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心の経営コンサルタント/中小企業診断士/東洋思想実践家 |
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為さざる有るなり、而して後、以て為す有るべし。孟子 |
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週刊メッセージ・二〇〇七 <<<週刊メッセージ2006へ>>> <<<週刊メッセージ2005へ>>> <<<週刊メッセージ2004へ>>> <<<週刊メッセージ2002-2003へ>>> 堯曰篇第二十 「堯曰篇」について、貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 この篇は「堯曰わく」の第一章にはじまる。舜が天命を受けて帝になったときの、天命の内容を堯の任命のことばによって描く。それが禹に伝わり、さらに殷の開祖の湯王によって受け継がれる。またさらに周の文王・武王にも伝わる。この伝授されてゆく天命の内容を紹介するのがこの篇である。そして、「命を知らざれば、以て君子と為すことなきなり」の孔子の語によって、それが受けられる。要するに、天命の継承の歴史を述べたものであるが、中間に(第二章)、政治についての子張と孔子の問答がはいって印象がぼやけてしまった。しかし、孔子がもっとも語ることを好まなかった「天命」の、古代の伝承を説明するために、この篇は書かれたものである。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。
…全書二十篇の最後に位するこの篇は、大変特殊な篇である。…郷党第十も、内容と構成が特殊であったが、この篇は一層甚だしい。 一.「堯曰第二十、第一章」 堯曰、咨爾舜、天之暦数在爾躬。允執其中。四海困窮、天禄永終。舜亦以命禹。曰、予小子履、敢用玄牡、敢昭告于皇皇后帝。有罪不敢赦。帝臣不蔽。簡在帝心。朕身有罪、無以万方。万方有罪、罪在朕躬。周有大賚。善人是富。雖有周親、不如仁人。百姓有過。在予一人。謹権量、審法度、修廃官、四方之政行焉。興滅国、継絶世、挙逸民、天下之民帰心焉。所重民食喪祭、寛則得衆、信則民任焉、敏則有功、公則説。 堯曰く、「咨(ああ)爾舜、天の暦数(れきすう)爾の躬に在り。允(まこと)に其の中を執れ。四海困窮せば、天禄永く終らん」。舜も亦た以て禹に命ず。曰く、「予(よ)小子履(り)、敢えて玄牡(げんぼ)を用いて、敢えて昭(あき)らかに皇皇たる后帝に告ぐ。罪有れば敢えて赦さず。帝臣蔽(おお)わず。簡(えら)ぶこと帝の心に在り。朕(わ)が身罪あらば、万方(ばんぽう)を以てする無し。万方罪あらば、罪朕が躬に在り」。周大賚(たいらい)あり。善人是れ富む。「周親ありと雖も、仁人に如かず。百姓(ひゃくせい)過(とが)むるあり。予一人(いちにん)に在り」。権量(けんりょう)を謹み、法度(ほうど)を審(つまび)らかにし、廃官(はいかん)を修めて、四方の政行わる。滅国(めっこく)を興し、絶世を継ぎ、逸民を挙げて、天下の民心を帰す。重んずる所は民の食喪祭(しょくそうさい)、寛(かん)なれば則ち衆を得、信なければ則ち民任じ、敏なれば則ち功あり、公なれば則ち説(よろこ)ぶ。
第一段: この章の解説: 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。
(第一段、引用者注) 吉田公平著「論語」には、次のように書いてあります。 この一条は、古代の聖王が禅譲したときに告げた言葉をあつめた。堯→舜→禹と帝位を禅譲したが、禹が開いた夏王朝は桀に至って殷の湯王に亡ぼされた。その殷王朝の紂王に至って周の武王に亡ぼされた。王道政治の理念をのべた語録である。 二.「堯曰第二十、第二章」 子張問於孔子曰、何如斯可以従政矣。子曰、尊五美、屏四悪、斯可以従政矣。子張曰、何謂五美。子曰、君子恵而不費。労而不怨。欲而不貪。泰而不驕。威而不猛。子張曰、何謂恵而不費。子曰、因民之所利而利之。斯不亦恵而不費乎。択可労而労之。又誰怨。欲仁而得仁。又焉貪。君子無衆寡、無小大、無敢慢。斯不亦泰而不驕乎。君子正其衣冠、尊其瞻視、儼然人望而畏之。斯不亦威而不猛乎。子張曰、何謂四悪。子曰、不教而殺、謂之虐。不戒視成。謂之暴。慢令致期。謂之賊。猶之与人也。出納之吝、謂之有司。 子張、孔子に問うて曰く、「如何なるか斯れ以て政に従うべきか」。子曰く、「五美(ごび)を尊び四悪(しあく)を屏(しりぞ)くれば斯れ以て政に従うべし」。子張曰く、「何をか五美と謂う」。子曰く、「君子は恵(けい)して費(つい)えず。労して怨みず。欲して貪らず。泰(たい)にして驕らず。威あって猛(たけ)からず」。子張曰く、「何をか恵して費えずと謂う」。子曰く、「民の利する所に因って之を利す。斯れ亦た恵して費えざるにあらずや。労すべきを択(えら)んで之を労す。また誰をか怨みん。仁を欲して仁を得たり。また焉んぞ貪らん。君子は衆寡(しゅうか)となく、小大となく、敢えて慢(まん)するなし。斯れまた泰にして驕らざるにあらずや。君子は其の衣冠(いかん)を正しくし、其の瞻視(せんし)を尊くし、儼然(げんぜん)として人望んで之を畏る。斯れ威あって猛からざるにあらずや」。子張曰く、「何をか四悪と謂う」。子曰く、「教えずして殺す、之を虐(ぎゃく)と謂う。戒めずして成るを視(み)る。之を暴と謂う。令を慢にして期を致す。之を賊と謂う。猶(ひと)しく之人に与うるなり。出納(すいとう)の吝(やぶさ)かなる、之を有司(ゆうし)と謂う」。
子張が孔先生に尋ねて言った。 この章の解説: 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。 …この章は、「五美」「四悪」という教え方が、図式的であるばかりでなく、これまでの諸篇に見えた言葉と、重複するものが多い。最初の頃の「論語」のあちこちに見えた言葉を、綴り合わせ挿み込んで、無理に全篇の結語としたような感じが強い。 宇野哲人著「論語新釈」には、次のように書いてあります。 この章は政(まつりごと)に従う道を詳述したのである。孔子が政を問う者に告げたことは多いが、まだこれ程に備わったものはない。故にこれを記して帝王の治に継いだので、孔子の政をする方法が思い知られるのである(尹焞〔いんじゅん〕)。 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。
弟子の子張とこんな問答をしたよ。 三.「堯曰第二十、第三章」 子曰、不知命、無以為君子也、不知礼、無以立也、不知言、無以知人也。 子曰く、命を知らざれば以て君子と為るなし、礼を知らざれば以て立つなし、言を知らざれば以て人を知るなし。
孔先生がおっしゃった。 この章の解説: 論語最後の章について、安岡正篤先生は「朝の論語」で、次のように言っておられます。
自然と人間を一貫する絶対性、天命を知らなければ本当の人間にはなれない。自然も人間も円満な自律・諧和(和らいで親しみ合うこと、協調、辞書から)・奉公すなわち礼によって存立しているのですから、それを知らなければ人間として本当に存立することはできない。また言を知らなければ、すなわち学問・思想・言論が分からなければ、人間というものを知ることができない。 また、安岡先生は「知命と立命」で、次のようにも言っておられます。
人生そのものが一つの「命(めい)」である。その「命」は光陰歳月と同じことで、動いて止(や)まないから、これを「運命」という。 諸橋轍次著「論語の講義」には、次のように書いてあります。 この章は、三か条の教えを列挙したものであるが、君子ということが、或いはその三者を貫くものであるかも知れない。而してその第一節に君子の知命を掲げているが、これは学而篇一の「人知らずして慍(いか)らず、亦君子ならずや」の一節と相応ずるところがあるのであって、論語の編纂者が、ここにおいて終始をなしたものであるとも、言われているのである。 宇野哲人著「論語新釈」には、次のように書いてあります。 この章は人の知るべき肝要なことを示したのである。この三つを知れば君子の事は完備する。孔子の弟子がこれを記して論語の最後においたのは意味のないことではない。学者が幼少の時からこの論語を読んで、老年に至るまでの一言をも己の役に立てることを知らないで名利に没頭して世を送るならば、聖言(せいげん)を侮る者に近くはなかろうか。このような者は孔子の罪人である。深く念(おも)わなければならぬのである(尹焞〔いんじゅん〕による)。 以上で論語意訳は完となります。七ヶ月と十日ほどかかりました。有り難うございます! 子張篇第十九 諸橋轍次著「論語の講義」には、子張篇について、次のように書いてあります。 この篇は、古人もいう通り、大体孔門の人々の言葉を記しているが、中でも子夏が最も多く、子貢がこれに次いでいる。顔淵の没後、聡明穎悟(えいご:すぐれて悟りのはやいこと。賢いこと)の点では子貢が第一であり、曾子を除けば、篤実なる事、子夏に及ぶ者がないので、自然この二人の言葉が多いと言われる。顔淵や子路は共に孔門の高弟ではあったが、それらの言葉の出ておらぬのは、恐らくはこの二人が孔子に先立って没し、この篇を編纂する頃には、その言葉が伝わらなかったものであろう。なおこの篇は、上述の如く門人の言葉だけであるが、しかし門人の言葉はもとより孔子の教えに基づいているものであるから、従来出て来た孔子の言葉に類似するものも多く、又この篇において門人の語として記されているものも、漢代の色々の書物には、孔子の語としている場合もある。師弟の関係の事であるから、これもまた当然のことであろう。 また、吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。 この篇は、全部が弟子たちの言葉であり、孔子の言葉は含まれない。皇侃の「義疏」は全二十四章を五つに分け、第一章、第二章は子張の語。第三章から第十三章までは子夏の語。第十四、第十五章は子游の語。第十六章から第十九章までは曽参の語。第二十章から第二十四章までは子貢の語とする。 さらに、貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 子張と子夏の学派の間の相互批判と、子游と子夏との論争を述べた第三章・第十二章は、孔子の死後の学派の対立を語る儒教思想史上の重要文献である。しかしこの篇の主流は、子夏・子貢・曽子によって占められている。とくに子貢は、たびたび孔子とどちらが才がまさっているかを問題にした第二十二章・第二十三章・第二十四章・第二十五章の問答を通じて、孔子の在世時代から死後にかけて、非常に尊重され、勢力をもってきたことをあらわしている。この篇が、子貢を祖とする斉地方の学派、いわゆる斉学の伝承であるとする武内義雄博士の説はまことに妥当である。諸子の説には、孔子の語をもととしたことばが多く、孔子の語が弟子・孫弟子によりいかに発展され、伝承されていくか、その過程を示している。 一.「子張第十九、第一章」 子張曰、士見危致命、見得思義、祭思敬、喪思哀、其可已矣。 子張曰く、士は危うきを見て命を致し、得(う)るを見て義を思い、祭に敬を思い、喪に哀を思わば、其れ可なるのみ。
子張が言った。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 士:士は道を求める者、学問を学ぶ者などいろいろの側面があるが、ここでは才能によって主君につかえる者という根本的な意味で使われている(貝塚茂樹著「論語」)。 この章の解説: 複数の解説本を参考にしながら、わたしなりに訳してみました。呉智英著「現代人の論語」には、「自分の学派をもった時、弟子にでも語ったのだろう。語られた言葉そのものは立派だが、それは魂の籠もらぬものだったのではなかろうか」とあります。わたしもそう思います。 陳舜臣著「論語抄」には、次のように書いてあります。
この子張は『論語』のなかで、最も頻繁に出てくる人物です。けれどあまり高く評価されていません。彼は子夏とよくくらべられました。二人は対照的でした。「過ぎたるは猶お及ばざるがごとし」の、「過ぎたる」ほうが子張で、「及ばざる」ほうが子夏でした(先進第十一、第十五章、引用者注)。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 儒教教団は孔子の死後、国家につかえて有用の材となれるように、人間的に完成された人物を形成するという教育の目標がしだいにはっきりとなっていた。子張のことばはこの教育の理念をあきらかにしたものであり、その意味で篇の第一におかれたのであろう。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。
「危うきを見ては命を致す」とは、国家の危機に際会しては、生命をささげる。また利得に際会すれば、正義を思念して、利得を得てよいかどうかを検討する。祭りにあたっては、祭りの一番重要な要素である敬虔を思念し、喪には、最も重要な要素として、哀を思念する。そうであってこそよろしい。 宮崎市定著「現代語訳 論語」には、次のように書いてあります。
子張曰く、学徒たる者は、危険に際しては生命を投げ出すべきや否やを思い、利益ある時は取るべきか否やを思い、祭の際は敬虔の条を捧げんと思い、喪に臨んでは哀を尽さんことを思う。それができれば及第だ。 二.「子張第十九、第二章」 子張曰、執徳不弘、信道不篤、焉能為有、焉能為亡。 子張曰く、徳を執(と)ること弘(ひろ)からず、道を信ずること篤からずんば、焉んぞ能く有りと為さん、焉んぞ能く亡(な)しと為さん。
子張が言った。 この章の解説: 加地伸行著「論語」などを参考にしながら、わたしなりに訳してみました。ひょっとして、これは子張のことではないか…と思ってしまいました。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。 徳を執ること弘からず、道を信ずること篤からざる人間、そんな人間は、存在ともなり得なければ、非存在ともなり得ない。つまり世の中に対し、何の影響力をも、もたない。諸注も同じである。 五十嵐晃著「論語の訳注と考究」には、次のように書いてあります。 現代語訳: わたしが参考にした加地伸行著「論語」では、次のように訳しています。 子張のことば。人格を高めるとしてもある程度で終わり、人の道を信ずるとしても熱心でないとすれば、その人に道徳があるとも言えないし、ないとも言えないことになる。〔なんにもならない。〕 わたしには、この訳がすっと入ってきましたので、加地伸行訳を下敷きにしました。 三.「子張第十九、第三章」 子夏之門人、問交於子張。子張曰、子夏云何。対曰、子夏曰、可者与之、其不可者拒之。子張曰、異乎吾所聞。君子尊賢而容衆、嘉善而矜不能。我之大賢与、於人何所不容。我之不賢与、人将拒我。如之何其拒人也。 子夏の門人、交わりを子張に問う。子張曰く、「子夏は何とか云える」。対えて曰く、「子夏曰く、『可なる者は之に与(く)みし、其の不可なる者は之を拒(ふせ)ぐ』と」。子張曰く、「吾が聞く所と異なり。君子は賢を尊んで衆を容れ、善を嘉(よみ)して不能を矜(あわ)れむ。我にして大賢ならんか、人に於いて何ぞ容れざる所あらん。我にして不賢ならんか、人将に我を拒がんとす。之を如何ぞ其れ人を拒がん」。
子夏の門人が友人との交わり(交際、つきあい)について子張に質問した。 この章の解説: 複数の解説書を参考にしながら、わたしなりに訳してみました。子張が子夏の弟子に向かって、子夏が言ったことを批判しているという内容です。 呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。
子張と子夏の解釈の相違は、学而篇の第六章と第八章に対応している、と先学は説く。 仁に近い人は、「汎(ひろ)く衆を愛して仁に親しむ」ことが理想でしょうが、仁に遠い人は、「己に如(し)かざる者を友とすること無かれ」でないと、人格を磨くことは難しいでしょう。そう考えると、子夏も子張も偏っていると思うのです。孔子は、中庸であることを目指したのですから…。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。
子夏の門人が人と交わる心得を子張にたずねた。子張はいった。 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。
年長弟子の子夏さんの門人とこんな問答をした。 四.「子張第十九、第四章」 子夏曰、雖小道必有可観者焉。致遠恐泥。是以君子不為也。 子夏曰く、小道と雖も必ず観るべき者あり。遠きを致せば恐らくは泥(なず)まん。是を以て君子は為さざるなり。
子夏が言った。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 小道、遠きを致せば恐らくは泥(なず)まん
小道:道家・法家のような諸子百家つまり異端の学をさすと古注は解している。しかし、徂徠の指摘したとおり、子夏の時代はまだ諸子百家の成立以前である。朱子の注のように農・医・卜筮(ぼくぜい)などの枝芸をさすとみるほうがよい。 この章の解説: わたしの解釈で意訳しました。この章を、「技芸などの小さな道でも、見どころはあるが、それを天下国家を治めること(遠大なこと)には適用できない。だから、君子は技芸などは学ばないのである」と解釈している解説本が多いのですが、それには従わず、知識を見識や胆識にまで高めていくことの大切さを説いたものと解釈しました。 諸橋轍次「論語の講義」では、「小さな技芸の道に深入りすると、身動きが取れなくなるから、君子は小道を治めないのである」と訳して、小道の例えとして「碁・将棋などの中にも、人生を処する道を教えるものがあるが、普通の人間では、それに深入りすると、それに心奪われ、動きの取れぬ結果に陥る場合が多い」と解説しています。なるほど、一理あります。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。
子夏曰わく、小道と雖も必ず観るべきもの有らん。遠きを致(きわ)めんとすれば泥(なず)まんことを恐る、是を以て君子は為さざるなり。 五.「子張第十九、第五章」 子夏曰、日知其所亡、月無忘其所能、可謂好学也已矣。 子夏曰く、日々に其の亡き所を知り、月々に其の能くする所を忘るる無くんば、学を好むと謂うべきのみ。
子夏が言った。 この章の解説: 思い切って意訳してみました。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 子夏がいった。 陳舜臣著「論語抄」には、次のように書いてあります。
子夏のことばです。孔子の歿後、子夏が一派の長として訓辞したことばと思われます。 六.「子張第十九、第六章」 子夏曰、博学而篤志、切問而近思。仁在其中矣。 子夏曰く、博く学んで篤く志(しる)し、切に問うて近く思わば。仁其の中(うち)に在り。
子夏が言った。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 切に問うて、近く思わば
切に問うて:「切」は「切するがごとく磋するがごとし」(学而篇第十五章)の「切」である。玉をみがくように鋭く問いかける(貝塚茂樹著「論語」)。 この章の解説:
わたしの解釈で意訳しました。吉田賢抗「論語新版」には、この章は「この章は学問に志す人に、その心構え、方法を教えたもので、博学・篤志(とくし)・切問(せつもん)・近思(きんし)の四つを心がけ、真剣に取り組めば、しだいに仁の徳が身に付いてくる。四書(論語・孟子・大学・中庸)の一つである『中庸』は、この考えを発展させて、博学・審問(こと細かに問いただす)・慎思(慎重に自分の身に反省して考察する)・明弁(物事の是非を明確に判断する)・徳行(誠実に心をこめて善を行う)の五つを挙げている」と書いてあります。 陳舜臣著「論語抄」には、次のように書いてあります。
これも子夏のことばです。 吉川幸次郎著「論語 下」では、次のように訳しています。 子夏の言葉。広い対象について学ぶとともに、中心となる意志の方向の密度を高め、切実な問題意識をもって、自己の周辺の近いところから考えて行く。仁はおのずから、その中に内在し、発生する。 宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。 子夏曰く、博く学んで熱心に理想を追い、切実な疑問を捕らえて自身のこととして思索をこらす。学問の目的とする仁は、その中から自然に現れてくる。 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。 広く学び、意志を強くし、常に疑問を持ち、身近な問題に目を向ける。そうした行為の中にこそ仁は芽生えるものだ。 七.「子張第十九、第七章」 子夏曰、百工居肆以成其事、君子学以致其道。 子夏曰く、百工(ひゃっこう)は肆(し)に居(お)りて以て其の事を成し、君子は学びて以てその道を致す。
子夏が言った。 この章の解説: 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 子夏がいった。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。
子夏の言葉。もろもろの職人は、自分の店にいることによって、その仕事を完成し、君子は学問をすることによって、その生活を推し窮める。「致」の字は、旧訓「いたす」であるが、意味は、「きわめる」「窮極する」である。ここの「致」の字は、その最も顕著な例であり、前章の「遠きを致すには恐らく泥まん」の「致」も、その方向にある。 八.「子張第十九、第八章」 子夏曰、小人之過也必文。 子夏曰く、小人の過ちや必ず文(かざ)る。
子夏が言った。 この章の解説:
わたしの解釈(意訳)です。まさしく、そのとおりだと思います。「衛霊公第十五、第二十九章」に「過って改めざる、是を過ちと謂う」という孔子の言葉がありますが、小人は過って改めざるどころか、過って文(かざ)る、言い訳をして自分を正当化しようとするのです。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 子夏がいった。 宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。 子夏曰く、諸君は万一、過失を犯したなら、決して言い訳してはならぬ。 九.「子張第十九、第九章」 子夏曰、君子有三変。望之儼然。即之也温。聴其言也氏B 子夏曰く、君子に三変あり。之を望めば儼然たり。之に即(つ)けば温なり。其の言を聴けば氏iはげ)し。
子夏が言った。 この章の解説: 加地伸行「論語」を参考にして、わたしの解釈で意訳しました。
諸橋轍次著「論語の講義」に「ここの君子は、或いは子夏が孔夫子の姿を心の中に描いて述べたものであるかも知れない。述而篇三十七の『子は温にして氏iはげ)し。威あって猛(たけ)からず。恭しくして安し』とか、或いは郷党篇に『恂恂(じゅんじゅん)如(じょ)たり、侃侃(かんかん)如たり、與與(よよ)如たり』などと、孔子を表した形容詞が、みなここに当たるように思う」とあります。また、宇野哲人著「論語新釈」には「この章の『君子』は必ずしも孔子をさすのではなかろうが、孔子でなければこれを能(よ)くする者はない」とあります。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。
君子はその自由な精神の表現として、三つの変化をもつ。 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。 弟子の子夏さんが「君子は三つの顔を持つ。離れて見ると厳(おごそ)かで、近くで見ると穏やかで、ことばを聞くと鋭い」と言っているが、これは先生を評したものだろう。 宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。 子夏曰く、諸君に三つのあるべき姿ということを教えよう。遠くから見ると近寄りがたい。ところが実際に近寄って見ると、意外に人あたりがいい。しかしその議論を聞くと穴に入りたいほどきびしい。 十.「子張第十九、第十章」 子夏曰、君子信而後労其民。未信則以為詞ネ也。信而後諫。未信則以為謗己也。 子夏曰く、君子は信ぜられて而して後に其の民を労す。未だ信ぜられざれば則ち以て己を氏iやま)しむと為す。信ぜられて而して後に諫む。未だ信ぜられざれば則ち以て己を謗ると為す。
子夏が言った。 この章の解説: これもまた、加地伸行「論語」を参考にして、わたしの解釈で大胆に意訳しました。
渋沢栄一著「『論語』の読み方」に佩は、「この項は君子が下の者を使い、上につかえる道を論じている。まず下の者を使う道は、人民に信用されることが先決だ。人民に信用されるには、誠意をもって政治を行うことだ。誠意をもって政治を行えば、人民は必ず喜んでついてくる。人民が喜んで従えば、労役を命じても苦情をいわず、喜んでその労役に服してくれる。もし人民の信用を得ないうちに労役を命ずれば、人民は必ず自分たちを苦しめるといって拒む。人はもともと感情的なものだから、情意の疎通が第一だ。情意の疎通ができる間柄になれば、少々無理なことでも互いに笑って我慢し合えるが、もしこれを欠いておれば、何事にも反感をもたれる」とあります。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。
前半は、政治の責任をとるものの、人民に対する心得、また後半は、その君主に対する心得、を説く。後半について参照すべきは、里仁第四(第二十六章、引用者注)の子游の言葉、「君に事うること数しばすれば、斯れ辱ずかしめらる」である。 陳舜臣著「論語抄」では、次のように訳しています。 子夏が言いました。「君子たるものはじゅうぶん人民の信頼をかち得てから、彼らを使役するものです。まだ信じられていないのに使役しようとすれば、人びとはひどい目に遭ったと思うばかりです。これは一般人民にたいしてですが、君主にたいしても、やはり信じられてから諫言すべきであります。もし信じられていないのに諫言するなら、その君主は自分が謗られていると考えるでしょう。自分が謗るような人間でないことを、君主にみとめさせるのが先決です」。 十一.「子張第十九、第十一章」 子夏曰、大徳不踰閑。小徳出入可也。 子夏曰く、大徳(たいとく)は閑(かん)を踰(こ)えず。小徳は出入(しゅつにゅう)するも可なり。
子夏が言った。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 閑、大徳、小徳
閑:法律・規則のこと この章の解説: わたしの解釈、意訳です。加地伸行「論語」は、「子夏のことば、人格者(大徳)は規範を越えることはない。(その規範について、人格者に至ろうとする途中の)未熟な者(小徳)の多少の出入りは、さしつかえない」と訳しています。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 子夏がいった。 五十嵐晃著「論語の注釈と考究」では、次のように訳しています。 子夏曰く、大きい徳(孝悌などの主要道徳)については、きまりを踏み越えないように。小さい徳(細かい礼儀)については範囲を少々越えてもよろしい。 宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。 子夏曰く、修養の上では大事な点で足を蹈みはずすことがなければ、小さな過不及の誤りは数え立てるに及ばない。 十二.「子張第十九、第十二章」 子游曰、子夏之門人小子、当洒掃応対進退、則可矣。抑末也。本之則無。如之何。子夏聞之曰、噫、言游過矣。君子之道、孰先伝焉、孰後倦焉。譬諸草木区以別矣。君子之道、焉可誣也。有始有卒者、其惟聖人乎。 子游曰く、「子夏の門人小子、洒掃(さいそう)応対進退に当れば則ち可かり。抑(そもそも)末(すえ)なり。之を本(もと)づくれば則ち無し。之を如何」。子夏之を聞いて曰く、「噫(ああ)、言游(げんゆう)過(あやま)てり。君子の道、孰(いず)れを先として伝え、孰れを後(のち)として倦(う)まん。諸(これ)を草木の区にして以て別るるに譬(たと)う。君子の道、焉(いずくんぞ)誣(し)うべけん。始めあり卒(おわ)りある者は其れ惟(ただ)聖人か」。
(孔門十哲の一人で、子夏と並んで「文学」に優れていたとされ、子夏よりも一歳若い子游が、)子夏の門人を批判して言った。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 洒掃、言游、倦(う)まん、誣(し)う
