えるには二度見えるだけの意味があり、孔子がつねに口にした言葉なのであろう。そうして、この章では「已矣乎」が嘆息を深めるのは、自己の理解者がどこにもいないという絶望を、切実な自己の経験とした孔子晩年の言葉とする徂徠の説は、もっともに思われる。

宇野哲人「論語新釈」には、次のように書いてあります。

この章は真に徳を好む者のないのを歎じたのである。「吾未だ徳を好むこと色を好むが如き者を見ざるなり」は已(すで)に子罕篇に出ているが、この章は上に「已(やん)ぬるかな」の三字を加えて人を警(いまし)める意がいよいよ切である。

諸橋轍次「論語の講義」には、次のように書いてあります。

これは道義頽廃して淫風(いんぷう)多き世の中を嘆いた言葉ではあるが、同時に又、徳を好んで孔子を用いるが如き人君の世にない事を嘆息したものでもあろう。

宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。

子曰く、困った世の中だ。異性に関心の強い人間ばかりが多くて、修養に心がける人間はさっぱりいないではないか。

加地伸行著「論語」では、次のように訳しています。

老先生の教え。もはやだめだな。美人よりも、教養人に近づこうという気持が強い人物に、私は出会ったことがない。


十三.「衛霊公第十五、第十三章」

子曰、臧文仲、其竊位者与。知柳下恵之賢、而不与立也。
子曰く、臧文仲(ぞうぶんちゅう)は其れ位(くらい)を竊(ぬす)む者か。柳下恵(りゅうかけい)の賢を知って与(とも)に立たず。


孔先生がおっしゃった。
「(魯の大夫の)臧文仲(ぞうぶんちゅう)は位(くらい)を盗む泥棒(ただ飯食らい)のようなものじゃよ。(自分の部下である)柳下恵(りゅうかけい)が賢いことを知りながら、これを引き上げて一緒に魯の朝廷に立とうとしないのじゃからのぉ」。


この章の解説:

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

臧文仲(ぞうぶんちゅう)…は、孔子よりも二世紀まえの魯の名宰相であるとされた。この章は、公冶長第五(第十七章、引用者注)…とともに、かれに対する批判である。すなわちかれは、宰相の位をぬすんだもの、すなわち宰相としての職責を果たさなかったもの、といってよいのではないか。なんとなれば、かれの時代には、柳下恵のような賢人がおり、またその賢人さを認識していたにもかかわらず、しかも柳下恵を大臣に抜擢し、ともに政府に立つということをしなかったからである。柳下恵は、あとの微子第十八に二度(第二章、第八章、引用者注)に二度見える。

諸橋轍次「論語の講義」には、次のように書いてあります。

治に当たる者の一つの仕事は、賢者を探し出すことである。然るに臧文仲は賢者あるを知りながら、これを登用することをしなかった。私のために公を忘れた人物である。これは位を盗む者といってよいと責めたのである。

宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。

子曰く、魯の臧文仲は禄盗人と言えようか。柳下恵の賢人であることを知って、かえってこれを排斥した。


十四.「衛霊公第十五、第十四章」

子曰、躬自厚而薄責於人、則遠怨矣。
子曰く、躬(み)自(みずか)ら厚うして薄く人を責むれば、則ち怨み遠ざかる。


孔先生がおっしゃった。
「自分に厳しく、他人には優しく接すれば、他人から怨まれることはなくなるのじゃ」。


この章の解説:

これは、幕末の大儒佐藤一齋が言志後録に言う「春風を以て人に接し、秋霜を以て自らを粛(つつし)む」と同じような意味なのでしょう。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

「躬(み)自(みずか)ら厚くする」とは、厚くみずからを責めることであり、厚く自らの責任を意識して、厚く自ら反省する、というのが、古注…の通説である。…もっとも、「厚」は、厚く責めることではなく、一般的に「其の徳を厚くする」のであると読む説もある。

諸橋轍次著「論語の講義」には、次のように書いてあります。

「君子は諸(これ)を己に求む。小人は諸(これ)を人に求む(衛霊公、二十)」などの言葉とあわせ考うべき章である。

宇野哲人著「論語新釈」には、次のように書いてあります。

この章は怨みに遠ざかる道を述べたのである。人はとかく己を責めることは寛大で他人を責めることは厳重だから怨みが生ずるのである。

渋沢栄一著「『論語』の読み方」には、次のように書いてあります。

自分を厳しく責めて不徳を反省し、他人に対しては責めることを控え目にし、一善あるいは一長あればよしとして多くを求めない。そうすれば、人にうらまれることはないし、逆に人をうらむ気持ちが湧いてくることもないだろう。また、自分の行ないも道を踏まえた正しいものになる。家内の和合も、友人との交際も、深く自分を責めて人をあまり責めなければ、和気あいあいと円滑に物事が行われてゆく。したがって、この項の教訓は一身の処世法として、いまの世の中にも十分通用する。いや、いまの世はこの教訓をもっともっと広める必要がある。自分のことは棚に上げておいて、やたら他人を非難痛罵する連中が多い。他人の短所を公然と非難しながら、自分が同じことをやっている人も少なくない。これらはみな自分を責めること薄く、人を責めること厚い者である。わが身をつねって人の痛さを知り、仁の心で接するようにすれば、物事はなんでもうまくいくようになるものである。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

わが身を責める時には厳しくし、他人を責める時には寛大にすれば、人から逆恨みされずにすむよ。


十五.「衛霊公第十五、第十五章」

子曰、不曰如之何如之何者、吾末如之何也已矣。
子曰く、之を如何(いかん)、之を如何と曰(いわ)ざる者は、吾之を如何ともする末(な)きのみ。


孔先生がおっしゃった。
「自分から、『何を為すべきか、如何に為すべきか』と模索・煩悶して、自問自答しない人は、わしとしても、どうにも手の打ちようがないわぃ」。


この章の解説:

