心の経営コンサルタント/中小企業診断士/東洋思想実践家

之を楽しむ。論語

心の経営コンサルタント(中小企業診断士)白倉信司の仕事

為さざる有るなり、而して後、以て為す有るべし。孟子

      

 

論語意訳-完

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 2007.9.9  論語意訳−完


堯曰篇第二十


「堯曰篇」について、貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

この篇は「堯曰わく」の第一章にはじまる。舜が天命を受けて帝になったときの、天命の内容を堯の任命のことばによって描く。それが禹に伝わり、さらに殷の開祖の湯王によって受け継がれる。またさらに周の文王・武王にも伝わる。この伝授されてゆく天命の内容を紹介するのがこの篇である。そして、「命を知らざれば、以て君子と為すことなきなり」の孔子の語によって、それが受けられる。要するに、天命の継承の歴史を述べたものであるが、中間に(第二章)、政治についての子張と孔子の問答がはいって印象がぼやけてしまった。しかし、孔子がもっとも語ることを好まなかった「天命」の、古代の伝承を説明するために、この篇は書かれたものである。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

…全書二十篇の最後に位するこの篇は、大変特殊な篇である。…郷党第十も、内容と構成が特殊であったが、この篇は一層甚だしい。
すべて三篇。第一章は堯、舜、禹、武王の、王朝の交替に際しての言葉、その集録であるが、その文章は、どう見てもよくつづかぬ個所がある。孔子のいだいた政治の理想は、堯舜以来の伝統を基礎とするゆえに、それらを列記したと、皇侃の「義疏」は説く。
次に第二章は、そうした伝統を承けた孔子が、子張の問いに答え、自ずからの政治学説の要点を、「五美を尊び、四悪を屏(しりぞ)く」と、まとめたのであって、「孔子の徳の、堯舜諸聖に同じきを明らかにする也」であると、これもまた皇侃の説である。
そうしてさらに皇侃は、第三章、そうして「論語」全篇の最後の章である「孔子曰わく、命を知らざれば、以て君子と為す無き也」は、孔子は、堯舜らと同じく、帝王となる能力をもっていたにも拘わらず、時代がそれを許さぬという「天命」を知っていた故に、帝王とならなかった、そのことを明らかにしたのだという。


一.「堯曰第二十、第一章」

堯曰、咨爾舜、天之暦数在爾躬。允執其中。四海困窮、天禄永終。舜亦以命禹。曰、予小子履、敢用玄牡、敢昭告于皇皇后帝。有罪不敢赦。帝臣不蔽。簡在帝心。朕身有罪、無以万方。万方有罪、罪在朕躬。周有大賚。善人是富。雖有周親、不如仁人。百姓有過。在予一人。謹権量、審法度、修廃官、四方之政行焉。興滅国、継絶世、挙逸民、天下之民帰心焉。所重民食喪祭、寛則得衆、信則民任焉、敏則有功、公則説。

堯曰く、「咨(ああ)爾舜、天の暦数(れきすう)爾の躬に在り。允(まこと)に其の中を執れ。四海困窮せば、天禄永く終らん」。舜も亦た以て禹に命ず。曰く、「予(よ)小子履(り)、敢えて玄牡(げんぼ)を用いて、敢えて昭(あき)らかに皇皇たる后帝に告ぐ。罪有れば敢えて赦さず。帝臣蔽(おお)わず。簡(えら)ぶこと帝の心に在り。朕(わ)が身罪あらば、万方(ばんぽう)を以てする無し。万方罪あらば、罪朕が躬に在り」。周大賚(たいらい)あり。善人是れ富む。「周親ありと雖も、仁人に如かず。百姓(ひゃくせい)過(とが)むるあり。予一人(いちにん)に在り」。権量(けんりょう)を謹み、法度(ほうど)を審(つまび)らかにし、廃官(はいかん)を修めて、四方の政行わる。滅国(めっこく)を興し、絶世を継ぎ、逸民を挙げて、天下の民心を帰す。重んずる所は民の食喪祭(しょくそうさい)、寛(かん)なれば則ち衆を得、信なければ則ち民任じ、敏なれば則ち功あり、公なれば則ち説(よろこ)ぶ。


第一段:
堯がおっしゃった。「ああ舜よ。天の定め(帝位の継承)は君にある。まことに帝位に就くべきである。ところで、天子として政治を行うにあたっては、一方に偏らない中道を固く守っていくがよいであろう。もし中道を失って、天下の万民が困り苦しむことがあれば、せっかく天に与えられた幸いも、永久になくなってしまうだろう」。
第二段:
その舜もまた、堯に教えられた言葉を禹に命じた。(その後、禹の夏王朝は世襲され時が流れたが、後の桀〔けつ〕王が悪逆無道であったので、殷の湯王〔とうおう〕が桀王を伐って天子となった。)
第三段:
湯王が(諸侯に)おっしゃった。「不束(ふつつ)な、わたくし履(り:湯王の名)が、ここに犠牲の雄牛を供え、天下に明々白々と、大いなる天帝に申し上げます。自分は天に代わって国を治める者でありますから、罪人は厳正に処断いたします。天帝の家来である諸侯に、正しく美しい行いがあれば、それを蔽い隠すことはいたしません。わたくしに罪がある時は、諸侯たちの万国を責めませんし、万国に罪がある時は、責任はわたくしにございます」。
第四段:
(そして、殷王朝が続き、紂王の時、紂王が悪逆無道であったので伐たれて、周王朝となった。武王は紂王を伐つ兵を挙げた時、集まった軍団に対して次のようにおっしゃった。)
「わが周家には大きな宝物がある。すぐれた人材(善人)が沢山いるということである。周家に親族はあるけれども、すぐれた人材(仁人)には及ばない。また、人々(百姓)に過ちがあれば、その責任はわたしにある」。

第五段:
(こうして建てた周王朝は、)秤(はかり)や升目(ますめ)など基準を守り、制度(法度)を整理し、廃止されていた官職を補充して政治を行った。また、滅びた国を再興して諸侯とし、絶えていた賢者の家の子孫を立てて家系を復活させて、野に下っていた賢人を登用するなど情を尽くした政治を行ったので、天下の民の心は周王朝に向かったのである。(こうした歴史に鑑みると、政治において)重視するものは、民の生活の基本である「食」、人の死を哀しむ「喪」、祖先の霊を敬う「祭」である。政治が寛大であれば人々に支持され、為政者が言行一致であれば人々から信頼され、処理が迅速であれば実績が上がり、公平であれば人々は喜ぶ。このようにして初めて国を治めることができるのである。


この章の解説:

