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心の経営コンサルタント/中小企業診断士/東洋思想実践家 |
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為さざる有るなり、而して後、以て為す有るべし。孟子 |
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週刊メッセージ・二〇〇七 <<<週刊メッセージ2006へ>>> <<<週刊メッセージ2005へ>>> <<<週刊メッセージ2004へ>>> <<<週刊メッセージ2002-2003へ>>> 堯曰篇第二十 「堯曰篇」について、貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 この篇は「堯曰わく」の第一章にはじまる。舜が天命を受けて帝になったときの、天命の内容を堯の任命のことばによって描く。それが禹に伝わり、さらに殷の開祖の湯王によって受け継がれる。またさらに周の文王・武王にも伝わる。この伝授されてゆく天命の内容を紹介するのがこの篇である。そして、「命を知らざれば、以て君子と為すことなきなり」の孔子の語によって、それが受けられる。要するに、天命の継承の歴史を述べたものであるが、中間に(第二章)、政治についての子張と孔子の問答がはいって印象がぼやけてしまった。しかし、孔子がもっとも語ることを好まなかった「天命」の、古代の伝承を説明するために、この篇は書かれたものである。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。
…全書二十篇の最後に位するこの篇は、大変特殊な篇である。…郷党第十も、内容と構成が特殊であったが、この篇は一層甚だしい。 一.「堯曰第二十、第一章」 堯曰、咨爾舜、天之暦数在爾躬。允執其中。四海困窮、天禄永終。舜亦以命禹。曰、予小子履、敢用玄牡、敢昭告于皇皇后帝。有罪不敢赦。帝臣不蔽。簡在帝心。朕身有罪、無以万方。万方有罪、罪在朕躬。周有大賚。善人是富。雖有周親、不如仁人。百姓有過。在予一人。謹権量、審法度、修廃官、四方之政行焉。興滅国、継絶世、挙逸民、天下之民帰心焉。所重民食喪祭、寛則得衆、信則民任焉、敏則有功、公則説。 堯曰く、「咨(ああ)爾舜、天の暦数(れきすう)爾の躬に在り。允(まこと)に其の中を執れ。四海困窮せば、天禄永く終らん」。舜も亦た以て禹に命ず。曰く、「予(よ)小子履(り)、敢えて玄牡(げんぼ)を用いて、敢えて昭(あき)らかに皇皇たる后帝に告ぐ。罪有れば敢えて赦さず。帝臣蔽(おお)わず。簡(えら)ぶこと帝の心に在り。朕(わ)が身罪あらば、万方(ばんぽう)を以てする無し。万方罪あらば、罪朕が躬に在り」。周大賚(たいらい)あり。善人是れ富む。「周親ありと雖も、仁人に如かず。百姓(ひゃくせい)過(とが)むるあり。予一人(いちにん)に在り」。権量(けんりょう)を謹み、法度(ほうど)を審(つまび)らかにし、廃官(はいかん)を修めて、四方の政行わる。滅国(めっこく)を興し、絶世を継ぎ、逸民を挙げて、天下の民心を帰す。重んずる所は民の食喪祭(しょくそうさい)、寛(かん)なれば則ち衆を得、信なければ則ち民任じ、敏なれば則ち功あり、公なれば則ち説(よろこ)ぶ。
第一段: この章の解説: 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。
(第一段、引用者注) 吉田公平著「論語」には、次のように書いてあります。 この一条は、古代の聖王が禅譲したときに告げた言葉をあつめた。堯→舜→禹と帝位を禅譲したが、禹が開いた夏王朝は桀に至って殷の湯王に亡ぼされた。その殷王朝の紂王に至って周の武王に亡ぼされた。王道政治の理念をのべた語録である。 二.「堯曰第二十、第二章」 子張問於孔子曰、何如斯可以従政矣。子曰、尊五美、屏四悪、斯可以従政矣。子張曰、何謂五美。子曰、君子恵而不費。労而不怨。欲而不貪。泰而不驕。威而不猛。子張曰、何謂恵而不費。子曰、因民之所利而利之。斯不亦恵而不費乎。択可労而労之。又誰怨。欲仁而得仁。又焉貪。君子無衆寡、無小大、無敢慢。斯不亦泰而不驕乎。君子正其衣冠、尊其瞻視、儼然人望而畏之。斯不亦威而不猛乎。子張曰、何謂四悪。子曰、不教而殺、謂之虐。不戒視成。謂之暴。慢令致期。謂之賊。猶之与人也。出納之吝、謂之有司。 子張、孔子に問うて曰く、「如何なるか斯れ以て政に従うべきか」。子曰く、「五美(ごび)を尊び四悪(しあく)を屏(しりぞ)くれば斯れ以て政に従うべし」。子張曰く、「何をか五美と謂う」。子曰く、「君子は恵(けい)して費(つい)えず。労して怨みず。欲して貪らず。泰(たい)にして驕らず。威あって猛(たけ)からず」。子張曰く、「何をか恵して費えずと謂う」。子曰く、「民の利する所に因って之を利す。斯れ亦た恵して費えざるにあらずや。労すべきを択(えら)んで之を労す。また誰をか怨みん。仁を欲して仁を得たり。また焉んぞ貪らん。君子は衆寡(しゅうか)となく、小大となく、敢えて慢(まん)するなし。斯れまた泰にして驕らざるにあらずや。君子は其の衣冠(いかん)を正しくし、其の瞻視(せんし)を尊くし、儼然(げんぜん)として人望んで之を畏る。斯れ威あって猛からざるにあらずや」。子張曰く、「何をか四悪と謂う」。子曰く、「教えずして殺す、之を虐(ぎゃく)と謂う。戒めずして成るを視(み)る。之を暴と謂う。令を慢にして期を致す。之を賊と謂う。猶(ひと)しく之人に与うるなり。出納(すいとう)の吝(やぶさ)かなる、之を有司(ゆうし)と謂う」。