伊與田覺著「『人に長たる者』の人間学」には、次のように書いてあります。

孔子という人は生涯努力を続けた人だけども、生きているときには遂に本当の共鳴者を得なかったといいます。五十歳から五十五、六まで政治に携わって、総理大臣の代行までやりましたが、既成勢力に阻まれてそこを去り、十三年間、各地を巡るんです。「天下をして平安な社会を」という夢を描いておりましたけれども、どこにも彼を認めてくれる人はなかった。
そして六十八歳にして老体‥‥‥その時分は六十八は老体です‥‥‥で帰って、静かに天下後世のために書物を編纂したり、まだ本当に若い二十歳前後の青年に教えたのであります。
我をもっともよく知る顔回は死して今はなしというが、しかし、幸いにして曾子という、まだ二十六歳の青年が孔子の心を読み取ったといいますかね。それが後世に伝えるようになり、それからずっといろいろの経緯はありましたけれども、今、日本でも孔子は知己を得ているわけですね。
私は何もこれを孔子から頼まれて孔子の話をしているわけではないんで、勝手にしているわけです。しかし、孔子を知る一人であるかもわからん。みなさんもまさにこれを学ばんとしているのだからね。
そういうことで、二千五百年の今日まで孔子を知る人を介して、孔子の教えが、限りなく続いてきた。これからも続いていくことでしょう。
実現できるかどうかわからないし、人も理解してくれない。そういう道を突き進んでいく者には不安感があります。…本気で突き進んでいける人はなかなか少ない。途中でくじける人もないわけではない。絶えずそれは不安感がある。大きな希望をもてばもつほど、その不安感は大きいと思う。その不安感を克服していくことができるかどうか、これが重要なことであります。
こういう言葉がありますね。
「愚者は溺(でき)を恐れて自ら投ず」。
馬鹿者は溺れることを恐れて時分から飛び込んだ、という意味です。断崖で下は海、波が荒れている。それを見た瞬間に恐れてしまって、脚がぶるぶる震えて落ちてしまった。こういうケースがようあります。
そんなところにあっても泰然としておれるなら、偉いものだ。そりゃ綱渡りをする人もおるが、あれは何も綱を渡ってるつもりはないんです。普通の平地を歩いているつもりで渡り歩いているのですね。
私はね、高いところを恐れるところがあるんですわ。なんでそんなことになったかというと、神罰が当たってるんだと思うてます。それは何かというと、日本で一番高いという那智の滝がありますね。若い時分に、禁をおかしてあそこの滝上に登った。そうして何もなしに下を覗いた。百数十メートルの滝つぼを見たそのときに、ぞーっと来た。それから高所恐怖症になった。もうそのことを思うだけでも、股のところがぞーっとしてしまう。
そういうことで、不安というものが高じると、落ちんでもええのに落ちてしまう。これに耐えていかなくてはいかん。危険なところにあっても、泰然としていけるようになったら、これは大したものだ。
だから、事を成した人は不安を越えた人ですよ。
松下(幸之助、引用者注)さんの話はよく出ますけど、私は松下さんとは昭和二十二年からのご縁です。晩年に至るまでですから随分長い。何も商売とかいうものではないけれどもね。
松下さんはしょっちゅういうてましたね。
「経営者というものは、絶えず危機感をもつことや」と。「これでいいんやと安心してたらいかん、危機感を持って何事にも接していくことが大切だ、特に経営者は」と。
『論語』の中にも、ちゃんとそういうことをいうてくれてます。
子曰わく、之を如何、之を如何と曰わざる者は、吾之を如何ともする末(な)きのみ。【衛霊公第十五】。
先師がいわれた。「これはどうしよう、これはどうしようと常に自分に問いかけないような者は、私はどうしようもない」。
これですよ。こんなものは朝飯前だとか簡単にいっている。そういう人は得てして大いなる失敗を招くことになる。「之を如何、之を如何」という者でなければ、私にはどうにもしようがない。
これが松下さんのいう「絶えず危機感を持つ」ということと相通ずるものです。
皆さんはおそらくそういう危機感を常に持ちながらそれを踏み越えて今日に至っているのだろうと思います。親父から会社を譲られたもので「そんなもの大丈夫や」と、こういう人は危ないですね。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

孔子の教育は、弟子に教義を教え込むのではなく、弟子の問いにしたがって指導するという、いわゆる啓発主義の教育であった。


十六.「衛霊公第十五、第十六章」

子曰、群居終日、言不及義、好行小慧。難矣哉。
子曰く、群居(ぐんきょ)終日、言(げん)義に及ばず、好んで小慧(しょうけい)を行う。難いかな。


孔先生がおっしゃった。
「終日仲間で群れており、話すことは、つまらん世間話ばかりで、仁や義に関する話は全くしない。そのくせ、(目先の)小賢しい智恵だけはすぐ働かせる。なんともまぁ、度し難いものじゃ」。


この章の解説:

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

孔子の弟子たちは、いつも寄り合っていろいろと議論をしていた。孔子の目からすると、どうも、もうひとつ本質に触れない議論ばかりしていると感じたのであろう。まさか喫茶店などにたむろして、悪事を働こうと謀議している者に警告を発しているわけでもあるまい。しかし、そうともとれるのは、簡潔なことばの中に、古今に通じた教訓を含んでいるからであろう。