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

(第一段、引用者注)
堯帝のたまえり。
「おお、なんじ舜よ。天の運行、なんじ一身にかかる。しかと中なる旗竿を握りしめよ。四海の民困窮せば、天の賜いし至福、とこしなえに尽きん」
(第二段、同)
舜帝、これをもて禹に命じたまえり。
(第三段、同)
またいえらく。
「小子なる、われ履、あえて黒毛の雄牛ささげて、明らけく上帝に申す。『扉あらばあえて赦すことなかれ。帝の臣の罪隠れなき、帝の御心のままに裁きたまえ。わが身に罪あらば、万国に責めなく、万国に罪あらば、その罪わが身にあれ』」
(第四段、同)
周に天より大なる賚(たまもの)ありき。そは善き人の富めることなり。周に一族ありといえども、仁徳の人には及ばず、国民(くにたみ)に過ちあれば、その責め、わが一身にこそあれ。
(第五段、同)
慎みて権(はかり)・量(ます)を正し、審(つまび)らかに法度(しゃくど)を定め、廃(すた)れる官を修むれば、四方(よも)の政行われざるはなし。滅びたる国をふたたび興し、絶えたる世に後継ぎをたて、世を逸(のが)れたる民を挙ぐれば、天下の民の心は君に帰服せん。国民の重んずるところは、食・喪・祭にあり。寛き心をもってすれば衆の心を得、ことばたがうことなければ、民は役に務めん。勉めて怠ることなければ、必ず事成就せん。よろずのこと平らかに扱えば、国民よころばん。
第一段は、きわめて難解であって、異説が多い。私は「允(まこと)に其の中を執れ」の「中」の意味の解釈を手がかりとしてとらえよう。殷代の甲骨文字に「中を立つ」という文がある。中は…旗の形をかたどっている。広場の中央に大きな旗竿を立てることがある。それは天象を観測する基準となるものである。日月星の南中する時間を、この直立の柱によって正確に知るためである。そのもとには、その時間を正確に記録するための筮竹(ぜいちく)、竹の簡(ふだ)のめどぎ(「めどぎ」とは、占いの道具のこと、引用者注)が置かれる。天体の運行は、このめどぎの記録によって確実に知られる。それが「天の暦数」なのである。天の暦数、天の運行を正確にとらえること、これが天に命ぜられた汝の神聖な義務である。それを怠ると、季節が乱れ、農作がうまくゆかなくなり、国民は飢え、王朝は滅びることになる。第一段はこのことを述べたのである。第二段は、舜が、同じことを禹につたえたのである。第三段は、夏の暴君桀を滅ぼした殷王朝の開祖湯王、名は履が、天に向かって天命をまちがいなく守ることを誓ったことばである。第四段は、周の開国の由来を述べて、殷国の賢人が殷を見捨てて周に帰したが、それは周がこれらを好遇したからであると述べる。第五段は、将来出てくる王者は、いかなる使命をおびているか、将来の王のイメージを述べたものである。

吉田公平著「論語」には、次のように書いてあります。

この一条は、古代の聖王が禅譲したときに告げた言葉をあつめた。堯→舜→禹と帝位を禅譲したが、禹が開いた夏王朝は桀に至って殷の湯王に亡ぼされた。その殷王朝の紂王に至って周の武王に亡ぼされた。王道政治の理念をのべた語録である。


二.「堯曰第二十、第二章」

子張問於孔子曰、何如斯可以従政矣。子曰、尊五美、屏四悪、斯可以従政矣。子張曰、何謂五美。子曰、君子恵而不費。労而不怨。欲而不貪。泰而不驕。威而不猛。子張曰、何謂恵而不費。子曰、因民之所利而利之。斯不亦恵而不費乎。択可労而労之。又誰怨。欲仁而得仁。又焉貪。君子無衆寡、無小大、無敢慢。斯不亦泰而不驕乎。君子正其衣冠、尊其瞻視、儼然人望而畏之。斯不亦威而不猛乎。子張曰、何謂四悪。子曰、不教而殺、謂之虐。不戒視成。謂之暴。慢令致期。謂之賊。猶之与人也。出納之吝、謂之有司。

子張、孔子に問うて曰く、「如何なるか斯れ以て政に従うべきか」。子曰く、「五美(ごび)を尊び四悪(しあく)を屏(しりぞ)くれば斯れ以て政に従うべし」。子張曰く、「何をか五美と謂う」。子曰く、「君子は恵(けい)して費(つい)えず。労して怨みず。欲して貪らず。泰(たい)にして驕らず。威あって猛(たけ)からず」。子張曰く、「何をか恵して費えずと謂う」。子曰く、「民の利する所に因って之を利す。斯れ亦た恵して費えざるにあらずや。労すべきを択(えら)んで之を労す。また誰をか怨みん。仁を欲して仁を得たり。また焉んぞ貪らん。君子は衆寡(しゅうか)となく、小大となく、敢えて慢(まん)するなし。斯れまた泰にして驕らざるにあらずや。君子は其の衣冠(いかん)を正しくし、其の瞻視(せんし)を尊くし、儼然(げんぜん)として人望んで之を畏る。斯れ威あって猛からざるにあらずや」。子張曰く、「何をか四悪と謂う」。子曰く、「教えずして殺す、之を虐(ぎゃく)と謂う。戒めずして成るを視(み)る。之を暴と謂う。令を慢にして期を致す。之を賊と謂う。猶(ひと)しく之人に与うるなり。出納(すいとう)の吝(やぶさ)かなる、之を有司(ゆうし)と謂う」。


子張が孔先生に尋ねて言った。
「どのようなことをしたら為政者としての仕事を全うできますか」。
孔先生が言われた。
「五つの美しい徳を尊んで四つの悪をしなければ為政者としての仕事を全うすることができるであろう」。
子張が言った。
「五つの美しい徳とはどのようなことでしょうか」。
孔先生が(五つの徳を次のように)説明された。
「一.君子は民に恵み深いが無駄な費用を掛けない」、「二.民に命じて働かせても怨まれない」、「三.欲することはあっても貪ることはない」、「四.ゆったりとしており高ぶらない」。「五.おごそかであるが激しくはない」。(という五つの徳である。)
子張が言った。
「(最初の)民に恵み深いが無駄な費用を掛けないとはどういうことですか。(また、その後の四つの徳についてももっと詳しく教えてください)」。
孔先生が言われた。
「一.恵んでも無駄な費用を掛けないとは、民にとって何が利益かを見極めてから必要な費用を掛けるということじゃ」。
「二.民に命じて働かせても怨まれないとは、民が働いても良いと思っていることを選んでから働かせることじゃ」。
「三.欲することがあっても貪ることはないとは、為政者が君子として、仁を求めて仁を得たら自ずとなる境地なのじゃ」。
「四.ゆったりとしており高ぶらないとは、君子たる為政者は大勢であろうが少人数であろうが、大きかろうが小さかろうが、驕ることなく、ゆったりと振る舞いなさいということじゃ」。
「五.おごそかであるが激しくはないとは、君子たるもの衣服や冠を正しく着けて、目付きにも気を配り厳然としておれば、遠くから見れば畏れられるが、近くに寄れば穏やかに見えるということじゃ」。
子張が言った。
「(それでは、)四つの悪とはどのようなことでしょうか」。
孔先生が言われた。
「一.惨(むご)い…教育もしないで悪いことをした民を殺す(罰する)こと。二.手荒い…戒める(指導する)こともなく成果を求めること。三.損なう…ちゃんと命令(指示)しないのに期限をやかましくいうこと。四.役人根性…人に何かを与える時に出し入れをケチケチすること。以上の四つじゃ」。