子張が孔先生に尋ねて言った。 この章の解説: 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。 …この章は、「五美」「四悪」という教え方が、図式的であるばかりでなく、これまでの諸篇に見えた言葉と、重複するものが多い。最初の頃の「論語」のあちこちに見えた言葉を、綴り合わせ挿み込んで、無理に全篇の結語としたような感じが強い。 宇野哲人著「論語新釈」には、次のように書いてあります。 この章は政(まつりごと)に従う道を詳述したのである。孔子が政を問う者に告げたことは多いが、まだこれ程に備わったものはない。故にこれを記して帝王の治に継いだので、孔子の政をする方法が思い知られるのである(尹焞〔いんじゅん〕)。 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。
弟子の子張とこんな問答をしたよ。 三.「堯曰第二十、第三章」 子曰、不知命、無以為君子也、不知礼、無以立也、不知言、無以知人也。 子曰く、命を知らざれば以て君子と為るなし、礼を知らざれば以て立つなし、言を知らざれば以て人を知るなし。
孔先生がおっしゃった。 この章の解説: 論語最後の章について、安岡正篤先生は「朝の論語」で、次のように言っておられます。
自然と人間を一貫する絶対性、天命を知らなければ本当の人間にはなれない。自然も人間も円満な自律・諧和(和らいで親しみ合うこと、協調、辞書から)・奉公すなわち礼によって存立しているのですから、それを知らなければ人間として本当に存立することはできない。また言を知らなければ、すなわち学問・思想・言論が分からなければ、人間というものを知ることができない。 また、安岡先生は「知命と立命」で、次のようにも言っておられます。
人生そのものが一つの「命(めい)」である。その「命」は光陰歳月と同じことで、動いて止(や)まないから、これを「運命」という。 諸橋轍次著「論語の講義」には、次のように書いてあります。 この章は、三か条の教えを列挙したものであるが、君子ということが、或いはその三者を貫くものであるかも知れない。而してその第一節に君子の知命を掲げているが、これは学而篇一の「人知らずして慍(いか)らず、亦君子ならずや」の一節と相応ずるところがあるのであって、論語の編纂者が、ここにおいて終始をなしたものであるとも、言われているのである。 宇野哲人著「論語新釈」には、次のように書いてあります。 この章は人の知るべき肝要なことを示したのである。この三つを知れば君子の事は完備する。孔子の弟子がこれを記して論語の最後においたのは意味のないことではない。学者が幼少の時からこの論語を読んで、老年に至るまでの一言をも己の役に立てることを知らないで名利に没頭して世を送るならば、聖言(せいげん)を侮る者に近くはなかろうか。このような者は孔子の罪人である。深く念(おも)わなければならぬのである(尹焞〔いんじゅん〕による)。 以上で論語意訳は完となります。七ヶ月と十日ほどかかりました。有り難うございます! 子張篇第十九 諸橋轍次著「論語の講義」には、子張篇について、次のように書いてあります。 この篇は、古人もいう通り、大体孔門の人々の言葉を記しているが、中でも子夏が最も多く、子貢がこれに次いでいる。顔淵の没後、聡明穎悟(えいご:すぐれて悟りのはやいこと。賢いこと)の点では子貢が第一であり、曾子を除けば、篤実なる事、子夏に及ぶ者がないので、自然この二人の言葉が多いと言われる。顔淵や子路は共に孔門の高弟ではあったが、それらの言葉の出ておらぬのは、恐らくはこの二人が孔子に先立って没し、この篇を編纂する頃には、その言葉が伝わらなかったものであろう。なおこの篇は、上述の如く門人の言葉だけであるが、しかし門人の言葉はもとより孔子の教えに基づいているものであるから、従来出て来た孔子の言葉に類似するものも多く、又この篇において門人の語として記されているものも、漢代の色々の書物には、孔子の語としている場合もある。師弟の関係の事であるから、これもまた当然のことであろう。 また、吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。 この篇は、全部が弟子たちの言葉であり、孔子の言葉は含まれない。皇侃の「義疏」は全二十四章を五つに分け、第一章、第二章は子張の語。第三章から第十三章までは子夏の語。第十四、第十五章は子游の語。第十六章から第十九章までは曽参の語。第二十章から第二十四章までは子貢の語とする。 さらに、貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 子張と子夏の学派の間の相互批判と、子游と子夏との論争を述べた第三章・第十二章は、孔子の死後の学派の対立を語る儒教思想史上の重要文献である。しかしこの篇の主流は、子夏・子貢・曽子によって占められている。とくに子貢は、たびたび孔子とどちらが才がまさっているかを問題にした第二十二章・第二十三章・第二十四章・第二十五章の問答を通じて、孔子の在世時代から死後にかけて、非常に尊重され、勢力をもってきたことをあらわしている。この篇が、子貢を祖とする斉地方の学派、いわゆる斉学の伝承であるとする武内義雄博士の説はまことに妥当である。諸子の説には、孔子の語をもととしたことばが多く、孔子の語が弟子・孫弟子によりいかに発展され、伝承されていくか、その過程を示している。 一.「子張第十九、第一章」 子張曰、士見危致命、見得思義、祭思敬、喪思哀、其可已矣。 子張曰く、士は危うきを見て命を致し、得(う)るを見て義を思い、祭に敬を思い、喪に哀を思わば、其れ可なるのみ。
子張が言った。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 士:士は道を求める者、学問を学ぶ者などいろいろの側面があるが、ここでは才能によって主君につかえる者という根本的な意味で使われている(貝塚茂樹著「論語」)。 この章の解説: 複数の解説本を参考にしながら、わたしなりに訳してみました。呉智英著「現代人の論語」には、「自分の学派をもった時、弟子にでも語ったのだろう。語られた言葉そのものは立派だが、それは魂の籠もらぬものだったのではなかろうか」とあります。わたしもそう思います。 陳舜臣著「論語抄」には、次のように書いてあります。