安岡正篤著「論語に学ぶ」には、次のように書いてあります。

孔子が言われた、「様々な人間が一日中大ぜい集まっておって、話が少しも道義のことに及ばない、そうして小ざかしいことを好んでやっておるのは、本当に困ったものである」。
痛い言葉ですね。何とかクラブというようなところへ行ってみると、よくかわる。忙しい忙しいと言いながら大ぜい集まって、あちらでは碁を打っておるかと思うと、こちらではつまらぬことをべらべらしゃべっておる。折角の会合だからというので行ったのに、いつまでたってもそれらしい話が出て来ない。そうして小智恵のまわるようなことをやってお茶をにごしておる。小慧は、小智慧がまわるとか、小才が利くとかいう意味です。
こういう人間はどこに行ってもおるもので、日常生活・社会生活の中でわれわれのしじゅう経験するところであります。肝腎のことはさっぱり役に立たぬが、つまらぬことになると、ああ、それはこうすればよいのだ、というふうに小智慧のまわることや小才の利くことをやる。そういう人間は困ったものだと孔子は言われるのでありますが、確かにその通りでありまして、孔子という人はいかに人間というもの・世間というものを知っておったかということがよくわかる。

安岡先生は、「朝の論語」にも、次のように書いておられます。

幾人もの人間がのらくら集まって終日別に気のきいたことを何もやらず、好んで小慧を行う、この慧は「ケイ」でもよし、また「エ」という音もあります。仏典などではみな「エ」と読んでおることは御承知の通りであります。小慧を行うと言うことは、小ざかしいことに興ずることです。不良仲間・愚連隊などの中によくある、否、何々クラブとか、何々会というところに集まる御常連なども五十歩百歩ですが、ちょっと気のきいたことなどを得意にすることであります。こういうことは始終世の中に行われておることであります。こんなことではどうにも救われない。しまつのわるいものである。しかしこういう人間に頭からまっすぐに道理を説いても受けつけるものではありません。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

寄り集まって一日中クッチャベッていながら、天下国家のことには全く触れず、コセついた話題に終始しているような連中は、どうにも救いようがないやね。

なるほど。古今東西を問わず、人間社会というのは、救いようのない連中の集まりのようでありますねぇ…。


十七.「衛霊公第十五、第十七章」

子曰、君子義以質、礼以之行、孫以之出、信以之成。君子。

子曰く、君子は義以て質となし、礼以て之を行い、孫(そん)以て之を出し、信以て之を成す。君子なるかな。


孔先生がおっしゃった。
「諸君、正義(道理)を基本にして、礼によって行い、謙遜して発言し、誠実を以て貫くがよい。それでこそ、君子といえるのじゃ」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

孫以て之を出だし:「孫」は謙遜の意。「これを出だす」は、鄭玄の注が、ことばにあらわすことだとしているのが適切である(貝塚茂樹著「論語」)。


この章の解説:

独自の解釈を試みました。すなわち、子曰く、君子は義以て…の君子を、「諸君」と、孔子が弟子たちへ呼びかけたのだと解釈したのです。そうすると、意味がスッと通るように思います。また、「義以て質となし」の「質」は「文」と対比されるもので、雍也第六第十六章には、「質、文に勝てば則ち野。文、質に勝てば則ち史。文質彬彬として然る後に君子なり」とあります。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

君子というのは、考え方は正義を根本とし、行動は礼儀にかない、言葉は謙遜で、人々から信頼されて物事を成就する、まことに立派な人物のことを言うんだよ。

宇野哲人著「論語新釈」では、「君子は事を行うのに義をもって根本とする。義に従ってそのままに行えば角が立つから、礼に因(よ)ってこれを節して過不及(かふきゅう)のないようにこれを行う。礼は譲を本(もと)とするから、謙遜をもってこれを出す。少しの偽りもなく始めから終わりまで真実の心をもってこれを成し遂げる。このようにするならば事を処するに善を尽くすことができて、誠に成徳の君子の道である」と解釈し、「この章は君子の道を説いたのである。初めの『君子』はよけいな字が入ったのだと説く人がある。そうではないと説く人もある。又初めと終わりとの『君子』をどちらも人と見る説と、初めのを人と見、終わりのを道と見る説とがある。通釈は後の説に従ったのである」と解説してます。


十八.「衛霊公第十五、第十八章」

子曰、君子能無病。人己知病。

子曰く、君子は能無きを病(うれ)う。人の己を知らざるを病えず。


孔先生がおっしゃった。
「君子というのは、自分に能力が無いことを憂うもので、人に認知されないこと、理解してくれないことなど気にしないものじゃよ」。


この章の解説:

金谷治著「孔子」には、次のように書いてあります。

君子は自分に能力が乏しいことを気づかってそれを得ようと努力する。他人が自分を認めてくれないことなどで、くよくよしたりはしない。…世俗的な価値の外に、真実の正しい道を見つめるもののことばである。後半は学而篇巻頭の「人知らずして慍みず、亦君子ならずや」と同じである。憲問篇三二にも重出しているが、そちらでは「君子」の二字がない。

伊與田覺著「『人に長たる者』の人間学」には、次のように書いてあります。

やっぱり人間というのは本来、生涯孤独です。…明日も知れない不安がある。考えようによったら不安な存在ですよ、これ。「一寸先は闇の世さ」というけど、まさにそうです。
人間は孤独と不安というものを、考えようによってみたら、みんなもってるものであります。それをもちながらそれを乗り越えて、いずれにせよ生きておるんです。
(中略)
孔子も孤独感というものを感じた。何か事をなさんとするような者は、みんな孤独感におちいるんですね。

宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。

子曰く、諸君は自分の能力が不充分ではないかと常に気をつかい、人が自分を認めてくれないなどは問題にせぬがよい。


十九.「衛霊公第十五、第十九章」

子曰、君子疾没世而名不称焉。

子曰く、君子は世を没するまで名の称せられざるを疾(にく)む。


孔先生がおっしゃった。
「君子は、何も人の役に立たずに、一生を終えることを恥じるのじゃよ」。


この章の解説:

思い切って意訳をしてみました。「名の称せられざる」というのは、一般的には「世間に名が知られない」と訳しますが、前章では「人の己を知らざるを病えず」と言っております。したがって、人から認知されないことなど気にしないが、人の役に立たないことを恥じるのである、と解釈したわけです。

林田明大著「真説『伝習録』入門」には、次のように書いてあります。

(『論語』衛霊公篇に)《世に没して、その名が称せられないのを憎む》にある称の字は、去声(きょしょう)と読むべきなのです。〔つまり、《名のかなわないのを憎む》、本人の名声と実質とが一致しないのを憎む、と理解すべきなのです〕〔それは、『孟子』離婁下篇の〕《名声が実力以上に高くなることを君子は恥じる》と同じ意味なのです。実質が名声にふさわしくないことは、生きている間ならまだ改めることができますが、死んでからでは間に合いません。
(また『論語』子罕篇に)《四十、五十になってからは、(名が)聞こえないことは畏れるに足りない》とありますが、この場合(の《無聞》も)、《道を聞くことがない》の意味であって、名声がないの意味ではないのです。孔子は(子張に言いました)。《邦(国)にあっても聞こえ、家にあっても聞こえることは、表面を飾る聞であって、(自然に世間に知られるという意味の)達ではない》(『論語』顔淵篇)と。
(孔子が)人に名声を求めることを望むはずもないのです。
【解説】…《世に没して、その名が称せられないのを憎む》という孔子の言葉の解釈について、陽明は、「生涯を終わってから(自分の)名前の唱えられないことを悩みとする」という朱子の解釈を退けています。あるいは、同じく『論語』衛霊公篇の《子の曰く、君子は世を没(お)えて名の…》のすぐ前に、《君子は、(自分に)能力のないことを気にして、人が自分を知ってくれないことなど気にかけない(子の曰く、君子は能なきことを病う。人の己を知らざることを病えず)》という言葉がありますが、要は、実力のないことを気にしても、世に知られないことなど気にしない、というのです。
ですから、論理的に考えても、陽明の説のほうがもっともだと思われます。
ともあれ、成功すること、有名になること、実力をつけることとは無関係です。
売名行為という言葉があります。しかし、成功するために、名声を得るために、自己PR活動という工夫と努力をすることよりも、実力を養うべきであると述べているのです。
『論語』憲問篇(二十九章、引用者注)には、「君子はその言のその行いに過ぐるを恥ず」ともあります。
口を突いて出る立派な言葉に、普段の行動がともなわないことを恥ずかしく思う、というのです。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

前章でいうように、他人に認められるために勉強しているのではないが、勉強して実力がつけば、必ず世間に出て、その理想を実現するために働かなければいけないと考えていた。そうすれば、きっと世の中の人に知られる仕事もできるはずである。こういう前提がないと、前章と本章とは矛盾する。一見矛盾するが、終局的に道義・学問は世に知られずにはおかれないという手放しの楽天論的にだけ理解するのは、孔子の本旨ではあるまい。孔子の学問は実践的であり、積極的であるからである。

吉田賢抗・加藤道理著「論語新版」には、次のように書いてあります。

『論語』の第一章で、「人知らずして慍みず、亦君子ならずや」と言うように、世人が自分の学徳を認めてくれなくても、不平不満を抱かない人を君子である、と孔子は言う。だが一方、「四十五十にして聞こゆること無くんば、斯れ亦畏るるに足らざるのみ(子罕篇)」と言う。一見矛盾するように思われるが、これは矛盾ではない。その解答は「己を知る莫きを患えずして、知らるべきを為さんことを求めよ(里仁篇)」にある。毀誉褒貶に煩わされず、なすべきをなすのが君子なのである。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

世間に名を知られることが目的でないにしてもだ、生涯まったく名を知られずに終わるのは無念だと思うくらいでなくてはダメだよ。


二十.「衛霊公第十五、第二十章」

子曰、君子求諸己、小人求諸人。

子曰く、君子は諸(これ)を己に求め、小人は諸を人に求む。


孔先生がおっしゃった。
「君子は何事も自分に求め(、自分を責め)るが、小人は何事も他人に求め(、他人を責め)る」。


この章の解説:

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

求めるものは何であるか、いろいろあるであろう。ともかく期待するものは、自己の中にある。自己の力によって期待を実現する。他人から与えられることを期待してはいけないということであろう。

金谷治著「孔子」には、次のように書いてあります。

君子は責任の主体としての自覚をもっているから、なにごとについても自分の責任ではないかと反省して、まず自分を責める。しかし小人は自分のことは棚にあげて、なにごとにも他人を責める。‥自省反求は『孟子』『中庸』『大学』など、のちの儒教でいっそう強く説かれていく。

諸橋轍次著「論語の講義」には、次のように書いてあります。

このことは善悪両面についていえることと思う。君子は己の過誤を責めることは厚いが、人の過誤を責めることは薄い。小人はこれと反対である。又事を行う場合に、君子は自分みずからそれだけの実力があるかないかを内省しているが、小人は自分の能力の有無を省みず、人に己を買ってくれることを要求して行く。これみな人に求め、己に求める別である。

宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。

子曰く、諸君は凡て事の成否を自分自身の責任だと覚悟してほしい。ゆめ他人のせいになすりつけてはなりませぬぞ。


二十一.「衛霊公第十五、第二十一章」

子曰、君子矜而不争、群而不党。

子曰く、君子は矜(きょう)にして争わず、群して党せず。


孔先生がおっしゃった。
「君子というものは、それぞれが自尊心を持ちつつ、争わないものじゃ。大勢で事を成すときは、協調して事に当たるが、気の合った者同士で徒党を組んだりしないものじゃよ」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

矜:おごそかにそれを持することである。矜持ということばがこれから生まれる(貝塚茂樹著「論語」)。


この章の解説:

大胆に訳してみました。意訳です。

宇野哲人著「論語新釈」には、次のように書いてあります。

君子はおごそかに敬(つつし)んで己の身を持つけれども、そむき戻る心がないから争わない。和らぎ親しんで衆人と群居するけれども、おもねり比(した)しむ意がないから非でもかまわずに党するようなことはない」と訳して、「この章は君子が己を持し衆に処する道を述べたのである。上の句は己を持して人を失わず、下の句は人に処して己を失わないのである。

貝塚茂樹著「論語」では、次のように訳しています。

先生がいわれた。
「君子は、厳然として犯すべからざる態度をとってはいるが、他人と争いを起こそうとしない。おおぜいの人と交わるが、党派にはいらない」。

伊與田覺著「現代訳 仮名論語」では、次のように訳しています。

先師が言われた。
「君子は、誇を以ておごそかに、己を持しても、人とは争わない。大勢といても、片寄って党派をつくらない」。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

立派な人物は沈着冷静で我を忘れて争うことなどしないもんさ。人と協調するが、派閥活動などしやせんよ。

宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。

子曰く、諸君は自尊心をもちながらも排斥しあわず、共同に仕事をしながら、しかも派閥を造らぬように心掛けるがよい。

加地伸行著「論語」では、次のように訳しています。

老先生の教え。教養人は誇りを持っているが他者と争わない。共同生活はするが徒党は組まない。


二十二.「衛霊公第十五、第二十二章」

子曰、君子不以言挙人、不以人廃言。

子曰く、君子は言(げん)を以て人を挙げず、人を以て言を廃せず。


孔先生がおっしゃった。
「君子は、ある人物が素晴らしい発言をしたとしても、その言葉を吐いた人物の立ち居振る舞いや人格を確かめもせずに、その人物を採用するようなことはしないのじゃ。また、卑しい人格の人物が素晴らしい発言をした場合は、人格が卑しいという理由で、その発言を却下したりはしないのじゃ」。


この章の解説:

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

先生がいわれた。
「君子は、人のいったことばによってその人を推薦しない。それをいった人によってそのことばを捨てることはしない」。
前半の、ことばだけを信用しないで、よく人柄を見てから推薦するというのは、これを実行することはそんなに困難ではない。後半の、人によってことばを捨てないほうが、実行がむつかしい。あいつのいう言だから信用しない。あの学派のいうことだからなんでも反対するという態度から、完全に免れうる人が、現在この日本にいるであろうか。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

言語のみをもって人間を尊重抜擢しないのは、憲問第十四(第五章、引用者注)にもいうように、「言有る者は必ずしも徳有らず」であるからである。またその人間に対する漠然たる評価のゆえに、その人の言葉を廃棄しないのは、固定観念の固守は、対人関係においては、ことに慎むべきであるからである。「礼記」の「曲礼」上に、「愛して而も其の悪を知り、憎みて而も其の善を知る」というのは、ここと通ずる。

諸橋轍次著「論語の講義」には、次のように書いてあります。

小人はこれと反対で、人を見るの明(めい)がないから、善言だけ聞いて直ちにその人を信用し、憎悪の感情が先に立つから、相手の人柄によって、その人の言う善言をも棄て去ってしまう。ここにも君子と小人との差が存する。

加地伸行著「論語」では、次のように訳しています。

老先生の教え。教養人は、相手の意見だけで、その人物を〔よく見ないで〕抜擢することはしない。〔逆に〕あんな人物だからといって、その意見〔が良いのに、それ〕を無視することはしない。

宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。

子曰く、諸君は言葉を聞いただけでその人を評価してはならないし、たとえつまらぬ人でも言うことがよかったら聞き流してはならない。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』では、次のように訳しています。

ひとかどの人物というのは、相手の言葉だけで人を軽信せずに、行動をしっかりと見極めるものだよ。また、誰が発言しようと無視するようなことはしないものだね。誰の発言だろうと、正しい意見は採用するのさ。

以上、いろいろな解釈がありますが、要は、「人というのは、その人物が発する言葉だけで信用することはできない。しかし、人柄が劣っていても、良いことを言うことはあるので、その言葉を無視してはいけない。場合によっては、その言葉を取り入れるという寛大さが必要である」ということでしょう。


二十三.「衛霊公第十五、第二十三章」

子貢問曰、有一言而可以終身行之者乎。子曰、其恕乎。己所不欲、勿施於人。

子貢問うて曰く、「一言にして以て終身之を行うべき者あるか」。子曰く、「其れ恕か。己の欲せざる所人に施す勿(なか)れ」。


(ある時、)子貢が(孔先生に)たずねた。
「たった一言で、一生かけて踏み行うべき事を表す言葉があるものでしょうか」。
孔先生がお答えになった。
「(おお、賜や、成長したのう。一生かけて踏み行うべき言葉を聞くようになったとはのぉ。以前のお前は、『あれはどういう意味ですか、これはどうですか』、というような質問が多かったが、最近は言葉の意味ではなくて、実践するための言葉について質問するようになったのぉ。お前は頭脳明晰じゃが、それ故に頭でっかちになりがちで、行動が知識に追いつかなかったが、ようやく言葉と行動を一致させようと心がけるようになったなぁ。よしよし、では、一生かけて踏み行うべき事を、たった一言で表すことばを進ぜよう。)それはのぉ…、『恕』じゃよ。(恕という言葉は深い意味を持っておるがのぉ…それをわかりやすく説明すると、)『自分がされて嫌だと思うようなことを、けっして人にしてはいけない』ということじゃ。(この言葉はのぉ、お釈迦さんもキリストさんも言っておられる言葉なのじゃ。つまり、儒教・仏教・キリスト教といった宗教の枠組みを超えた真理なのじゃ)」。