この章の解説:

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

…この章は、「五美」「四悪」という教え方が、図式的であるばかりでなく、これまでの諸篇に見えた言葉と、重複するものが多い。最初の頃の「論語」のあちこちに見えた言葉を、綴り合わせ挿み込んで、無理に全篇の結語としたような感じが強い。

宇野哲人著「論語新釈」には、次のように書いてあります。

この章は政(まつりごと)に従う道を詳述したのである。孔子が政を問う者に告げたことは多いが、まだこれ程に備わったものはない。故にこれを記して帝王の治に継いだので、孔子の政をする方法が思い知られるのである(尹焞〔いんじゅん〕)。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

弟子の子張とこんな問答をしたよ。
「どうすれば政治にたずさわれますか」
「五美を尊び、四悪を斥けることだ」
「何ですか、それは」
「人民にたいしては、費用をかけずに恩恵を与える。グチを言わずに働かせる。人を押しのけずに欲張らせる。どっしりとして威張らない。威厳はあっても怖がらせない。この五つが五美だよ」
「費用をかけずに恩恵を与えるというのは、どうするのですか」
「農地開発や水利工事のような人民の利益となる事業をするのがそれだよ。それなら、結果的に税収も上がって出費はすぐに回収できるし、人民は率先して働き、グチも言わず、恨まれることもないだろう。次に、人民が人を求めるように教育すれば、人民は競って人を求めるようになるが、人は涸渇するものでないから、人を押しのける必要はないだろう。上に立つ者は、相手が多人数でも少人数でも、大物でも小物でも対等に扱って侮らない。これがどっしりとして威張らないということだ。また、きちんとした服装をして、表情を厳(おごそ)かにしていれば、人民は一目見て畏敬するが恐れはしない。以上が五美の効用だよ」
「分かりました。では四悪とは何ですか」
「人民に教育も施さずに、犯罪を犯したら即死刑にする。これは虐殺だろう。事前に警告もしないで取り締まる。これは暴力だろう。法令を勝手に変えて収奪する。これは盗賊行為だろう。出すべき費用を出さずにケチる。これは小役人根性というものだ。以上が四悪さ」


三.「堯曰第二十、第三章」

子曰、不知命、無以為君子也、不知礼、無以立也、不知言、無以知人也。

子曰く、命を知らざれば以て君子と為るなし、礼を知らざれば以て立つなし、言を知らざれば以て人を知るなし。


孔先生がおっしゃった。
「天命というものを知らなければ、人の道を歩むことは難しい。天命を知っても、礼を通じて実践しなければ己を確立することはできない。礼を通じて実践しても、知識を見識にまで高めることができなければ本当の人間というものを知ることができない」。


この章の解説:

論語最後の章について、安岡正篤先生は「朝の論語」で、次のように言っておられます。

自然と人間を一貫する絶対性、天命を知らなければ本当の人間にはなれない。自然も人間も円満な自律・諧和(和らいで親しみ合うこと、協調、辞書から)・奉公すなわち礼によって存立しているのですから、それを知らなければ人間として本当に存立することはできない。また言を知らなければ、すなわち学問・思想・言論が分からなければ、人間というものを知ることができない。
今日の時世は、命を無視し、礼を無視し、言を知らない。これほど学問が進歩しながら、これほど道を、真理を無視した思想・言論・生活がほしいままに行われておる世の中も空前でしょう。これをこのまま等閑に付しておったのでは本当にまたこの文明世界は没落するでしょう。

また、安岡先生は「知命と立命」で、次のようにも言っておられます。

人生そのものが一つの「命(めい)」である。その「命」は光陰歳月と同じことで、動いて止(や)まないから、これを「運命」という。
運命は動いて止まないが、そこにおのずから法則(数)がある。そこで自然界の物質と同じように、その法則をつかむと、それに支配されないようになる。自主性が高まり、創造性に到達する。つまり自分で自分の「命」を生み、運んでゆけるようになる。
人間は学問修養しないと、宿命的存在、つまり動物的、機械的存在になってしまう。よく学問修養すると、自分で自分の運命を作ってゆくことができる。
(中略)
自分というものはどういうものであるか、自分の中にどういう素質があり、能力があり、これを開拓すればどういう自分を作ることができるかというのが「命を知る」、「命を立つ」ということであり、それが分からなければ君子ではない。君子というのは今日の言葉で言うなら、いわゆる指導者、知識人ということだ。
すべての生物はそれぞれ独特の内容、意義、価値効用を持っている。自然科学が物質については恐ろしいまでにそれを解明している。その点においては、最も進歩しないのは人間だろうと思う。最ものんきなものは自分自身である。自分自身を知らない。いわゆる身計というものに最も疎い。それはミミズでもどじょうでも、なんでも研究をしてみたら無限の意義、作用、効用がある。決して無用な物はない。「天に棄物なし」という名言がある。いわんや人間において棄人、棄てる人間なんているものではない。
自分というものを知らないものだから、いわゆる心を尽くし、己を尽くさない。「命」を知らないものであるから、せっかくの人間に生まれて一生を台無しにする。

諸橋轍次著「論語の講義」には、次のように書いてあります。

この章は、三か条の教えを列挙したものであるが、君子ということが、或いはその三者を貫くものであるかも知れない。而してその第一節に君子の知命を掲げているが、これは学而篇一の「人知らずして慍(いか)らず、亦君子ならずや」の一節と相応ずるところがあるのであって、論語の編纂者が、ここにおいて終始をなしたものであるとも、言われているのである。

宇野哲人著「論語新釈」には、次のように書いてあります。

この章は人の知るべき肝要なことを示したのである。この三つを知れば君子の事は完備する。孔子の弟子がこれを記して論語の最後においたのは意味のないことではない。学者が幼少の時からこの論語を読んで、老年に至るまでの一言をも己の役に立てることを知らないで名利に没頭して世を送るならば、聖言(せいげん)を侮る者に近くはなかろうか。このような者は孔子の罪人である。深く念(おも)わなければならぬのである(尹焞〔いんじゅん〕による)。


以上で論語意訳は完となります。七ヶ月と十日ほどかかりました。有り難うございます!