この子張は『論語』のなかで、最も頻繁に出てくる人物です。けれどあまり高く評価されていません。彼は子夏とよくくらべられました。二人は対照的でした。「過ぎたるは猶お及ばざるがごとし」の、「過ぎたる」ほうが子張で、「及ばざる」ほうが子夏でした(先進第十一、第十五章、引用者注)。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 儒教教団は孔子の死後、国家につかえて有用の材となれるように、人間的に完成された人物を形成するという教育の目標がしだいにはっきりとなっていた。子張のことばはこの教育の理念をあきらかにしたものであり、その意味で篇の第一におかれたのであろう。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。
「危うきを見ては命を致す」とは、国家の危機に際会しては、生命をささげる。また利得に際会すれば、正義を思念して、利得を得てよいかどうかを検討する。祭りにあたっては、祭りの一番重要な要素である敬虔を思念し、喪には、最も重要な要素として、哀を思念する。そうであってこそよろしい。 宮崎市定著「現代語訳 論語」には、次のように書いてあります。
子張曰く、学徒たる者は、危険に際しては生命を投げ出すべきや否やを思い、利益ある時は取るべきか否やを思い、祭の際は敬虔の条を捧げんと思い、喪に臨んでは哀を尽さんことを思う。それができれば及第だ。 二.「子張第十九、第二章」 子張曰、執徳不弘、信道不篤、焉能為有、焉能為亡。 子張曰く、徳を執(と)ること弘(ひろ)からず、道を信ずること篤からずんば、焉んぞ能く有りと為さん、焉んぞ能く亡(な)しと為さん。
子張が言った。 この章の解説: 加地伸行著「論語」などを参考にしながら、わたしなりに訳してみました。ひょっとして、これは子張のことではないか…と思ってしまいました。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。 徳を執ること弘からず、道を信ずること篤からざる人間、そんな人間は、存在ともなり得なければ、非存在ともなり得ない。つまり世の中に対し、何の影響力をも、もたない。諸注も同じである。 五十嵐晃著「論語の訳注と考究」には、次のように書いてあります。 現代語訳: わたしが参考にした加地伸行著「論語」では、次のように訳しています。 子張のことば。人格を高めるとしてもある程度で終わり、人の道を信ずるとしても熱心でないとすれば、その人に道徳があるとも言えないし、ないとも言えないことになる。〔なんにもならない。〕 わたしには、この訳がすっと入ってきましたので、加地伸行訳を下敷きにしました。 三.「子張第十九、第三章」 子夏之門人、問交於子張。子張曰、子夏云何。対曰、子夏曰、可者与之、其不可者拒之。子張曰、異乎吾所聞。君子尊賢而容衆、嘉善而矜不能。我之大賢与、於人何所不容。我之不賢与、人将拒我。如之何其拒人也。 子夏の門人、交わりを子張に問う。子張曰く、「子夏は何とか云える」。対えて曰く、「子夏曰く、『可なる者は之に与(く)みし、其の不可なる者は之を拒(ふせ)ぐ』と」。子張曰く、「吾が聞く所と異なり。君子は賢を尊んで衆を容れ、善を嘉(よみ)して不能を矜(あわ)れむ。我にして大賢ならんか、人に於いて何ぞ容れざる所あらん。我にして不賢ならんか、人将に我を拒がんとす。之を如何ぞ其れ人を拒がん」。
子夏の門人が友人との交わり(交際、つきあい)について子張に質問した。 この章の解説: 複数の解説書を参考にしながら、わたしなりに訳してみました。子張が子夏の弟子に向かって、子夏が言ったことを批判しているという内容です。 呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。
子張と子夏の解釈の相違は、学而篇の第六章と第八章に対応している、と先学は説く。 仁に近い人は、「汎(ひろ)く衆を愛して仁に親しむ」ことが理想でしょうが、仁に遠い人は、「己に如(し)かざる者を友とすること無かれ」でないと、人格を磨くことは難しいでしょう。そう考えると、子夏も子張も偏っていると思うのです。孔子は、中庸であることを目指したのですから…。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。
子夏の門人が人と交わる心得を子張にたずねた。子張はいった。 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。
年長弟子の子夏さんの門人とこんな問答をした。 四.「子張第十九、第四章」 子夏曰、雖小道必有可観者焉。致遠恐泥。是以君子不為也。 子夏曰く、小道と雖も必ず観るべき者あり。遠きを致せば恐らくは泥(なず)まん。是を以て君子は為さざるなり。
子夏が言った。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 小道、遠きを致せば恐らくは泥(なず)まん
小道:道家・法家のような諸子百家つまり異端の学をさすと古注は解している。しかし、徂徠の指摘したとおり、子夏の時代はまだ諸子百家の成立以前である。朱子の注のように農・医・卜筮(ぼくぜい)などの枝芸をさすとみるほうがよい。 この章の解説: わたしの解釈で意訳しました。この章を、「技芸などの小さな道でも、見どころはあるが、それを天下国家を治めること(遠大なこと)には適用できない。だから、君子は技芸などは学ばないのである」と解釈している解説本が多いのですが、それには従わず、知識を見識や胆識にまで高めていくことの大切さを説いたものと解釈しました。 諸橋轍次「論語の講義」では、「小さな技芸の道に深入りすると、身動きが取れなくなるから、君子は小道を治めないのである」と訳して、小道の例えとして「碁・将棋などの中にも、人生を処する道を教えるものがあるが、普通の人間では、それに深入りすると、それに心奪われ、動きの取れぬ結果に陥る場合が多い」と解説しています。なるほど、一理あります。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。