洒掃:拭き掃除 この章の解説: これも、わたしの解釈、意訳です。この章は、どの解説本を読んでも、これだ、という訳がなく、ピンとこないので、思い切って訳してみました。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 子游がいった。 呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。
子夏が孔子より若いこと四十四歳。対するに子游は孔子より若いこと四十五歳。子游と子夏は一つしかちがわない。ともに、孔子晩年の弟子だ。…子游も子夏も同じような生真面目な秀才である。孔門の高弟十人を列挙した先進篇第三章では、「典籍に詳しいのは子游と子夏である」と評されている。よく書を読み、礼楽に関する故実(こじつ)に詳しかったのだろう。 五十嵐晃著「論語の訳注と考究」では、次のように訳しています。 子游曰く、子夏の門下の若者たちは、拭き掃除や、客の受け答えや、儀礼の動作をやらせれば、(たしかに)結構だ。しかしながら、末のことだ。本は何もない。(こんなことでは)いかがなものであろう。子夏がこれを聞いて曰く、ああ子游の失言だ。修養の方法については(何を先にし、何を後回しにするかと決まったものではない。つまり)本を先にして、末を後にすると決まったものでもない。ちょうど、草木も種類によって(育て方を)区別するようなものだ。修養の方法を間違って発言してはいけない。(始め有り卒り有る者、つまり子游のいう所の)本末が備わっている者は聖人なのだ。(一般の人にはその末すらも身についてはいない)(だから、私はそういうことから手をつけているのさ) なるほど、五十嵐先生の解釈には、首肯できます。 十三.「子張第十九、第十三章」 子夏曰、仕而優則学、学而優則仕。 子夏曰く、仕えて優なれば則ち学び、学んで優なれば則ち仕う。
これを普通に訳すと、次のようになります。(とはいっても、意訳ですが…) この章に出てくる重要な言葉(概念): 優なれば:余力があればの意(貝塚茂樹著「論語」)。 この章の解説: 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 子夏がいった。 十四.「子張第十九、第十四章」 子游曰、喪致乎哀而止。 子游曰く、喪は哀を致(きわ)めて止(や)む。
子游が言った。 この章の解説: 呉智英著「現代人の論語」には次のように書いてあります。 喪は、細かな儀礼を守ることよりも、哀しみを表すことにつきる。というのだ。同じように生真面目な秀才でも、子夏に形式主義の傾向があり、子游に実質主義の傾向がある、ということになろうか。もっとも、子游の実質主義も、形式主義に流れがちなことへの自戒という一面も考えられないではない。 なるほど、と思わせる、指摘です。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 親戚の喪にあたったときは、悲哀の情を尽くせばそれでいい。古注によると、悲しみのあまりまったく絶食して、自分の生命まで危なくするのは行きすぎとする。新注では、悲哀の情がたいせつで無用の装飾を加える必要はないという。子游学派も礼を重んずるので、やはり細節にこだわる傾向がある。それを戒めたことばと見てよいであろう。 五十嵐晃著「論語の訳注と考察」には、次のように書いてあります。
子游曰く、喪(において)は悲しみをつくすだけだ。 十五.「子張第十九、第十五章」 子游曰、吾友張也、為難能也。然而未仁。 子游曰く、吾が友張(ちょう)や、能くし難きを為す。然れども未だ仁ならず。
子游が言った。 この章の解説:
諸橋轍次「論語の講義」には、「これは、子游が同門の子張を批評した言葉であるが、決して競争心から生じた非難ではなく、及ばざるところを率直に指摘して、互いに反省し切磋し合って行く態度の現れたものである」と書いてあります。宇野哲人「論語新釈」には、
「この章は子游が子張を評したのである。次章で曾子も子張の仁を為すことを認めていない」と書いてあります。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 人のできないことをやり遂げることが、仁つまり最高の徳ではないという考え方がおもしろい。だれでもできそうでできない、その平凡にして非凡なのがつまりほんとうの人間らしさであるからだ。 十六.「子張第十九、第十六章」 曽子曰、堂堂乎張也、難与並為仁矣。 曽子曰く、堂堂たるかな張や、与(とも)に並びて仁を為し難し。
曽子が(皮肉って)言った。 この章の解説:
かなり大胆に訳しましたが、曽子の言葉にはこのような皮肉が含まれていると思います。子張は孔子晩年の弟子で子貢の弟子でもあります。子張は「先進第十一、第十四章」において、子貢を通じて孔子から次のように戒められています。 呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。
子張は年齢の近い同年代の兄弟弟子たちからも疎んじられていたようだ。 一方で、次のような指摘もあります。(貝塚茂樹著「論語」から) 子張はよほど容貌が美しく、押し出しがいい人物であったらしい。あまり容貌態度がりっぱなので、友人たちはいっしょに並んで仕事をするのを敬遠した。仁を行う段になっても、並んでいっしょに行いにくいというのが曽子の批評である。容貌はりっぱだが、内容がともなわない、仁のほうはどうかという注もあるが、それは考えすぎであろう。 十七.「子張第十九、第十七章」 曽子曰、吾聞諸夫子、人未有自致者也。必也親喪乎。 曽子曰く、吾諸(これ)を夫子に聞く、人未だ自ら致す者あらず。必ずや親の喪か。
「わたしは孔先生から次のように学んだ」。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 自ら致す:自力で窮極までゆく(貝塚茂樹著「論語」から)。 この章の解説: 諸橋徹次「論語の講義」によると、この章は「親子の情愛は人間の自然に発した最高のもの」であり、「孝を以て百行(すべての行い)の本となすのは、そのためであろう」とあります。なるほど、孝の人、曽子ならではの言葉でしょう。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 曽先生がいわれた。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。
曽子が、夫子すなわち孔子から、聞いた言葉としていう。人間の行為のうち、自力だけで究極まで行けるものはない。必ず学問なり教養の助けを借りて、はじめて究極まで行ける。「致」はやはり究極の意。 五十嵐晃著「論語の訳注と考究」では、次のように訳しています。 曽子曰く、私は先生からこういうことを聞いた。「人が自分の真情の限りを出すというのはなかなかないことだ。あるとすれば親の喪の時ぐらいだろうよ」。 宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。 曾子曰く、私は先生に聞いたことがある。人間はなかなか自分の全力を出し尽くすということの出来ぬものだ。もしありとすれば、自分の親の葬式の場合だろう、と。 以上、各先生方の解釈を引用しました。約一月前(三月五日)に父を亡くしたわたしは、この章の言葉を、体験的に理解することができます。正直なところ、それまではピンと来ませんでしたが、自分が体験することによって、なるほど、たしかに、そのとおりだ、と実感できるのです。論語の魅力とは、自分が体験を重ねることによって、ああ、なるほど。孔子はそうことを言っていたのか、と気づくことにあります。孔子は本当に人間というものを知り尽くしていたのです。 十八.「子張第十九、第十八章」 曽子曰、吾聞諸夫子、孟荘子之孝也、其他可能也、其不改父之臣与父之政、是難能也。 曽子曰く、吾諸(これ)を夫子に聞く、孟荘子の孝や、其の他は能くすべし、其の父の臣と父の政とを改めざる、是れ能くし難し。
曽子が言った。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 孟荘子:仲孫(孟孫)氏、名は速、諡は荘。父孟献子を継いでから間もなく死んだ。前五五四年から五五〇年まで大夫の職にあった(貝塚茂樹著「論語」から)。 この章の解説: 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 曽先生がいわれた。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。 やはり曽子が孔子から聞いた言葉。孟荘子とは、魯の家老仲孫速(ちゅうそんそく)。父孟献子の地位を世襲した。「左伝」では襄公十六年、十九年、つまり孔子が襄公二十二年に生まれるより先に、家老として行動が記されている。孔子がその人物を批評して、孟荘子の孝行は、その他の点はだれでもできる。ただ父の代からの家来と、父の代からの家政のやり方とを、変えなかった点は、だれでも出来ることではない。 宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。 曾子曰く、私は先生から聞いたことがある。孟荘子の孝行は有名だが、大ていのことは真似ができる。ただ父の使ってきた側近と、父のやってきた方針を改めることがなかったのは、真似のできぬ点だ。 十九.「子張第十九、第十九章」 孟氏使陽膚為士師。問於曽子。曽子曰、上失其道、民散久矣。如得其情、則哀矜而勿喜。 孟氏、陽膚(ようふ)をして士師たらしむ。曽子に問う。曽子曰く、上(かみ)其の道を失い、民散ずること久し。如し其の情を得ば、則ち哀矜(あいきょう)して喜ぶこと勿れ。
(魯国の大夫の)孟孫氏が、(曽子の門人の)陽膚(ようふ)を士師(裁判官兼検事)に任用しようとした時、陽膚が師である曽子にたずねた。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 陽膚、士師、民散ず、哀矜
陽膚:曽子の弟子らしいが不詳 この章の解説: 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。
「孟氏」とは、家老孟孫子の当主であるにちがいなく、…(中略)…陽膚は曽子の弟子。士師は「典獄の官」、つまり司法の長官。 五十嵐晃著「論語の訳注と考究」には、次のように書いてあります。
魯の大夫の孟氏(の当主)が(曽子の弟子の)陽膚を司法官にした。陽膚が曽子に(その心得を)尋ねた。曽子曰く、上に立つ者が正しい道を失って、民が放逸に堕してから久しい。もし犯罪の実情がつかめたら、不憫に思って、決して得意になったりしてはいけない。 二十.「子張第十九、第二十章」 子貢曰、紂之不善、不如是之甚也。是以君子悪居下流。天下之悪皆帰焉。 子貢曰く、紂の不善は是(かく)の如く甚だしからざるなり。是(ここ)を以て君子は下流に居るを悪む。天下の悪皆焉(これ)に帰す。
子貢が言った。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 紂:殷王朝三十代目の、最後の君主。暴君で天下の人民を苦しめ、ついに周の武王の軍と戦って敗れ、滅亡した(貝塚茂樹著「論語」)。と言われているが、本当は暴君ではなかったという説もある。この章では、子貢も、紂は世間で言われているほど、悪くなかったであろう。しかし、悪いという烙印を押されてしまうと、してもいないことまで、したことにされてしまうのであろう、と語っているのである。 この章の解説: 呉智英著「現代人の論語」では、次のように解説しています。
殷の紂王は、殷朝最後の帝である。政治を省みず、寵姫(ちょうき…君主の愛妾、引用者注)妲己(だっき)に溺れ、酒で池を作り乾し肉を林のようにし(酒池肉林)、日夜淫楽にふけった。民心は離反し、国は乱れ、遂にBC一〇二七年、周の武王によって滅ぼされた。孔子の時代より五百年前のことである。 子貢一人の言葉によるこの章がそうだ、ということです。前掲書の著者である呉智英氏もまた、頭脳明晰な人なのでしょう。そのことは前掲書を読めばわかります。これに対して、下村湖人氏は、「論語物語」で知に寄りかかり過ぎる子貢が孔子に戒められて茫然自失とする場面を描いています。人物評というのは、それを評価する人の価値観に左右されるのです。わたしとしては、子貢が頭脳明晰であるから素晴らしいとは、まったく思えません。愚鈍であろうと、人間としてどう考え、どう生きるかが大切だと考えるからです。しかし、だからといって子貢を低く評価しているのではありません。子貢の本当の素晴らしさは、その怜悧な頭脳にあるのではなく、師である孔子のことを心の底から敬愛して、孔子の思想を自分のものにしようと努めているところにあると考えるからです。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 子貢がいった。 陳舜臣著「論語抄」には、次のように書いてあります。
『論語』の時代でさえ、紂はそんなに悪くはなかっただろうと言われていました。そうすると、紂を討った周をもちあげている学者は困るのです。子貢はそう言っているが、紂はやはり罪があったのだと、朱子はこのくだりで発言しています。 二十一.「子張第十九、第二十一章」 子貢曰、君子之過也、如日月之食焉。過也人皆見之。更也人皆仰之。 子貢曰く、「君子の過ちや、日月(じつげつ)の食の如し。過つや人皆之を見る。更(あらた)むるや人皆之を仰ぐ」。
子貢が言った。 この章の解説: この章は見事に孔子が理想とした人間像を表現しています。それにしても子貢の表現力はすばらしい。「君子の過ちや、日月の食の如し」と謎をかけ、「過つや人皆之を見る」と日蝕・月蝕の際に人間が月や太陽を観察することに例え、また、「更むるや人皆之を仰ぐ」と日蝕・月蝕が終わると人間はほっとして月や太陽を畏敬して仰ぎ見ることに例えているのです。まさに孔子がそういう人だったのでしょう。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。 この条の背景として、日月食に対してむけられた古代人の意識をいえば、日食は早くから注意された。最古のクロノロジー(年代学:歴史上の事実の年代を追求する学問、引用者注)である「春秋」には、日食の起こった日附けが、きちんと記されている。またその発生の時期を予測する方法も、子貢のころには、すでに知られていた。しかしなお、天地の異変の一つとされ、その際に行う儀礼が、「礼」のあちこちに見える。月食の方は、まれに記載され、この章もそのまれなものの一つである。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 子貢が君子を日食月食にたとえた比喩は、さすがに巧妙である。その巧妙さはむしろ師の孔子をしのぐかもしれない。 二十二.「子張第十九、第二十二章」 衛公孫朝、問於子貢曰、仲尼焉学。子貢曰、文武之道。未墜於地。在人。賢者識其大者。不賢者識其小者。莫不有文武之道焉。夫子焉不学。而亦何常師之有。 衛の公孫朝(こうそんちょう)、子貢に問うて曰く、「仲尼は焉(いずく)にか学べる」。子貢曰く、「文武の道未だ地に墜ちずして人に在り。賢者は其の大なる者を識(しる)し、不賢者は其の小なる者を識す。文武の道あらざる莫し。夫子焉にか学ばざらん。而して亦た何の常の師か之れあらん」。
衛の(大夫である)公孫朝(こうそんちょう)が子貢にたずねた。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 衛の公孫朝、仲尼
衛の公孫朝:公孫朝という人は『左伝』に四人あらわれる。それほど多い名であったから、衛の公孫朝と呼んだのである。しかし、その伝記はあきらかでない。姓名から衛の君主の一族と推定されるだけである。 この章の解説:
紀元前一一〇〇年ごろ、中国には殷という国があり、そのことは甲骨(こうこつ)文字として記録されています。殷の時代は神があらゆるものの最上位に位置しており、人間はすべてを神に委ねていました。殷の首都の「商」には宗廟が建立され、そこに神を祀り、神官が神の意志を受けて国を統治していたのです。そして、その神官が殷の王だったのです。いわば殷王朝の王は神の意志を受けた天子として地上の世界を統治していたのです。やがて、殷の王は神の僕(しもべ)から離れて世俗的な独裁者と化しました。その象徴が殷王朝最後の王となった紂(ちゅう)王なのです。紂王は、絶対的な権力と財力を手に毒婦といわれる妲己(だっき)とともに栄華を貪っていましたが、その悪徳非道な政治は、殷の西の国「周」によって滅ぼされます。殷を滅ぼした周の君主が武王であり、武王の父が文王なのです。殷滅亡の原因は、殷王朝の王が神の意思を受けた天子としての統治から、世俗的な独裁者として政治を行うようになり、人心が離れたことにあり、その象徴が毒婦に溺れた紂王です。その独裁者としての政治は、神の意志を受けた天子として為されたものでありますから、本当の意味で、殷滅亡の原因は「神権政治」という政治のスタイルにあったともいえます。「神権政治」とは人間の存在を考えない政治のスタイルであり、たとえば捕虜を奴隷として酷使することなど、すべて神の意志として為されたのです。そのような政治のスタイルが人心が離れていった根本にあり、殷王朝は滅びるべくして滅びたといってもいいでしょう。殷の滅亡により、「神権政治」の時代が終わり、神から距離をおいた政治がはじまりました。それを担ったのが殷を滅ぼした周であり、当時の君主である武王とその父文王であったのです。その政治は絶対的に神を仰いだ神権政治に比べて、人間の存在を大切にした政治であり、礼楽とは、神と人間をつなぐ、政治の仕組みといえるものだったのです。
陳舜臣著「論語抄」には、次のように書いてあります。
子貢は大富豪であり、人柄もよく、みなから慕われていました。彼は衛の人で、姓は端木(たんぼく)、名は賜、字が子貢です。孔子の一番弟子は、その早死にが惜しまれた顔回でした。子貢は顔回にたいして、けっしてライバル意識をもっていません。孔子から顔回のことをきかれて、 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。
公孫朝は、古注の馬融(ばゆう)に、「衛の大夫」。そのころ同名の人物があちこちにいたので、「衛」の字を加えて区別した…。事蹟は不明であるが、「公孫」といえば、衛の公室の同族であったにちがいない。その人物が子貢にたずねた。 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。
弟子の子貢が衛の国の家老の公孫朝殿に、「あなたの先生は誰に学問を学んだのですか」と問われたので、こう答えてくれたそうだ。 二十三.「子張第十九、第二十三章」 叔孫武叔語大夫於朝曰、子貢賢於仲尼。子服景伯以告子貢。子貢曰、譬之宮牆、賜之牆也及肩。窺見室家之好。夫子之牆数仞。不得其門而入、不見宗廟之美百官之富。得其門者或寡矣。夫子之云、不亦宜乎。 叔孫武叔(しゅくそんぶしゅく)、大夫に朝に告げて曰く、「子貢は仲尼に賢(まさ)れり」。子服景伯以て子貢に告ぐ。子貢曰く、「之を宮牆(きゅうしょう)に譬うれば、賜の牆(しょう)は肩に及ぶ。室家(しつか)の好(こう)を窺い見る。夫子の牆は数仞(すうじん)なり。其の門を得て入(い)らざれば、宗廟の美(び)百官(ひゃくかん)の富を見ず。その門を得る者或いは寡(すく)なし。夫子の云う、亦た宜(むべ)ならずや」。
(魯の大夫の)叔孫武叔が朝廷で同僚の大夫に向かって(仲尼〔ちゅうじ:孔子〕のことを非難して)、次のように言った。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 叔孫武叔、子服景伯、数仞、夫子
叔孫武叔:魯の叔孫氏、武は諡(おくりな)。魯の大夫として、かつて孔子と同役であった。 この章の解説:
子貢は弁が立つから、誰の目にも、頭脳明晰であることがよくわかりますが、孔子は言葉を控えますから、凡人の叔孫武叔には、その偉大さがわからず、子貢の方が賢くみえたのでしょう。あるいは、三桓家の権勢を削ごうと画策する政治家孔子への怨みがあったのかもしれません。 金谷治著「孔子」には、次のように書いてあります。
子貢のほうが孔子よりもすぐれているという評価、それは孔子の悪口をともなっていたらしいが、そんなことが魯の朝廷で大夫たちの間でささやかれた。そして、そのことをわざわざ子貢のところに知らせてきたものもあった。子貢を喜ばせようとしたのでもあろうか。しかし、子貢は敢然とそれをはねつける。とんでもない話だ。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。
叔孫武叔は、魯の大夫…であり、「左伝」では、定公十年に、自己の相続に異議を唱えた家臣公若(こうじゃく)の立てこもる都市、郈(こう)を包囲した事件で、その名がはじめて見える。この年はすなわちまた、五十二歳の孔子が、同じく魯の重臣の一人として、魯侯の介添となり、夾谷(きょうこく)の会見で斉侯をやりこめたことを、「左伝」が記す年である。…武叔は、孔子よりやや年の若い同僚であった。「左伝」では、七年のちの哀公二年、つづいて三年にも、この人物の名が見え、そのとき孔子は、既に魯を去っている。つぎの章とあわせ考え、孔子に好意をもたぬ男であった。 宮崎市定著「現代語訳 論語」には、次のように書いてあります。
魯の叔孫武叔が朝廷で同僚の大夫たちと話している間に、子貢は孔子よりも賢い、と言った。子服景伯がそれを子貢に話した。子貢曰く、それはとんでもない。例えば邸宅の垣根で言うならば、私の垣根は肩の高さにすぎません。誰でも人はその上から、部屋の内部の奥深い所まで窺(のぞ)きこめます。先生の垣根の高さは数メートルもありますから、門から入って行くのでなければ、内部の建物、祖先を祭る宗廟の美しさ、部局に分かれた財貨の蓄積の莫大なのを見ることができぬでしょう。かつて先生は、その門に入ることの出来る者は、甚だ少数に限られる、と申されましたが、まことにもっともなお言葉であったと思います。 二十四.「子張第十九、第二十四章」 叔孫武叔毀仲尼。子貢曰、無以為也。仲尼不可毀也。他人之賢者丘陵也。猶可踰也。仲尼日月也。無得而踰焉、人雖欲自絶、其何傷於日月乎。多見其不知量也。 叔孫武叔、仲尼を毀(そし)る。子貢曰く、「以て為すなきなり。仲尼は毀るべからず。他人の賢は丘陵なり。猶お踰(こ)ゆべし。仲尼は日月なり。得て踰ゆるなし、人自ら絶たん欲すと雖も、其れ何ぞ日月を傷(そこな)わんや。多(まさ)に其の量を知らざるを見るなり」。
(おそらく、孔子が魯の定公に仕えて中都の宰相として実績を上げ、その後、司寇(しこう:次官)、大司寇(法務大臣)に抜擢されて三桓家の権勢を削ごうと画策していたころ、三桓家の一つである叔孫氏の一員で魯国の大夫である)叔孫武叔が仲尼を誹謗中傷した。(孔子の政治手腕により三桓家の権勢が衰退しかねないという怨みからだと思われる…) この章に出てくる重要な言葉(概念): 毀(そし)る、多(まさ)に
毀る:そしる。非難する この章の解説:
話の背景を推測しながら、大胆に訳してみました。 陽明学の開祖、王陽明の「伝習録」には、この章について、次のように書いてあります。(吉田公平著「伝習録〜『陽明学』の真髄」(タチバナ教養文庫)から引用しました。王陽明の弟子が、師である陽明に質問する形式になっています。)
おたずねします。「『論語』に『叔孫武叔が孔子を誹謗した』(子張篇)とありますが、偉大な聖人でありながら、どうして誹謗を免れなかったのでしょう」。 さすが、王陽明ですねぇ。「誹謗・賞賛は外より生起することだから回避できない。問題はいかに自己の人格を陶冶するか」。まさに、そのとおりです。そのとおりですが、言うは易く行うは難しでなかなかできることではありません。その自己陶冶を怠らずに人格を高めていったのが孔子であり、子貢は孔子を理想の人、憧れの人として心から尊敬したのです。 二十五.「子張第十九、第二十五章」 陳子禽謂子貢曰、子為恭也。仲尼豈賢於子乎。子貢曰、君子一言以為知、一言以為不知。言不可不慎也。夫子之不可及也。猶天之不可階而升如。夫子之得邦家者、所謂立之斯立、道之斯行、綏之斯来、之動斯和、其生也栄、其死也哀。如之何其可及也。 陳子禽(ちんしきん)、子貢に謂って曰く、「子は恭を為すなり。仲尼は豈(あに)子に賢(まさ)らんや」。子貢曰く、「君子は一言以て知と為し、一言以て不知と為す。言は慎まざるべからざるなり。夫子の及ぶべからざるや。猶お天の階(かい)して升(のぼ)るべからざるが如し。夫子にして邦家(ほうか)を得(え)ば、所謂之を立つれば斯(ここ)に立ち、之を道(みち)びけば斯に行い、之を綏(やす)んずれば斯に来(きた)り、之を動かせば斯に和し、其の生(い)くるや栄とし、其の死するや哀しむ。之を如何ぞ其れ及ぶべけんや」。
(子貢晩年の弟子〔孔先生の直弟子ではなく孫弟子〕の)陳子禽(ちんしきん)が自分の師である子貢に向かって(次のように)言った。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 陳子禽:学而篇第十章に登場して、子貢に孔子のことを質問している子禽と同一人物。孔子の弟子という説もあるらしいが、ここでは子貢の弟子とした。 この章の解説: 陳子禽(ちんしきん)は子貢晩年の弟子だそうです。子貢は孔子よりも三十一歳若く、孔子が亡くなったのは七十四歳(または七十三歳)といわれておりますから、その時、子貢は四十三歳(または四十二歳)であります。つまり、陳子禽が子貢の弟子になった時は、孔子が亡くなってから随分経ってからであり、陳子禽は孔子と直接話したことがなく、見たことすらなかったかもしれません。だから、「子は恭を為すなり。仲尼は豈(あに)子に賢(まさ)らんや」などという暴言を吐くことができたのでしょう。あるいは、頭脳明晰で切れ者である子貢が、陳子禽には眩しいほどに輝かしい存在だったのかもしれません。 呉智英著「現代人の論語」には、子貢について、次のように書いてあります。
子貢は小賢しい才人とも見られがちだ。しかし、論語をよく読めば、子貢の言動の随所にその優れた資質がはっきり現れているのがわかる。孔子が子貢をたしなめることが多かったのも、資質を認めた上での叱咤なのであった。子貢もそれをわかっていたからこそ、師を敬愛すること一方(ひとかた)ではなかった。冒頭掲出の一章(この章のこと、引用者注)には、それがよく描かれている。(中略) 知の人子貢は、孔子を敬愛するという面では情の人でもあったのです。 微子篇第十八 まず、微子篇全体について、貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 微子・箕子(きし)が、滅亡に瀕した殷国を去って身を隠す第一章にはじまって、この篇は、乱世をのがれる隠士を主人公とする物語が中心となっている。第五章の、孔子のそばを歌って過ぎた楚のにせ狂人接輿(せつよ)、第六章の、渡し場を問うた子路に、孔丘にしたがうのをやめ、われら隠士の群れにはいれとすすめた長沮、桀溺、第七章の、同じく子路に向かって孔子を批判した丈人(じょうじん)を主人公とする物語は、『論語』のなかでも、もっとも興味に富んだ説話といえる。孔子は、ここでは、いくら労しても効果が上がらないにきまっている政治運動に、身を粉にして働いている、おめでたい人物として戯画化されている。これらには無為の生活を至上とする老子学派の影響が濃厚に見られる。しかし、春秋時代の末期の中国は、内乱と戦争に明け暮れ、貪欲な豪族と、それを囲む権力亡者の佞臣とによって、醜悪な権力闘争がくり返されていた。この乱世に絶望して、政治の舞台からのがれて隠士の生活を送る賢人がたくさん出てきたらしい。彼らは社会のすみに隠れているため、ほとんど歴史に姿をあらわさないが、その片鱗は『左伝』などにもあらわれている。乱世において、一身の幸福をはかるには、隠士の生活がもっともまさっているからだろう。老子の無為思想は、民間に自然に発生した隠士思想を体系化したものにすぎない。第五章・第六章・第七章は、自然的に発生した隠士の生活を、道家の無為思想によって理想化したものであって、道家の影響は濃厚にしみこんでいる。各章の終わりに、孔子や子路の口をかりて、老子の隠士思想への批評がつけ加えられている。戦国時代の儒教の教団は、これらの説話を取り入れながら、最後に道教の無為思想を批判することによって、儒教の権威を保持しようとしたのであろう。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。
以下の三篇、すなわち微子第十八、子張第十九、堯曰第二十、いずれもこれまでの篇とは異なった特殊な体裁と内容をもち、全書の附録であるごとく感ぜられる。 一.「微子第十八、第一章」 微子去之、箕子為之奴、比干諫而死。孔子曰、殷有三仁焉。 微子は之を去り、箕子(きし)は之が奴(ど)と為り、比干(ひかん)は諫めて死す。孔子曰く、「殷に三仁あり」。 (殷の紂王の暴政を嘆いて、)微子(殷の紂王の異母兄)は、国を捨てて荒野に逃れた。(そこに殷の祭器を保ち、今にも絶えんとする殷の祭礼を保存することに努めた。)箕子(紂王の叔父)は紂王を諫めて捕らわれて幽閉され、比干(紂王の叔父)は、諫めたあげく殺された。(やり方は異なるが三人とも紂王の暴政を諫め、志は立派であった。そこで、)孔先生が言われた。「殷には仁の人が三人いたのだ」。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 微子、箕子、比干