この章の解説:

独断と偏見で訳してみました。それにしても、子貢の質問の内容が段々的を射たものになってきているようです。ここでは「恕」という言葉が孔子の口から発せられましたが、「恕」という言葉は大変に奥深い概念であり、とても一言で説明することなどできません。しかし、孔子は、「己の欲せざる所人に施す勿(なか)れ」とズバリと言い表しています。

その「恕」について、安岡正篤先生の言葉を借りて掘り下げてみましょう。出典は「人物を創る(人間学講座「大学」「小学」)」です。

「恕」の意味…「恕」という文字はこれまた軽々しく見てはならない。「夫子の道は忠恕のみ」(里仁篇)、孔子の教えも眼目の一つはこの「恕」にあるわけで、恕という文字は「如」プラス「心」です。問題は「如」という意味。仏教でも真如、如如等、仏典を解釈する上において逸することのできない大事な根元的な文字です。したがって思想である。この「如」という字は女扁で、男扁ではない。旁(つくり)は口ではない。これは女の領域、分野を表す文字、女の領域を如という。如とは、ごとし、そのまま、ながら、という文字である。この真如とか如如とかいう如は、天ながら、道ながら、自然ながら、宇宙ながら、そういう自然そのままを表す。「そのまま」と訳せばよい。したがって造化、宇宙はたえざる創造であり、作用、運動でありますが、如という字をまた、ゆくとも読む。何故ゆくと読むか。読み方というものはみな意味の内面的な連絡があって読むのです。
如という文字は、そのまま、ながらという意味と同時にゆくと読むのは、宇宙の本体はたえざる創造変化活動であり、進行ですから、そこでゆくと読む。そのながらの如を女扁に書いてあるのは、男に較べて女の方がまさに自然そのまま、造化を代表しているからであります。

伊與田覺著「『人に長たる者』の人間学」には、次のように書いてあります。

「恕」というのは仁が外に形となって表れたもので「吾の如く相手を思う」という思いやりのことです。

諸橋轍次著「論語の講義」には、次のように書いてあります。

孔子が理想とするところは仁道の実現であるが、その具体的方法が恕に存することは、この章によっても明らかである(里仁、十五参照)。なおこの章では、恕の道について、己の欲しない所を人にも施さぬという消極面のみを以て説明しているが、孔子の恕が己の欲する所をまず人に施して行くという積極面をも持つものであることは、雍也篇、二十八の、「己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す」などの語に徴しても明らかである。

吉田賢抗・加藤道理著「論語新版」には、次のように書いてあります。

「恕」の字は、これを二字に分けると「心の如し」となり、「自分の気持ちを考えるのと同じように他人の気持ちを思いやる」のが恕である。これを具体的に言えば「己の欲せざる所は人に施す勿(なか)れ」であり、より積極的表現をとれば「己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す(雍也篇)」となる。

加地伸行著「ビギナーズ・クラシックス 論語」には、次のように書いてあります。

人間は、社会に出ていろいろな人に助けられながらも、独りの人間として、自立して覚悟して生きてゆかなくてはなりません。どんなに辛くとも、どんなに孤独であろうとも、生きてゆかなくてはなりません。(中略) 人間は、生きてゆく手段・方法を使って、ただ生きてゆくというだけのことでは満足できません。たった一回の人生なのですから、精一杯、生きてゆきたい、これはだれしもの願いです。
そのとき、自分の人生のありかたを求めることとなります。たとえば、金銭を貯めること、大財産を作ること、それを自分の人生のありかたとするとしましょう。それはそれでいいのです。その人が選んだのですから。しかし、その生きかた、すこし寂しいですね。いくら財産を積みあげても、死ねばそれまでです。死後の世界に持ってゆけるわけではないからです。
それに反して、その死後、家族の他に、いろいろな人が想い出し偲んでくれるでしょう。そのほうがはるかに幸せではないでしょうか。つまり、生きかたがその人の人生の精神的柱となることに意味があります。その《生きかた》について、孔子はさまざまに語ってやまなかったのです。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

曽子は孔子から、「吾が道は一以て貫く」ということばを聞いて、自分の弟子にそれは「忠恕」だと語った(里仁篇第十五章)。同じように、「予一以て貫く」という教えを受けた(本篇第三章)子貢が、またこの「一貫」の原理は「恕」だと孔子から教えられている。仁を「恕」つまり思いやりと解する解釈は、子貢と曽子の両弟子が伝え聞いたことになり、二つの伝承が『論語』の中に保存されているのである。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

弟子の子貢が「ほんの短くて、座右の銘にできるような言葉はありませんか」というから、「そうさな、『思いやり』かね。自分がされたくないことを人にしないってことだよ」と教えたよ。


二十四.「衛霊公第十五、第二十四章」

子曰、吾之於人也、誰毀誰誉。如有所誉者、其有所試矣。斯民也、三代之所以直道而行也。

子曰く、吾の人に於ける、誰(たれ)をか毀(そし)り誰をか誉(ほ)めん。如(も)し誉むる所の者あらば、其れ試みる所あるなり。斯の民や三代の直道(ちょくどう)にして行う所以なり。