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 2007.9.2  論語意訳−33


子張篇第十九


諸橋轍次著「論語の講義」には、子張篇について、次のように書いてあります。

この篇は、古人もいう通り、大体孔門の人々の言葉を記しているが、中でも子夏が最も多く、子貢がこれに次いでいる。顔淵の没後、聡明穎悟(えいご:すぐれて悟りのはやいこと。賢いこと)の点では子貢が第一であり、曾子を除けば、篤実なる事、子夏に及ぶ者がないので、自然この二人の言葉が多いと言われる。顔淵や子路は共に孔門の高弟ではあったが、それらの言葉の出ておらぬのは、恐らくはこの二人が孔子に先立って没し、この篇を編纂する頃には、その言葉が伝わらなかったものであろう。なおこの篇は、上述の如く門人の言葉だけであるが、しかし門人の言葉はもとより孔子の教えに基づいているものであるから、従来出て来た孔子の言葉に類似するものも多く、又この篇において門人の語として記されているものも、漢代の色々の書物には、孔子の語としている場合もある。師弟の関係の事であるから、これもまた当然のことであろう。

また、吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

この篇は、全部が弟子たちの言葉であり、孔子の言葉は含まれない。皇侃の「義疏」は全二十四章を五つに分け、第一章、第二章は子張の語。第三章から第十三章までは子夏の語。第十四、第十五章は子游の語。第十六章から第十九章までは曽参の語。第二十章から第二十四章までは子貢の語とする。

さらに、貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

子張と子夏の学派の間の相互批判と、子游と子夏との論争を述べた第三章・第十二章は、孔子の死後の学派の対立を語る儒教思想史上の重要文献である。しかしこの篇の主流は、子夏・子貢・曽子によって占められている。とくに子貢は、たびたび孔子とどちらが才がまさっているかを問題にした第二十二章・第二十三章・第二十四章・第二十五章の問答を通じて、孔子の在世時代から死後にかけて、非常に尊重され、勢力をもってきたことをあらわしている。この篇が、子貢を祖とする斉地方の学派、いわゆる斉学の伝承であるとする武内義雄博士の説はまことに妥当である。諸子の説には、孔子の語をもととしたことばが多く、孔子の語が弟子・孫弟子によりいかに発展され、伝承されていくか、その過程を示している。


一.「子張第十九、第一章」

子張曰、士見危致命、見得思義、祭思敬、喪思哀、其可已矣。

子張曰く、士は危うきを見て命を致し、得(う)るを見て義を思い、祭に敬を思い、喪に哀を思わば、其れ可なるのみ。


子張が言った。
「士たる者(できる人)とは、国や家の危機には命を投げ出して事に当たり、利益を得た時には、それが義を立てて得られた正当な利益であるのかを考え、祖先などの祭祀の時には敬する心を尽くして、葬儀の時には哀しむ心を尽くす。このようであれば、士たる者(できる人)といえる」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

士:士は道を求める者、学問を学ぶ者などいろいろの側面があるが、ここでは才能によって主君につかえる者という根本的な意味で使われている(貝塚茂樹著「論語」)。


この章の解説:

複数の解説本を参考にしながら、わたしなりに訳してみました。呉智英著「現代人の論語」には、「自分の学派をもった時、弟子にでも語ったのだろう。語られた言葉そのものは立派だが、それは魂の籠もらぬものだったのではなかろうか」とあります。わたしもそう思います。

陳舜臣著「論語抄」には、次のように書いてあります。

この子張は『論語』のなかで、最も頻繁に出てくる人物です。けれどあまり高く評価されていません。彼は子夏とよくくらべられました。二人は対照的でした。「過ぎたるは猶お及ばざるがごとし」の、「過ぎたる」ほうが子張で、「及ばざる」ほうが子夏でした(先進第十一、第十五章、引用者注)。
その子張が言いました。「君に仕える者は、危険に際しては命をささげ、利益のあるときは取るべきかどうかと考え、祭礼には敬虔の情を尽くし、葬儀には哀しみをこめ、それができればまず及第でしょう」と。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

儒教教団は孔子の死後、国家につかえて有用の材となれるように、人間的に完成された人物を形成するという教育の目標がしだいにはっきりとなっていた。子張のことばはこの教育の理念をあきらかにしたものであり、その意味で篇の第一におかれたのであろう。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

「危うきを見ては命を致す」とは、国家の危機に際会しては、生命をささげる。また利得に際会すれば、正義を思念して、利得を得てよいかどうかを検討する。祭りにあたっては、祭りの一番重要な要素である敬虔を思念し、喪には、最も重要な要素として、哀を思念する。そうであってこそよろしい。
皇侃の「義疏」に、これは政府にいる「士」、すなわち官吏のこととし、古代の制度として、祖先の祭祀は、「士」にしてはじめて可能であったと、「祭りには敬を思う」について説くのは、傾聴すべき説である。

宮崎市定著「現代語訳 論語」には、次のように書いてあります。

子張曰く、学徒たる者は、危険に際しては生命を投げ出すべきや否やを思い、利益ある時は取るべきか否やを思い、祭の際は敬虔の条を捧げんと思い、喪に臨んでは哀を尽さんことを思う。それができれば及第だ。
この章は、思義、思敬、思哀と、思を三回繰返すが、最初の見危致命、には思字がない。翻って考うるに、危険な際には、事の如何にかかわらず命を致すのは、儒教の本義ではない。ただ命を致すの覚悟は出来ているべきであって、それを実行する前にはやはり一度考えて見る必要があろう。そこで訳にはここにも思の字があるつもりで文を成した。


二.「子張第十九、第二章」

子張曰、執徳不弘、信道不篤、焉能為有、焉能為亡。

子張曰く、徳を執(と)ること弘(ひろ)からず、道を信ずること篤からずんば、焉んぞ能く有りと為さん、焉んぞ能く亡(な)しと為さん。


子張が言った。
「徳を磨く(人格を高める)としても、途中でやめてしまい、仁の道を信じても、熱心でないとしたら、それでは(道)徳があるとも、ないともいえない(ので、なんにもならない)」。


この章の解説:

加地伸行著「論語」などを参考にしながら、わたしなりに訳してみました。ひょっとして、これは子張のことではないか…と思ってしまいました。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

徳を執ること弘からず、道を信ずること篤からざる人間、そんな人間は、存在ともなり得なければ、非存在ともなり得ない。つまり世の中に対し、何の影響力をも、もたない。諸注も同じである。

五十嵐晃著「論語の訳注と考究」には、次のように書いてあります。

現代語訳:
子張曰く、道徳の信奉に熱意がなく、道徳の実行は低調である。(そのようでは)生きていても価値があるわけでもなく、死んでも惜しまれない。
考究二:「焉能為有、焉能為亡」難解の句で、次のように解釈はまちまちである。
@そんな人間は、存在ともなり得なければ、非存在ともなり得ない《吉川幸次郎》。A道徳がありともいえずなしともつかず、あぶはち取らずになってしまうぞ《穂積思遠》。Bどうして道徳有りとせんや、無しとせんやの意で、有るとも無いともいえない。存在の価値が無い《吉田賢抗》。Cどうして其の人物の存在理由が有るとか無いとか言えようか。(存在理由のない失格者だ)《木村英一》。D居るというほどのこともなく、居ないというほどのこともない。(居ても居なくても同じだ)《金谷治》。E世に生きていても何の影響なく、死んでいても何の影響もない《貝塚茂樹》。Fいったいやる気があるのだろうか、ないのだろうか《宮崎市定》。
私見によれば、この句が難解であるのは、句の末尾に、それぞれ「生」字が省略されていることに思い至らないからである。それを補って解釈すれば下記のようになる。「焉能為有生」(焉んぞ能く生有りと為さん)「焉能為亡生」(焉んぞ能く生亡しと為さん)であり、これを直訳すれば、「(どうしてよく生きたとしようか)よく生きたとはしない。(どうしてよく死んだとしようか)よく死んだとはしない」ということで、意訳すれば、「よく生きたということでもなく、惜しい死でもない」となる。さらに意訳すれば、次のようになる。「生きて価値があるわけでもなく、死んでも惜しまれない」。