微子:殷王朝最後の紂王の兄になる王子。紂王の暴虐に愛想をつかし、国を捨てて逃亡した。周王朝が殷王朝を征服すると、民間に身を隠していた微子を呼び出して、宋国の国君として、殷王朝の祖先の祭祀を行わせた。 この章の解説: 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 この篇のはじめに、殷の王族の三賢者を持ち出したのは、乱世に処する賢者の態度をあきらかにしようとするためである。虐政に正面から抗議して死する比干、諫めが聞き入れられねば政治から逃避して身をまっとうする微子・箕子、それぞれべつの生き方をした。孔子は、どれを最善としたわけでもないが、乱世には隠士となるしか仕方がないという道家の無為思想の影響のもとにあった。戦国時代の儒教教団においての、孔子のことばと伝承すべきであろう。 陳舜臣(ちんしゅんしん)著「論語抄」には、次のように書いてあります。
殷末の紂王の時代、紂の兄にあたる微子は、紂の無道を怖れて逃亡しました。紂の諸父(おじ)にあたる箕子は紂を諫めましたが、きき入れられなかったので、狂人をよそおって奴隷となりました。おなじ紂の諸父の比干は、紂を諫めて殺されました。孔子は「殷には三人の仁者がいた」と言いましたが、この三人のことです。 二.「微子第十八、第二章」 柳下恵為士師、三黜。人曰、子未可以去乎。曰、道直而事人、焉往而不三黜。枉道而事人、何必去父母之邦。 柳下恵(りゅうかけい)士師となり、三(み)たび黜(しりぞ)けられる。人曰く、「子未だ以て去る可からざるか」。曰く、「道を直(なお)うして人に事うれば、焉(いずく)に往(ゆ)くとして三たび黜けられざらん。道を枉げて人に事うれば、何ぞ必ずしも父母の邦を去らん」。
柳下恵は魯国の裁判官に任命されたが、三回も罷免された。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 柳下恵、士師、黜けられる
柳下恵:魯国の賢者として有名。柳下は家に柳があったから、人がそう呼んだのだともいう。 この章の解説: 思い切って意訳してみました。こんな感じだと思います。柳下恵は衛霊公第十五、第十三章と、本篇、第八章にも登場します。 貝塚茂樹著「論語」には、「悪政府のもとで辛抱してつかえる賢人の、ひとつの典型が書かれている」とあります。 陳舜臣著「論語抄」には、次のように書いてあります。
柳下恵は魯の国の人ですが、孔子より百年ほど前の人でした。士師(裁判官)となって三度も罷免されています。ある人が彼に「そんな目に遭って、どうして立ち去って外国で仕えないのですか」とたずねました。 諸橋轍次「論語の講義」には、次のように書いてあります。 官途を失うことは、常人に取っては重大な問題であるが、三度黜(しりぞ)けられてなお且つ平然としてこの言葉をなしておる柳下恵は、さすがに称すべき一人物であり、その鷹揚たる態度、正道を以て君に仕える態度、父母の国を思う態度が、自然にこの文中ににじみ出ている。孟子には、柳下恵が汚君(おくん)を羞じず、小官を辞せず、しかもよく正道を守ったことを称して、聖の和なる者と述べている。なおこの章には孔子の評語がない。亡逸したものであるかも知れぬが、或いは又、この全章が孔子の語った言葉であるかも知れない。この篇の終わりに出て来る三つの章(九・十・十一)の場合もまた同様であろう。 三.「微子第十八、第三章」 斉景公待孔子曰、若季氏則吾不能。以季孟之間待之。曰、吾老矣。不能用也。孔子行。 斉の景公孔子を待ちて曰く、「季氏の如きは則ち吾能(あた)わず。季孟(きもう)の間を以て之を待たん」。曰く、「吾老いたり。用うる能わず」。孔子行(さ)る。
斉の君主である景公が孔先生を任用しようとして、次のようにおっしゃった。 この章の解説: 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 斉の景公は長命の君主で、前五四七年から四九〇年の死亡まで五十八年間君位にあった。父の霊公が魯から夫人をめとったのは前五七四年か五七三年ころのことと推定され、即位時は二十七歳であった。孔子が魯の昭公のあとから斉国におもむいたのは前五一七年であり、斉国から魯国に帰ったのは、翌年または翌々年、つまり前五一六年か五一五年のことであったとする説がある。そのとき斉の景公の年は、五十九歳あるいは六十歳くらいであった。景公が老年を理由に孔子の任用を中止したというこの話が、孔子が斉を去るときの景公の推定年齢とよく合っているからである。(中略)この伝説は次章と関連して、孔子がどんな理由で国家から去って行くか、孔子の国家から逃げ出す逃げ出し方を説いているのである。 諸橋轍次著「論語の講義」には、次のように書いてあります。 魯の三桓は、兄弟の順からいえば、孟孫氏が長兄で、次は叔孫、その次が季孫となる訳であるが、孟孫氏の慶父(けいほ)と叔孫氏の叔牙(しゅくが)とが共に罪を得たため、その後は季孫氏が最も高い地位に就いた。すなわち季氏は上卿で、魯国の収入の半分を占め、孟・叔の二氏は下卿で、残りの半分を互いに折半し合っていた。季・孟の間とは、この季氏と孟氏の中間程度という意味であり、これを斉についていえば、陳氏の下、他の諸大夫の上程度の地位を指したもののようである。なお孔子が遂に斉を去ったのは、言うまでもなく、この自分に対する待遇上のことからではなく、『吾老いたり。用うる能わず』という景公の弁解の言葉に悟るところがあったからである。 四.「微子第十八、第四章」 斉人帰女楽。季桓子受之、三日不朝。孔子行。 斉人(せいひと)女楽を帰(おく)る。季桓子之を受け、三日朝(ちょう)せず。孔子行(さ)る。
(魯の定公の十二年、孔先生は魯の司法長官となり、国政を着々と整えられた。隣国の斉は、魯が強大になることを恐れた。そこで…) この章の解説: 陳舜臣著「論語抄」には、次のように書いてあります。
この二つの章(微子第十八、第三章、第四章、引用者注)はおなじ句で終わっています。それは「孔子行」の三字です。孔子が去って行ったのですが、どこから去ったのでしょうか。 五.「微子第十八、第五章」 楚狂接輿歌而過孔子曰、鳳兮鳳兮、何徳之衰。往者不可諫。来者猶可追。已而已而。今之従政者殆而。孔子下、欲与之言。趨而辟之、不得与之言。 楚の狂(きょう)接輿(せつよ)歌うて孔子を過ぎて曰く、「鳳や鳳や、何ぞ徳の衰えたる。往く者は諫むべからず。来る者は猶お追うべし。已(や)みなん已みなん。今の政に従う者は殆し」。孔子下り、之と言わんと欲す。趨って之を辟(さ)け、之と言うを得ず。 楚の狂者(志大にして自ら狂者を装い世を逃れている者)である接輿(せつよ)が、歌いながら孔先生の車の前を通り過ぎた。(その歌は)「鳳(ほう)よ、鳳よ、何と徳の衰えたことか。(鳳凰という鳥は、道があれば世に現れ、道がなければ世を隠れるのである。それなのに隠れもしないのはどういうことだ。)過ぎ去ったことをあれこれ気にせず、これからのことを考え(て、隠れてしまい)なさい。やめなさい、やめなさい、今の世の政治に関与するのは危険なことだ」(というものであった)。孔先生は車から降りて話をしようとされたが、接輿が小走りで逃げたので、話はできなかった。 この章の解説: 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 乱世のころであったから、狂人といってもほんとうの狂人ではなく、狂人のふりをして身をくらましている隠士がたくさんいた。ほうぼうでこんな隠士から、政治なぞに手を出すのはやめたほうがいいと、それとなくたしなめられる。孔子はそんな経験をたびたびもったことであろう。これは楚に出かけたとき、つまり流浪して葉公(しょうこう)などに会った前四八九年のことにあてられる。しかし、ここに書かれていることが、そのとおり歴史的にあったのではない。そういう伝説が伝わっていたというだけである。 六.「微子第十八、第六章」 長沮桀溺耦而耕。孔子過之、使子路問津焉。長沮曰、夫執輿者為誰。子路曰、為孔丘。曰、是魯孔丘与。曰、是也。曰、是知津矣。問於桀溺。桀溺曰、子為誰。曰、為仲由。曰、是魯孔丘之徒与。対曰、然。曰、滔滔者天下皆是也。而誰以易之。且而従其従辟人之士也、豈若従辟世之士哉。耰而不輟。子路行以告。夫子憮然曰、鳥獣不可与同群。吾非斯人之徒与而誰与。天下有道、丘不与易也。 長沮(ちょうそ)・桀溺(けつでき)耦(ぐう)して耕す。孔子之を過ぎ、子路をして津(しん)を問わしむ。長沮曰く、「夫(か)の輿(よ)を執(と)る者を誰と為す」。子路曰く、「孔丘と為す」。曰く、「是れ魯の孔丘か」。曰く、「是なり」。曰く、「是ならば津を知らん」。桀溺に問う。桀溺曰く、「子を誰と為す」。曰く、「仲由と為す」。曰く、「是れ魯の孔丘の徒か」。対えて曰く、「然り」。曰く、「滔滔たる者天下皆是れなり。而(しか)して誰と以(とも)にか之を易(か)えん」。且つ而(なんじ)其の人を辟くるの士に従わんよりは、豈世を辟くるの士に従うに若(し)かんや」。耰(ゆう)して輟(や)めず。子路行(ゆ)きて以て告ぐ。夫子憮然として曰く、「鳥獣は与(とも)に群を同じうすべからず。吾斯(こ)の人の徒と与するに非ずして誰と与にせん。天下道あれば、丘与に易えず」。 下村湖人著「論語物語」を参考にして、物語風に訳していきます。
(春はまだ寒かった。傾きかけた日が、おりおりかげって、野づらは明るくなったり、暗くなったりしていた。孔子は車にゆられながら、目を閉じてじっと考えに沈んでいた。手綱(たづな)を執っている子路は、一時間近くも黙りこくっている。ほかの弟子たちもずいぶん疲れたらしく、とぼとぼ足を引きずっている。「しばらく休むことにしたら、どうじゃ」。孔子は子路に言った。「もうすぐ渡し場だと思います」。子路はぶっきらぼうに答えた。それから十分もたったころ、子路は急にぴたりと車を止めた。孔子が渡し場に着いたのかと思って、顔を出したところ、道が二つに分かれている。子路は手綱を握ったまま腕を組んで、じっと前方を見つめている。「どうしたのじゃ」。孔子が半身を車から乗り出して言った。「渡し場に行く道はどっちだか、考えているところです」。孔子は微笑した。「考えたら道がわかるかね」。孔子はふとそんな皮肉を言った。そしてにこにこしながら子路に言った。「考えているより、たずねた方が早くはないかね。ほら、あそこに人がいる」。子路はきょとんとした顔をしている。「すぐに行って、渡し場をたずねておいで。手綱はわしが持っている」。子路は大急ぎで、二人の農夫のところに走り出した…) この章に出てくる重要な言葉(概念):
長沮・桀溺:だれか有名な賢者が変名して姿を隠しているのであろう。沮は沼地、溺は人間の排泄物。どちらも農業に関係した農民らしい名で呼ばれている。 この章の解説: 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 長沮・桀溺などという名前は、『荘子』のたとえ話、つまり寓話に出てくるように、ひょっとすると架空の人物であるかもしれない。この話自体そういう人物を設定して、孔子や子路に問答させた。『荘子』によくある寓話かもしれない。孔子も子路も戯画化されて出てくる。憮然として語っている孔子のことばをくっつけているが、それは結局言いわけで、すっかりふたりの隠士に皮肉られ、この勝負は隠士の勝ちとみられる。 金谷治著「孔子」には、次のように書いてあります。 微子篇のこの章の前後と、憲問篇の後半とには、道家的な隠者と孔子との出合いの話がいくつか出てくる。そして近年の批判的な研究では、おおむね道家の人びとの作り話だとされている。だが、『荘子』などの道家の文献の孔子説話と比べてみると、こちらでは道家思想に対する儒家としてのはっきりした主張があって、儒家資料としての独自の意味がある。この章なども、作り話めいた誇張もあるとはいえ、あくまで人間社会のために考え、行動してゆきたいとする孔子自身の願望、ひいては儒教の核心にふれるものがあるように思う。 安岡正篤著「朝の論語」には、次のように書いてあります。 …夫子憮然として曰く、鳥獣は与に群を同じくすべからず。人間は鳥獣とは一緒に暮らせない。結局人間は人間仲間と暮らす外はない。わしは人間を相手にしないで、何を相手にすることができよう。世の中に道があるなら、世の中にちゃんと筋道が立っておるなら、わしはどうしようというものでもない、悠々自適もしよう。本文の易は易えるでもよい。易(おさ)めるでもよろしい。弊を去り新しく創造する意です。どこまでも人道的精神に徹した孔子の本意を、はっきり表した感慨深い一文であります。 七.「微子第十八、第章」 子路従而後。遇丈人以杖荷蓧。子路問曰、子不見夫子乎。丈人曰、四体不勤、五穀不分、孰為夫子。植其杖而芸。子路拱而立。止子路宿、殺鶏為黍而食之、見其二子焉。明日子路行以告。子曰、隠者也。使子路反見之。至則行矣、子路曰、不仕無義。長幼之節、不可廃也。君臣之義、如之何其廃之。欲潔其身、而乱大倫。君子之仕也、行其義也。道之不行、已知之矣。 子路従って後(おく)る。丈人(じょうじん)の杖を以て蓧(あじか)を荷(にな)うに遇(あ)う。子路問うて曰く、「子、夫子を見ざるか」。丈人曰く、「四体(したい)勤めず、五穀分かたず、孰(たれ)をか夫子となす」。其の杖を植(た)てて芸(くさぎ)る。子路拱(きょう)して立つ。子路を止めて宿(しゅく)せしめ、鶏を殺し黍(きび)を為(つく)りて之を食(しょく)せしめ、其の二子(にし)を見(まみ)えしむ。明日(みょうにち)子路行(ゆ)いて以て告ぐ。子曰く、「隠者なり」。子路をして反(かえ)って之を見(み)しむ。至れば則ち行(さ)れり、子路曰く、「仕えざれば義なし。長幼の節は廃すべからず。君臣の義は之を如何ぞ其れ之を廃せん。其の身を潔くせんと欲して大倫(たいりん)を乱る。君子の仕うるや其の義を行うなり。道の行われざるは已(すで)に之を知れり」。
(これもまた天下周遊の途中のことである。) この章に出てくる重要な言葉(概念): 丈人(じょうじん)、蓧(あじか)、五穀、拱(きょう)して
丈人:「丈」は「杖」に通じる。年老いて杖をつく人という意味。 この章の解説:
複数の解説書を参考にしながら、わたしの言葉で大胆に訳してみました。 呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。
儒教の弱点の最大のものは、実学の軽視である。(中略) 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 『史記』では、この章を前章につづけて、楚地方を旅行していたときの一連の物語とする。しかし、前章が主人公の名からしていちじるしく寓話的であるのに、本章は丈人の名をあきらかにしていない。立ちすくんでいる子路を哀れと思った老人が、一夜泊めてやり、下にも置かずもてなし、二子を引き合わせてやる。平凡な郷村の牧歌的な生活がありのままに出ていて、あまり作為の跡が見えない。老子の尊ぶ自給自足の農村共同体の無為の生活が具体的に表現されているとしても、この伝説を老子の無為の思想の影響のもとに発生したとするのは独断的解釈である。孔子が遊歴の旅のなかで、こういう隠士に出会ったことはおおいにありうる。『左伝』のような貴族の政治生活をあらわしたものには、政治の表面から脱落した隠士の存在はまったく閑却(かんきゃく)されている。このことによって、春秋末期にはまだ隠士がいなかったと積極的に論断することはむりであろう。しかし、孔子がこういう隠士に出会ったという話は、老子学派の間でおおいに話の種となったことは事実であろう。こういう話にたいして、儒教学派としては、ひとつの立場をとって反撃することが必要である。最後の、子路が孔子の立場を代弁したことばは、その意味でつけ加えられたのであろう。君臣の大義を強調するこの『論語』の章は、戦国時代の君臣観念を反映している。 宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。 子路が孔子に従行して、後にとりのこされた。追いかけて行く途で老人が杖に竹のかごを下げて荷(にな)っているのに出会ったので尋ねた。貴方は私の先生に遇いませんでしたか。老人曰く、身体の労働をしたことがなく、五穀の見さかいもない者が、何で先生なものか、と言って杖を地面に立てて、草をむしり出した。子路は両手を組んで敬意を表しながら、老人と立ち話を始めた。老人は子路をひきとめ、家へつれ帰って泊らせ、鶏を殺し、黍の飯をつくって御馳走をし、二人の子供を紹介した。明日子路は立ち去って孔子に追いついて、このことを話した。子曰く、隠者だな、(それなら言うことがある)と。子路に命(いい)つけて、もう一度たち戻って面会してこいと言った。子路がその家へ行って見ると、もう行方知れずであった。孔子が子路に言わせようとしたのは次の通りであった。曰く、宮仕えしないという主張には何の根拠がない。尊長と卑幼との間の序列は無視することができぬ。(現に子路は貴方を老人の故に尊敬し、貴方はまた二子を年長の子路に引合わせて敬意を表せしめたではないか。)それと同じように、君主と臣下との関係は、無視しようとしても無視できぬものだ。貴方は一身を清くしようと思うあまり、無視することのできぬ大事な人間関係を強いて無視しようとなされる。我々の仲間が君主を求めて宮仕えしようとするのは、人間たる者の義務を行おうとするのである。ただその理想が実現できないものであることぐらいは、万々承知の上だ。 八.「微子第十八、第八章」 逸民、伯夷・叔斉・虞仲・夷逸・朱張・柳下恵・少連。子曰、不降其志、不辱其身、伯夷・叔斉与。謂柳下恵・少連。降志辱身矣。言中倫、行中慮。其斯而已矣。謂虞仲・夷逸。隠居放言。身中清、廃中権。我則異於是。不可無不可。 逸民(いつみん)は伯夷・叔斉・虞仲(ぐちゅう)・夷逸(いいつ)・朱張(しゅちょう)・柳下恵(りゅうかけい)・少連(しょうれん)。子曰く、「其の志を降(くだ)さず、其の身を辱しめざるは伯夷・叔斉か」。柳下恵・少連を謂う。「志を降し身を辱しむ。言倫(げんりん)に中(あた)り、行い慮(りょ)に中る。其れ斯れのみ」。虞仲・夷逸を謂う。「隠居放言す。身清(みせい)に中り、廃権(はいけん)に中る」。我は則ち是に異なり。可もなく不可もなし。
世捨て人(志高くして位なく、世を逃れ隠れている賢人として名高い人)に、伯夷・叔斉・虞仲・夷逸・朱張・柳下恵・少連がいる。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 伯夷・叔斉、虞仲、夷逸・朱張・少連、柳下恵
伯夷・叔斉:殷末の賢者兄弟。周の武王が殷を滅ぼしたとき、これをやめるように諫めて聞き入れられず、首陽山にのがれて、わらびを食べて生きていたが、ついに餓死した。(公冶長篇第二十三章・述而篇第十四章・季氏篇第十二章参照) この章の解説: 宮崎市定著「現代語訳 論語」には、「この章は意味の上で372(憲問第十四、四十章、引用者注)と接続するものの如くである。孔子の一つの談話を、弟子二人が記憶し別々に筆記したのが二箇所に収められたものと思われる」と書いてあります。 また、貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 ここにあげた逸民七名という数は、第十一章の周の八士などの例からすると、八名がもとの数であったろう。虞仲の前に泰伯があったのが、泰伯は呉国の開祖であるため抜いたのであろう。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。
「逸民」とは、古注に「節行の超逸なる者」、つまり常識を超越した生活者。新注では「位無きの称」、つまり出仕しないもの。普通には、両者の条件を兼ねて解する。 五十嵐晃著「論語の訳注と考究」では、この章を次のように訳しています。 世捨て人としては、伯夷・叔斉・虞仲・夷逸・朱張・柳下恵・少連とがいる(と伝えられている)。子曰く、志を高く持ちつづけて、わが身を汚さなかったのは伯夷・叔斉だな。(世間では)柳下恵・少連を「志を(高く持ちつづけられないで)低くしてしまい身を汚したが、言う事は道理にかなり、行動は思慮分別にかなっている」と批評しているが、そのとおりだ。虞仲・夷逸のことを(世間では)批評してこう言っている。「隠れ住んで言いたいほうだいを言っているが、身の持ち方は清潔で、世を捨てたのも臨機の措置だ」と。だが私はそうは思わない。可もなく不可もないといったところだ。 これに対して、宮崎市定著「現代語訳 論語」には、「この章の本文、子曰、以下は凡て孔子の言葉である。しかるに従来の解釈では、謂柳下恵少連、謂虞仲夷逸の二句を取り出して、これを地の文と読むために意味が疎通しない。実はこの二句も孔子の言葉の内に含めて解すべきである」と書いてあります。 五十嵐先生も、宮崎先生も、最後の「我は則ち是に異なり。可もなく不可もなし」という言葉を、孔子の虞仲・夷逸に対する批評と解釈しておられますが、わたしは、孔子が最後に、これら逸民の価値観に対する自分自身の価値観を表明したものと解しました。 九.「微子第十八、第九章」 大師摯適斉。亜飯干適楚。三飯繚適蔡。四飯缺適秦。鼓方叔入於河。播鼗武入於漢。少師陽、撃磬襄入於海。 大師摯(たいしし)は斉に適(ゆ)く。亜飯干(あはんかん)は楚に適く。三飯繚(さんぱんりょう)は蔡に適く。四飯缺(しはんけつ)は秦に適く。鼓方叔(こほうしゅく)は河(か)に入(い)る。播鼗武(はんとうぶ)は漢に入る。少師陽(しょうしよう)、撃磬襄(げきけいじょう)は海に入る。 大師(たいし:魯国の音楽長官)の摯(し)は斉の国に行き、亜飯(あはん:第二の助演者)の干(かん)は楚の国に行き、三飯(さんぱん:第三の助演者)の繚(りょう)は蔡の国に行き、四飯(しはん:第四の助演者)の缺(けつ)は秦の国に行った。鼓(つつみ)打ちの方叔(ほうしゅく)は黄河の畔(ほとり)に入り、播鼗(はんとう:でんでん太鼓)の武は漢水の畔(ほとり)に入り、少師(しょうし:第一の助演者)の陽(よう)と撃磬(げきけい:石の楽器の奏手)の襄(じょう)は海の畔(ほとり)に入った。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 大師摯、亜飯干、三飯繚、鼓方叔、播鼗武、撃磬襄
大師摯:大師は楽師長、摯はその名。 この章の解説: 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 古注では魯の哀公のとき、魯国の国勢は衰え、礼楽が崩壊し、楽人が四散したときの記事だとする。…殷末に殷王朝を見捨てた楽師たちにあてている。その考証は的確ではないが、周の楽はがんらい殷王朝から受け継いだものであるから、周王朝の世襲の楽師たちはその先祖についてこんな伝説を語りついできたのであろう。 五十嵐晃著「論語の訳注と考究」では、次のように訳しています。 楽師長の摯(し)は斉の国に去り、亜飯(あはん:二度めの食をすすめる時の奏楽者)の干(かん)は楚へ去り、三飯(さんぱん:三度めの食をすすめる時の奏楽者)の繚(りょう)は蔡へ去り、四飯(しはんの缺(けつ)は秦へ去り、鼓手の方叔(ほうしゅく)は黄河流域に入り、でんでん太鼓を揺らす武は漢水流域に入り、楽師長補佐の陽(よう)と磬(けい)をうつ襄(じょう)は渤海(ぼっかい)沿岸に入った。 諸橋轍次「論語の講義」には、次のように書いてあります。 この章は、魯国の衰乱と共に、雅楽を職とした多くの音楽家達が、魯を去り世を遠ざかって行ったことを述べたものである。 一方、宮崎市定著「現代語訳 論語」には、次のように書いてあります。
(殷が滅びる時)指揮官の大師摯(たいしし)は斉の国に逃げ、第二奏者の亜飯干(あはんかん)は楚の国に逃げ、第三奏者の三飯繚(さんぱんりょう)は蔡の国に逃げ、第四奏者の四飯缺(しはんけつ)は秦の国へ逃げ、太鼓手の鼓方叔(こほうしゅく)は黄河を渡り、鼓手(つつみうち)の播鼗武(はんとうぶ)は漢水を渡り、副指揮者の少師陽(しょうしよう)、拍子係の撃磬襄(げきけいじょう)は海に乗り出して島にかくれた。 十.「微子第十八、第十章」 周公謂魯公曰、君子不施其親。不使大臣怨乎不以。故旧無大故、則不棄也。無求備於一人。 周公魯公に謂いて曰く、君子は其の親(しん)を施(す)てず。大臣をして以(もち)いられざるを怨みしめず。故旧(こきゅう)大故(たいこ)なければ則ち棄てず。備(そな)わらんことを一人(いちにん)に求むることなし。
周公が魯公(周公の子伯禽)が魯に赴任する前に訓戒した。 この章の解説: 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 周公は周初の名相周公旦。魯公はその子で、この国に封じられた伯禽にあたる。魯国に伝承される周公の遺訓から出たものであろう。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。
周公はすなわち周公旦。文王の子、武王の弟として、周王朝創業の聖人の一人であるとともに、諸侯としては、魯のくにの最初の君主である。魯公とは、その子伯禽であって、父の周公は中央の政務にいそがしかったため、魯に国入りせず、子が魯公として国入りしたが、父は子の国入りに際し、君主たる者のいましめとして、重要なことがらのいくつかを告げたとするのが、新注の見方であり、それがよかろう。(中略) 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」には、次のように書いてあります。
わが魯国の始祖である周公様は、ご子息に次のように教訓されていらっしゃる。 十一.「微子第十八、第十一章」 周有八士、伯達・伯适・仲突・仲忽・叔夜・叔夏・季随・季騧。 周に八士(はちし)あり、伯達(はくたつ)・伯适(はくかつ)・仲突(ちゅうとつ)・仲忽(ちゅうこつ)・叔夜(しゅくや)・叔夏(しゅくか)・季随(きずい)・季騧(きか)。 周に八人の賢人がいた。 その名は、伯達(はくたつ)・伯适(はくかつ)・仲突(ちゅうとつ)・仲忽(ちゅうこつ)・叔夜(しゅくや)・叔夏(しゅくか)・季随(きずい)・季騧(きか)である。 この章の解説: 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 八人の事績はよくわからない。たぶん伯・仲・叔・季すなわち長男・次男・三男・四男の二組の四人兄弟の賢士がいて、周の勃興期を象徴する存在であったという伝説があったのだろう。 五十嵐晃著「論語の訳注と考究」には、次のように書いてあります。
周に八人の人物がいた。伯達(はくたつ)に伯适(はくかつ)、仲突(ちゅうとつ)と仲忽(ちゅうこつ)、叔夜(しゅくや)に叔夏(しゅくか)、それに季随(きずい)と季騧(きか)である。 伊與田覺著「現代訳 仮名論語」には、次のように書いてあります。 実はこれらの人に就いては時代も事蹟も分からない。只一人の母から生まれた四組の双生児が揃って賢人であったのは、当時として珍しいことであったので、ここに挿入されたのではなかろうか。 陽貨篇第十七 貝塚茂樹著「論語」には、この篇について、次のように書いてあります。 「陽貨、孔子を見んと欲す」ではじまる第一章の最初の二字をとって名としたこの篇の特色をなすのは、第一章と、公山不擾が孔子を召した第五章、仏肸(ひつきつ)が孔子を召した第七章などである。陽貨は才知・武勇にすぐれ、季氏の執事、魯国の陪臣として、季氏をはじめ三桓氏を圧して数年間にわたって国政をほしいままにし、ついに国外に追われた専制者である。公山不擾は季氏の本城である費の城主で、陽貨の一味となって独立を企てた、魯国の反逆者である。仏肸は晋の豪族范(はん)氏の私城である中牟(ちゅうぼう)の城主であったが、范氏が晋国の指導権をもつ趙(ちょう)氏の攻撃を受けると、中牟に拠り、衛国にたよって独立した。孔子は、これらの魯・晋の内乱の謀主から招聘を受けたとき、たとえ結局は実現しなかったにしても、一応その招聘に応じようとした。これは大義名分を尊んだ孔子にふさわしい行動とは考えられない。経学者や史学者のなかには、これらの孔子の聖賢をそこなうような『論語』の記事を歴史的事実でないとして、孔子の節操を弁護しようとするものもあるくらいであった。魯国に任用される以前から、魯国を亡命して各国を渡り歩いていた中年期の孔子は、豪族の専制を打倒し、魯国の君主権を回復し、さらに内乱に悩む中国の統一を再興しようという理想のもとに、自己の政策を採用するものを求めていた。魯国に限らず、豪族の伝統的権力の強い各国では、とてもこの新政策を受け入れるものがない。孔子はその国の反逆者であっても、豪族を打倒し新政策を採用するものと協力しようとしたのであった。この行動は、既存の政治秩序を支持する保守主義的な儒教の大義名分論からみると、背徳の所業ととられるかもしれない。しかし、孔子が、ある場合には大理想の実現のためには、手段を選ばぬ気持ちになったこともありえない話ではない。 一.「陽貨第十七、第一章」 陽貨欲見孔子。孔子不見。帰孔子豚。孔子時其亡也、而往拝之。遇諸塗。謂孔子曰、来、予与爾言。曰、懐其宝而迷其邦、可謂仁乎。曰、不可。好従事而亟失時。可謂知乎。曰。不可。日月逝矣、歳不我与。孔子曰、諾、吾将仕矣。 陽貨、孔子を見んと欲す。孔子見(まみ)えず。孔子に豚を帰(おく)れり。孔子其の亡きを時として、往(ゆ)いて之を拝す。諸(これ)に塗(みち)に遇(あ)えり。孔子に謂いて曰く、「来(きた)れ予爾と言わん」。曰く、「其の宝を懐(いだ)いて其の邦を迷わす、仁と謂うべきか」。曰く、「不可なり」。「事に従うを好んで亟(しばしば)時を失う。知と謂うべきか」。曰く。「不可なり」。「日月(じつげつ)逝(ゆ)く、歳(とし)我と与(とも)ならず」。孔子曰く、「諾、吾将に仕えんとす」。