孔先生がおっしゃった。
「わしは人を謗ったり、誉めたりしない。誉めることがあるとすれば、その人がすばらしい人だと心から信じられた場合じゃ。今の民は、善は善として、悪は悪として正直な道を実践した三代(夏と商と周)の民と同じ民である(。じゃから、うかつに人を謗ったり、誉めたりしないのじゃよ)」。


この章の解説:

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

人間に対する私の態度として、気ままに誰をも非難し、誰をもほめるということはない。もし何かの点でほめたとしたならば、私の賞讃が理由のあるものであることを実証するために、なにかをやらせて試験して見る。それが私の、人人に対する態度であり、正直すぎる迂遠な方法のように思われるかも知れないが、いま目のまえにいるこの人民も、三つの理想的な王朝が、正直な方法で万事を遂行したときのままの人民である。私の方法が通用できないはずはない。大体は以上のような意味である。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

先生がいわれた。
「わたしは村の人々にたいするときは、だれかをほめ、だれかをくさすということはしない。もしほめる人物があるなら、とっくに試験を受けて用いられてしまっているだろうから。この村にいる人民たちは、夏・殷・周の三代の時代から変わりなく、まっすぐな道でやってきている人たちだ」。
この文章は難解で、古注・新注どれも持ってまわった解釈で、意味がすっきりしない。私は、徂徠の「吾の人に於けるや」の「人」を孔子の郷党つまり郷里の村人たちと解する説に暗示を受け、私なりの解釈に達した。村の寄り合いで、村人仲間をけっしてほめたこともなく、くさしたこともない。なぜならほめるような人物があったら試験を受けて採用され、村じゅうに残っているはずはないからである。村の農民たちは、そんなほめるとか、くさすとかいうこともなく、この三代以来の直道で、心の思うとおり、感情の向くままに楽しく暮らしてきた人たちなのであるというのである。素朴な農村社会は、夏・殷・周の三代以来少しも変わることがない。そして自分が郷里に帰ったときは、この社会の人々とすべてを忘れて楽しく暮らす。それが孔子の郷党における道徳以前の態度なのだ。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」には、次のように書いてあります。

わたしは、人をわけもなく貶(けな)したり誉めたりはしないよ。誉める時は、誉めるべき理由を指摘して誉めるんだ。というのも、人間は誰でも長所を持っているから、それを指摘しさえすれば、後は古代の純朴な人々と同じように、自分たちで真っ直ぐに伸ばすものだからだよ。
従来の訳は前段と後段のつながりが不明瞭だが、孔子の教育論と解して訳した。


二十五.「衛霊公第十五、第二十五章」

子曰、吾猶及史之闕文也、有馬者借人乗之。今亡矣夫。

子曰く、吾は、猶お史の文を闕(か)き、馬ある者は人に借して之に乗らしむるに及べり。今は亡きかな。


孔先生がおっしゃった。
「わしは(記録係の役人が疑わしいことは書かなかったので)記録を空白にしておいたことを知っておる。また、馬を持っている人は、馬を持っていない人に(快く馬を)貸し与えて乗らせたことも知っておる。しかし、今ではこのようなことは、もう見なくなってしまった(。今の人は、何とも薄情になってしまった…)」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

文を闕(か)く:疑わしい事は書かないでいること


この章の解説:

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

「史」の字は…、古代では吏官、すなわち歴史記述を扱う官吏を意味することが多い。…ここも、その意味である。「欠(闕、引用者注)文」とは、疑問の文字を、空格にすることである。むかしの吏官は慎重であり、そうした態度であったのを、私自身、この目で見た。またもう一つ、この目で見たこととして、馬を手に入れても、荒れ馬で、よく乗りこなせない場合は、しかるべき人に貸して、馴らしてもらう、ということがあった。過度に自己を主張しないという点で「史の欠文」と同じ美徳であったが、現在ではその風習が、どちらもなくなった。つまり人人はいよいよがむしゃらになった。
以上古注による。朱子の新注もまず楊氏を引いて、大体同じ説を述べた上、最後に胡氏を引いて、「此の章の義は疑わし、強いて解すべからず」と、慎重な態度を取っている。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

子曰、吾猶及史之闕文也、有馬者借人乗之。今則亡矣夫
子曰く、吾は史の闕文(けつぶん)に及ぶ猶(べ)きか。馬ある者は、人に借してこれに乗る。今は則ち亡きかな。
先生がいわれた。
「自分は、歴史に記述が欠けている部分は論究しないことにしている。馬を持っている人は、自分が乗れなくとも、だれかに乗せてもらうことができる。記述が欠けているのは、馬を持たないのと同じではないか」。
猶:「猶は可なり」という最も普通の意味にしたがって、「べし」と読んだ。
これは古今の注釈家が最も読みかねた文章である。新注では、この章は「義疑わし、強いて解すべからず」といっている。自信満々のわが荻生徂徠先生も、このままでは読みかねたと見える。「闕文也」の「也」の上に字が欠けていたので、注釈家がここは闕文と注しておいたのを、後の人がこのまま本文に「闕文」の字を入れたのだと解する。そういう奇手でも出してみないと、この文章は読めない。そのような読みくだせない文章であったのだ。私は「猶」を「可」と読むことから始めて、字づらのとおりすなおに読んでみた。歴史に記述が欠けているところは、いくらむりに想像で補ってみてもしかたがない。それは馬を持っていれば、自分が乗れなくても、だれかに乗せてもらって道を行くことができる。歴史に記述が欠けていることは、馬を持っていないと同じではないか。それだけのことなのである。この比喩を比喩として読む機転が、古今の注釈家に欠けていたのである。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