子夏曰わく、小道と雖も必ず観るべきもの有らん。遠きを致(きわ)めんとすれば泥(なず)まんことを恐る、是を以て君子は為さざるなり。 五.「子張第十九、第五章」 子夏曰、日知其所亡、月無忘其所能、可謂好学也已矣。 子夏曰く、日々に其の亡き所を知り、月々に其の能くする所を忘るる無くんば、学を好むと謂うべきのみ。
子夏が言った。 この章の解説: 思い切って意訳してみました。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 子夏がいった。 陳舜臣著「論語抄」には、次のように書いてあります。
子夏のことばです。孔子の歿後、子夏が一派の長として訓辞したことばと思われます。 六.「子張第十九、第六章」 子夏曰、博学而篤志、切問而近思。仁在其中矣。 子夏曰く、博く学んで篤く志(しる)し、切に問うて近く思わば。仁其の中(うち)に在り。
子夏が言った。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 切に問うて、近く思わば
切に問うて:「切」は「切するがごとく磋するがごとし」(学而篇第十五章)の「切」である。玉をみがくように鋭く問いかける(貝塚茂樹著「論語」)。 この章の解説:
わたしの解釈で意訳しました。吉田賢抗「論語新版」には、この章は「この章は学問に志す人に、その心構え、方法を教えたもので、博学・篤志(とくし)・切問(せつもん)・近思(きんし)の四つを心がけ、真剣に取り組めば、しだいに仁の徳が身に付いてくる。四書(論語・孟子・大学・中庸)の一つである『中庸』は、この考えを発展させて、博学・審問(こと細かに問いただす)・慎思(慎重に自分の身に反省して考察する)・明弁(物事の是非を明確に判断する)・徳行(誠実に心をこめて善を行う)の五つを挙げている」と書いてあります。 陳舜臣著「論語抄」には、次のように書いてあります。
これも子夏のことばです。 吉川幸次郎著「論語 下」では、次のように訳しています。 子夏の言葉。広い対象について学ぶとともに、中心となる意志の方向の密度を高め、切実な問題意識をもって、自己の周辺の近いところから考えて行く。仁はおのずから、その中に内在し、発生する。 宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。 子夏曰く、博く学んで熱心に理想を追い、切実な疑問を捕らえて自身のこととして思索をこらす。学問の目的とする仁は、その中から自然に現れてくる。 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。 広く学び、意志を強くし、常に疑問を持ち、身近な問題に目を向ける。そうした行為の中にこそ仁は芽生えるものだ。 七.「子張第十九、第七章」 子夏曰、百工居肆以成其事、君子学以致其道。 子夏曰く、百工(ひゃっこう)は肆(し)に居(お)りて以て其の事を成し、君子は学びて以てその道を致す。
子夏が言った。 この章の解説: 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 子夏がいった。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。
子夏の言葉。もろもろの職人は、自分の店にいることによって、その仕事を完成し、君子は学問をすることによって、その生活を推し窮める。「致」の字は、旧訓「いたす」であるが、意味は、「きわめる」「窮極する」である。ここの「致」の字は、その最も顕著な例であり、前章の「遠きを致すには恐らく泥まん」の「致」も、その方向にある。 八.「子張第十九、第八章」 子夏曰、小人之過也必文。 子夏曰く、小人の過ちや必ず文(かざ)る。
子夏が言った。 この章の解説:
わたしの解釈(意訳)です。まさしく、そのとおりだと思います。「衛霊公第十五、第二十九章」に「過って改めざる、是を過ちと謂う」という孔子の言葉がありますが、小人は過って改めざるどころか、過って文(かざ)る、言い訳をして自分を正当化しようとするのです。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 子夏がいった。 宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。 子夏曰く、諸君は万一、過失を犯したなら、決して言い訳してはならぬ。 九.「子張第十九、第九章」 子夏曰、君子有三変。望之儼然。即之也温。聴其言也氏B 子夏曰く、君子に三変あり。之を望めば儼然たり。之に即(つ)けば温なり。其の言を聴けば氏iはげ)し。
子夏が言った。 この章の解説: 加地伸行「論語」を参考にして、わたしの解釈で意訳しました。
諸橋轍次著「論語の講義」に「ここの君子は、或いは子夏が孔夫子の姿を心の中に描いて述べたものであるかも知れない。述而篇三十七の『子は温にして氏iはげ)し。威あって猛(たけ)からず。恭しくして安し』とか、或いは郷党篇に『恂恂(じゅんじゅん)如(じょ)たり、侃侃(かんかん)如たり、與與(よよ)如たり』などと、孔子を表した形容詞が、みなここに当たるように思う」とあります。また、宇野哲人著「論語新釈」には「この章の『君子』は必ずしも孔子をさすのではなかろうが、孔子でなければこれを能(よ)くする者はない」とあります。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。
君子はその自由な精神の表現として、三つの変化をもつ。 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。 弟子の子夏さんが「君子は三つの顔を持つ。離れて見ると厳(おごそ)かで、近くで見ると穏やかで、ことばを聞くと鋭い」と言っているが、これは先生を評したものだろう。 宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。 子夏曰く、諸君に三つのあるべき姿ということを教えよう。遠くから見ると近寄りがたい。ところが実際に近寄って見ると、意外に人あたりがいい。しかしその議論を聞くと穴に入りたいほどきびしい。 十.「子張第十九、第十章」 子夏曰、君子信而後労其民。未信則以為詞ネ也。信而後諫。未信則以為謗己也。 子夏曰く、君子は信ぜられて而して後に其の民を労す。未だ信ぜられざれば則ち以て己を氏iやま)しむと為す。信ぜられて而して後に諫む。未だ信ぜられざれば則ち以て己を謗ると為す。