わたしが参考にした加地伸行著「論語」では、次のように訳しています。

子張のことば。人格を高めるとしてもある程度で終わり、人の道を信ずるとしても熱心でないとすれば、その人に道徳があるとも言えないし、ないとも言えないことになる。〔なんにもならない。〕

わたしには、この訳がすっと入ってきましたので、加地伸行訳を下敷きにしました。


三.「子張第十九、第三章」

子夏之門人、問交於子張。子張曰、子夏云何。対曰、子夏曰、可者与之、其不可者拒之。子張曰、異乎吾所聞。君子尊賢而容衆、嘉善而矜不能。我之大賢与、於人何所不容。我之不賢与、人将拒我。如之何其拒人也。

子夏の門人、交わりを子張に問う。子張曰く、「子夏は何とか云える」。対えて曰く、「子夏曰く、『可なる者は之に与(く)みし、其の不可なる者は之を拒(ふせ)ぐ』と」。子張曰く、「吾が聞く所と異なり。君子は賢を尊んで衆を容れ、善を嘉(よみ)して不能を矜(あわ)れむ。我にして大賢ならんか、人に於いて何ぞ容れざる所あらん。我にして不賢ならんか、人将に我を拒がんとす。之を如何ぞ其れ人を拒がん」。


子夏の門人が友人との交わり(交際、つきあい)について子張に質問した。
子張が言った。
「お前の師の子夏は何と言っておられるかね」。
(子夏の門人が)答えて言った。
「先生は、『友とすべき人とはつきあい、すべきでない人は遠ざけよ』と言われました」。
子張は次のように言った。
「わたしが(孔先生から)聞いた話とは異なっている。君子は賢い友を尊敬するが、そうでない友も受け入れる。善き友を誉めるが、そうでない友には同情する。(子夏の言っていることは、)自分が賢人・善人であれば、誰もが温かく迎えてくれるが、自分が凡庸であれば、誰も迎えてくれない、拒まれてしまうことになる。どうして、そんなことができますか。凡庸な人を拒むことなどできないのです」。


この章の解説:

複数の解説書を参考にしながら、わたしなりに訳してみました。子張が子夏の弟子に向かって、子夏が言ったことを批判しているという内容です。

呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。

子張と子夏の解釈の相違は、学而篇の第六章と第八章に対応している、と先学は説く。
第六章には、こうある。「汎(ひろ)く衆を愛して仁に親しむ」。
第八章にはこうある。「己に如(し)かざる者を友とすること無かれ」。
子張は孔子の思想から「汎く衆を愛する」ことを学び取り、子夏は同じ孔子の思想から「己に如かざる者を友とすること無き」を学び取ったのだ。一見矛盾するような思想のこの断片は、しかし、孔子という一個の思想家の中では少しの矛盾もなく統合されていた。思想家を思想家たらしめている《人格力》とでもいうべきものの作用である。
それはともかく、世俗の欲望が強いやり手の秀才子張が、いわば清濁あわせ呑むような融通性を唱え、小心で生真面目な秀才子夏が、友人との交際についても厳格主義を唱えているところが、いかにもそれらしくて面白い。

仁に近い人は、「汎(ひろ)く衆を愛して仁に親しむ」ことが理想でしょうが、仁に遠い人は、「己に如(し)かざる者を友とすること無かれ」でないと、人格を磨くことは難しいでしょう。そう考えると、子夏も子張も偏っていると思うのです。孔子は、中庸であることを目指したのですから…。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

子夏の門人が人と交わる心得を子張にたずねた。子張はいった。
「子夏はなんといっているのかね」。
門人はかしこまってこたえた。
「子夏は、いい人には仲間になり、よくない人は断ったがよいといっておられます」。
子張がいった。
「その話は自分が先生からおそわったことと違う。君子は一方ですぐれた人を尊びながら一方では大衆を受け入れ、善人をほめながら、善をなす能力のない人に同情する。(かりに子夏の説によるとして)自分が非常にすぐれた人間であったら、だれにでも容れられるだろう。自分がすぐれた人間でなければ他人から拒否されるから、どうしてこちらから拒否することが起こり得るだろう」。
子夏の朋友にたいする態度は、孔子の「忠信に主(した)しみ、己に如かざるものを友とすることなかれ」(子罕篇第二十五章)ということばの趣旨にしたがっている。しかし、もし人が自分よりすぐれた人を友としようとすると、相手もまた自分よりすぐれた人を友としようとするであろうから、その関係は成立死得ぬことになる。人が内省的であって自分にたいする評価が低く、他人の長所を見て高く評価する、他人のなかに自己よりもすぐれた点を見いだしてその美点を学び、その人を友とするというところではじめていわゆる君子の交わりが成立するといえるだろう。子夏の「可なる者は之に与(く)みし、其の不可なる者は之を拒(こば)め」という単純な合理主義では、友人関係を社会関係として成立させることはむつかしい。子張の主張は子夏の説のこの欠陥をついたものではあるが、優秀な才能をもつ人が、自分より劣っている人間を寛容するという立場で友人関係が社会関係として成立するというのでは、孔子の説と正面から矛盾する。子張の説は君子の他人にたいする同情心に、朋友の成立の根拠を求めている。こういう心情の上に根拠をおく子張説にたいして、子夏のただ理性の上に朋友関係を求める説が成立する。この会話は子張と子夏の学派の対立をはっきりとみせる興味ある対論といえる。従来の注釈家は朋友関係を社会関係としてみなかったため、子張の論点をはっきりとらえることができなかった。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

年長弟子の子夏さんの門人とこんな問答をした。
「友人との交際はどうあるべきでしょうか」。
「お前の師匠の子夏さんは、どう教えている」。
「良い人とは交際し、良くない人とは交際するなと教わりました」。
「そりゃあ、わたしが大先生からお聞きしたのと大違いだ。君子は優れた人を尊ぶが、そうでない人も受け入れる。善い人は誉め、いたらぬ者には同情する。自分が優れた人間ならば、どんな人物でも受け入れられるし、自分がダメな人間ならば向こうからこっちを拒絶するだろう。なにも、わざわざこっちから交際を求めたり、断ったりする必要などないはずだ」。