(魯の大夫で実力者の)陽貨が孔子に会いたがっていたが、孔子は面会を断っていた。(当時の習慣として、大夫が下級者に贈り物をした時、下級者が家にいなかった場合は、改めて大夫の家に赴いて挨拶することを礼とした。そこで)陽貨は(孔子の不在を見計らって)孔子に豚を贈った。孔子は(当然、陽貨の邸に挨拶に行かねばならぬのであるが、陽貨の術中に陥ることを避けようとして)陽貨の留守中を見計らって挨拶に行った。(ところが運悪く)その途中で陽貨に出会ってしまった。陽貨は孔子に向かって「来られよ。わたしはあなたに話したいことがある」と言って、次の問答を取り交わした。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 陽貨、孔子に豚を帰る、来たれ予爾と言らん 陽貨:陽貨は『左伝』に出てくる陽虎のことだとされる。陽虎は魯国の季孫氏の家令として、主人をしのぐ実力者となり、前五〇五年ついに季桓子をとらえて魯国の独裁者となったが、前五〇二年、孟孫・叔孫・季孫三氏の反撃によって国外に逃亡せざるをえなくなった。 孔子に豚を帰る:大夫から士に進物を贈ると、士はその家に出向いて答礼せねばならない。面会を拒否した孔子に、むりに会おうとして陽貨はこの計を立てたのである。 来たれ予爾と言らん:郷党の塾で若者は立って、老人にせがんで昔話をしてもらう。そのとき老人は「来たれ、予爾と言らん」とか「座せよ、吾爾に語らん」とか前置きして昔話をはじめる。孔子の学園は郷党の塾を典型にしていたので、やはりこの習慣を取り入れていた。先生つまり子が、弟子つまり小子に物語りするときは、やはりこの形式をもって語るのが例であった。陽貨は勇士であるとともにたいへんな才物であったので、おどけてこの孔子の一門の礼式をもじって話しかけたのである。 この章の解説: 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 陽貨が季氏の家令として三桓氏に並ぶ実力者となったのは、おそくとも前五一五年ごろからで、この実力を背景として前五〇五年の陽貨のクーデターは成功し、その政権は前五〇二年ごろまでつづく。斉国にのがれていた孔子は、前五一〇年ごろ魯国に帰っている。孔子と陽貨との出会いは、前五一〇年以後ならいつでも成立する可能性はある。しかし、陽貨が魯の全権をにぎった前五〇五年、政権の安定をはかるため、四十八歳に達し、しだいに名声の上がってきていた学者の孔子を任用して、看板にしようとしたと見るのが妥当である。この物語によると孔子は心ならずも反逆者陽貨に屈して、任官を承諾せざるをえなかった。もしこれが事実とすれば、偉大なる道徳かである孔子の純潔さを傷つけることになる。実証主義的な古代史家崔述は、陽貨・陽虎別人説を提出して、孔子の名誉を擁護しようとしたが、その説得性を欠いている。学会は陽貨・陽虎同人説が有力で、私もこの立場をとるものである。陽貨すなわち陽虎は孔子を迎えようとしたが、孔子はこの臨時政権に協力するのをためらい、その面会の申し込みを拒否した。実力者陽貨はこんなことでは思いとどまらない。彼一流の悪智恵を働かせ、孔子の留守に進物を届けた。礼を重んずる孔子に、どうしても答礼に来させるように仕向けたのである。みすみすこの策謀にのるのがしゃくにさわった孔子はまた相手の計略を逆用し、陽貨の留守を見すまして、答礼に出かけようとして、途中で運悪く陽貨に出会ってしまったのである。『論語』にはそう書いてあるが、陰謀家の陽貨のことであるから、孔子の策略はとうに計算ずみで、留守の噂を流して孔子をおびき寄せたのかもしれない。そして孔子はうまうまとこの陽動作戦にひっかかったのではないかと私は想像する。孔子と道路で出会うと、目下の孔子に向かって陽貨のほうから話しかけた。この話しかけに、…孔子一門における師匠が弟子に物語りする形式を使ったのは、さすが一世の政治家陽貨らしい気転のきかせようである。以下の陽貨のことばは、四字句を主体とて荘重な調子をとっている。あっけにとられすっかり圧倒されてしまった孔子は、切り返すどころか、いずれ時を見てといった意味のことをいって時間を少しかせぐだけで、原則的には任官することを承諾してしまったのである。今までの注釈家は、この会話のやりとりで、陽貨が孔門の問答形式を使っていることに気づかなかった。私の新解釈によってはじめてそのおもしろさがあきらかになった。要するに大学者の孔子も実力政治家、しかも勇気と才気にすぐれた陽貨の前には、完全に手玉に取られた形である。陰謀が職業の政治家に弄されたのは、学者としての孔子にとって名誉ではないが、やむをえないところがあって必ずしも不名誉ではない。 呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。
孔子が陽貨を拒んだのは、その有能辣腕ぶりに比してあまりにも理想が乏しかったからである。そして、理想を持たない分、陽貨は激しい野心を持っていた。孔子はそこを嫌ったのである。小説風に心理描写をすれば、孔子は陽貨に自分の陰画(ネガ)を見ていたのかもしれない。容貌、体格、教養、手腕、あらゆるものが孔子と陽貨は酷似していたといわれる。ちがっていたのは、理想に生きるか野望に生きるかだけであった。皮肉なことに陽貨は野望が潰(つい)えて国外に亡命し、孔子は理想が破れて国外に亡命している。野望も理想も、人を安穏な生涯にとどめておかないのである。 二.「陽貨第十七、第二章」
子曰、性相近也、習相遠也。 先生がおっしゃった。「人間というものは、生まれつき持っている性質は同じようなものじゃが、その後の躾や習慣によって、大きな差が開くものなのじゃよ」。 この章の解説: 伊與田覺著「『人に長たる者』の人間学」には、次のように書いてあります。
先師がいわれた。「人の生まれつきは大体同じものであるが、躾によって大きく隔たるものだ」。 三.「陽貨第十七、第三章」 子曰、唯上知与下愚不移。 子曰く、唯(ただ)上知(じょうち)と下愚(かぐ)とは移らず。 先生がおっしゃった。「(ほとんどの場合は、生まれつきの性質は同じようなものじゃが、ごくまれに、)生まれつきの大天才と、生まれつきの大馬鹿者がおってのぉ、そういう場合は躾や習慣によっても変わらないこともあるのじゃよ…(。しかし、ほとんどの場合は躾や習慣によって変わるのじゃ)」。 この章の解説: 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 先生がいわれた。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。
前章と連関した言葉であって、前章では、人間は習慣によって、いかようにも変化するというのに対し、例外として、変化しない人間があることを、この章はいうように見える。 諸橋轍次「論語の講義」には、次のように書いてあります。 これも前章同様、一般の人は習慣或いは修養によっていかようにも変化するという意を述べたものである。上知とは、生まれながらにして知る、聖人の如き人物を指したのであろうし、下愚は、人間の中で最も下等の人、いわゆる自暴自棄の者を指したのであろう。自分から正しい道を信じようとしない者が自暴であり、自分は正しい道に進むことが出来ないと、みずから我を棄てる者が自棄であり、この二者は、共に愚かであって、移り得ない者である。季氏篇、九に、人を四種類に分けて、生まれながらにして知る者、学びて知る者、困しみて学ぶ者、困しみて学ばざる者の四つを挙げているが、この章の上知は彼の生知の人であり、下愚は彼の困しみて学ばざる者である。而して普通人は、学知・困知であって、共に本人の心掛け次第によって移り得る者である。 宇野哲人著「論語新釈」には、次のように書いてあります。
常人は習う所によって善にも悪にも移るけれども、ただ上知の者と下愚の者とは善悪が一定していて習う所によって善にも悪にも移らないのである。 以上の説と、中庸の言葉を結びつけて考えてみます。 中庸には次のような言葉があります。(以下、安岡正篤著「友経 内篇」から抜粋)
知仁勇の三者は天下の達徳なり。之を行う所以の者は一なり。或いは生にして之を知り、或いは學んで之を知り、或いは困(くるし)んで之を知る。其の成功に及んでは一なり。
以上の中庸の言葉と論語のこの章の言葉とを、結びつけて考えますと、論語でいう「上知」とは、中庸でいう「生知」と同じであり、論語でいう「下愚」は、中庸にそれを指す言葉はありませんが、いわば「困知」に劣る者、すなわち困しんでも学ばない者を指すと思われます。 以上、わたしの解釈でした。 金谷治著「論語」では、次のように訳しています。 先生がいわれた、「〔だれでも習いによって善くも悪くもなるものだが、〕ただとびきりの賢い者とどん尻の愚か者とは変わらない」。 宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。 子曰く、天才はどんな壁をも突き破ってその天才を発揮し、馬鹿にはつける薬がない。 これは、ちょっと…。 加地伸行著「論語」では、前章と合わせて、次のように訳しています。 老先生の教え。〔人間は〕先天的には差はない。後天的に差が生まれてくるのだ。老先生の教え。〔しかし、例外がある。〕天才と凡人とは、どのようにしてもその差は埋められない。 以上、いろいろな先生方の解釈を取り上げて参りましたが、わたしの解釈がいちばんしっくりくると自画自賛して、この章の解説を終えたいと思います。 四.「陽貨第十七、第四章」 子之武城、聞絃歌之声、夫子莞爾而笑曰、割鶏焉用牛刀。子游対曰、昔者偃也聞諸夫子。曰、君子学道則愛人、小人学道則易使也。子曰、二三子、偃之言是也。前言戯之耳。 子、武城に之(ゆ)き、絃歌(げんか)の声を聞く、夫子莞爾(かんじ)として笑うて曰く、「鶏を割(さ)くに焉(な)んぞ牛刀を用いん」。子游対えて曰く、「昔者(むかし)偃(えん)や諸(これ)を夫子に聞けり。曰く、『君子道を学べば則ち人を愛し、小人道を学べば則ち使い易し』と」。子曰く、「二三子、偃(えん)の言(げん)是(ぜ)なり。前言は之に戯るるのみ」。
先生は(弟子の子游が長官を務める)武城(ぶじょう)に行かれた。 この章に出てくる重要な言葉(概念):
武城、絃歌、鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いん この章の解説: 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 孔子は子游の居城にきて絃歌の声を耳にし、諺を引いて子游をからかって、まじめに反論され、前言を取り消さねばならぬことになった。孔子のこんな失敗談を平気でのせているところが、『論語』である。孔子はけっして過失のない神のような存在でなく、過ちも行いかねない人間として書かれているのは、聖書のキリストの取り扱い方などとちがっている。孔子は「過てば則ち改むるに憚ること勿かれ」(学而篇第八章)という自分のモットーを忠実に実行し、さっそく自分の非を認め、かえって聖人の聖人たるところを発揮しているともいえるだろう。 呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。
孔子は弟子たちを伴って魯国内の小さな町武城に赴いた。武城では子游が「宰」(取締り)となっていた。あるいは、弟子の仕事ぶりを見るためであったのかもしれない。 諸橋轍次「論語の講義」では、次のように訳しています。 孔子は嘗て武城に行った。当時、門人の子游が宰(代官)としてこの武城を治めていたが、子游は礼楽による教化に努力したため、この村の至る所に琴を弾き歌を歌う声が聞かれた。この音声を聞いて子游の態度を打ち喜んだ孔子は、にっこり微笑を浮かべて、これは少し勿体なさすぎるようだ。小さな鶏の肉を切りさくには、牛をさく大きな刀を用いる必要はなさそうだが、と言った。(この言葉はもちろん、小村を治めるには子游では勿体ないと、子游を称賛した言葉であったが、子游はそれを文字通り、小村を治めるに礼楽の大道を用いる必要はない、という意味に解釈したらしい。そこで孔子に向かって、)むかし私(偃は子游の字)は、先生からこういうお話を伺ったことがあります。それは、上に立つ者(君子)が道を学べば、自然人民を愛するようになり、下にいて治められる者(小人)が道を学べば、自然使いやすい従順な人柄となる。要するに、治める者も治められる者も道を学ぶことが大切である、という教えでありました。それで私も武城において礼楽の道を以て教えているのであります、と答えた。これを聞いて孔子は供に従った門人達を顧み、なんじらよ、只今、偃が言った言葉が本当である。先ほど私が、鶏を割くに牛刀を用いる必要はないと言ったのは、偃に冗談を申したに過ぎない、と釈明した。 なるほど、学者の先生らしい正当派な解釈です。 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。 弟子の子游が武城の町の代官だった時に遊びに行ったら、音楽会で歓迎してくれたんだがね、曲が高尚なクラシックばかりだったんだよ。そこで、「町民にこんな高尚なものばかり聞かせているのかい。まるで、鶏を料理するのに牛を料理する大包丁を振りかざしているようだな」とからかったら、子游のやつがムキんなって、「わたしは、かつて先生から『政治家が文化を学べば人民を愛するようになり、庶民が文化を学べば使いやすくなる』とお聞きしました」と反論したんだ。部下たちの前で彼の顔をつぶすわけにもいかんから、「諸君、彼の言う通りだ。先ほどのは冗談だよ」と頭を下げたが、理論と実践のサジ加減を教えるのは難しいものだなァと、改めて思い知った次第だよ。 これは、思い切った解釈です。さすが、慶應義塾高校で生徒に最も人気のある授業をされた先生ですねぇ。実際は、こういうことだったのかもしれません。 五.「陽貨第十七、第五章」 公山弗擾以費畔。召。子欲往。子路不説曰、末之他已。何必公山氏之之也。子曰、夫召我者豈徒哉。如有用我者、吾其為東周乎。 公山弗擾(こうざんふつじょう)、費を以て畔(そむ)く。召(よ)ぶ。子往(ゆ)かんと欲す。子路説(よろこ)ばずして曰く、「之(ゆ)くこと末(な)からん。何ぞ必ずしも公山氏に之れ之(ゆ)かんや」。子曰く、「夫(そ)れ我を召(よ)ぶ者にして豈(あに)徒(と)ならんや。如(も)し我を用うる者有らば、吾は其れ東周を為さんか」。 呉智英著「現代人の論語」と諸橋轍次著「論語の講義」を参考にして現代訳します。
(孔子が数え年五十一歳の時のことという。孔子の生まれた魯の国では、野心家たちが国政を蹂躙していた。孔子は正しい政治のあり方を説いていたが、その言葉に耳を貸そうとする為政者はいなかった。) この章に出てくる重要な言葉(概念): 公山弗擾、東周
公山弗擾:姓や公山。『左伝』では不狃(ふじゅう)と書かれる。擾と狃とは音が通じるからである。字は子洩(しえい)という。 この章の解説: 現代語訳にあたり参考にした、呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。
…実は論語は読まれていない。読まれないまま、論語は、目上の者に随順たれと説いた書物だと思われている。そう思う人の論語評価は二つに分かれ、一派は、だから古くさい抑圧的な道徳の書だと批判し、反対の一派は、古くさく見えるけれどこれこそが真実の道徳だと擁護する。しかし、そもそも、論語は、目上の者に随順たれと説いているのだろうか。確かに、そのように説いた省もある。それとは全く反対のことを説いた章もある。本章のように、叛乱軍への参加を表明した章さえある。 同じく、現代語訳の参考にした諸橋轍次著「論語の講義」には、次のように書いてあります。 君に弓引く謀叛人のもとに出掛けることは、もちろん名分上の一つの問題ではある。しかしそれにもまして孔子は、我が道を実現して、ともかくもこの乱世を平治することが自分に与えられた至上の命令と感じ、そのためには用いる人の如何は、必ずしもこれを問おうとしなかったのである。
この章から見えてくるのは、孔子の乱世を平治しようとする強い意欲と、普段説いている「正しい政治のあり方」との溝の深さに苦しんでいる俗人的な姿です。これが聖人の前に一人の人間である孔子像として、多くの人に共感されるのではないでしょうか。また、孔子に最も近い弟子である子路の、善く言えば信念を貫く、悪く言えば融通が利かない、その一本気な性格も浮き彫りになっています。他の弟子の誰よりも孔子を敬愛する子路が師を諫めている姿にも、多くの人が共感するのではないでしょうか。 そして、貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 公山不擾が孔子を召し出し、孔子がこれに応じようとした出来事をいつのこととするか、多くの異説がある。またこれを歴史的事実でないとして、この章全体を抹殺しようとする論者もある。異説を詳細に検討した結果、私はこれを歴史的事実と認め、…魯の定公八、九年つまり前五〇二年から五〇一年の間の出来事と定めた。定公八年、かねがね不遇であった季氏の一族と費宰の公山弗擾とが陽貨に保護を求めていた。陽貨は孟・叔・季三族を除く計画で、まず季桓子を殺して保護していた季寤(きご)を後継ぎとし、叔氏は好意をもつ叔孫輒(しゅくそんちょう)を後継ぎに立て、自分は孟懿子に代わって孟孫子の後となろうとした。兵を都内であげたが、失敗して国外に逃亡した。『左伝』によると、季氏の費城の城主であった公山不擾は、遠隔の地にあったため曲阜都内の戦闘には出兵が間に合わなかったが、おそらくこのとき季氏に反旗をひるがえしたと想像される。『左伝』には定公十二年、孔子が季氏の宰となった子路をして費城の城壁を破壊させようとしたとき、公山弗擾が費の兵を率いて曲阜都内に攻め込んだ事件がある。注釈家は公山不擾が費によって反乱したという『論語』の記述を、この『左伝』の十二年に結びつけるものがある。公山不擾が費城によって独立したのはこの年にはじまるのではなく、定公八年の陽貨のクーデターの後にはじまると解釈し、『論語』の話はこのときの反乱をさすとする…説である。私はこれをとったのである。公山不擾の加わった陽貨の挙兵の理由は、さきに述べたように季氏らの三氏を除くことにあった。三氏の専制に反感をいだき、この専制を打破することをはかっていた孔子は、これにかなり心を引かれたにちがいない。陽貨は晋国に亡命して…軍士として大功をたてているから、勇士としては抜群であった。第一章にあるとおり人を人とも思わぬ強引さは、孔子をして反発を感じさせ、三氏排撃の目的には共鳴しながら、そのもとに仕官することをためらわせた。…『左伝』によると(公山不擾は、引用者注)定公十二年の乱に敗れ、叔孫輒とともに斉国に逃亡している。哀公八年、呉国が魯国を北伐しようとしたとき、叔孫輒は魯国内の事情を述べて大いにこれを勧めた。公山不擾は「君子は亡命しても祖国の内情を敵国にもらすのは礼にそむく」として、叔孫輒を非難した。これによると、公山不擾は陽貨に比較すれば、礼を解する君子らしい面をもっていたのである。陽貨に反発した孔子が、公山不擾のもとにおもむこうとしたのはけっしてありえないことではないのである。 六.「陽貨第十七、第六章」 子張問仁於孔子。孔子曰、能行五者於天下、為仁矣。請問之。曰、恭・寛・信・敏・恵。恭則不侮。寛則得衆。信則人任焉。敏則有功。恵則足以使人。 子張 、仁を孔子に問う。孔子曰く、「能(よ)く五者を天下に行うを仁と為す」。之を請い問う。曰く、「恭・寛・信・敏・恵。恭なれば則ち侮らず。寛なれば則ち衆を得。信なれば則ち人任(にん)ず。敏なれば則ち功あり。恵なれば則ち以て人を使うに足る」。
子張が「仁(の人)とは、どのようなこと(人)でしょうか」と孔先生にたずねた。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 侮らず、人任ず
侮らず:人から侮られないこと この章の解説: 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」には、次のように書いてあります。
弟子の子張が「仁とはどういうことですか」と訊くので、「まあ、いかなる環境でも五つのことを行えたら仁と言えるだろう」と答えたんだ。すると、「その五つをお教え下さい」と言うから、「恭・寛・信・敏・恵の五つさ。恭しければ人から侮られないですむ。寛容ならば人望を得られる。誠実であれば人から信用される。敏活だと仕事をこなせる。恵み深ければ、人も骨身を惜しまず働いてくれるだろう」と説明してやったよ。 七.「陽貨第十七、第七章」 佛肸召。子欲往。子路曰、昔者由也聞諸夫子。曰、親於其身為不善者、君子不入也。佛肸以中牟畔。子之往也、如之何。子曰、然、有是言也。不曰堅乎、磨而不磷。不曰白乎、涅而不緇。吾豈匏瓜也哉。焉能繋而不食。 佛肸(ひつきつ)召(よ)ぶ。子往(ゆ)かんと欲す。子路曰く、「昔者(むかし)、由や諸(これ)を夫子に聞く。曰く、『親(みずか)ら其の身に於いて不善を為す者は、君子は入らず』と。佛肸中牟(ちゅうぼう)を以て畔(そむ)く。子の往くや之を如何」。子曰く、「然り、是(そ)の言あり。堅きを曰わずや、『磨すれども磷(りん)せず』と。白きを曰わずや『涅(でつ)すれども緇(し)せず』と。吾豈(あに)匏瓜(ほうか)ならんや。焉(いずく)んぞ能く繋(かか)りて食(くら)わざらん」。
(晋の大夫の趙〔ちょう〕氏の家来の佛肸〔ひつきつ〕が、自分が宰〔長官〕を務めている中牟〔ちゅうぼう〕という土地を拠点にして謀叛を起こした。) この章に出てくる重要な言葉(概念): 佛肸、中牟
佛肸:晋の范氏の臣で、中牟の邑の宰であった。前四九七年、晋の趙簡子(ちょうかんし)が中牟を横領しようとして范氏、中行(ちゅうこう)氏を攻めたとき、これに抵抗するために衛国に帰属した。 この章の解説: ちょっと強引に訳したところもありますが、こんなところではないでしょうか。 諸橋轍次著「論語の講義」には、雍也第十七篇のこの章(七章)と五章については、叛乱の起こった時期からみて孔子が招請されるはずがなく、論語が編纂される過程で、戦国策士の筆が入ったのでないかという説が紹介されています。孔子を聖人として崇拝する立場からは、謀叛した者に荷担することになりかねない孔子の発言は認めがたいものであると思われます。しかし、その真偽の是非はさておき、わたしとしては、このように迷える「人間孔子」に魅力を感じます。「本当に堅いものは、どんなにそれを磨いても薄くはならない」とか、「本当に白いものは、どんなにそれを染めても黒くはならない」とか屁理屈を言って自分を正当化して、「わしは苦瓜(にがうり)ではないぞ。苦瓜というのはのぉ、ただ木にぶら下がっているだけで、人に食べられることはない。(つまり、役立たずじゃ)」と子路に語りかける孔子に魅力を感じるのです。そして、孔子がそのような本心を言える相手は恐らく子路しかいなかったではないでしょうか。子路はそれほどまで孔子に信頼されていたのです。孔子と子路の師弟関係は、他の弟子のそれとは、比べようがないほど深かったのでしょう。 宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。 仏肸なる者が孔子を招いたので、孔子が往きかかった。子路曰く、以前に私は先生から承りましたが、自分から進んで不善を為す者とは、諸君を決して仲間になるでない、とのことでした。仏肸は中牟の邑に拠って叛乱を起こしている所へ、先生が往かれるとは、どうしたことでしょうか。子曰く、そうだ。確かにそう言った。だが別の考えようもある。堅いことを形容する言葉に、いくら磨いてもすりねらぬ、というのがあり、白いことを形容する言葉に、いくら墨を塗っても黒く染まらぬ、というのがある。その続きに、匏瓜(ひょうたん)のように味のないことを形容して、ぶらりとさがったまま食われない、というのがあるが、君の言うようにすれば、私はまるで匏瓜のような役立たずということかね。 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。
晋国の佛肸がわたしを招いた時に、わたしは招きに応じようとしたんだが、弟子の子路とこんな問答をして、よしたことがあるよ。 八.「陽貨第十七、第八章」 子曰、由、女六言・六蔽聞。対曰、未。居、吾女語。仁好学好、其蔽愚。知好学好、其蔽蕩。信好学好、其蔽賊。直好学好、蔽絞。勇好学好、蔽乱。剛好学好、蔽狂。 子曰く、「由や、女(なんじ)六言(ろくげん)・六蔽(ろくへい)を聞けりや」。対えて曰く、「未だし」。「居(お)れ、吾女に語(つ)げん。仁を好んで学を好まざれば、其の蔽や愚。知を好んで学を好まざれば、其の蔽や蕩(とう)。信を好んで学を好まざれば、其の蔽や賊。直を好んで学を好まざれば、その蔽や絞(こう)。勇を好んで学を好まざれば、その蔽や乱。剛を好んで学を好まざれば、その蔽や狂」。
(ある日、)孔先生が(子路の名を呼んで、次のように)言われた。「由よ、お前は六つの美徳には六つの弊害があることを聞いたことがあるかね」。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 蔽:弊と通じる。さしさわり、つまり弊害。(貝塚茂樹著「論語」から)。 この章の解説: 複数の解説書を参考にしながらも、わたし自身の言葉で、大胆に意訳しました。子路はじっくりと考える前に実践してしまうタイプの人物です。ここで言う学を好むというのは、単に知識を習得するということではなく、習得した知識を実践する(所謂、学んで時に之を習う)ことです。子路は「聞くことありて未だ之を行うこと能(あた)わざれば、惟(ただ)聞くことあるを恐る(聞いたことを実行できないうちは、新たに聞くことをひたすら恐れた)公冶長第五、第十三章」という人物です。インプット知識をひたむきに実践して、自分のものにする(アウトプットする)までは、新しい知識をインプットすることができない性分だったのです。それが場合によっては六つの弊害につながることがないように、孔子は子路に六つの美徳と弊害の関係を諭したのでした。 呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。
…子路は俗物ではない。子路は孔子より若いこと九歳、孔子最初期の弟子である。おそらく孔子が三十歳代の頃に入門したのだろう。当時孔子は無位無官の思想家、いや反社会的な危険分子と思われていた可能性もある。その弟子になろうというのだから、栄達を求める秀才タイプであろうはずがない。書記の弟子として記録に残っている者は少ないが、彼らは概して秀才型ではない。なかでも、子路はとりわけそうである。子路は元遊侠の徒であった。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。