子夏が言った。 この章の解説: これもまた、加地伸行「論語」を参考にして、わたしの解釈で大胆に意訳しました。
渋沢栄一著「『論語』の読み方」に佩は、「この項は君子が下の者を使い、上につかえる道を論じている。まず下の者を使う道は、人民に信用されることが先決だ。人民に信用されるには、誠意をもって政治を行うことだ。誠意をもって政治を行えば、人民は必ず喜んでついてくる。人民が喜んで従えば、労役を命じても苦情をいわず、喜んでその労役に服してくれる。もし人民の信用を得ないうちに労役を命ずれば、人民は必ず自分たちを苦しめるといって拒む。人はもともと感情的なものだから、情意の疎通が第一だ。情意の疎通ができる間柄になれば、少々無理なことでも互いに笑って我慢し合えるが、もしこれを欠いておれば、何事にも反感をもたれる」とあります。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。
前半は、政治の責任をとるものの、人民に対する心得、また後半は、その君主に対する心得、を説く。後半について参照すべきは、里仁第四(第二十六章、引用者注)の子游の言葉、「君に事うること数しばすれば、斯れ辱ずかしめらる」である。 陳舜臣著「論語抄」では、次のように訳しています。 子夏が言いました。「君子たるものはじゅうぶん人民の信頼をかち得てから、彼らを使役するものです。まだ信じられていないのに使役しようとすれば、人びとはひどい目に遭ったと思うばかりです。これは一般人民にたいしてですが、君主にたいしても、やはり信じられてから諫言すべきであります。もし信じられていないのに諫言するなら、その君主は自分が謗られていると考えるでしょう。自分が謗るような人間でないことを、君主にみとめさせるのが先決です」。 十一.「子張第十九、第十一章」 子夏曰、大徳不踰閑。小徳出入可也。 子夏曰く、大徳(たいとく)は閑(かん)を踰(こ)えず。小徳は出入(しゅつにゅう)するも可なり。
子夏が言った。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 閑、大徳、小徳
閑:法律・規則のこと この章の解説: わたしの解釈、意訳です。加地伸行「論語」は、「子夏のことば、人格者(大徳)は規範を越えることはない。(その規範について、人格者に至ろうとする途中の)未熟な者(小徳)の多少の出入りは、さしつかえない」と訳しています。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 子夏がいった。 五十嵐晃著「論語の注釈と考究」では、次のように訳しています。 子夏曰く、大きい徳(孝悌などの主要道徳)については、きまりを踏み越えないように。小さい徳(細かい礼儀)については範囲を少々越えてもよろしい。 宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。 子夏曰く、修養の上では大事な点で足を蹈みはずすことがなければ、小さな過不及の誤りは数え立てるに及ばない。 十二.「子張第十九、第十二章」 子游曰、子夏之門人小子、当洒掃応対進退、則可矣。抑末也。本之則無。如之何。子夏聞之曰、噫、言游過矣。君子之道、孰先伝焉、孰後倦焉。譬諸草木区以別矣。君子之道、焉可誣也。有始有卒者、其惟聖人乎。 子游曰く、「子夏の門人小子、洒掃(さいそう)応対進退に当れば則ち可かり。抑(そもそも)末(すえ)なり。之を本(もと)づくれば則ち無し。之を如何」。子夏之を聞いて曰く、「噫(ああ)、言游(げんゆう)過(あやま)てり。君子の道、孰(いず)れを先として伝え、孰れを後(のち)として倦(う)まん。諸(これ)を草木の区にして以て別るるに譬(たと)う。君子の道、焉(いずくんぞ)誣(し)うべけん。始めあり卒(おわ)りある者は其れ惟(ただ)聖人か」。
(孔門十哲の一人で、子夏と並んで「文学」に優れていたとされ、子夏よりも一歳若い子游が、)子夏の門人を批判して言った。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 洒掃、言游、倦(う)まん、誣(し)う
洒掃:拭き掃除 この章の解説: これも、わたしの解釈、意訳です。この章は、どの解説本を読んでも、これだ、という訳がなく、ピンとこないので、思い切って訳してみました。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 子游がいった。 呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。
子夏が孔子より若いこと四十四歳。対するに子游は孔子より若いこと四十五歳。子游と子夏は一つしかちがわない。ともに、孔子晩年の弟子だ。…子游も子夏も同じような生真面目な秀才である。孔門の高弟十人を列挙した先進篇第三章では、「典籍に詳しいのは子游と子夏である」と評されている。よく書を読み、礼楽に関する故実(こじつ)に詳しかったのだろう。 五十嵐晃著「論語の訳注と考究」では、次のように訳しています。 子游曰く、子夏の門下の若者たちは、拭き掃除や、客の受け答えや、儀礼の動作をやらせれば、(たしかに)結構だ。しかしながら、末のことだ。本は何もない。(こんなことでは)いかがなものであろう。子夏がこれを聞いて曰く、ああ子游の失言だ。修養の方法については(何を先にし、何を後回しにするかと決まったものではない。つまり)本を先にして、末を後にすると決まったものでもない。ちょうど、草木も種類によって(育て方を)区別するようなものだ。修養の方法を間違って発言してはいけない。(始め有り卒り有る者、つまり子游のいう所の)本末が備わっている者は聖人なのだ。(一般の人にはその末すらも身についてはいない)(だから、私はそういうことから手をつけているのさ) なるほど、五十嵐先生の解釈には、首肯できます。 十三.「子張第十九、第十三章」 子夏曰、仕而優則学、学而優則仕。 子夏曰く、仕えて優なれば則ち学び、学んで優なれば則ち仕う。