四.「子張第十九、第四章」

子夏曰、雖小道必有可観者焉。致遠恐泥。是以君子不為也。

子夏曰く、小道と雖も必ず観るべき者あり。遠きを致せば恐らくは泥(なず)まん。是を以て君子は為さざるなり。


子夏が言った。
「技芸や専門的知識(小道)を学ぶことも、必ずや、そこに意義がある。しかし、大きな事を成し遂げるためには、技芸や専門的知識だけでは不足する。(単に技芸や専門的知識を得るだけではなく、それを見識や胆識に高めることが求められる。)したがって、君子(仁の人)は技芸や専門的知識を得ることを求めて学ぶのではない。(それを見識や胆識に高めていくのである。)


この章に出てくる重要な言葉(概念):

小道、遠きを致せば恐らくは泥(なず)まん

小道:道家・法家のような諸子百家つまり異端の学をさすと古注は解している。しかし、徂徠の指摘したとおり、子夏の時代はまだ諸子百家の成立以前である。朱子の注のように農・医・卜筮(ぼくぜい)などの枝芸をさすとみるほうがよい。
遠きを致せば恐らくは泥まん:小道は窮極まで知りたいと思うと障害になる、という意味。
(以上、貝塚茂樹著「論語」を参考にした)


この章の解説:

わたしの解釈で意訳しました。この章を、「技芸などの小さな道でも、見どころはあるが、それを天下国家を治めること(遠大なこと)には適用できない。だから、君子は技芸などは学ばないのである」と解釈している解説本が多いのですが、それには従わず、知識を見識や胆識にまで高めていくことの大切さを説いたものと解釈しました。

諸橋轍次「論語の講義」では、「小さな技芸の道に深入りすると、身動きが取れなくなるから、君子は小道を治めないのである」と訳して、小道の例えとして「碁・将棋などの中にも、人生を処する道を教えるものがあるが、普通の人間では、それに深入りすると、それに心奪われ、動きの取れぬ結果に陥る場合が多い」と解説しています。なるほど、一理あります。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

子夏曰わく、小道と雖も必ず観るべきもの有らん。遠きを致(きわ)めんとすれば泥(なず)まんことを恐る、是を以て君子は為さざるなり。
子夏がいった。
「取るに足りない技芸でもきっと見どころはあるものだ。しかし窮極まで知ろうとするには、障害になりがちである。君子はそれを手がけないのはそのためだ」。
子夏の門人のなかには、技芸の末にこだわる人間が多かったので、注意をあたえたことばである。「遠きを致(きわ)めん」は、その技芸をそのままやっていくことをさすと解釈されている。しかしそれは誤りで「小道」でなく「大道」つまり孔子の道に立って、窮極の知を求める者には、小さい道は障害になるとさとしたとすべきである。


五.「子張第十九、第五章」

子夏曰、日知其所亡、月無忘其所能、可謂好学也已矣。

子夏曰く、日々に其の亡き所を知り、月々に其の能くする所を忘るる無くんば、学を好むと謂うべきのみ。


子夏が言った。
「日々に新しいことを知り(知識を習得し)、月々に復習を怠らない(習得した知識を実践して習慣化する)ようであれば、その人は、まさに学を好む(活学の人)といえましょう」。


この章の解説:

思い切って意訳してみました。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

子夏がいった。
「毎日自分のまだ知っていないことを知り、毎月その結果を忘れないように心にとめておくのは、学を好む態度といえよう」。
毎日、新しいことを知ろうと努め、毎月の終わりにその結果をまとめて忘れないようにつとめる。これは子夏の学派に伝えられた伝承であるが、あらゆる学問研究に通じる道である。

陳舜臣著「論語抄」には、次のように書いてあります。

子夏のことばです。孔子の歿後、子夏が一派の長として訓辞したことばと思われます。
日ごとにまだ知らなかったことを知り、ひと月たってそれをよくおぼえているのは、ほんとうに学問を好むといえるでしょう。


六.「子張第十九、第六章」

子夏曰、博学而篤志、切問而近思。仁在其中矣。

子夏曰く、博く学んで篤く志(しる)し、切に問うて近く思わば。仁其の中(うち)に在り。


子夏が言った。
「(仁を目指す者は、まずは)博く知識を習得して、(それを見識に高めるために)志を立て、習得した知識を、「そういうことか、こういうことか」と(体現するために、)日常生活や仕事の中で具体的に実践し、習慣化できるようになれば、仁は自然と身に付くものである」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

切に問うて、近く思わば

切に問うて:「切」は「切するがごとく磋するがごとし」(学而篇第十五章)の「切」である。玉をみがくように鋭く問いかける(貝塚茂樹著「論語」)。
近く思わば:抽象的な一般論ではなくて、自分にとって分からない問題を具体的に考える(加地伸行著「ビギナーズ・クラシックス 論語」を参考にした)。


この章の解説:

わたしの解釈で意訳しました。吉田賢抗「論語新版」には、この章は「この章は学問に志す人に、その心構え、方法を教えたもので、博学・篤志(とくし)・切問(せつもん)・近思(きんし)の四つを心がけ、真剣に取り組めば、しだいに仁の徳が身に付いてくる。四書(論語・孟子・大学・中庸)の一つである『中庸』は、この考えを発展させて、博学・審問(こと細かに問いただす)・慎思(慎重に自分の身に反省して考察する)・明弁(物事の是非を明確に判断する)・徳行(誠実に心をこめて善を行う)の五つを挙げている」と書いてあります。
子張篇について、諸橋轍次「論語の講義」には、「この篇は、古人もいう通り、大体孔門の人々の言葉を記しているが、中でも子夏が最も多く、子貢がこれに次いでいる。顔淵の没後、聡明穎悟(えいご…すぐれて悟りのはやいこと)の点では子貢が第一であり、曾子を除けば、篤実なる事、子夏に及ぶ者がないので、自然この二人の言葉が多いと言われる」と書いてあります。やはり、子夏は、優れた孔子の継承者の一人なのです。

陳舜臣著「論語抄」には、次のように書いてあります。

これも子夏のことばです。
宋の朱熹(朱子)が呂祖謙(ろそけん)と共編した十四巻の、初学者むきの書物のタイトルが『近思録』ですが、いうまでもなく、この章句から採っています。
朱子学派の人たちにとっては、この本は、四書とならんで、必読書とされていました。

吉川幸次郎著「論語 下」では、次のように訳しています。

子夏の言葉。広い対象について学ぶとともに、中心となる意志の方向の密度を高め、切実な問題意識をもって、自己の周辺の近いところから考えて行く。仁はおのずから、その中に内在し、発生する。

宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。

子夏曰く、博く学んで熱心に理想を追い、切実な疑問を捕らえて自身のこととして思索をこらす。学問の目的とする仁は、その中から自然に現れてくる。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