この条も前につづいて子路との問答のかたちをとる。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 この孔子の子路に語ることばは、「居れ、吾女に語らん」と前置きしている。これは、この篇の第一章で述べたように、孔子の学園で師匠が弟子にあらたまって教訓や故事などを語り聞かせるときのいい出しの形式である。弟子は座から立ち上がって先生に教訓をせがむ。先生は弟子をすわらせ、いずまいを正し、あらたまって物語をはじめる。その内容は、この章のように教訓を箇条書きにしたものが多く、暗唱に便利なように句の形が整理され、図式的になっている。 諸橋轍次著「論語の講義」には、次のように書いてあります。 要するに、六者は美徳ではあるが、その美徳を全うするためには、広い見識を立てるための学問が必要であることを教えたものである。 宇野哲人著「論語新釈」には、次のように書いてあります。 この章は子路に学を好んでその徳を為すべきことを告げたのである。信・直・勇・剛はすべて子路の好むところについて言ったのである。仁知は天下の大道(だいどう)の名目を統(す)べて言ったのである。故にこれを先にしたのである。 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。 弟子の子路に「お前は六つの徳に関する六つの弊害ということを聞いたことがあるかい」と訊いたら、「いいえ、聞いておりません」と答えるから、「じゃあ、お坐り、教えてあげよう。慈愛を好んでも、行きすぎれば情に流される。知識を好んでも、それだけではただの物知りで終わってしまう。誠実を好んでも軽信や過信という弊害を生む。正直を好んでも偏屈になってしまうこともある。勇気を好んでも行きすぎればただの乱暴と変わりない。剛毅を好んでもバランスを欠けば激情となる。せっかくの徳が弊害に陥らないようにするにはどうしたらいいか。学問の裏付けが肝心なんだよ。先人の行為や業績をしっかりと学んで独断に陥らないようにすることがね」と話して聞かせたよ。 九.「陽貨第十七、第九章」 子曰、小子何莫学夫詩。詩可以興、可以観、可以郡、可以怨。迩之事父、遠之事君、多識於鳥獣草木之名。 子曰く、小子何ぞ夫(か)の詩を学ぶ莫き。詩は以て興すべく、以て観るべく、以て郡すべく、以て怨むべし。之を迩(ちか)くしては父に事え、之を遠くしては君に事え、多く鳥獣草木の名を識(し)る。
先生がおっしゃった。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 小子:郷党で、老人の師つまり子が、若い衆を少子と呼んだ。孔子の学園では、その形式を取り入れた。子つまり孔子は、弟子を若い衆と呼んだ。(貝塚茂樹著「論語」から) この章の解説: 諸橋轍次著「論語の講義」には、「詩経の詩は、比喩を以て物を諷することが多い。又詩は人情の自然の発露であり、自然に世態人情を観察することができる。また人情に発しているから、大勢の人と共に和らぐことができる。そして怨みを以て怒りに発することがない。さらに詩を学べば家庭・社会・国家における人としての道を知ることができる。さらに詩経の詩は、その中に森羅万象を詠じているから、おのずから博識となる(以上白倉が要約)」とあります。 呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。
論語の中には「詩」という言葉がよく出てくる。これは現代人の思い浮かべる詩とは少しちがう。我々は詩一般を考えがちだが、論語に言う詩とは詩経にある詩、もしくは詩経そのもののことである。詩経に収められた詩は、諸国の民間歌謡(国風)、宮廷詩人の詩歌(雅)、先王たちの事績を称えた詩歌(頌)から成り立っている。日本における万葉集のようなものだと思えば、わりと近いだろう。 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。 わたしは常々こう言っているんだ。「弟子たちよ、もっともっと詩を学ばにゃいかんぞ。詩は心の反応を豊かにし、観察力を増すぞ。詩を通して友人や仲間もつくれるし、政治は批判だってできるじゃないか。家にいては親に仕え、世の中に出ては君主に仕えるのにも役立つんだよ。第一、鳥獣や草木の名前を沢山覚えられるじゃないか」とね。 十.「陽貨第十七、第十章」 子謂伯魚曰、女為周南・召南矣乎。人而不為周南・召南、其猶正牆面而立与。 子、伯魚に謂いて曰く、「女周南(しゅうなん)・召南(しょうなん)を為(まな)びたりや。人にして周南・召南を為ばずんば、其れ猶お正しく牆(かき)に面して立つが如きか」。
先生が息子の伯魚に向かって言われた。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 周南・召南:『詩経』国風の最初の二巻の名。周の名相周公・召公の感化の及んだ地方の国風、国ぶり歌。民謡の形式をとっている。(貝塚茂樹著「論語」から) この章の解説: 宇野哲人「論語新釈」には、「この章は孔子が己の子に詩を学ぶ要処を告げたのである。周南・召南には人情と道理が備わっている。人情と道理の上に通じないところがあれば家庭の間でも多くの障碍(しょうがい)がある」とあります。 伯魚には、孔子の血が受け継がれておらず、その教えを継承することはできませんでした。不肖の息子と言っていいでしょう。しかし、自分の息子ですから可愛かったのだと思います。それは人の親になって初めて分かる気持ちでしょう。伯魚は凡才でしたが、その子、つまり孔子の孫である子思は孔子の血を引き継いでおり、孔子晩年の弟子たちと共に論語の編纂にあたったと言われております。 呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。
周南・召南というのは、詩経国風の初めに出てくる周南地方の歌と召南地方の歌のことである。その最初の「関雎(かんしょ)」は、河の中州に水鳥(雎)が楽しげに鳴き交わし(関はその声)ながら遊ぶ様を歌い、本来は恋歌、結婚歌であったらしい。孔子は、こののびやかな歌を好み、「関雎の終わりは、洋々乎(ようようこ)として耳に盈(み)てるかな」(泰伯篇八の十五)、関雎の歌の終わりのところは、のびのびとしていて耳に満ちあふれるようだね、と絶賛している。 諸橋轍次「論語の講義」には、「この章も前章同様、詩経の大切であることを教えたものである」と書いてあります。 宇野哲人「論語新釈」には、「この章は孔子が己の子に詩を学ぶ要処を告げたのである。周南・召南には人情と道理が備わっている。人情と道理の上に通じないところがあれば家庭の間でも多くの障碍(しょうがい)がある。故に『牆(かき)に面す』と曰ったのである(徐岩泉〔じょがんせん〕による)」と書いてあります。 十一.「陽貨第十七、第十一章」 子曰、礼云礼云。玉帛云乎哉。楽云楽云。鐘鼓云乎哉。 子曰く、礼と云い礼と云う。玉帛(ぎょくはく)を云わんや。楽と云い楽と云う。鐘鼓(しょうこ)を云わんや。
先生がおっしゃった。 この章の解説: 呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。
「先生がおっしゃった。礼だ礼だと言う。それは、儀式に使う玉器(ぎょくき)や絹衣(きぬごろも)のことなのか。楽だ楽だと言う。それは鐘や太鼓のことなのか」。 また、次のようにも書いてあります。
先生がおっしゃる。礼、礼といっても、正装で身につける玉の飾りや絹布のことだろうか。楽、楽といっても、鐘や太鼓のことだろうか。礼も楽も、道具や形式より、その精神が大切なのだ。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 礼では玉帛のような文物制度のきまり、音楽では楽器のことをやかましくいうが、弟子たちとくに子張・子夏・子游などの若い弟子たちは、とかく本質、礼楽の精神を忘れているので、戒めたのであろう。 季氏篇第十六 「季氏篇」について、貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 この篇は、第一章の「季氏、将に顓臾(せんゆ)を伐たんとす」の最初の二字をとって名づけられた。第一章は『論語』の中では長文の章であるにもかかわらず、その歴史的現実性はかなり問題とされている。この篇を特徴づけるのは、むしろ第二章・第三章の、春秋時代の下剋上の政治社会の不安定性を指摘し、来たるべき社会の姿を暗示した孔子の予言的発想にある。それにつづいて、第四章・第五章・第六章・第七章・第十章などは、益者三友・損者三友・益者三楽・損者三楽・三愆(けん)・三戒・三畏・九思など、箇条書きにした徳目の叙述がある。孔子が世を去り、すでに孔子をまのあたりに見ることができなくなった孫弟子以下の時代になると、孔子に人格的に接触し、会話を通して教育を受ける道は閉ざされてしまった。孔子のことばをまとめ、教義として固定し、徳目を箇条書きにして暗唱して伝える傾向が出てきた。この篇の大部分は、こういう時代の孔子学園の中で編纂された、後期の『論語』諸篇のもつ一つの性格を典型的に示しているといえよう。 また、吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。 朱子の集注に、「洪氏曰わく、此の篇を、或るひとは以て斉論なりと為す」というのを引用する。洪氏とは南宋初年の文献学者洪興祖(こうこうそ)であり、「斉論」とは、斉すなわち山東地方の学者の伝えた「論語」のテキストを意味する。漢時代の「論語」のテキストには、古代文字で記した「古論」と、魯の地方の学者の伝えた「魯論」と、斉の地方の学者の伝えた「斉論」と、以上三つの種類があったことが、「漢書芸文志(かんじょげいもんし)」その他に見えるが、この篇は、他の篇との間に、内容の差違が感ぜられるところから、他とは伝承の経過を異にして、「斉論」ではないか、と疑ったのである。…この篇では、孔子の言葉を、つねに「孔子曰わく」としるし、「子曰わく」といわない点、三友、三楽、九思など個条書きが多い点、などから思いついたらしく、はっきりした証拠を、それ以上もつわけではない。しかし卓抜な見解と思うのであって、果たして「斉論」の系統であるかどうかはさておき、内容なり書きぶりが、他の篇と異なることは、たしかである。 一.「季氏第十六、第一章」
季氏将伐顓臾。冉有季路見於孔子曰、季氏将有事於顓臾。孔子曰、求、無及爾是過与。夫顓臾、昔者先王以為東蒙主。且在邦域之中矣。是社稷之臣也。何以伐為。冉有曰、夫子欲之。吾二臣者、皆不欲也。孔子曰、求、周任有言、曰、陳力就列、不能者止。危而不持、顚而不扶、則将焉用彼相矣。且爾言過矣。虎兕出於柙、龜玉毀於櫝中、是誰之過与。冉有曰、今夫顓臾、固而近於費、今不取、後世必為子孫憂。孔子曰、求、君子疾夫舎曰欲之、而必為之辞。丘也聞、有国有家者、不患寡而患不均。不患貧而患不安。蓋均無貧、和無寡、安無傾。夫如是。故遠人不服、即脩文徳以来之。既来之、則安之。今由与求也、相夫子、遠人不服而不能来也。邦分崩離析而不能守也。而謀動干戈於邦内。吾恐季孫之憂不在顓臾、而在簫墻之内也。
(魯の大夫の)季(孫)氏(当主は季康子…きこうし)が、(魯の属国である)顓臾(せんゆ)に侵攻しようとしていた。(季〔孫〕氏の家臣となっていた)冉有(冉求)と季路(子路)の二人が孔先生に面会して、次のように言った。 この章に出てくる重要な言葉(概念):
顓臾(せんゆ)・東蒙(とうもう):周のはじめ魯国が曲阜に建国したとき、この地方の原住民は…魯の属国とされた。顓臾はその一国、東蒙の山神の祭主となったという。その東蒙山すなわち蒙山は魯の東方、山東省蒙陰県の南にあり、季氏の本拠の費城に近い。 この章の解説: この章では子路の影は薄く、冉有が主人公で。冉有の精神的な弱さが見事に描き出されています。最初、冉有は孔子に対して、「冉有と子路が仕えている君が望んでいるのであり、われわれが望んでいるのではない」と言っておきながら、「実は、君が望んでいる通りにやらなければ、国が危ういのです」と本心では自分も望んでいることを漏らします。すかさず、孔子は、「君子は、本音を隠して、あれこれ理屈を言ってはならん」と冉有を諭します。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。
魯国の原住民の属国で、東蒙の山神の祭祀を受け持っていた顓臾を、季氏が征伐しようと企図しているのを、季氏の臣となっていた冉有・子路が報告にきて、孔子から激しくしかられた。この出来事はいつのことであるかは問題である。…この章で述べられているように両者が季氏の朝に並び立ったことはありえないという。…ここでは冉有が主役で、子路はまったくあってもなくてもよい端役でしかない。子路を冉有の同役とした点は、この章の筆者の誤りかもしれない。子路を除き、冉有だけの問題とすると、それは歴史的事実であるかもしれない。顓臾を征伐する計画はあったが、孔子から元気づけられた冉有が、いさめて季氏に思いとどまらせたので、歴史の表面に出ていないのだとすれば説明がつくからである。 二.「季氏第十六、第二章」 孔子曰、天下有道、則礼楽征伐自天子出。天下無道、則礼楽征伐自諸侯出。自諸侯出、蓋十世希不失矣。自大夫出、五世希不失矣。陪臣執国命、三世希不失矣。天下有道、則政不在大夫。天下有道、則庶人不議。 孔子曰く、天下道あれば則ち礼楽征伐天子より出づ。天下道なければ則ち礼楽征伐諸侯より出づ。諸侯より出づれば、蓋(けだ)し十世失わざること希(まれ)なり。大夫より出づれば五世失わざること希なり。陪臣国命を執れば、三世失わざること希なり。天下道あれば則ち政大夫に在らず。天下道あれば則ち庶人(しょじん)議せず。
孔先生がおっしゃった。 この章に出てくる重要な言葉(概念):
大夫、陪臣 この章の解説: 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 春秋時代は下剋上の世界であった。周王朝の天子の全国を支配する権利は、諸侯とくにその中の覇者の手に移っていた。諸侯の国家を支配する権利は、その大夫つまり豪族の重臣の手に帰し、さらに豪族の家令つまり陪臣の手に移った。しかし、下剋上の運動は加速度をもって進行するので、その政権の安定する期間は十代から五代、三代と縮まってきた。こういう下剋上の政権の転移のありさまを図式によって示すとともに、この無秩序の状態はいつかは極限に達し、天下に新しい秩序が回復される事態が再び出現することを予見し、また待望しているのが、この孔子のことばである。こういう未来への予見と待望は、晩年の孔子の心の中にしだいに起こって来つつあった。しかし、孔子の頭脳の中で、ここに述べられたような図式が、はっきりと形成されたわけではない。孔子の学説が弟子・孫弟子、さらにその弟子に伝わってゆく間に、しだいに体系化され、図式が明瞭になっていったのである。現在、儒教学説史の研究家、たとえば武内義雄博士は、魯から斉に移った孫弟子以後の時代に、この図式は成され、孔子が『春秋』を制作することにより、この図式を暗示し、未来にたいして到来する社会を予言し暗示したという説を生んだのだとされる。ここに引かれた孔子のことばも、この斉学派の解釈によって書かれているので、孔子のもとのことばではないとされている。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。
この条を理解するためには、儒家が理想とした社会体制、それをまずいっておくのが便利であろう。すなわち世界は次の五つの身分による秩序から、成り立つべしとするのである。 呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。
本講で紹介する章は、さほど面白い章ではない。しかし、論語への誤解を解く意味において注目すべき一章である。 三.「季氏第十六、第三章」 孔子曰、禄之去公室、五世矣、政逮於大夫、四世矣。故夫三桓之子孫、微矣。 孔子曰く、禄の公室を去ること五世、政大夫に逮(およ)ぶこと四世。故に夫(か)の三桓の子孫微(び)なり。
孔先生が(しみじみと)おっしゃった。 この章の解説: 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 孔先生がいわれた。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。
まえの条に関連した言葉であるにはちがいない。しかし前の条のように、ぎくしゃくしていない。あるいは、まずこの言葉があり、それを演繹した図式として、前の条が生まれたのかも知れぬ。 四.「季氏第十六、第四章」 孔子曰、益者三友。損者三友。友直、友諒、友多聞、益矣。友便辟、友善柔、友便佞、損矣。 孔子曰く、益者三友(さんゆう)。損者三友。直を友とし、諒を友とし、多聞(たぶん)を友とするは、益なり。便辟(べんぺき)を友とし、善柔を友とし、便佞(べんねい)を友とするは、損なり。
孔先生がおっしゃった。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 諒、便辟(べんへき)、善柔、便佞(べんねい)
諒:誠のあること。誠実なこと。 この章の解説: 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 孔先生がいわれた。 安岡正篤著「人物を創る」には、次のように書いてあります。
《益になる三種類の友達と、徳を損ずる三種類の友達がある。正直な人を友とし、誠のある人を友とし、‥‥諒は諒解の諒で、「うん、もっともだ」とうなずける誠‥‥見聞の広い人を友とする。自分の知らないいろいろの見聞に長じておって、珍しい話をきかせてくれる友達は実に楽しいものであります。これが益者三友。これと反対にいわゆる世慣れた人を友とし‥‥便辟は便利・利益本意、あるいは抵抗のない安直なの意。辟はかたよる、あるいは避に同じで、厄介なことは避けて、相槌をうつ、調子を合わせるの意。気軽に調子を合わせてゆく誠意や実意のないことを便辟という‥‥また善であるけれども、ぐにゃぐにゃして事なかれ主義の人を友とし、調子を合わせて媚びる人を友とする。これは損者三友である》。 加地伸行著「ビギナーズ・クラシックス 論語」には、次のように書いてあります。
人間は生まれますと家族とともに生活をして成長してゆきます。社会生活は家族との生活から始まります。 そして加地伸行先生は、この章を次のように訳しておられます。 孔先生の教え。自分にとっては有益な三種の友がある。〔逆に〕有害となる三種の友がある。まっすぐな友、義理固い友、博識の友、これは有益である。しかし、追従する友、裏表のある友、口先の巧みな友、これは有害である。 渋沢栄一著「『論語』の読み方」には、次のように書いてあります。 孔子は、有益な友人が三種、有害な友人が三種ある--それは、正直な友、誠実な友、物知りな友が有益であり、有害なのが、お調子者、うわべを飾る者、口達者な者である、といった。友に損益二種あるから、益友を選び損友から遠ざかるべきことを説いている。また孔子は、「三人行けば、必ず我が師あり(述而篇)」、「友を以て人を輔(たす)く(顔淵篇)」と説いているので、各章を参照するとよい。善友は助け合って成功し、悪友は誘い合って堕落する。吉田松陰は、「徳を成し材を達するは、師恩友益多きにおる。ゆえに君子は交遊を慎しむ」と教えている。 五.「季氏第十六、第五章」 孔子曰、益者三楽、損者三楽。楽節礼楽、楽道人之善、楽多賢友、益矣。楽驕楽、楽佚遊、楽宴楽、損矣。 孔子曰く、益者三楽、損者三楽。礼楽を節するを楽しみ、人の善を道(い)うを楽しみ、賢友多きを楽しむは、益なり。驕楽(きょうらく)を楽しみ、佚遊(いつゆう)を楽しみ、宴楽(えんらく)を楽しむは、損なり。
孔先生がおっしゃった。 この章の解説: 安岡正篤著「友経 内篇」には、次のように書いてあります。 【要旨】 貝塚茂樹著「論語」では、次のように訳しています。 孔先生がいわれた。 宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。 孔子曰く、有益な道楽が三種、損害をうける道楽が三種ある。礼儀、音楽をほどほどに愛好し、他人の善事を吾が事のように吹聴しては喜び、賢友を増やして行っては悦に入るのは有益だ。奢侈を極めた享楽に耽り、物見遊山に遠出する癖がつき、酒を飲んで騒いで楽しむのは損害だ。 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。 有益な楽しみが三種、有害な楽しみが三種あるよ。礼式と音楽の調和を楽しむ。人の善行を話題にして楽しむ。優れた友人が増えるのを楽しむ。これが有益な三種だ。わがまま放題・遊び放題・呑み放題が有害な三種だ。 六.「季氏第十六、第六章」 孔子曰、侍於君子有三愆。言未及之而言。謂之躁。言及之而不言。謂之隠。未見顔色而言。謂之瞽。 孔子曰く、君子に侍(じ)するに三愆(さんえん)あり。言未だ之に及ばずして言う。之を躁と謂う。言之に及んで言わず。之を隠と謂う。未だ顔色(がんしょく)を見ずして言う。之を瞽(こ)と謂う。
孔先生がおっしゃった。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 愆、躁
愆:過ち。 この章の解説: 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 孔先生がいわれた。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。
ここの「君子」は、目上の人、を意味し、「愆」は、古注の孔安国に「過まち也」。目上の人と話をしていて、話題がまだそこへ行かないのに、先取りしていいだすのは、がさつ。話題がそこへ来ているのにいわないのは、かくし立て。相手の顔色を見ずに、一方的に発言するのは、めくら。 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。
上司に仕えて犯しやすい過ちが三種あるな。言うべき時でないのに言うのが悪乗り。言うべき時なのに言わないのが乗り遅れ。上司の反応を無視して発言するのが暴走だ。 七.「季氏第十六、第七章」 孔子曰、 君子三戒。少時、血気未定。之戒色在。其壮及、血気方剛。之戒闘在。其老及、血気既衰。之戒得在。 孔子曰く、 君子に三戒あり。少(わか)き時は、血気未だ定まらず。之を戒むること色に在り。其の壮なるに及んでは、血気方(まさ)に剛なり。之を戒むること闘うに在り。其の老ゆるに及んでは、血気既に衰う。之を戒むること得るに在り。
孔先生がおっしゃった。 この章の解説: 吉川幸次郎著「論語」には、次のように書いてあります。 孔子の人間観察の深さをもっとも示す条である。「血気」とは、人間の生理の根本は、血液の運行によるエネルギーにあると意識しての言葉。「色」とは、むろん色欲。色欲は血気の発動であり、一概に否定すべきではないが、わかい時は、生理が不安定であるから、血気の過剰による色欲の失敗をいましめとせよ。「壮」とは三十代以後の壮年。血気方剛の「方」の字は、すべて状態が盛んな絶頂にあるのをいう副詞。この時期に警戒すべきものは「闘」、すなわち喧嘩。老人になれば、生理がおとろえ、能動の部分が少なくなるとともに、受動的な利益をほしがる。つまり警戒すべきものは、貪欲。 安岡正篤著「友経 内篇」には、次のように書いてあります。 【要旨】 八.「季氏第十六、第八章」 孔子曰、君子有三畏。畏天命、畏大人、畏聖人之言。小人不知天命而不畏也、狎大人、侮聖人之言。 孔子曰く、君子に三畏あり。天命を畏れ、大人(たいじん)を畏れ、聖人の言を畏る。小人は天命を知らずして畏れず、大人に狎(な)れ、聖人の言を侮る。
孔先生がおっしゃった。 この章に出てくる重要な言葉(概念):
畏れる、天命、大人 この章の解説: この章で言う「天命」とは、万物の霊長である人間に与えられた宇宙人生。すなわち、この大宇宙の生成発展に寄与すべく人間として行うべき使命のことを言い、「君子」とは、徳ある人間(仁者)を追求する人、「大人」とは、徳あり且つ社会的地位のある人のことを言うのだと思います。「聖人」とは、「大學」に言う「明徳を明らかにし、民に親しみ、至善を尽くす」ことを全うした人、いわば完全なる君子。そして「小人」とは、わたし達凡人、すなわち目に見えない徳よりも目先の利益に眩まされる俗物のことを言うのだと思います。ですから君子は、大宇宙から与えられた人間としての使命である「天命」を畏れ敬い、その天命により、社会的地位を得た「大人」を畏れ敬い、宇宙人生を完全に生き抜いた「聖人」を畏れ敬うのであります。そして小人すなわち凡人は、天命(この大宇宙の生成発展に寄与すべく人間として行うべき使命)に気がつかず、目先の利益に惑わされ、社会的地位のある君子に媚びへつらい、完全なる君子である聖人の言行を「そんな綺麗事を言ったってできっこないじゃないか」と、せせら笑うのです。 安岡正篤著「友経 内篇」には、次のように書いてあります。 【要旨】 また、同じく安岡正篤先生の著書である「朝の論語」には、次のように書いてあります。
文明の危機というのも一の天命であり、近代人は之を畏れず、先覚者を馬鹿にして、こうなってしまったのです。正しい人は天命を畏れる。天命とは言うまでもなく絶対者の作用であります。自然と人間とを一貫する至上命令であります。厳粛な律法です。違反は絶対に許さない。自然は法の支配する所rule
of lawであり、人も亦自然法・道徳法の支配によって生きる。その自律of lawを知らず、刑律by
lawしか知らない所に堕落がある。これを知る者が大人であり、聖人であります。故にその言葉は真理です。人体で申しますならば、生理の法則というものは、一つの天命であります。従って生理学者・医学者は大人であり、その叡智者はその道の聖人であります。神聖な知識の持主であります。そういう人の諸説は尊重しなければなりません。しかるに小人はそういうものを無視します。馬鹿にして、それらの貴い言を侮る。しかしその結果は長い目でみれば明確であります。信賞必罰に狂いはありません。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 孔先生がいわれた。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。
…君子は、三つのものに対して敬虔である。 諸橋轍次著「論語の講義」には、次のように書いてあります。 天命の説は極めて難しいが、古人はこれを徳命と禄命(ろくめい)との二つに説いている。徳命とは、我々が天から授かった道徳上の使命である。世にはこの使命を授けられながら、それを完うしないものが多いが、君子は常にその使命を畏れ慎んで、完うすることに努力するというのである。孔子が匡人の厄において、『天徳を予に生(くだ)せり、匡人其れ予を如何せん(述而、二十二)』と揚言(ようげん)したのは、この徳命を畏れての、最も大きい叫びであったのである。次に禄命とは、我々の遭遇する吉凶禍福の宿命であって、人力の如何ともなし得ないところである。人事を尽くしてこの禄命に安んずることが、又天命を畏れることでもある訳である。小人はすべてこれらの事を知らず、従って畏れることもない。大人とは、賢徳あって、位を得ている者をいうのであろう。この位を得ている者は、社会における階級の秩序を維持する人である。社会に生を営む者は、それぞれの分を守って社会の安寧に協力しなければならぬが、そのためには、大人を畏れ敬うことが、大切である。小人はその事実を忘れて、ただ大人の徳の寛大さに狎れ近付かんとする。聖人の言は、万世の基準であり、道徳の本則である。これを畏れることが道に進む第一歩である。要するに、天命を畏れることは、信仰の権威を慎むことであり、大人を畏れることは、社会秩序の権威を貴ぶことであり、聖人の言を畏れることは、道徳の権威を尊重することであろう。 宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。 孔子曰く、諸君は三つのことを尊敬してほしい。不可知な神秘力である天命、有徳の大人、経書に記された超人的な聖人の言葉の三つだ。ところが世の中にはうつけ者があって、天命の存在を知らぬから尊敬もしない。有徳の大人をからかい、聖人の教を鼻であしらう。 九.「季氏第十六、第九章」 孔子曰、生而知之者上也。学而知之者次也。困而学之又其次也。困而不学、民斯為下矣。 孔子曰く、生まれながらにして之を知る者は上(じょう)なり。学んで之を知る者は次なり。困(くる)しんで之を学ぶは又其の次なり。困しんで学ばず、民斯(これ)を下となす。
孔先生がおっしゃった。 この章の解説: 人は何のために学ぶのか。「中庸」には次のように書いてあります。以下、安岡正篤著「友経 内篇」に掲載されている「中庸」の一節を引用します。
下位に在りて上を獲ざれば、民得て治む可からず。獲る(う)に道有り、朋友に信ぜられざれば上に獲ず。朋友に信ぜらるるに道有り。親に順ならざれば、朋友に信ぜられず。親に順なるに道有り。諸(これ)を身に反(かえ)って誠ならざれば親に順ならず。身を誠にするに道有り。善に明(あ)かなざれば身に誠ならず。誠は天の道なり。之を誠にするは人の道なり。誠は勉めずして中(あた)り、思わずして得(う)。従容として道に中るは聖人なり。之を誠にすとは、善を擇(えら)んで固く之を執る者なり。博く之を學び、審(つまびら)かに之を問い、愼んでこれを思い、明らかに之を辨(べん)じ、篤く之を行う。學ばざる有り、之を學んで能くせざれば措(お)かず。問わざる有り、之を問うて知らざれば措かず。思わざるあり、之を思うて得ざれば措かず。辨ぜざる有り、之を辨じて明らかならざれば措かず。行わざるあり、之を行うて篤からざれば措かず。人一たびして之を能くすれば、己之を百たびす。人十(と)たびして之を能くすれば、己之を千たびす。果して此の道を能くすれば、愚(おりか)なりと雖も必ず明かに、柔なりと雖も必ず強なり。 「中庸」からの引用は以上です。