これを普通に訳すと、次のようになります。(とはいっても、意訳ですが…) この章に出てくる重要な言葉(概念): 優なれば:余力があればの意(貝塚茂樹著「論語」)。 この章の解説: 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 子夏がいった。 十四.「子張第十九、第十四章」 子游曰、喪致乎哀而止。 子游曰く、喪は哀を致(きわ)めて止(や)む。
子游が言った。 この章の解説: 呉智英著「現代人の論語」には次のように書いてあります。 喪は、細かな儀礼を守ることよりも、哀しみを表すことにつきる。というのだ。同じように生真面目な秀才でも、子夏に形式主義の傾向があり、子游に実質主義の傾向がある、ということになろうか。もっとも、子游の実質主義も、形式主義に流れがちなことへの自戒という一面も考えられないではない。 なるほど、と思わせる、指摘です。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 親戚の喪にあたったときは、悲哀の情を尽くせばそれでいい。古注によると、悲しみのあまりまったく絶食して、自分の生命まで危なくするのは行きすぎとする。新注では、悲哀の情がたいせつで無用の装飾を加える必要はないという。子游学派も礼を重んずるので、やはり細節にこだわる傾向がある。それを戒めたことばと見てよいであろう。 五十嵐晃著「論語の訳注と考察」には、次のように書いてあります。
子游曰く、喪(において)は悲しみをつくすだけだ。 十五.「子張第十九、第十五章」 子游曰、吾友張也、為難能也。然而未仁。 子游曰く、吾が友張(ちょう)や、能くし難きを為す。然れども未だ仁ならず。
子游が言った。 この章の解説:
諸橋轍次「論語の講義」には、「これは、子游が同門の子張を批評した言葉であるが、決して競争心から生じた非難ではなく、及ばざるところを率直に指摘して、互いに反省し切磋し合って行く態度の現れたものである」と書いてあります。宇野哲人「論語新釈」には、
「この章は子游が子張を評したのである。次章で曾子も子張の仁を為すことを認めていない」と書いてあります。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 人のできないことをやり遂げることが、仁つまり最高の徳ではないという考え方がおもしろい。だれでもできそうでできない、その平凡にして非凡なのがつまりほんとうの人間らしさであるからだ。 十六.「子張第十九、第十六章」 曽子曰、堂堂乎張也、難与並為仁矣。 曽子曰く、堂堂たるかな張や、与(とも)に並びて仁を為し難し。
曽子が(皮肉って)言った。 この章の解説:
かなり大胆に訳しましたが、曽子の言葉にはこのような皮肉が含まれていると思います。子張は孔子晩年の弟子で子貢の弟子でもあります。子張は「先進第十一、第十四章」において、子貢を通じて孔子から次のように戒められています。 呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。
子張は年齢の近い同年代の兄弟弟子たちからも疎んじられていたようだ。 一方で、次のような指摘もあります。(貝塚茂樹著「論語」から) 子張はよほど容貌が美しく、押し出しがいい人物であったらしい。あまり容貌態度がりっぱなので、友人たちはいっしょに並んで仕事をするのを敬遠した。仁を行う段になっても、並んでいっしょに行いにくいというのが曽子の批評である。容貌はりっぱだが、内容がともなわない、仁のほうはどうかという注もあるが、それは考えすぎであろう。 十七.「子張第十九、第十七章」 曽子曰、吾聞諸夫子、人未有自致者也。必也親喪乎。 曽子曰く、吾諸(これ)を夫子に聞く、人未だ自ら致す者あらず。必ずや親の喪か。
「わたしは孔先生から次のように学んだ」。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 自ら致す:自力で窮極までゆく(貝塚茂樹著「論語」から)。 この章の解説: 諸橋徹次「論語の講義」によると、この章は「親子の情愛は人間の自然に発した最高のもの」であり、「孝を以て百行(すべての行い)の本となすのは、そのためであろう」とあります。なるほど、孝の人、曽子ならではの言葉でしょう。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 曽先生がいわれた。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。
曽子が、夫子すなわち孔子から、聞いた言葉としていう。人間の行為のうち、自力だけで究極まで行けるものはない。必ず学問なり教養の助けを借りて、はじめて究極まで行ける。「致」はやはり究極の意。 五十嵐晃著「論語の訳注と考究」では、次のように訳しています。 曽子曰く、私は先生からこういうことを聞いた。「人が自分の真情の限りを出すというのはなかなかないことだ。あるとすれば親の喪の時ぐらいだろうよ」。 宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。 曾子曰く、私は先生に聞いたことがある。人間はなかなか自分の全力を出し尽くすということの出来ぬものだ。もしありとすれば、自分の親の葬式の場合だろう、と。 以上、各先生方の解釈を引用しました。約一月前(三月五日)に父を亡くしたわたしは、この章の言葉を、体験的に理解することができます。正直なところ、それまではピンと来ませんでしたが、自分が体験することによって、なるほど、たしかに、そのとおりだ、と実感できるのです。論語の魅力とは、自分が体験を重ねることによって、ああ、なるほど。孔子はそうことを言っていたのか、と気づくことにあります。孔子は本当に人間というものを知り尽くしていたのです。 十八.「子張第十九、第十八章」 曽子曰、吾聞諸夫子、孟荘子之孝也、其他可能也、其不改父之臣与父之政、是難能也。 曽子曰く、吾諸(これ)を夫子に聞く、孟荘子の孝や、其の他は能くすべし、其の父の臣と父の政とを改めざる、是れ能くし難し。