昔の歴史を司る役人は、自分が判断できない箇所は余白にしておいて、誰か有能な者があとから書き込めるようにしておいたもんだよ。また、自分が乗りこなせない馬を持っている者は、自分よりも巧みな乗り手に貸し与えたものさ。ああいう奥ゆかしさは、昨今ではとんとお目にかからなくなっちまったねェ。

以上が本章に関する解釈ですが、どれもこれもピンとこないというのが正直なところです。あえて言えば佐久協(やすし)先生の訳が意味としては通じているように思います。わたしも佐久先生と同じような解釈をしました。これなら、何とか意味が通じるでしょう。


二十六.「衛霊公第十五、第二十六章」

子曰、巧言乱徳。小不忍、則乱大謀。

子曰く、巧言は徳を乱る。小を忍ばざれば則ち大謀(たいほう)を乱る。


孔先生がおっしゃった。
「言葉だけ巧みで実質が伴わない場合は、徳が乱れる。また、小さいことを我慢してじっくりと成し遂げなければ、大きな計画など成就しない(。従って、この二つを戒めねばならんのじゃよ)」。


この章の解説:

渋沢栄一著「『論語』の読み方」には、次のように書いてあります。

孔子は、「うまい言葉は徳を害し、小さいことを我慢できないと大きな計画をつぶしてしまう」と説いている。この項は似て非なるものの害を教えている。乱というのは、人を惑わせ乱してその非を悟らないことをいう。小、忍びざる、は仁と勇に似ているが、似て非なるものである。延元元年五月、足利尊氏が九州から七千余艘(そう)を率い、直義(ただよし)が歩騎二十万の将として京都に向かって水陸から侵攻した。守る側の大井田氏経(うじつね)と脇屋義助が福山城(備後)で敗れ、新田義貞は播磨の囲みをといて退いて兵庫に布陣した。この報を聞いて楠木正成は、「義貞を呼び戻し、天皇は叡山に避難し、敵を京都に入らせる。そして総力を結集して水路をふさぎ糧道を絶ち、敵の疲れをまって一挙に打ち破ろう」と天皇に奉上した。ところが、参議の藤原清忠が反対した。「いま賊軍は一時の勢いはない。そして義貞はまだ賊と戦っていない。陛下が急に京都を捨てられると味方の士気にかかわる。いますぐ、すみやかに正成を前線に派遣し都の外で戦わせよ」。清忠の言葉は正論らしく聞こえる。しかし、その実は敵をあなどり、実勢を把握しておらず、不忠の意思がまったくなかったとしても、戦略を知らない未熟者の発言にすぎない。ところが天皇はその言に従い、ついに大敗して尊氏の天下となってしまった。これは清忠の巧言が天皇を惑わしたのである。「巧言令色鮮いかな仁」、「剛毅木訥仁に近し」、多言饒舌の人は信用しがたいものである。「君子は言に訥にして、行いに敏ならんことを欲す」、「大事の前の小事」、「堪忍は無事長久の基(もとい)」、「目前の欲が強ければ大利を失う」、「小利を見れば大事成らず」などの金言は、すべてこの項の教えと一致しているからである。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

口先人間は道徳を損ない、我慢知らずは大きな仕事をやり損なう。

なるほど、名訳です。


二十七.「衛霊公第十五、第二十七章」

子曰、衆悪之、必察焉、衆好之、必察焉。

子曰く、衆之を悪むも必ず察し、衆之を好むも必ず察す。


孔先生がおっしゃった。
「大勢の人が憎んでいる出来事があったら、その原因をよく調べてみなさい。反対に、大勢の人が喜んでいる出来事があったら、その原因もよく調べてみなさい(。そうすれば、そこに一貫した法則があることが自ずからわかるであろう)」。


この章の解説:

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

先生がいわれた。
「おおぜいが皆きらう人でも、ほんとうにそうなのかどうかを詳しく調べる。おおぜいが皆好む人でも、ほんとうにそうなのかどうかを詳しく調べる」。
大衆の人気・不人気に影響されずに、自分で人物を納得するまで観察してみる。噂などによらず、自分の目と耳で見聞し、独自の判断をくだすことを孔子は力説している。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

群衆は往往にして衆愚であることがあり、それが原因となって独裁者が生まれ、村八分が生まれる。それに対する警告である。相い照応する言葉として、さきの子路十三(第二十四章、引用者注)に、「子貢問うて曰く、郷人皆な之を好まばいかん。子曰く、未だ可ならざる也、郷人皆之を悪まばいかん。子曰く、未だ可ならざる也。郷人の善き者之を好み、其の善からざる者之を悪むには如かず」。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

全員が悪く言うからとて鵜呑みにせず、きちんと調べてみるべきだ。全員が良く言ってる時も同じことだよ。


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 2007.7.22  論語意訳−27


衛霊公篇第十五


まず、衛霊公篇全般について、貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

衛霊公が孔子に陣立てをきいた、首章の最初の文字をとってこの篇は名づけられた。合計四十二章で、憲問篇に次ぐ長編である。孔子の短いことばを多く収め、内容は憲問編よりさらに雑多で、篇としての特徴をもたない。短い金玉の名言が含まれてはいるものの、憲問篇とともに、これまでの諸篇にもれた孔子のことばをかき集めた感じが濃厚である。

諸橋轍次著「論語の講義」には、次のように書いてあります。

この章の前半には、孔子在衛時代の事柄が多く、中ほどからは仁道に関する問答が多い。そして後ろの部分には、文句の短いものが並べられているが、それも一つの特色であるように思う