ちょっと難しいかもしれませんが、人間が学ぶということは、天から与えられた誠を身に備えるため、最善をわが身につけるためであります。したがって、学ぶことをしない者は、人欲・私心が働いて、天から与えられた誠に背いた生き方をすることになる。言い換えると人の道、天の道に背いた生き方をすることになるのです。ですから、わたし達は学び続けなければならないのです。 諸橋轍次著「論語の講義」では、「孔子言う、人間の天稟(てんびん)には四通りの等差がある。第一に、生まれながらにしてあらゆる徳義を知り尽くしている者があるが、これが最上級である。(恐らくは聖人がこれに当たる。世々にして出ずるものではない)。第二に、学問によって知る者がその次であり、第三に、初めは学に志さず、いよいよ行き詰まって困った挙句、学問する者があるが、これが又その次である。而して第四に、行き詰まって困りながらも、学問することを知らない者があるが、これが人民の中においては最下級である」と訳してから、「孔子は嘗て『上知と下愚とは移らず(陽貨、三)』と言っているが、この章の生まれて知る者は上知であり、困しみて学ばざる者は、下愚であろう。普通の人は、恐らく学びて知る者か、困しみて学ぶ者の中に入るのであろう。なおこの章の言葉から、生知の人、学知の人、困学困知の人などの語が出来ている」と解説しています。 渋沢栄一著「『論語』の読み方」には、次のように書いてあります。 孔子は、「生まれつきの物知りは一番上で、学んで知るのが二番目。行き詰まって学ぶのがその次で、どういう状態でも学ぼうとしないのが最下等である」と言った。「中庸」に「生まれながらにしてこれを知る。あるいは学んでこれを知る。あるいは困ってこれを知る。これを知ることは一つである。また安んじてこれを行い、あるいは利してこれを行い、あるいは努力してこれを行う。そこ功を成すことは一つである」と説いてある。生・知・安・行は聖人の分について言っているが、聖人といえども学習せずに、物事の理を知得したのではない。ただ聡明で一を聞けば十を知り、良心を曇らせないことで、ふつうの人よりすぐれているだけだ。現代は諸種の学校設備があり、人おのおの知識のレベルに従って教育が受けられる。自分の才知に見切りをつけず努力して、最下等の愚民にならないようにしたい。 加地伸行著「論語」では、次のように訳しています。
孔先生の教え。生まれつき道徳(人の道)を理解している人間が、最高である。学ぶことによって〔すぐに〕道徳を理解する者は、それに次ぐ。〔すぐにではなくて〕努力して道徳を学ぶ者は、さらにそれに次ぐ。努力はするものの〔結局〕道徳を学ぼうとしない。そういう人々、これは最低である。 宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。 孔子曰く、生まれつき道を知る者があれば、それは最上だ。勉強した上でそれを知る者が次に位する。行き当たってから必要を感じて勉強しだすのが、またその次だ。行き当たっても平気で、勉強しようともせぬのは最低だ。 多くの人は、「行き当たってから必要を感じて勉強しだす」のだと思います。わたしもそうです。今論語を学んでいるのも「行き当たってから必要を感じて」いるからです。人により「行き当たる」のが何時か、また「必要を感じる」のが何時かが異なると思いますが、「行き当たっても平気で、勉強しようともしない」という生き方だけはしないように心がけたいものです。 十.「季氏第十六、第十章」 孔子曰、君子有九思。視思明、聴思聡、色思温、貌思恭、言思忠、事思敬、疑思問、忿思難、得見思義。 孔子曰く、君子に九思(きゅうし)あり。視ることは明(めい)を思い、聴くことは聡を思い、色は温(おん)を思い、貌(かたち)は恭(きょう)を思い、言は忠を思い、事(こと)は敬を思い、疑わしきは問いを思い、忿(いか)りには難を思い、得るを見ては義を思う。
孔先生がおっしゃった。 この章に出てくる重要な言葉(概念):
思う:日本の「思う」は漠然としていて、たんなる欲望も含まれる。中国古典語の「思」は、「考える」「反省する」「思索する」に限定して用いられる。ここでは生活の経験に即して考慮することで、行動の前に、行動しつつ、また行動のあとで「どうだかな」と考えてみることをさす。 この章の解説: 安岡正篤著「人物を創る」には、次のように書いてあります。
《君子に九つの思いがある。視るときは明らかに見たいと思い、聴くにははっきりと聴きたいと思い、顔色はおだやかでありたいと思い、姿形は恭々(うやうや)しくありたいと思い、言葉は良心に恥じぬように思い、行動は慎重でありたいと思い、疑わしいことはしかるべき人に問うことを思い、一時の怒りには後の面倒を思い、利得を前にしたときは道義を思う》。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。 もっとも箇条書き的な条である。視覚をはたらかすべき行為に対しては、その理想的な状態である「明」を思いつづけ、聴覚をはたらかすべき行為に対しては、その理想的な状態である「聡」を思念する。以下みな同じ関係にある。顔色は「温」を思う、については、似た表現として、「詩経」「秦風(しんぷう)」「小戎(しょうじゅう)」の、「言(わ)れ君子を念(おも)うに、温として其れ玉の如し」が思い合わされる。「言(ことば)は忠を思い」の「忠」は、忠実。「事は敬を思い」の「事」は行動である。「疑わしきは問うを思う」。しかるべき人に質問して疑いを解こうと思念する。公冶長第五(第十四章、引用者注)に孔文子をたたえて、「敏にして学を好み、下問を恥じず」。「忿りには難を思う」。一時の怒りが、その結果として生むであろう困難な事態を思念する。…顔淵第十二(第二十一章、引用者注)に「一朝の忿りに、其の身を忘れ、以て其の親に及ぼすは、惑いに非ずや」。「得るを見ては義を思う」。利益を目にした場合は、正義を考えて吟味する。憲問第十四(第十三章、引用者注)に「成人」を論じて、「利を見て義を思う」。 諸橋轍次著「論語の講義」では、「孔子言う、君子には身の行いをなすに当たり、特に思いをいたして念願することが九つある。一つは、物を見る場合に、誤りなく明らかに見たいと考えることである。(黒白を誤ることはもとより明を失うことであるが、人には色眼鏡をかけて物を見ることがある。これまた不明であって、君子はそれらを斥〔しりぞ〕けたいと念願するのである)。二つは、物を聞く場合に、さとく明瞭に聞き分けたいと念願することである。(この場合も、世間には人の言葉を自分の私心によって無理に誤解し、曲解して聞き取ることがある。君子はそれを斥けて聰を念願するのである)。三つは、自分の顔色容貌は常に温雅(おんが)であるように心掛けることであり、四つは、自分の態度は常にうやうやしく慎みのあるように心掛けることである。(以上の四点は天から授かった五感を正しく働かせようとする心掛けである)。次に五つには、自分の言葉は心の誠から出すようにと心掛ける。六つには、事を執り行う場合には、過ちなく執り行うように心掛ける。七つには、疑問に突き当たった場合には、下問を恥じず、すべての人に尋ね問うように心掛ける。八つには、忿怒の情の起こった場合には、一時の怒りのために、後難をいたしはせぬかと、その点に思いをいたす。九つには、利得に直面した場合には、それを得ることが正しい道理に叶っておるか否かについて思いをいたすのである。(この後の五者は、外部の事物に接する場合の君子の願望である)」と訳して、「ここに九思の各項目が出されているが、それらの中、初めの八つ、すなわち、視と聴、色と貌、言と事、疑と忿とは、それぞれ相配して用いられ、最後の見得は独立した形である」と解説しています。 渋沢栄一著「『論語』の読み方」には、次のように書いてあります。 思いとは思慮分別である。君子の自省すべき項目を説いている。物には法則があり、天地間のことはみな天の法則に従う。君子は天の法則を思慮して、無理のないように行動する。その項目は九つある。@視るときにははっきり見たいと思い、A聴くときには細かく聞き取ろうと思う。これは私欲や外物に邪魔されず、事物の真相・実体をつかもうと思っているからだ。また、B自分の顔色を温和にさせようと思い、C姿形はうやうやしくなろうと思い、D言語は誠実であろうと思う。これは自分の内面を磨いて、外に表れるものを美しくしようと思っているからだ。また、E仕事をするには慎重にして、軽率にならないことを思い、F疑問が生じたら先生や友人に問うて、正しい解決をしようと思うことである。G怒りが生じたら、その一念がわれを忘れさせ、その結果への非難が父母にまで及ぶことを考え、H利益を獲得するときには、それが義にかなった手段・方法で得ようとしているものかどうかを考えて、取るべきは取り、取ってはいけないものは取らない。君子はこのように、すべての物事を慎重に思慮して、気を抜いてはならない。以上が君子の四六時中思慮すべき項目で、われわれもぜひとも学びたい教えである。 貝塚茂樹著「論語」では、次のように訳しています。 孔先生がいわれた。 伊與田覺著「仮名論語」では、次のように訳しています。 先師が言われた。 加地伸行著「論語」では、次のように訳しています。 孔先生の教え。教養人には心を尽くす九つのことがある。見るときには明瞭に、聴くときはうわべだけでなく、顔色はやわらかに、態度は謙遜して、ことばはまごころこめて、仕事には慎み深く、疑問には問うて残すことなく、腹立ちには他に難儀が及ばないように、利得があるときは正・不正を見きわめ、というようにだ。 なるほど、これは名訳でしょう。 宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。 孔子曰く、諸君に九つの心掛けを注文したい。物を見るには細かい所まで見届け、聞く時ははっきりと、顔付きはおだやかに、身ぶりはつつましく、物言うときは真心こめて、仕事をするには注意深く、分からない点は質問を怠らず、腹がたっても後難を考え、最後に一番大事なのは、利益を前にしてそれが正当かどうかを一度考えてみることだ。 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。 人の上に立つ者には、守るべき以下の九つの心得があるよ。物を見る時には明確に見ること。聴く時には誤りなく聞き取ること。表情を穏和に保つ。立ち居振る舞いを上品にする。ことばを違えない。仕事は慎重にする。疑問があったら問うことを恥じない。見境なく怒らない。道義に反した利益を追わない。まっ、こんなところだろうかね。 十一.「季氏第十六、第十一章」 孔子曰、見善如不及、見不善如探湯。吾見其人矣。吾聞其語矣。隠居以求其志、行義以達其道。吾聞其語矣。未見其人也。 孔子曰く、「『善を見ては及ばざるが如くし、不善を見ては湯を探るが如くす』。吾其の人を見る。吾其の語を聞く。『隠居して以て其の志を求め、義を行って以て其の道を達す』。吾其の語を聞く。未だ其の人を見ず」。
孔先生がおっしゃった。 この章の解説: 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。
善を見れば、早く追求せねばおっつかないかのように熱心に追求し、不善を見れば、あつい湯の中につっこんだ手を、さっと引っこめるように遠ざかる。そうした人間を、私はこの目で見た。またそうした人間の存在を、古い言葉としても聞いている。ところで下積みの隠遁者として生活しながら自己の理想を追求しつづけ、正義を行って自己の方法を貫通しようとする人間、それはその存在を、古い言葉としては聞くが、現実にはまだめぐりあわない。 諸橋轍次「論語の講義」では、次のように訳しています。
孔子言う、善を見たならば、あたかも人を追いかける時の、追いかけても追いかけても、なお追い付き得ないような気持ちで、一意専心その善を追求して行くようにするがよい。又不善を見たならば、あたかも熱い湯の中に手をさし入れて慌てて手を引く時のように、一瞬の猶予もなくその不善から遠ざかるようにするがよい、という古い言葉がある。私はかくの如く善を追求するに急なると共に不善から遠ざかるにも急なる人を実際に見たこともあり、又その言葉を人から実際に聞いたこともある。一方、世から用いられず退き隠れている時には、自己の志を高く保って、自己の満足出来る心の姿を維持し、一度(ひとたび)出で仕えて君臣の義を行い得る時には、平素自己の修めた道を堂々と実行してこれを天下に広めるがよい、という古い言葉がある。しかし、この言葉については、私は人から実際にその語を聞いたことはあるが、この言葉通り実行した人は未だ見たことがない。 加地伸行著「論語」では、次のように訳しています。 孔先生の教え。善業を見ると、とても自分には及ばない、という〔反省の〕気持ちとなり、悪業を見ると、熱湯に手を入れるようなものと思う。そういう人物を私は見てきたし、そういう古語を学んだ。乱世のときには隠れ住んで自分の志を深め、〔ひとたび見出されたときには、その志に基づく〕道義に従って人の道を世に広める。そういう古語を私は学んだが、それを実行に移した人物と出会ったことはない。 宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。 孔子曰く、善を行う機会があれば、逃げられはせぬかと恐れるようにとびつく。不善を行う誘惑があれば、熱湯の中から物を取り出す時のように急いで手をひっこめる。そういう人間は確かに私のこの目で見届けたことがある。なおその他にも居るという話も聞いている。だが、ひっそりと暮らして自分の生き方を生きる、正道を蹈(ふ)んで自分のやり方に満足する、そういう人はこの世にいるという話は聞いているが、まだ実際に会ったことがない。 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。 「善を見たら押っ取り刀で追いかける。不善を見たら熱湯を浴びたように飛び退去(すさ)る」という言葉があり、わたしはそういう人を見たこともあるし、そういう言葉を人が口にするのも聞いたことがあるよ。「隠居後も理想を高く正義を行い、道を究めん」という言葉も聞いたことがあるが、あいにく、そうした正義の人物にお目に掛かったことはないね。一つわたしがお手本になろうかね。 十二.「季氏第十六、第十二章」 (孔子曰、誠不以富、亦祗以異。)斉景公馬千駟。死之日、民無徳而称焉。伯夷叔斉、餓于首陽之下。民到于今称之。其斯之謂与。 孔子曰く、『誠に富を以てせず、亦た祗(まさ)に異なるを以てす』と。斉の景公馬千駟(うませんし)あり。死する日、民徳として称するなし。伯夷・叔斉首陽の下に餓(う)う。民今に到るまで之を称す。其れ斯を之れ謂うか。 孔先生がおっしゃった。「『詩経』に、『まことに人に称賛されるのは富の力ではなく、ひとえに常人と異なるからです』とある。斉の景公は四千頭もの馬を持っていたが死んだ時に、人民は誰も景公を徳のある人だと誉めなかった。(それに対して、)伯夷・叔斉は首陽山のふもとで飢え死にしたが、人民は今に至るまで誉めておる。『詩経』に書いてある言葉は、このことをいうのじゃろうよ」。 この章に出てくる重要な言葉(概念):
斉の景公:名は杵臼(しょきゅう)、前五四七年から四九〇まで在位。孔子より年長で、ほぼ孔子の時代まで生きていた。欲張りな君主として有名であった。 この章の解説: 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。
朱子の説によれば、この章は本文に脱落がある。まず章のはじめに、「孔子曰」の三字がなければならないのが、ぬけている。また最後の句の、「其れ斯を之れ謂うか」につき、このいい方は、いつも、あることわざを挙げ、そのことわざに該当するのは、ほかならぬこの事実であるというときのいいかたであるのに、ここには、ことわざらしいものが引かれていない。一方、前の顔淵第十二(第十章、引用者注)の、「子張、徳を崇(たか)くし惑いを弁(わきま)えんことを問う」の章の最後に、「誠不以富、亦祗以異」と、その章の結末としては理解しにくい二句八字がある。すなわち「詩経」「小雅」の「我行其野(がこうきや)」を題とする詩の文句である。それは元来、この章の「其斯之謂与」の上にあったのが、あちらの顔淵篇にも、斉の景公を論じた条が次にあるところから、あちらへまぎれ込んでしまったのであり、それをここへ移せば、この章もきちんと読める、とする。 貝塚茂樹著「論語」では、次のように訳しています。 孔先生がいわれた。 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。 詩経に「ホントだよ、世俗の富でなくってね、ホントの富があるんだよ」と詠まれているが、斉の国の景公は四千頭の馬を持つほど豊かな生活をしていたが、死んだ時には、その徳を讃える国民は一人もいなかった。一方、王位を継承する高貴な地位に生まれながら筋を通して隠者となって首陽山の麓で餓死した殷の伯夷と叔斉の兄弟は、今にいたるまで人民に誉め称えられている。さあ、どっちが真に豊かで高貴な人生を送ったと言えるかね。 十三.「季氏第十六、第十三章」 陳亢問於伯魚曰、子亦有異聞乎。対曰、未也。嘗独立。鯉趨而過庭。曰、詩学乎。対曰、未也。不学詩無以言。鯉退而学詩。他日又独立。鯉趨而過庭。曰、学礼乎。対曰、未也。不学礼、無以立。鯉退而学礼。聞斯二者。陳亢退而喜曰、聞一得三。聞詩聞礼、又聞君子之遠其子也。 陳亢(ちんこう)、伯魚に問うて曰く、「子も亦た異聞(いぶん)あるか」。対えて曰く、「未(いま)だし。嘗て独り立つ。鯉趨(はし)って庭を過ぐ。曰く、『詩を学びたりや』。対えて曰く、『未だし』。『詩を学ばざれば以て言うなし』。鯉退いて詩を学べり。他日又独り立つ。鯉趨って庭を過ぐ。曰く、『礼を学びたりや』対えて曰く『未だし』。『礼を学ばざれば以て立つなし』。鯉退いて礼を学べり。斯(こ)の二者を聞けり」。陳亢退いて喜んで曰く、「一を聞いて三を得たり。詩を聞き礼を聞き、又君子の其の子を遠ざくるを聞けり」。
(孔先生の弟子の一人である)陳亢(ちんこう)が伯魚に尋ねた。 この章に出てくる重要な言葉(概念):
陳亢(ちんこう)、伯魚 この章の解説: 緑川祐介著「孔子の一生と論語」には、次のように書いてあります。 孔子は母が亡くなった後、委吏(下級役人…引用者注)等になる前に十九歳で結婚している。そして「鯉」(字は伯魚)と名付けた子供がある。孔子の妻となった女性は宗の幵官氏(けんかんし)という人。彼女の略歴などは記録に残っていない。子供が生まれてまもなくして孔子は妻と離別したという説もある。しかし、略歴もないくらいなので、孔子といつまで過ごしたのかの記録もない。そこで、離婚説が出たのかも知れない。儒教では離婚などについてはタブーなので、語りたがらないからこのへんはあまり追求しなかったのであろうか。家庭を平和にできない者が天下国家を平和にすることなどできないと固く信じているが故に、孔子の離婚などは隠しておきたいのだろう。しかし、離婚をしたとしても孔子自身の人格を左右することはできない。そういう苦汁をなめたからこそ人生についての深い考えも出てきた、と見ることの方が妥当である。(中略)孔子は結婚して一年後に男の子を授かった。その子は「鯉」と命名された。字を「伯魚」という。鯉は、孔子よりも先に五十歳で亡くなっている。家族主義を唱えた孔子ではあるが、自分自身のこととなると、家族には恵まれなかったようである。ただ、そのような険しい環境がかえって孔子を強くしたという見方もできる。孔子が子供である鯉をどのように教育したかは、定かでない。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 陳亢は身分のある人であったらしく、これへの伯魚のこたえはたいへん丁寧である。「君子は子を易えて教える」という礼があって、身分のある人は自分の子を直接教えないたてまえであった。それは子を愛する愛情が、かえって教育の妨げになることを恐れたからであろう。子は教えないというたてまえを守りながら、片言隻句でよく子を教えている孔子はさすがにりっぱであった。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。
「孟子」の「離婁(りろう)」篇上に、かの有名な条がある。「君子の、子に教えざるは何ゆえぞや」という公孫丑(こうそんちゅう)の問に対し、孟子は答えていう。教育は正しさをもってしなければならないが、親の私生活をよく知っている子供は、お父さんは正義正義と子に押しつけながら、お父さん自身は、正義ばかりで生きていないじゃないかということになれば、父子は憎みあうことになる。だから、「古は子を易えて之れを教う」、お互いの子を取り換えて教育した。 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。
弟子の子禽さんが先生のご子息の鯉さんにインタヴューをしたことがあった。 十四.「季氏第十六、第十四章」 邦君之妻、君称之曰夫人。夫人自称曰小童。邦人称之曰君夫人。称諸異邦曰寡小君。異邦人称之亦曰君夫人。 邦君(ほうくん)の妻(さい)、君(きみ)之を称して夫人と曰う。夫人自ら称して小童(しょうどう)と曰う。邦人(ほうじん)之を称して君夫人(くんぷじん)と曰う。諸(これ)を異邦(いほう)に称して寡小君(かしょうくん)と曰う。異邦の人之を称して亦た君夫人と曰う。 (諸侯の殿さまの配偶者には色々な呼び名がある。)宮中において殿さまがその配偶者を呼ぶ時には夫人という。 夫人自身は自分のことを小童(しょうどう)という。国内において国民が呼ぶ時には君夫人(くんぷじん)といい、外国との関係において、国民が外国の人に対して呼ぶ時には寡小君(かしょうくん)といい、外国の人がこちらの夫人を呼ぶ時には、やはり君夫人(くんぷじん)という。 この章の解説: 吉川幸次郎著「論語」には、次のように書いてあります。 これはいわゆる「称謂(しょうい)」の問題である。一人の人物が、場合場合によって、いかなる呼び方をされ、またするかは、いまの日本語でも、御父上、お父さん、父、と場合によって呼び方をかえるように、東方の社会では、いまでも重要な慣習であり、古代は殊にそうであった。但しそれは中国古代の学問では、礼の学問の扱う問題であり、「礼記」の「曲礼」篇などに、いろいろと規定が見え、ここにいうような諸侯の妻に関する規定も含まれている。「論語」の中に、突然孤立して現れるのは、奇異の感をまぬがれない。一篇の終わりのことでもあり、他の書物の竹の簡(ふだ)の破れたページが、まちがってとじ合わされたのかも知れない。 衛霊公篇第十五 二十八.「衛霊公第十五、第二十八章」 子曰、人能弘道、非道弘人。 子曰く、人能く道を弘(ひろ)む。道の人を弘むるに非ず。
孔先生がおっしゃった。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 道:天の道に沿った人の道、大宇宙の生成発展に寄与すべく宇宙人生を生きる人間の道。 この章の解説: 以下、安岡正篤著「友経内篇」から引用します。
第一章 天命 以上、安岡正篤著「友経内篇」からの引用でした。 ちょっと難しいかもしれませんが、簡単に言うと、「道」とは天から与えられた人間としての徳性を明らかにして「宇宙人生」を生き抜くことであります。「宇宙人生」とは、わたし達を生かしてくれている曰く言い難い大きな力、宇宙根源の力を、何と有り難いことであろうかと感謝する心を持ち、素に行じて自らを得るが如く(素行自得)に生き抜く人生のことであります。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 「道」とは、思想・主義・宗教などすべて一定のイデオロギー形態をさすと考えてもよいであろう。人は思想・主義・宗教などが独自で存在しているように誤って考えるが、あくまで人間が主体であり、人間によって考えられ、人間によって信じられ、人間によって主張されつつ世の中にひろまり、後世に残ってゆく。ここに孔子の人間中心主義、いわゆる人本主義がある。 呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。
人間こそが理想の道を弘めるのである。理想の道なるものが最初からどこかにあって人間を使嗾(しそう、けしかけること、引用者注、辞書より)するのではない。 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」には、次のように書いてあります。
われわれ一人一人が道徳を身につければ、社会はその分だけ確実に善くなるんだよ。だから、道徳や誰かが社会を善くしてくれるのをボケーッと待っているべきではないんだぞ。 加地伸行著「論語」では、「人間が(努力して)道徳を実質化してゆくのであって、道徳が(どこかに鎮座していて、それが自然と)人間を高めてゆくわけではない」と訳しています。 宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。 子曰く、人間は努力して正義の道を拡充しなければならない。どうかすると人間は、正義の道に乗りかかって自分の名を売り拡めようとする。 二十九.「衛霊公第十五、第二十九章」 子曰、過而不改。是謂過矣。 子曰く、過って改めざる。是を過ちと謂う。
孔先生がおっしゃった。 この章の解説: 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 「過てば則ち改むるに憚ること勿かれ」ということばが二度『論語』に出てくる。(学而篇第八章・子罕篇第二十五章)。たんなる過ちは問題でない。過ちの処置がたいせつである。 渋沢栄一著「『論語』の読み方」には、次のように書いてあります。 人間、誰でも過ちはあるものだ。過ちに気がついてこれを改めることができれば、これはもう過ちではない。過ちをごまかして改めないことを、真の過ちという。そしてその過ちのもたらす災害を受ける。この項は過ちをごまかす悪習を戒め、『子罕篇』の「過っては則ち改むるに憚ること勿れ」(過ちがあれば、素直に認めてすぐさま訂正することだ)の意味をさらに厳しくいったものだ。仏道では懺悔を成仏の法とし、神道では「みそぎ」の法がある。それで罪科や汚れを祓(はら)い去るのである。いずれも悔悟・改心を期待しているのだ。過ちをさっさと改めるのを君子の道という。青年諸君に深く心がけてもらいたいのは、この君子の道である。 吉田賢抗・加藤道理著「論語新版」には、次のように書いてあります。 『論語』の中には、人間の過ちについて言及する章が多いが、孔子は決して、人間の過ちそのものを批難してはいない。学而篇には「過ちては則ち改むるに憚ること勿れ」とあるように犯した過ちを改めないことがほんとうの意味での過ちなのだとする。だからこそ、顔回を「八つ当たりせず、同じ過ちを繰り返さなかったので、学問を好んだ(雍也篇)」と称賛するのである。この孔子の教えを理解した弟子の子夏は、「小人の過ちや必ず文(かざ)る〔いろいろ表面をつくろって言いわけをする〕(子張篇)」と言い、子貢は「君子の過ちは日食や月食のようにめったにないものだから、過ちを犯すと、人が皆驚くが、たとえ過ちを犯しても、すぐ改めるので、さすが君子だと仰ぎみるのだ(子張篇)」と言っている。心したいことである。 三十.「衛霊公第十五、第三十章」 子曰、吾嘗終日不食、終夜不寝、以思。無益。不如学也。 子曰く、吾嘗(かつ)て終日食(くら)わず、終夜寝(い)ねず、以て思えり。益なし。学ぶに如かざるなり。
孔先生がおっしゃった。 この章の解説: 安岡正篤先生は、秘蔵講演実録「論語講座(四)」(財団法人郷学研修所・安岡正篤記念館)の中で、次のように話しておられます。 論語を知らないものは無い論語を持たんものは無い論語を読まぬものはないけれども、大体皆論語読みの論語知らずであるお互いという。人を責めるのではないお互いにそうなんだとそれで本当によくわからんものがたくさん集まっててんやわんやと騒いでおるこれが特にこの大衆時代の特徴である。そこでこの時代この人類は如何にすれば救われるかということになると『学ぶに如かざるなり』と。論語に書いてある。その通り。終日物を思えども何にもならん、『学ぶに如かざるなり』だ。でもすがるものを覚えてもこれまた何にもならん。『学ぶに如かざるなり』であります。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 孔子が「思いて学ばざれば則ち殆(うたが)う」(為政篇第十五章)といったのは、ここで体験として述べたことを、たんなる思索では学問が成り立たないと一般化して述べたのである。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。 「思」、すなわち空漠な思索、それはたとえ寝食を忘れてのものであっても、「学」、すなわち読書による経験の堆積に及ばないことを、もっともはっきりいいきった条である。以思、無益、という二つの二字句が、いい切りを強める。「荀子」なり「大戴礼(だいたいれい)」なりの「勧学」篇では、「孔子曰わく、吾れ嘗て終日にして思う、須臾(しゅゆ、たまゆら:しばし、引用者注)の学ぶ所に如かざる也」と、一そう強い言葉となっている。 宇野哲人著「論語新釈」には、次のように書いてあります。 この章は思うて学ばざる者のために発したのである。為政篇に「学びて思わざれば則ち罔し。思ひて学ばざれば則ち殆し」といってるくらいで、学と思とは偏廃(へんぱい)すべからざるものであるから、この章でも決して思うことを排斥したのではない。 加地伸行著「ビギナーズ・クラシックス 論語」には、次のように書いてあります。