曽子が言った。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 孟荘子:仲孫(孟孫)氏、名は速、諡は荘。父孟献子を継いでから間もなく死んだ。前五五四年から五五〇年まで大夫の職にあった(貝塚茂樹著「論語」から)。 この章の解説: 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 曽先生がいわれた。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。 やはり曽子が孔子から聞いた言葉。孟荘子とは、魯の家老仲孫速(ちゅうそんそく)。父孟献子の地位を世襲した。「左伝」では襄公十六年、十九年、つまり孔子が襄公二十二年に生まれるより先に、家老として行動が記されている。孔子がその人物を批評して、孟荘子の孝行は、その他の点はだれでもできる。ただ父の代からの家来と、父の代からの家政のやり方とを、変えなかった点は、だれでも出来ることではない。 宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。 曾子曰く、私は先生から聞いたことがある。孟荘子の孝行は有名だが、大ていのことは真似ができる。ただ父の使ってきた側近と、父のやってきた方針を改めることがなかったのは、真似のできぬ点だ。 十九.「子張第十九、第十九章」 孟氏使陽膚為士師。問於曽子。曽子曰、上失其道、民散久矣。如得其情、則哀矜而勿喜。 孟氏、陽膚(ようふ)をして士師たらしむ。曽子に問う。曽子曰く、上(かみ)其の道を失い、民散ずること久し。如し其の情を得ば、則ち哀矜(あいきょう)して喜ぶこと勿れ。
(魯国の大夫の)孟孫氏が、(曽子の門人の)陽膚(ようふ)を士師(裁判官兼検事)に任用しようとした時、陽膚が師である曽子にたずねた。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 陽膚、士師、民散ず、哀矜
陽膚:曽子の弟子らしいが不詳 この章の解説: 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。
「孟氏」とは、家老孟孫子の当主であるにちがいなく、…(中略)…陽膚は曽子の弟子。士師は「典獄の官」、つまり司法の長官。 五十嵐晃著「論語の訳注と考究」には、次のように書いてあります。
魯の大夫の孟氏(の当主)が(曽子の弟子の)陽膚を司法官にした。陽膚が曽子に(その心得を)尋ねた。曽子曰く、上に立つ者が正しい道を失って、民が放逸に堕してから久しい。もし犯罪の実情がつかめたら、不憫に思って、決して得意になったりしてはいけない。 二十.「子張第十九、第二十章」 子貢曰、紂之不善、不如是之甚也。是以君子悪居下流。天下之悪皆帰焉。 子貢曰く、紂の不善は是(かく)の如く甚だしからざるなり。是(ここ)を以て君子は下流に居るを悪む。天下の悪皆焉(これ)に帰す。
子貢が言った。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 紂:殷王朝三十代目の、最後の君主。暴君で天下の人民を苦しめ、ついに周の武王の軍と戦って敗れ、滅亡した(貝塚茂樹著「論語」)。と言われているが、本当は暴君ではなかったという説もある。この章では、子貢も、紂は世間で言われているほど、悪くなかったであろう。しかし、悪いという烙印を押されてしまうと、してもいないことまで、したことにされてしまうのであろう、と語っているのである。 この章の解説: 呉智英著「現代人の論語」では、次のように解説しています。
殷の紂王は、殷朝最後の帝である。政治を省みず、寵姫(ちょうき…君主の愛妾、引用者注)妲己(だっき)に溺れ、酒で池を作り乾し肉を林のようにし(酒池肉林)、日夜淫楽にふけった。民心は離反し、国は乱れ、遂にBC一〇二七年、周の武王によって滅ぼされた。孔子の時代より五百年前のことである。 子貢一人の言葉によるこの章がそうだ、ということです。前掲書の著者である呉智英氏もまた、頭脳明晰な人なのでしょう。そのことは前掲書を読めばわかります。これに対して、下村湖人氏は、「論語物語」で知に寄りかかり過ぎる子貢が孔子に戒められて茫然自失とする場面を描いています。人物評というのは、それを評価する人の価値観に左右されるのです。わたしとしては、子貢が頭脳明晰であるから素晴らしいとは、まったく思えません。愚鈍であろうと、人間としてどう考え、どう生きるかが大切だと考えるからです。しかし、だからといって子貢を低く評価しているのではありません。子貢の本当の素晴らしさは、その怜悧な頭脳にあるのではなく、師である孔子のことを心の底から敬愛して、孔子の思想を自分のものにしようと努めているところにあると考えるからです。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 子貢がいった。 陳舜臣著「論語抄」には、次のように書いてあります。
『論語』の時代でさえ、紂はそんなに悪くはなかっただろうと言われていました。そうすると、紂を討った周をもちあげている学者は困るのです。子貢はそう言っているが、紂はやはり罪があったのだと、朱子はこのくだりで発言しています。 二十一.「子張第十九、第二十一章」 子貢曰、君子之過也、如日月之食焉。過也人皆見之。更也人皆仰之。 子貢曰く、「君子の過ちや、日月(じつげつ)の食の如し。過つや人皆之を見る。更(あらた)むるや人皆之を仰ぐ」。