広く学び、意志を強くし、常に疑問を持ち、身近な問題に目を向ける。そうした行為の中にこそ仁は芽生えるものだ。


七.「子張第十九、第七章」

子夏曰、百工居肆以成其事、君子学以致其道。

子夏曰く、百工(ひゃっこう)は肆(し)に居(お)りて以て其の事を成し、君子は学びて以てその道を致す。


子夏が言った。
「技術者が工場で製品を完成(研究・開発・企画・製造・販売)するように、君士たる仁の人は、知識を見識・胆識に高めることを通じて人格を練り上げる。


この章の解説:

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

子夏がいった。
「職人たちは店にいて、その仕事を完成する。君子は学問し、その道を窮極的に知る」。
 《肆》「店」にあたる。
学問を専門とする君子つまり学者の職業を、職人の職に対照することによってあきらかにした。孔子の孫弟子のころになって、知識階級つまり士の身分が確定してきたことを反映する。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

子夏の言葉。もろもろの職人は、自分の店にいることによって、その仕事を完成し、君子は学問をすることによって、その生活を推し窮める。「致」の字は、旧訓「いたす」であるが、意味は、「きわめる」「窮極する」である。ここの「致」の字は、その最も顕著な例であり、前章の「遠きを致すには恐らく泥まん」の「致」も、その方向にある。
「肆」の原義は「陳ずる也」、おきならべる、であるが、製品をつくるための道具、もしくは製品そのものをおきならべた場所、つまり「みせ」も「肆」と呼ばれる。
私はこの条を、従来、多様な道具、もしくは多様な製品、それらがあればこそ商売ができるように、君子も学問をし、多様な実証を知ればこそ、道徳の生活を完成できる、と読んで来たが、従来の説は必ずしもその方向ばかりではない。朱子の新注に、職人は店にいなければ、ほかの事に気をうばわれて、仕事に精が出ない。そのように、君子も学問をしなければ駄目になる、というのは、いかにも宋儒らしくせせこましい。また仁斎が、人にはそれぞれ仕事がある。百工には百工の仕事、君子には君子の仕事、というのは、江戸時代のヒエラルキーが、仁斎にも作用したと思われる。


八.「子張第十九、第八章」

子夏曰、小人之過也必文。

子夏曰く、小人の過ちや必ず文(かざ)る。


子夏が言った。
「小人(知識人、知識はあるが徳のない人、知識はあるが道徳心に欠ける人、知識はあり義の大切さを知っているが、礼を通して実践することをしない人、知識はあるが義を立てない人…)が過ちを犯すと、(それを過ちと認めないどころか、あるいは過ちと知っていながら、)言い訳をして、自分を取り繕うものである」。


この章の解説:

わたしの解釈(意訳)です。まさしく、そのとおりだと思います。「衛霊公第十五、第二十九章」に「過って改めざる、是を過ちと謂う」という孔子の言葉がありますが、小人は過って改めざるどころか、過って文(かざ)る、言い訳をして自分を正当化しようとするのです。
また、「子張第十九、第二十一章」に「君子の過ちや、日月(にちげつ)の食(しょく)の如し。過つや人皆之を見る。更(あらた)むるや人皆之を仰ぐ」という子貢の言葉がありますが、この章と合わせて読むと、君子(知識と道徳心を兼ね備えている人、義を立て礼を通して実践を重ね徳を発する仁の人…)と小人との違いが明らかになります。孔子が生きた時代も現代も、君子(教養人)たる人はごく少数にとどまり、小人(知識人)が犇(ひし)めいているのです。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

子夏がいった。
「小人が過ちをすると、きっとごまかす」。
「過てば則ち改むるに憚ること勿かれ」(学而篇第八章・子罕篇第二十五章)といい、また「過ちて改めざる、これを過ちと謂う」といっているのに対応する。君子は過ちを認め、これを改める。小人は過ちを認めず、隠そうとする。

宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。

子夏曰く、諸君は万一、過失を犯したなら、決して言い訳してはならぬ。


九.「子張第十九、第九章」

子夏曰、君子有三変。望之儼然。即之也温。聴其言也氏B

子夏曰く、君子に三変あり。之を望めば儼然たり。之に即(つ)けば温なり。其の言を聴けば氏iはげ)し。


子夏が言った。
「君子(教養人、知識と道徳心を兼ね備えている人、義を立て礼を通して実践を重ね徳を発する仁の人…)には三つの姿があります。遠くから見ると威厳があり厳かです。近くで見ると温和で穏やかです。話してみると自分に厳しく人に公正(厳正)です」。


この章の解説:

加地伸行「論語」を参考にして、わたしの解釈で意訳しました。

諸橋轍次著「論語の講義」に「ここの君子は、或いは子夏が孔夫子の姿を心の中に描いて述べたものであるかも知れない。述而篇三十七の『子は温にして氏iはげ)し。威あって猛(たけ)からず。恭しくして安し』とか、或いは郷党篇に『恂恂(じゅんじゅん)如(じょ)たり、侃侃(かんかん)如たり、與與(よよ)如たり』などと、孔子を表した形容詞が、みなここに当たるように思う」とあります。また、宇野哲人著「論語新釈」には「この章の『君子』は必ずしも孔子をさすのではなかろうが、孔子でなければこれを能(よ)くする者はない」とあります。
子夏は孔子の言動をよく観察していたのでしょう。それだけ孔子を慕っていたのだと思います。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

君子はその自由な精神の表現として、三つの変化をもつ。
最初遠くから見ると儼然として端正である。「儼」は「厳」とは、やや意味を異にし、「厳」がおごそか、厳格であり、美の観念とは必ずしも連ならないのに対し、「儼」は規格が保持されている美しさをいう。ここでは「端正」と訳してよかろう。(中略)
「之れに即くや温」、そばへ行くと、温かに、おだやかである。遠くから見ると秋の月のように、端正であるが、そばへ行くと春の風のように、おだやかに人を抱擁する。まずそうした変化がある。
更に、「其の言を聴くや氏v。古注の鄭玄に「獅ヘ厳正なり」というように、きびしさ、はげしさ、にはちがいないが、内部のエネルギーが溢れ出るゆえにのそれ、としてよい。
(中略)
皇侃は、晋の李充(りじゅう)の説を引いて、「変」というのは、他人から見れば変化があるだけで、君子自身としては、一つのものの表現であるゆえに、変化はない、といっている。「人、之れを変と謂う耳(のみ)、君子は変ずる無き也」。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

弟子の子夏さんが「君子は三つの顔を持つ。離れて見ると厳(おごそ)かで、近くで見ると穏やかで、ことばを聞くと鋭い」と言っているが、これは先生を評したものだろう。

宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。

子夏曰く、諸君に三つのあるべき姿ということを教えよう。遠くから見ると近寄りがたい。ところが実際に近寄って見ると、意外に人あたりがいい。しかしその議論を聞くと穴に入りたいほどきびしい。


十.「子張第十九、第十章」

子夏曰、君子信而後労其民。未信則以為詞ネ也。信而後諫。未信則以為謗己也。

子夏曰く、君子は信ぜられて而して後に其の民を労す。未だ信ぜられざれば則ち以て己を氏iやま)しむと為す。信ぜられて而して後に諫む。未だ信ぜられざれば則ち以て己を謗ると為す。