人間としての魅力は、物知りだからというのではなくて、その人の人柄から生まれます。たとえば、物ごとの判断をするとき、己のためではなくて、みなのためという立場に立つ人には、魅力が生まれます。たとえば、友情として自分を犠牲にする人には、魅力があります。たとえば、家族を愛する人には、魅(ひ)きつけられます。そうです、《人間的魅力》、それを私たちは求めているのです。 孔子の言う「学ぶ」とは、知識だけではなく、人間として如何に在るべきかということなのです。 三十一.「衛霊公第十五、第三十一章」 子曰、君子謀道不謀食。耕也餒在其中矣、学也禄在其中矣、君子憂道不憂貧。 子曰く、君子は道を謀りて食を謀らず。耕すや餒(うえ)其の中(うち)に在り、学ぶや禄其の中に在り、君子は道を憂えて貧を憂えず。
孔先生がおっしゃった。 この章の解説: 安岡正篤著「友経 内篇」には、次のように書いてあります。
【要旨】 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。
先生がいわれた。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。
君子は道徳を第一とし、生活を第一としないのをいった条である。道を謀り、食を謀るの「謀」の字は、「かんがえる」と訳しうる。紳士は道徳のことは考えるが、生活のことは考えない。何となれば、農耕は生活を安定させる道であるけれども、飢饉その他による飢餓の要素も、内在する。学問は生活の手段ではないけれども、「禄」すなわち経済的幸福への要素も内在する。農耕か学問か。君子の憂え、関心は、道徳にあって、貧乏にはない。 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。 思慮のある人物は道義を第一に考え、食い扶持(ぶち)を第一には考えないもんだよ。たとえ農業に従事していても異常気象などで飢えることがあるが、学問をしていればいずれ必ず俸給が得られ、飢えずにすむようになると分かってるからさ。だから、思慮ある者は修行中に道義が身につかないことを心配しても貧乏であることを悩んだりしないもんなんだよ。 宮崎市定著「現代語訳 論語」には、次のように書いてあります。
子曰、君子謀道不謀食。耕也在其中矣、学也禄在其中矣、君子憂道不憂貧。 三十二.「衛霊公第十五、第三十二章」 子曰、知及之、仁不能守之、雖得之、必失之。知及之、仁能守之、不荘以@之、則民不敬。知及之、仁能守之、荘以@之、動之不以礼、未善也。 子曰く、知之に及ぶとも、仁之を守ること能(あた)わざれば、之を得(う)ると雖も、必ず之を失う。知之に及び、仁能(よ)く之を守るとも、荘以て之に@(のぞ)まざれば、則ち民敬せず。知之に及び、仁能く之を守り、荘以て之に@むとも之を動かすに礼を以てせざれば、未だ善ならざるなり。
孔先生がおっしゃった。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 荘、@(のぞ)む
荘:厳格な態度、威厳。 この章の解説: 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。
先生がいわれた。 諸橋轍次著「論語の講義」では、「孔子言う、人に君たる者の知識が、あまねく民の事情に通じ及んでおっても、実際に仁恵を以て民の生活を守ってやることが出来なければ、一旦は民心を得ることはあっても、結局は必ず民心を失うであろう。而して又、いかに人君の知識があまねく民の事情に通じ、その仁恵が民の生活を守り得ても、荘重(そうちょう)な態度を以て民に臨まなければ、民は人君を尊敬しない。更に又、その知識は民に及び、その仁恵は民を守り得、荘重な態度を以て民に臨んでも、民を動かせる場合に礼を以てしなければ、まだ完全とはいえない」と訳しており、「この章は、主格となる者を明示していないが、恐らくは人君の態度について述べたものであって、人に君たる者は知・仁・荘・礼の四者を兼備せねばならぬと教えたものであろう」と解説しています。 加地伸行著「論語」では、次のように訳しています。 老先生の教え。(指導者たる者は)知識・学問が十分であっても、道徳を守ることができなければ、たとい地位を得たとしても、きっと失うであろう。知識・学問があり、道徳的であっても、どっしりとした態度で接しなければ、人々は敬意を払わない。知識・学問・道徳・厳(おごそ)かな態度がそろっていても、人々に仕事をさせるとき、人間として遇する礼儀をもってしなければ、まだ善しとすることはできない。 宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。 子曰く、智略にすぐれても、仁徳によって維持するのでなければ、一度手に入れた政権も、必ずすぐ喪失してしまうものだ。智略にすぐれ、仁徳によって維持することができても、信念をもって臨むのでなければ、人民は尊敬しない。智略にすぐれ、仁徳によって維持することができ、更に信念をもって臨んでも、自ら礼節に従って動作して見せなければ、画竜点睛を欠くものだ。 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。 人民を治めるには、知・仁・荘・礼の四点が肝心だ。政治的知識は十分でも仁徳がなければ、いったんは人民を従わせても結局は離反されてしまう。知識と仁徳の二点は十分でも、荘重な態度がないと人民から尊敬されないし、知識・仁徳・荘重の三点がそろっていても、人民を統治するのに礼儀を欠いていれば完璧と言うにはほど遠いね。 三十三.「衛霊公第十五、第三十三章」 子曰、君子不可小知、而可大受也。小人不可大受、而可小知也。 子曰く、君子は小知(しょうち)すべからざる、而して大受(たいじゅ)すべし。小人は大受すべからざる、而して小知すべし。
孔先生がおっしゃった。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 小知、大受
小知:小さい事柄を理解し、それを実行すること この章の解説: 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。
君子は小さい範囲の観察では理解しにくいけれども、大きな利益を、一般人が、かれから受けうる。小人はその反対である。以上が古注の解釈である。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。
先生がいわれた。 宇野哲人「論語新釈」には、次のように書いてあります。 この章は人を観る法を言ったのである。君子は細事(さいじ)において未だ必ずしも観ることはできないが、その材徳(ざいとく)は天下の重任を引き受けることができる。小人は器量が浅狭(せんきょう)であるけれども、未だ必ずしも一の取るべき長所がなくはない(朱子による)。 加地伸行全訳注「論語」では、次のように訳しています。 老先生の教え。教養人は専門的知識が十分ではない。しかし、大任を果たすことができる。知識人は大任を果たすことはできない。しかし、専門的知識については優れている。 なるほど、これは、今までの先生方の訳に比べて、しっくりときます。 宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。 子曰く、諸君は細かい所には気がつかぬでもそれでよろしい。大局的な判断を誤らぬようになりなさい。もし大局的な判断が正しくできぬなら、どんなに細かい所に気がついても教養ある君子とは言えぬぞ。 なるほど、これは名訳だと思います。 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。 大人物はチマチマした仕事には向かないが、ここ一番の大仕事に能力を発揮するものだ。これに対し、小人物は大きな仕事をこなせないが、小さな仕事には存外能力を発揮するものだよ。 三十四.「衛霊公第十五、第三十四章」 子曰、民之於仁也、甚於水火。水火吾見踏而死者矣。未見踏仁而死者也。 子曰く、民の仁に於ける、水火(すいか)より甚だし。水火は吾踏んで死する者を見る。未だ仁を踏んで死する者を見ず。
孔先生がおっしゃった。 この章の解説: 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。
先生がいわれた。 なるほど、論語が編纂されたのは、孔子没後の戦国時代を経てからと言われておりますので、その時代の影響を受けて弟子たちに編纂されたのが、この章であろう、という解釈です。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。
人民の仁に対する関係、すなわちそれを必要とする関係、あるいはその必要を意識せずしてしかも実はそれによって生きている関係は、水と火が生活のもっとも近い必需品であるのに似て、しかもそれよりもはなはだしい。そればかりではない。水と火は、危険をも伴うのであって、それを踏んで死ぬ者がある。しかし仁を踏んで死んだ者は、見かけない。古注の馬融の説に、「水火を踏めば、或いは時に人を殺す。仁を踏むも未だ嘗て人を殺さず」。 諸橋轍次著「論語の講義」には、次のように書いてあります。 要するにこの章は、前段において仁が人として離るべからざるものであることを述べ、後段において仁が人の安宅たることを説明すると共に、その中に時人の仁に至る者なきを嘆く意を寓したものである。 宇野哲人著「論語新釈」には、次のように書いてあります。 この章は人に仁をなすことを勉めさせたのである。孟子は「仁は人の安宅(あんたく)なり。義は人の正路(せいろ)なり。安宅をむなしうして居らず、正路をすてて由らず。哀しいかな」と曰っている。聖賢の道を行おうとする心の切なことが窺われるのである。 加地伸行著「論語」では、次のように訳しています。
老先生の教え。人々にとって道徳(人の道)は、水や薪よりもずっと大切なものなのである。水や薪‥生活、ここに生命(いのち)を賭ける者がふつうだ。しかし、道徳的生きかたに生命を賭ける者はなかなかいない。 宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。 子曰く、人民が仁の道を渇望すること、生活において水や火を必要とするが如きものがある。しかし水や火はあまり多すぎると、そこへはまって死ぬことが起きる。しかし仁の道はどんなに多く与えすぎても、それにはまって死んだ人のあることを聞かない。 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。 人民にとって仁愛は水や火よりも大切なものだ。しかもだ、水や火なら誤って踏み込んだ者を溺れさせたり、火傷で死なせたりするだろう。しかし仁愛は踏み入った者を絶対に傷つけたりしないんだ。人民にとって、仁愛ほど有益なものはありゃあせんよ。 三十五.「衛霊公第十五、第三十五章」 子曰、当仁不譲於師。 子曰く、仁に当っては師に譲らず。
孔先生がおっしゃった。 この章の解説: 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。
先生がいわれた。 呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。
地域共同体の規範をただ素直に信じているだけの善良な人物、すなわち「郷原」を、孔子は「徳の賊」とまで痛罵した(陽貨篇十七の十三)。それなら、どんな人物が徳の道を歩むと言えるのだろうか。論語の記述は、古代という歴史段階の書物の例に漏れず、網羅的でもなければ体系的でもない。機会に応じ、人に応じ、孔子の思想は断片的に述べられる。徳の道を歩む人物についても然り。それは例えば次のような人物である。 諸橋轍次著「論語の講義」には、次のように書いてあります。 人は長幼朋友みな互いに譲ることが必要であるが、譲ることは師に譲るを以て最も重しとするから、ここにはその師にも譲らず‥-遠慮し後れることなく、仁を行うことに邁進せよという意である。或いは師にも負けぬ程度に強く行えと解するのも一つの解釈であろう。 宇野哲人著「論語新釈」には、次のように書いてあります。 この章も人に仁を行うことを勧めたのである。師は己の推服(すいふく:ある人を心から敬い、従うこと。心服)して及ぶことができないとして譲る者である。師にすら譲らないとすれば、仁に当っては父に対しても兄に対しても譲らないのである。 加地伸行著「論語」では、次のように訳しています。 老先生の教え。道徳(人の道)の実践においては、たとい師に対してであっても一歩も譲らない。 宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。 子曰く、仁に進む道においては、先生より先に進んでも一向構わぬ。 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。 仁の実行には、先生はもとより誰にだって遠慮なんかすることないぞ。 三十六.「衛霊公第十五、第三十六章」 子曰、君子貞而不諒。 子曰く、君子は貞(てい)にして諒(りょう)ならず。
孔先生がおっしゃった。 この章に出てくる重要な言葉(概念):
貞、諒 この章の解説: 貝塚茂樹著「論語」では、次のように訳しています。
先生がいわれた。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。
「貞」とは、恒常的なただしさである。「易」にしばしばあらわれる字であるが、「論語」ではここだけにあらわれる。君子の人格はそれをもっている。しかし「諒」ではない。「諒」とは小さな信義であって、憲問第十四(第十八章、引用者注)に「匹夫匹婦の諒を為す」というように、無教養な人間のもつせせこましい意識、それをもたない。以上が普通の解釈である。 諸橋轍次著「論語の講義」には、次のように書いてあります。 貞と諒とは、操守を貴ぶ点においては、やや似たところがあるが、貞が正しくて堅い操であるに対して、諒は是非善悪におかまいなく、一方に固執して最初約束した言葉を飽くまでやり通そうとする道で、頑(かたく)なさがある。従ってややもすれば尾生(びせい)の信(公冶長二十四)に陥るものである。子貢が、「言必ず信あり、行必ず果す。硜硜(こうこう)然として小人なるかな(子路二十、田中角栄が馬鹿にされた言葉、引用者注)」と言っているのは、この諒に近い道である。 加地伸行著「論語」では、次のように訳しています。 老先生の教え。教養人は大正義に従うが、小信義にはとらわれない。 宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。 子曰く、諸君は人物が堅造だと言われても構わないが、頭の固いのは困る。 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。 ひとかどの人物というのは、意志強固ではあるが、頑迷牢固な石頭なんかじゃないよ。 三十七.「衛霊公第十五、第三十七章」 子曰、事君、敬其事、而後其食。 子曰く、君に事うるには、其の事を敬して其の食を後(のち)にす。
孔先生がおっしゃった。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 食:禄、現在の俸給(貝塚茂樹著「論語」)。 この章の解説: 思い切って、意訳しました。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。
先生がいわれた。 宇野哲人著「論語新釈」には、次のように書いてあります。 この章は君に事える道を明らかにしたのである。まず己の職責を尽くそうとして、まず俸給を求めようとしないのが、君子の君に事える道である。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。 主人持ちとなったからには、まず仕事を敬虔に大切にし、待遇のことは後廻しに考える。 伊與田覺著「現代訳 仮名論語」では、次のように訳しています。 君に事えるには、慎重にしてその職務に励み、俸禄の事は後まわしにする」。 宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。 仕官した以上は、その職責を第一と考え、その報酬のことは後まわしにする。 以上、どの先生も同じような解釈をしておられます。 三十八.「衛霊公第十五、第三十八章」 子曰、有教無類。 子曰く、教えありて類なし。
孔先生がおっしゃった。 この章の解説: 伊與田覺著「『人に長たる者』の人間学」には、次のように書いてあります。
先師がいわれた。「人は教育によって成長するもので、はじめから特別の種類はないのだ」。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。
あるのは教育であって、人間の種類というものはない。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。
先生がいわれた。 諸橋轍次「論語の講義」には、次のように書いてあります。 類は種類であり、例えば人の貴賤・老少、或いは気質・習俗の相違などはすべて類である。貴い人も賤しい人も、老人でも年少者でも、すべて教育の善悪によって支配せられ、これはこの種類の人であるから絶対に移らぬという差別はないとの意で、教育の力の偉大さを述べたのである。 宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。 子曰く、人間の差違は教育の差であり、人種の差でない。 三十九.「衛霊公第十五、第三十九章」 子曰、道不同、不相為謀。 子曰く、道同じからざれば、相為(あいため)に謀らず。
孔先生がおっしゃった。 この章の解説: 子罕第九、第二十九章に「与に共に学ぶべし。未だ与に道に適くべからず」とあります。「共に同じ師について学ぶことは、誰とでもできるが、共に同じ道に志すとは限らない」という意味です。わたしの経験からも、同じ師に学んでも、その志す道が異なる、という場合は、なかなか話が噛み合わないということがありました。やはり、「どう生きるか」という基本路線が違う人とは良好な人間関係を築くことは難しいようです。そこで孔子は、「相為に謀らず」と言ったのでしょう。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。
先生がいわれた。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。
すべての人人と調和を保ちたい、というのが孔子の理想であったであろう。しかし現実は、それだけでは対処し得ない面、あるいは賢明な対処になり得ない面、それらがあることをも、孔子は知っていた。そこから生まれた言葉であるにちがいない。 諸橋轍次著「論語の講義」には、次のように書いてあります。 孔子言う、行く道が同じでない者同志(例えば、東に行こうとする者と西に行こうとする者)は、お互いに旅程その他を相談し合っても仕方がない」と訳して、「この章は上述の通り、旅をする者に比喩を取ったのであるが、我々の修養、処世の上についても同様で、善を志す者と利に志す者とは道を異にしており、相為に謀っても無駄である。又この事は、今日の思想の相違などの場合においても言え得よう。ただこの教えを極端に取って、いやしくも我が学ぶ所と異なるものを以て、すべて異端として互いに謀ることをしないという孤介(こかい)の見解を持つことは、戒むべきことと思う。 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように書いてあります。
正道を歩む話でなければ、相談に応じぬこと。 宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。 職業が違った同士の間では、商売の相談をしあわない。 四十.「衛霊公第十五、第四十章」 子曰、辞達而已矣。 子曰く、辞は達して已(や)む。
孔先生がおっしゃった。 この章の解説: 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。
先生がいわれた。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。
「辞」を、一般の言語、乃至は文章、の意味に理解し、意思を伝達できればそれでよろしい、と読むのが普通の説である。元来音楽的である中国の文章が、往往にして持ち易い弊害の一つとして、過度の装飾に流れるとき、それへの弊害として、しばしば引用されるのは、「論語」のこの条である。 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。 ことばや文章表現は平易簡潔が一番だよ。 なるほど。単純明快で、わかりやすい訳です。 四十一.「衛霊公第十五、第四十一章」 師冕見。及階。子曰、階也。及席。子曰、席也。皆坐。子告之曰、某在斯。某在斯。師冕出。子張問曰、与師言之道与。子曰、然、固相師之道也。 師冕(べん)見(まみ)ゆ。階(かい)に及べり。子曰く、「階なり」。席に及べり。子曰く、「席なり」。皆坐す。子之に告げて曰く、「某(それがし)は斯(ここ)に在り。某は斯に在り」。師冕出づ。子張問うて曰く、「師と言うの道か」。子曰く、「然り、固(まこと)に師を相(たす)くるの道なり」。 盲目の音楽師である冕(べん)が(孔先生に)会いに来た。 階段まで来ると孔先生がおっしゃった。「階段ですよ」。座席まで来ると孔先生がおっしゃった。「お席ですよ」。皆が座ると、孔先生は「誰それはここに、誰それはここに」と教えた。 音楽師の冕(べん)が帰った後、子張が尋ねた。「音楽師をあのように遇されたのは、人の道としての作法に従ったのですか」。孔先生がおっしゃった。「そうじゃ。あのように遇することが人の道(作法)なのじゃ」。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 師冕、相く
師冕:当時の楽人で、冕という名の人である この章の解説: 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 孔子はかつて楽人から『詩経』の伝授を受けた。当時の楽人は盲目者であった。孔子はたんに盲目の不具者をいたわるという人道主義からだけでなく、詩については教えを受けた先輩にたいする尊敬からも、楽師を手厚く待遇したのであろう。 金谷治著「孔子」には、次のように書いてあります。
楽師の冕が会いに来たときのことである。その楽師が目の見えない人だというところに、この章の意味がある。建物の入口の階段まで来ると、孔子は「階段です」と告げ、部屋に入って敷きもののところまで来ると、「敷きものです」と知らせた。みんなが坐ってしまうと、孔子は「だれしれはそこにいます。だれそれはここにいます」と、名まえをあげて一人一人の場所を教えた。もちろん目の見えない楽師の立場を思いやってのことである。楽師の冕が退出したあと、子張がおたずねする、「あれが楽師と話すときの作法でしょうか」。孔子は答えた、「そうだ。もちろんあれこそが目の悪い楽師を助ける作法だよ」。 呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。
金谷治は『孔子』(講談社学術文庫)で、孔子の冕に対する心配りは当時「決して一般的な行われていたのではなかった」ものであり、それが「子張のことさらな質問」の背後にあると指摘している。盲目の音楽師に対して温かい配慮が自然にできるところに、孔子と子張の人格のちがいが現れている。本章の孔子と子張の問答は、現代人にもわかりやすい表現の中に、人格の偉大と卑小を見事に描き出している。 衛霊公篇第十五 十一.「衛霊公第十五、第十一章」
子曰、人無遠慮、必有近憂。
孔先生がおっしゃった。 この章の解説: ここで言う「遠きを慮る」とは、物事を短期的、表面的、一面的に捉えずに、長期的、本質的、多面的に捉えるという意味と同じでしょう。 渋沢栄一著「『論語』の読み方」には、次のように書いてあります。 この項の教訓は、一個人にも一家にも一国にも通じる必要なことである。目前のことだけに気を取られて、遠い先のことを考えず、今日のことだけにあくせくして、将来の計画をおろそかにすれば、必ず身近で心配事が起こる。人々も国家も、長期展望に立って、物質的には勤勉・貯蓄・保険・衛生、精神的には教育・修身・安心・信仰を計画的に実践しなければならない。 十二.「衛霊公第十五、第十二章」
子曰、已矣乎、吾未見好徳如好色者也。
孔先生がおっしゃった。 この章の解説: 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。 すでに子罕第九(第十八章、引用者注)にも見えた言葉であるが、ここでは、かしこになかった「已矣乎」を上にかぶせてあらわれる。二度見えるには二度見えるだけの意味があり、孔子がつねに口にした言葉なのであろう。そうして、この章では「已矣乎」が嘆息を深めるのは、自己の理解者がどこにもいないという絶望を、切実な自己の経験とした孔子晩年の言葉とする徂徠の説は、もっともに思われる。 宇野哲人「論語新釈」には、次のように書いてあります。 この章は真に徳を好む者のないのを歎じたのである。「吾未だ徳を好むこと色を好むが如き者を見ざるなり」は已(すで)に子罕篇に出ているが、この章は上に「已(やん)ぬるかな」の三字を加えて人を警(いまし)める意がいよいよ切である。 諸橋轍次「論語の講義」には、次のように書いてあります。 これは道義頽廃して淫風(いんぷう)多き世の中を嘆いた言葉ではあるが、同時に又、徳を好んで孔子を用いるが如き人君の世にない事を嘆息したものでもあろう。 宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。 子曰く、困った世の中だ。異性に関心の強い人間ばかりが多くて、修養に心がける人間はさっぱりいないではないか。 加地伸行著「論語」では、次のように訳しています。 老先生の教え。もはやだめだな。美人よりも、教養人に近づこうという気持が強い人物に、私は出会ったことがない。 十三.「衛霊公第十五、第十三章」
子曰、臧文仲、其竊位者与。知柳下恵之賢、而不与立也。
孔先生がおっしゃった。 この章の解説: 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。 臧文仲(ぞうぶんちゅう)…は、孔子よりも二世紀まえの魯の名宰相であるとされた。この章は、公冶長第五(第十七章、引用者注)…とともに、かれに対する批判である。すなわちかれは、宰相の位をぬすんだもの、すなわち宰相としての職責を果たさなかったもの、といってよいのではないか。なんとなれば、かれの時代には、柳下恵のような賢人がおり、またその賢人さを認識していたにもかかわらず、しかも柳下恵を大臣に抜擢し、ともに政府に立つということをしなかったからである。柳下恵は、あとの微子第十八に二度(第二章、第八章、引用者注)に二度見える。 諸橋轍次「論語の講義」には、次のように書いてあります。 治に当たる者の一つの仕事は、賢者を探し出すことである。然るに臧文仲は賢者あるを知りながら、これを登用することをしなかった。私のために公を忘れた人物である。これは位を盗む者といってよいと責めたのである。 宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。 子曰く、魯の臧文仲は禄盗人と言えようか。柳下恵の賢人であることを知って、かえってこれを排斥した。 十四.「衛霊公第十五、第十四章」
子曰、躬自厚而薄責於人、則遠怨矣。