子貢が言った。 この章の解説: この章は見事に孔子が理想とした人間像を表現しています。それにしても子貢の表現力はすばらしい。「君子の過ちや、日月の食の如し」と謎をかけ、「過つや人皆之を見る」と日蝕・月蝕の際に人間が月や太陽を観察することに例え、また、「更むるや人皆之を仰ぐ」と日蝕・月蝕が終わると人間はほっとして月や太陽を畏敬して仰ぎ見ることに例えているのです。まさに孔子がそういう人だったのでしょう。 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。 この条の背景として、日月食に対してむけられた古代人の意識をいえば、日食は早くから注意された。最古のクロノロジー(年代学:歴史上の事実の年代を追求する学問、引用者注)である「春秋」には、日食の起こった日附けが、きちんと記されている。またその発生の時期を予測する方法も、子貢のころには、すでに知られていた。しかしなお、天地の異変の一つとされ、その際に行う儀礼が、「礼」のあちこちに見える。月食の方は、まれに記載され、この章もそのまれなものの一つである。 貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。 子貢が君子を日食月食にたとえた比喩は、さすがに巧妙である。その巧妙さはむしろ師の孔子をしのぐかもしれない。 二十二.「子張第十九、第二十二章」 衛公孫朝、問於子貢曰、仲尼焉学。子貢曰、文武之道。未墜於地。在人。賢者識其大者。不賢者識其小者。莫不有文武之道焉。夫子焉不学。而亦何常師之有。 衛の公孫朝(こうそんちょう)、子貢に問うて曰く、「仲尼は焉(いずく)にか学べる」。子貢曰く、「文武の道未だ地に墜ちずして人に在り。賢者は其の大なる者を識(しる)し、不賢者は其の小なる者を識す。文武の道あらざる莫し。夫子焉にか学ばざらん。而して亦た何の常の師か之れあらん」。
衛の(大夫である)公孫朝(こうそんちょう)が子貢にたずねた。 この章に出てくる重要な言葉(概念): 衛の公孫朝、仲尼
衛の公孫朝:公孫朝という人は『左伝』に四人あらわれる。それほど多い名であったから、衛の公孫朝と呼んだのである。しかし、その伝記はあきらかでない。姓名から衛の君主の一族と推定されるだけである。 この章の解説:
紀元前一一〇〇年ごろ、中国には殷という国があり、そのことは甲骨(こうこつ)文字として記録されています。殷の時代は神があらゆるものの最上位に位置しており、人間はすべてを神に委ねていました。殷の首都の「商」には宗廟が建立され、そこに神を祀り、神官が神の意志を受けて国を統治していたのです。そして、その神官が殷の王だったのです。いわば殷王朝の王は神の意志を受けた天子として地上の世界を統治していたのです。やがて、殷の王は神の僕(しもべ)から離れて世俗的な独裁者と化しました。その象徴が殷王朝最後の王となった紂(ちゅう)王なのです。紂王は、絶対的な権力と財力を手に毒婦といわれる妲己(だっき)とともに栄華を貪っていましたが、その悪徳非道な政治は、殷の西の国「周」によって滅ぼされます。殷を滅ぼした周の君主が武王であり、武王の父が文王なのです。殷滅亡の原因は、殷王朝の王が神の意思を受けた天子としての統治から、世俗的な独裁者として政治を行うようになり、人心が離れたことにあり、その象徴が毒婦に溺れた紂王です。その独裁者としての政治は、神の意志を受けた天子として為されたものでありますから、本当の意味で、殷滅亡の原因は「神権政治」という政治のスタイルにあったともいえます。「神権政治」とは人間の存在を考えない政治のスタイルであり、たとえば捕虜を奴隷として酷使することなど、すべて神の意志として為されたのです。そのような政治のスタイルが人心が離れていった根本にあり、殷王朝は滅びるべくして滅びたといってもいいでしょう。殷の滅亡により、「神権政治」の時代が終わり、神から距離をおいた政治がはじまりました。それを担ったのが殷を滅ぼした周であり、当時の君主である武王とその父文王であったのです。その政治は絶対的に神を仰いだ神権政治に比べて、人間の存在を大切にした政治であり、礼楽とは、神と人間をつなぐ、政治の仕組みといえるものだったのです。
陳舜臣著「論語抄」には、次のように書いてあります。
子貢は大富豪であり、人柄もよく、みなから慕われていました。彼は衛の人で、姓は端木(たんぼく)、名は賜、字が子貢です。孔子の一番弟子は、その早死にが惜しまれた顔回でした。子貢は顔回にたいして、けっしてライバル意識をもっていません。孔子から顔回のことをきかれて、 吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。
公孫朝は、古注の馬融(ばゆう)に、「衛の大夫」。そのころ同名の人物があちこちにいたので、「衛」の字を加えて区別した…。事蹟は不明であるが、「公孫」といえば、衛の公室の同族であったにちがいない。その人物が子貢にたずねた。 佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。
弟子の子貢が衛の国の家老の公孫朝殿に、「あなたの先生は誰に学問を学んだのですか」と問われたので、こう答えてくれたそうだ。 二十三.「子張第十九、第二十三章」 叔孫武叔語大夫於朝曰、子貢賢於仲尼。子服景伯以告子貢。子貢曰、譬之宮牆、賜之牆也及肩。窺見室家之好。夫子之牆数仞。不得其門而入、不見宗廟之美百官之富。得其門者或寡矣。夫子之云、不亦宜乎。 叔孫武叔(しゅくそんぶしゅく)、大夫に朝に告げて曰く、「子貢は仲尼に賢(まさ)れり」。子服景伯以て子貢に告ぐ。子貢曰く、「之を宮牆(きゅうしょう)に譬うれば、賜の牆(しょう)は肩に及ぶ。室家(しつか)の好(こう)を窺い見る。夫子の牆は数仞(すうじん)なり。其の門を得て入(い)らざれば、宗廟の美(び)百官(ひゃくかん)の富を見ず。その門を得る者或いは寡(すく)なし。夫子の云う、亦た宜(むべ)ならずや」。
(魯の大夫の)叔孫武叔が朝廷で同僚の大夫に向かって(仲尼〔ちゅうじ:孔子〕のことを非難して)、次のように言った。 |