孔先生がおっしゃった。 この章の解説: これは、幕末の大儒佐藤一齋が言志後録に言う「春風を以て人に接し、秋霜を以て自らを粛(つつし)む」と同じような意味なのでしょう。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。 「躬(み)自(みずか)ら厚くする」とは、厚くみずからを責めることであり、厚く自らの責任を意識して、厚く自ら反省する、というのが、古注…の通説である。…もっとも、「厚」は、厚く責めることではなく、一般的に「其の徳を厚くする」のであると読む説もある。 諸橋轍次著「論語の講義」には、次のように書いてあります。 「君子は諸(これ)を己に求む。小人は諸(これ)を人に求む(衛霊公、二十)」などの言葉とあわせ考うべき章である。 宇野哲人著「論語新釈」には、次のように書いてあります。 この章は怨みに遠ざかる道を述べたのである。人はとかく己を責めることは寛大で他人を責めることは厳重だから怨みが生ずるのである。 渋沢栄一著「『論語』の読み方」には、次のように書いてあります。 自分を厳しく責めて不徳を反省し、他人に対しては責めることを控え目にし、一善あるいは一長あればよしとして多くを求めない。そうすれば、人にうらまれることはないし、逆に人をうらむ気持ちが湧いてくることもないだろう。また、自分の行ないも道を踏まえた正しいものになる。家内の和合も、友人との交際も、深く自分を責めて人をあまり責めなければ、和気あいあいと円滑に物事が行われてゆく。したがって、この項の教訓は一身の処世法として、いまの世の中にも十分通用する。いや、いまの世はこの教訓をもっともっと広める必要がある。自分のことは棚に上げておいて、やたら他人を非難痛罵する連中が多い。他人の短所を公然と非難しながら、自分が同じことをやっている人も少なくない。これらはみな自分を責めること薄く、人を責めること厚い者である。わが身をつねって人の痛さを知り、仁の心で接するようにすれば、物事はなんでもうまくいくようになるものである。 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。 わが身を責める時には厳しくし、他人を責める時には寛大にすれば、人から逆恨みされずにすむよ。 十五.「衛霊公第十五、第十五章」
子曰、不曰如之何如之何者、吾末如之何也已矣。
孔先生がおっしゃった。 この章の解説: 伊與田覺著「『人に長たる者』の人間学」には、次のように書いてあります。
孔子という人は生涯努力を続けた人だけども、生きているときには遂に本当の共鳴者を得なかったといいます。五十歳から五十五、六まで政治に携わって、総理大臣の代行までやりましたが、既成勢力に阻まれてそこを去り、十三年間、各地を巡るんです。「天下をして平安な社会を」という夢を描いておりましたけれども、どこにも彼を認めてくれる人はなかった。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 孔子の教育は、弟子に教義を教え込むのではなく、弟子の問いにしたがって指導するという、いわゆる啓発主義の教育であった。 十六.「衛霊公第十五、第十六章」
子曰、群居終日、言不及義、好行小慧。難矣哉。
孔先生がおっしゃった。 この章の解説: 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 孔子の弟子たちは、いつも寄り合っていろいろと議論をしていた。孔子の目からすると、どうも、もうひとつ本質に触れない議論ばかりしていると感じたのであろう。まさか喫茶店などにたむろして、悪事を働こうと謀議している者に警告を発しているわけでもあるまい。しかし、そうともとれるのは、簡潔なことばの中に、古今に通じた教訓を含んでいるからであろう。 安岡正篤著「論語に学ぶ」には、次のように書いてあります。
孔子が言われた、「様々な人間が一日中大ぜい集まっておって、話が少しも道義のことに及ばない、そうして小ざかしいことを好んでやっておるのは、本当に困ったものである」。 安岡先生は、「朝の論語」にも、次のように書いておられます。 幾人もの人間がのらくら集まって終日別に気のきいたことを何もやらず、好んで小慧を行う、この慧は「ケイ」でもよし、また「エ」という音もあります。仏典などではみな「エ」と読んでおることは御承知の通りであります。小慧を行うと言うことは、小ざかしいことに興ずることです。不良仲間・愚連隊などの中によくある、否、何々クラブとか、何々会というところに集まる御常連なども五十歩百歩ですが、ちょっと気のきいたことなどを得意にすることであります。こういうことは始終世の中に行われておることであります。こんなことではどうにも救われない。しまつのわるいものである。しかしこういう人間に頭からまっすぐに道理を説いても受けつけるものではありません。 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。 寄り集まって一日中クッチャベッていながら、天下国家のことには全く触れず、コセついた話題に終始しているような連中は、どうにも救いようがないやね。 なるほど。古今東西を問わず、人間社会というのは、救いようのない連中の集まりのようでありますねぇ…。 十七.「衛霊公第十五、第十七章」 子曰、君子義以質、礼以之行、孫以之出、信以之成。君子。 子曰く、君子は義以て質となし、礼以て之を行い、孫(そん)以て之を出し、信以て之を成す。君子なるかな。
孔先生がおっしゃった。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 孫以て之を出だし:「孫」は謙遜の意。「これを出だす」は、鄭玄の注が、ことばにあらわすことだとしているのが適切である(貝塚茂樹著「論語」)。 この章の解説: 独自の解釈を試みました。すなわち、子曰く、君子は義以て…の君子を、「諸君」と、孔子が弟子たちへ呼びかけたのだと解釈したのです。そうすると、意味がスッと通るように思います。また、「義以て質となし」の「質」は「文」と対比されるもので、雍也第六第十六章には、「質、文に勝てば則ち野。文、質に勝てば則ち史。文質彬彬として然る後に君子なり」とあります。 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。 君子というのは、考え方は正義を根本とし、行動は礼儀にかない、言葉は謙遜で、人々から信頼されて物事を成就する、まことに立派な人物のことを言うんだよ。 宇野哲人著「論語新釈」では、「君子は事を行うのに義をもって根本とする。義に従ってそのままに行えば角が立つから、礼に因(よ)ってこれを節して過不及(かふきゅう)のないようにこれを行う。礼は譲を本(もと)とするから、謙遜をもってこれを出す。少しの偽りもなく始めから終わりまで真実の心をもってこれを成し遂げる。このようにするならば事を処するに善を尽くすことができて、誠に成徳の君子の道である」と解釈し、「この章は君子の道を説いたのである。初めの『君子』はよけいな字が入ったのだと説く人がある。そうではないと説く人もある。又初めと終わりとの『君子』をどちらも人と見る説と、初めのを人と見、終わりのを道と見る説とがある。通釈は後の説に従ったのである」と解説してます。 十八.「衛霊公第十五、第十八章」 子曰、君子能無病。人己知病。 子曰く、君子は能無きを病(うれ)う。人の己を知らざるを病えず。
孔先生がおっしゃった。 この章の解説: 金谷治著「孔子」には、次のように書いてあります。 君子は自分に能力が乏しいことを気づかってそれを得ようと努力する。他人が自分を認めてくれないことなどで、くよくよしたりはしない。…世俗的な価値の外に、真実の正しい道を見つめるもののことばである。後半は学而篇巻頭の「人知らずして慍みず、亦君子ならずや」と同じである。憲問篇三二にも重出しているが、そちらでは「君子」の二字がない。 伊與田覺著「『人に長たる者』の人間学」には、次のように書いてあります。
やっぱり人間というのは本来、生涯孤独です。…明日も知れない不安がある。考えようによったら不安な存在ですよ、これ。「一寸先は闇の世さ」というけど、まさにそうです。 宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。 子曰く、諸君は自分の能力が不充分ではないかと常に気をつかい、人が自分を認めてくれないなどは問題にせぬがよい。 十九.「衛霊公第十五、第十九章」 子曰、君子疾没世而名不称焉。 子曰く、君子は世を没するまで名の称せられざるを疾(にく)む。
孔先生がおっしゃった。 この章の解説: 思い切って意訳をしてみました。「名の称せられざる」というのは、一般的には「世間に名が知られない」と訳しますが、前章では「人の己を知らざるを病えず」と言っております。したがって、人から認知されないことなど気にしないが、人の役に立たないことを恥じるのである、と解釈したわけです。 林田明大著「真説『伝習録』入門」には、次のように書いてあります。
(『論語』衛霊公篇に)《世に没して、その名が称せられないのを憎む》にある称の字は、去声(きょしょう)と読むべきなのです。〔つまり、《名のかなわないのを憎む》、本人の名声と実質とが一致しないのを憎む、と理解すべきなのです〕〔それは、『孟子』離婁下篇の〕《名声が実力以上に高くなることを君子は恥じる》と同じ意味なのです。実質が名声にふさわしくないことは、生きている間ならまだ改めることができますが、死んでからでは間に合いません。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 前章でいうように、他人に認められるために勉強しているのではないが、勉強して実力がつけば、必ず世間に出て、その理想を実現するために働かなければいけないと考えていた。そうすれば、きっと世の中の人に知られる仕事もできるはずである。こういう前提がないと、前章と本章とは矛盾する。一見矛盾するが、終局的に道義・学問は世に知られずにはおかれないという手放しの楽天論的にだけ理解するのは、孔子の本旨ではあるまい。孔子の学問は実践的であり、積極的であるからである。 吉田賢抗・加藤道理著「論語新版」には、次のように書いてあります。 『論語』の第一章で、「人知らずして慍みず、亦君子ならずや」と言うように、世人が自分の学徳を認めてくれなくても、不平不満を抱かない人を君子である、と孔子は言う。だが一方、「四十五十にして聞こゆること無くんば、斯れ亦畏るるに足らざるのみ(子罕篇)」と言う。一見矛盾するように思われるが、これは矛盾ではない。その解答は「己を知る莫きを患えずして、知らるべきを為さんことを求めよ(里仁篇)」にある。毀誉褒貶に煩わされず、なすべきをなすのが君子なのである。 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。 世間に名を知られることが目的でないにしてもだ、生涯まったく名を知られずに終わるのは無念だと思うくらいでなくてはダメだよ。 二十.「衛霊公第十五、第二十章」 子曰、君子求諸己、小人求諸人。 子曰く、君子は諸(これ)を己に求め、小人は諸を人に求む。
孔先生がおっしゃった。 この章の解説: 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 求めるものは何であるか、いろいろあるであろう。ともかく期待するものは、自己の中にある。自己の力によって期待を実現する。他人から与えられることを期待してはいけないということであろう。 金谷治著「孔子」には、次のように書いてあります。 君子は責任の主体としての自覚をもっているから、なにごとについても自分の責任ではないかと反省して、まず自分を責める。しかし小人は自分のことは棚にあげて、なにごとにも他人を責める。‥自省反求は『孟子』『中庸』『大学』など、のちの儒教でいっそう強く説かれていく。 諸橋轍次著「論語の講義」には、次のように書いてあります。 このことは善悪両面についていえることと思う。君子は己の過誤を責めることは厚いが、人の過誤を責めることは薄い。小人はこれと反対である。又事を行う場合に、君子は自分みずからそれだけの実力があるかないかを内省しているが、小人は自分の能力の有無を省みず、人に己を買ってくれることを要求して行く。これみな人に求め、己に求める別である。 宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。 子曰く、諸君は凡て事の成否を自分自身の責任だと覚悟してほしい。ゆめ他人のせいになすりつけてはなりませぬぞ。 二十一.「衛霊公第十五、第二十一章」 子曰、君子矜而不争、群而不党。 子曰く、君子は矜(きょう)にして争わず、群して党せず。
孔先生がおっしゃった。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 矜:おごそかにそれを持することである。矜持ということばがこれから生まれる(貝塚茂樹著「論語」)。 この章の解説: 大胆に訳してみました。意訳です。 宇野哲人著「論語新釈」には、次のように書いてあります。 君子はおごそかに敬(つつし)んで己の身を持つけれども、そむき戻る心がないから争わない。和らぎ親しんで衆人と群居するけれども、おもねり比(した)しむ意がないから非でもかまわずに党するようなことはない」と訳して、「この章は君子が己を持し衆に処する道を述べたのである。上の句は己を持して人を失わず、下の句は人に処して己を失わないのである。 貝塚茂樹著「論語」では、次のように訳しています。
先生がいわれた。 伊與田覺著「現代訳 仮名論語」では、次のように訳しています。
先師が言われた。 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。 立派な人物は沈着冷静で我を忘れて争うことなどしないもんさ。人と協調するが、派閥活動などしやせんよ。 宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。 子曰く、諸君は自尊心をもちながらも排斥しあわず、共同に仕事をしながら、しかも派閥を造らぬように心掛けるがよい。 加地伸行著「論語」では、次のように訳しています。 老先生の教え。教養人は誇りを持っているが他者と争わない。共同生活はするが徒党は組まない。 二十二.「衛霊公第十五、第二十二章」 子曰、君子不以言挙人、不以人廃言。 子曰く、君子は言(げん)を以て人を挙げず、人を以て言を廃せず。
孔先生がおっしゃった。 この章の解説: 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。
先生がいわれた。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。 言語のみをもって人間を尊重抜擢しないのは、憲問第十四(第五章、引用者注)にもいうように、「言有る者は必ずしも徳有らず」であるからである。またその人間に対する漠然たる評価のゆえに、その人の言葉を廃棄しないのは、固定観念の固守は、対人関係においては、ことに慎むべきであるからである。「礼記」の「曲礼」上に、「愛して而も其の悪を知り、憎みて而も其の善を知る」というのは、ここと通ずる。 諸橋轍次著「論語の講義」には、次のように書いてあります。 小人はこれと反対で、人を見るの明(めい)がないから、善言だけ聞いて直ちにその人を信用し、憎悪の感情が先に立つから、相手の人柄によって、その人の言う善言をも棄て去ってしまう。ここにも君子と小人との差が存する。 加地伸行著「論語」では、次のように訳しています。 老先生の教え。教養人は、相手の意見だけで、その人物を〔よく見ないで〕抜擢することはしない。〔逆に〕あんな人物だからといって、その意見〔が良いのに、それ〕を無視することはしない。 宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。 子曰く、諸君は言葉を聞いただけでその人を評価してはならないし、たとえつまらぬ人でも言うことがよかったら聞き流してはならない。 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』では、次のように訳しています。 ひとかどの人物というのは、相手の言葉だけで人を軽信せずに、行動をしっかりと見極めるものだよ。また、誰が発言しようと無視するようなことはしないものだね。誰の発言だろうと、正しい意見は採用するのさ。 以上、いろいろな解釈がありますが、要は、「人というのは、その人物が発する言葉だけで信用することはできない。しかし、人柄が劣っていても、良いことを言うことはあるので、その言葉を無視してはいけない。場合によっては、その言葉を取り入れるという寛大さが必要である」ということでしょう。 二十三.「衛霊公第十五、第二十三章」 子貢問曰、有一言而可以終身行之者乎。子曰、其恕乎。己所不欲、勿施於人。 子貢問うて曰く、「一言にして以て終身之を行うべき者あるか」。子曰く、「其れ恕か。己の欲せざる所人に施す勿(なか)れ」。
(ある時、)子貢が(孔先生に)たずねた。 この章の解説: 独断と偏見で訳してみました。それにしても、子貢の質問の内容が段々的を射たものになってきているようです。ここでは「恕」という言葉が孔子の口から発せられましたが、「恕」という言葉は大変に奥深い概念であり、とても一言で説明することなどできません。しかし、孔子は、「己の欲せざる所人に施す勿(なか)れ」とズバリと言い表しています。 その「恕」について、安岡正篤先生の言葉を借りて掘り下げてみましょう。出典は「人物を創る(人間学講座「大学」「小学」)」です。
「恕」の意味…「恕」という文字はこれまた軽々しく見てはならない。「夫子の道は忠恕のみ」(里仁篇)、孔子の教えも眼目の一つはこの「恕」にあるわけで、恕という文字は「如」プラス「心」です。問題は「如」という意味。仏教でも真如、如如等、仏典を解釈する上において逸することのできない大事な根元的な文字です。したがって思想である。この「如」という字は女扁で、男扁ではない。旁(つくり)は口ではない。これは女の領域、分野を表す文字、女の領域を如という。如とは、ごとし、そのまま、ながら、という文字である。この真如とか如如とかいう如は、天ながら、道ながら、自然ながら、宇宙ながら、そういう自然そのままを表す。「そのまま」と訳せばよい。したがって造化、宇宙はたえざる創造であり、作用、運動でありますが、如という字をまた、ゆくとも読む。何故ゆくと読むか。読み方というものはみな意味の内面的な連絡があって読むのです。 伊與田覺著「『人に長たる者』の人間学」には、次のように書いてあります。 「恕」というのは仁が外に形となって表れたもので「吾の如く相手を思う」という思いやりのことです。 諸橋轍次著「論語の講義」には、次のように書いてあります。 孔子が理想とするところは仁道の実現であるが、その具体的方法が恕に存することは、この章によっても明らかである(里仁、十五参照)。なおこの章では、恕の道について、己の欲しない所を人にも施さぬという消極面のみを以て説明しているが、孔子の恕が己の欲する所をまず人に施して行くという積極面をも持つものであることは、雍也篇、二十八の、「己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す」などの語に徴しても明らかである。 吉田賢抗・加藤道理著「論語新版」には、次のように書いてあります。 「恕」の字は、これを二字に分けると「心の如し」となり、「自分の気持ちを考えるのと同じように他人の気持ちを思いやる」のが恕である。これを具体的に言えば「己の欲せざる所は人に施す勿(なか)れ」であり、より積極的表現をとれば「己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す(雍也篇)」となる。 加地伸行著「ビギナーズ・クラシックス 論語」には、次のように書いてあります。
人間は、社会に出ていろいろな人に助けられながらも、独りの人間として、自立して覚悟して生きてゆかなくてはなりません。どんなに辛くとも、どんなに孤独であろうとも、生きてゆかなくてはなりません。(中略) 人間は、生きてゆく手段・方法を使って、ただ生きてゆくというだけのことでは満足できません。たった一回の人生なのですから、精一杯、生きてゆきたい、これはだれしもの願いです。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 曽子は孔子から、「吾が道は一以て貫く」ということばを聞いて、自分の弟子にそれは「忠恕」だと語った(里仁篇第十五章)。同じように、「予一以て貫く」という教えを受けた(本篇第三章)子貢が、またこの「一貫」の原理は「恕」だと孔子から教えられている。仁を「恕」つまり思いやりと解する解釈は、子貢と曽子の両弟子が伝え聞いたことになり、二つの伝承が『論語』の中に保存されているのである。 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。 弟子の子貢が「ほんの短くて、座右の銘にできるような言葉はありませんか」というから、「そうさな、『思いやり』かね。自分がされたくないことを人にしないってことだよ」と教えたよ。 二十四.「衛霊公第十五、第二十四章」 子曰、吾之於人也、誰毀誰誉。如有所誉者、其有所試矣。斯民也、三代之所以直道而行也。 子曰く、吾の人に於ける、誰(たれ)をか毀(そし)り誰をか誉(ほ)めん。如(も)し誉むる所の者あらば、其れ試みる所あるなり。斯の民や三代の直道(ちょくどう)にして行う所以なり。
孔先生がおっしゃった。 この章の解説: 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。 人間に対する私の態度として、気ままに誰をも非難し、誰をもほめるということはない。もし何かの点でほめたとしたならば、私の賞讃が理由のあるものであることを実証するために、なにかをやらせて試験して見る。それが私の、人人に対する態度であり、正直すぎる迂遠な方法のように思われるかも知れないが、いま目のまえにいるこの人民も、三つの理想的な王朝が、正直な方法で万事を遂行したときのままの人民である。私の方法が通用できないはずはない。大体は以上のような意味である。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。
先生がいわれた。 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」には、次のように書いてあります。
わたしは、人をわけもなく貶(けな)したり誉めたりはしないよ。誉める時は、誉めるべき理由を指摘して誉めるんだ。というのも、人間は誰でも長所を持っているから、それを指摘しさえすれば、後は古代の純朴な人々と同じように、自分たちで真っ直ぐに伸ばすものだからだよ。 二十五.「衛霊公第十五、第二十五章」 子曰、吾猶及史之闕文也、有馬者借人乗之。今亡矣夫。 子曰く、吾は、猶お史の文を闕(か)き、馬ある者は人に借して之に乗らしむるに及べり。今は亡きかな。
孔先生がおっしゃった。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 文を闕(か)く:疑わしい事は書かないでいること この章の解説: 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。
「史」の字は…、古代では吏官、すなわち歴史記述を扱う官吏を意味することが多い。…ここも、その意味である。「欠(闕、引用者注)文」とは、疑問の文字を、空格にすることである。むかしの吏官は慎重であり、そうした態度であったのを、私自身、この目で見た。またもう一つ、この目で見たこととして、馬を手に入れても、荒れ馬で、よく乗りこなせない場合は、しかるべき人に貸して、馴らしてもらう、ということがあった。過度に自己を主張しないという点で「史の欠文」と同じ美徳であったが、現在ではその風習が、どちらもなくなった。つまり人人はいよいよがむしゃらになった。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。
子曰、吾猶及史之闕文也、有馬者借人乗之。今則亡矣夫 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。 昔の歴史を司る役人は、自分が判断できない箇所は余白にしておいて、誰か有能な者があとから書き込めるようにしておいたもんだよ。また、自分が乗りこなせない馬を持っている者は、自分よりも巧みな乗り手に貸し与えたものさ。ああいう奥ゆかしさは、昨今ではとんとお目にかからなくなっちまったねェ。 以上が本章に関する解釈ですが、どれもこれもピンとこないというのが正直なところです。あえて言えば佐久協(やすし)先生の訳が意味としては通じているように思います。わたしも佐久先生と同じような解釈をしました。これなら、何とか意味が通じるでしょう。 二十六.「衛霊公第十五、第二十六章」 子曰、巧言乱徳。小不忍、則乱大謀。 子曰く、巧言は徳を乱る。小を忍ばざれば則ち大謀(たいほう)を乱る。
孔先生がおっしゃった。 この章の解説: 渋沢栄一著「『論語』の読み方」には、次のように書いてあります。 孔子は、「うまい言葉は徳を害し、小さいことを我慢できないと大きな計画をつぶしてしまう」と説いている。この項は似て非なるものの害を教えている。乱というのは、人を惑わせ乱してその非を悟らないことをいう。小、忍びざる、は仁と勇に似ているが、似て非なるものである。延元元年五月、足利尊氏が九州から七千余艘(そう)を率い、直義(ただよし)が歩騎二十万の将として京都に向かって水陸から侵攻した。守る側の大井田氏経(うじつね)と脇屋義助が福山城(備後)で敗れ、新田義貞は播磨の囲みをといて退いて兵庫に布陣した。この報を聞いて楠木正成は、「義貞を呼び戻し、天皇は叡山に避難し、敵を京都に入らせる。そして総力を結集して水路をふさぎ糧道を絶ち、敵の疲れをまって一挙に打ち破ろう」と天皇に奉上した。ところが、参議の藤原清忠が反対した。「いま賊軍は一時の勢いはない。そして義貞はまだ賊と戦っていない。陛下が急に京都を捨てられると味方の士気にかかわる。いますぐ、すみやかに正成を前線に派遣し都の外で戦わせよ」。清忠の言葉は正論らしく聞こえる。しかし、その実は敵をあなどり、実勢を把握しておらず、不忠の意思がまったくなかったとしても、戦略を知らない未熟者の発言にすぎない。ところが天皇はその言に従い、ついに大敗して尊氏の天下となってしまった。これは清忠の巧言が天皇を惑わしたのである。「巧言令色鮮いかな仁」、「剛毅木訥仁に近し」、多言饒舌の人は信用しがたいものである。「君子は言に訥にして、行いに敏ならんことを欲す」、「大事の前の小事」、「堪忍は無事長久の基(もとい)」、「目前の欲が強ければ大利を失う」、「小利を見れば大事成らず」などの金言は、すべてこの項の教えと一致しているからである。 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。 口先人間は道徳を損ない、我慢知らずは大きな仕事をやり損なう。 なるほど、名訳です。 二十七.「衛霊公第十五、第二十七章」 子曰、衆悪之、必察焉、衆好之、必察焉。 子曰く、衆之を悪むも必ず察し、衆之を好むも必ず察す。
孔先生がおっしゃった。 この章の解説: 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。
先生がいわれた。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。 群衆は往往にして衆愚であることがあり、それが原因となって独裁者が生まれ、村八分が生まれる。それに対する警告である。相い照応する言葉として、さきの子路十三(第二十四章、引用者注)に、「子貢問うて曰く、郷人皆な之を好まばいかん。子曰く、未だ可ならざる也、郷人皆之を悪まばいかん。子曰く、未だ可ならざる也。郷人の善き者之を好み、其の善からざる者之を悪むには如かず」。 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。 全員が悪く言うからとて鵜呑みにせず、きちんと調べてみるべきだ。全員が良く言ってる時も同じことだよ。 衛霊公篇第十五 まず、衛霊公篇全般について、貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 衛霊公が孔子に陣立てをきいた、首章の最初の文字をとってこの篇は名づけられた。合計四十二章で、憲問篇に次ぐ長編である。孔子の短いことばを多く収め、内容は憲問編よりさらに雑多で、篇としての特徴をもたない。短い金玉の名言が含まれてはいるものの、憲問篇とともに、これまでの諸篇にもれた孔子のことばをかき集めた感じが濃厚である。 諸橋轍次著「論語の講義」には、次のように書いてあります。 この章の前半には、孔子在衛時代の事柄が多く、中ほどからは仁道に関する問答が多い。そして後ろの部分には、文句の短いものが並べられているが、それも一つの特色であるように思う |