子夏が言った。
「教養人であり、知識と道徳心を兼ね備えている指導者は、部下の信頼を得たその後で、部下に自らの方針を伝え仕事の指示をする。部下から信頼を得ていない段階で、仕事の指示をすると、部下はその仕事を辛い事だと感じてしまう。また、教養人である指導者は、上層部の信頼を得たその後で、上層部に対する異議申し立て(諫言)をする。上層部から信頼を得ていない段階で、異議申し立て(諫言)をすると、上層部は非難されていると感じてしまう」。


この章の解説:

これもまた、加地伸行「論語」を参考にして、わたしの解釈で大胆に意訳しました。

渋沢栄一著「『論語』の読み方」に佩は、「この項は君子が下の者を使い、上につかえる道を論じている。まず下の者を使う道は、人民に信用されることが先決だ。人民に信用されるには、誠意をもって政治を行うことだ。誠意をもって政治を行えば、人民は必ず喜んでついてくる。人民が喜んで従えば、労役を命じても苦情をいわず、喜んでその労役に服してくれる。もし人民の信用を得ないうちに労役を命ずれば、人民は必ず自分たちを苦しめるといって拒む。人はもともと感情的なものだから、情意の疎通が第一だ。情意の疎通ができる間柄になれば、少々無理なことでも互いに笑って我慢し合えるが、もしこれを欠いておれば、何事にも反感をもたれる」とあります。
子夏の言葉には、孔子の言葉の生き写しのようなところがあります。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

前半は、政治の責任をとるものの、人民に対する心得、また後半は、その君主に対する心得、を説く。後半について参照すべきは、里仁第四(第二十六章、引用者注)の子游の言葉、「君に事うること数しばすれば、斯れ辱ずかしめらる」である。
なお、…仁斎は、この条の正確さは、孔子の言葉としても、区別がつかないであろうとし、「凡そ門人の話、論語に載する者は、皆な崇信して佩服せざる可からざる」ことの適例とする。

陳舜臣著「論語抄」では、次のように訳しています。

子夏が言いました。「君子たるものはじゅうぶん人民の信頼をかち得てから、彼らを使役するものです。まだ信じられていないのに使役しようとすれば、人びとはひどい目に遭ったと思うばかりです。これは一般人民にたいしてですが、君主にたいしても、やはり信じられてから諫言すべきであります。もし信じられていないのに諫言するなら、その君主は自分が謗られていると考えるでしょう。自分が謗るような人間でないことを、君主にみとめさせるのが先決です」。


十一.「子張第十九、第十一章」

子夏曰、大徳不踰閑。小徳出入可也。

子夏曰く、大徳(たいとく)は閑(かん)を踰(こ)えず。小徳は出入(しゅつにゅう)するも可なり。


子夏が言った。
「大きな徳(天地の道理に照らして義を立てて礼を通して実践を積み重ね、習慣化して徳を発するという仁の枠組み)を、踏み外してはならない。小さな徳(礼を通して実践を積み重ねる過程で生ずる些細な事)には、あまり拘らなくてもよい」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

閑、大徳、小徳

閑:法律・規則のこと
大徳:主要な道徳(高い徳をそなえた人という説もある)
小徳:細かい礼儀(身近なこまごました礼の規則を心得た人という説もある)
(以上、貝塚茂樹著「論語」を参考にした)


この章の解説:

わたしの解釈、意訳です。加地伸行「論語」は、「子夏のことば、人格者(大徳)は規範を越えることはない。(その規範について、人格者に至ろうとする途中の)未熟な者(小徳)の多少の出入りは、さしつかえない」と訳しています。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

子夏がいった。
「大きな徳については、そのこまかい規制を踏み越えてはいけないが、小さな徳については、その範囲を少々越えてもかまわない」。
これも子夏が、門人たちがあまり小さい徳つまりこまごました礼をやかましくいうので、それは二の次としてもかまわないと教訓したのであろう。

五十嵐晃著「論語の注釈と考究」では、次のように訳しています。

子夏曰く、大きい徳(孝悌などの主要道徳)については、きまりを踏み越えないように。小さい徳(細かい礼儀)については範囲を少々越えてもよろしい。

宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。

子夏曰く、修養の上では大事な点で足を蹈みはずすことがなければ、小さな過不及の誤りは数え立てるに及ばない。


十二.「子張第十九、第十二章」

子游曰、子夏之門人小子、当洒掃応対進退、則可矣。抑末也。本之則無。如之何。子夏聞之曰、噫、言游過矣。君子之道、孰先伝焉、孰後倦焉。譬諸草木区以別矣。君子之道、焉可誣也。有始有卒者、其惟聖人乎。

子游曰く、「子夏の門人小子、洒掃(さいそう)応対進退に当れば則ち可かり。抑(そもそも)末(すえ)なり。之を本(もと)づくれば則ち無し。之を如何」。子夏之を聞いて曰く、「噫(ああ)、言游(げんゆう)過(あやま)てり。君子の道、孰(いず)れを先として伝え、孰れを後(のち)として倦(う)まん。諸(これ)を草木の区にして以て別るるに譬(たと)う。君子の道、焉(いずくんぞ)誣(し)うべけん。始めあり卒(おわ)りある者は其れ惟(ただ)聖人か」。


(孔門十哲の一人で、子夏と並んで「文学」に優れていたとされ、子夏よりも一歳若い子游が、)子夏の門人を批判して言った。
「子夏の門人諸君は、水まき、はき掃除や、賓客との受け答え、身のこなしなどはよく出来ているが、それは枝葉末節のこと(小さな徳)である。天地の道理に照らして義を立て礼を通して実践を積み重ね徳を発するという、仁のサイクル(大きな徳、仁の根本)がわかっていないようだが、これはどうしたことであろうか」。
子夏がこの批判を聞いて言った。
「ああ、言游(げんゆう:子游)は間違えている。君子の道(教育)には、どれを先に伝えるべきか、後にすべきかという順序がある。その順序は、その人の成長の度合いに応じて、考えねばならない。それは、草木の成長に応じて、手入れの仕方を変えるのと同じである。であるから、その人に成熟の度合いも考えずに、仁のサイクル(大きな徳、仁の根本)を押しつけてはいけない。教育には始めもあり終わりもある。つまり、その人に応じた順序というものがある。普通の人は、仁のサイクル(大きな徳、仁の根本)を理解することから始めるよりは、礼を通した具体的な実践活動から始める方がわかりやすいのである。仁のサイクル(大きな徳、仁の根本)を理解した上で、礼を通して実践を積み重ねて大道徳を得られるのは聖人だけだろう(。それを、あらゆる人に望むのは誤りである)」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

洒掃、言游、倦(う)まん、誣(し)う

洒掃:拭き掃除
言游:言偃(げんえん)。字が子游だから言游と呼んだ
倦まん:伝える
誣う:おなじくする
(以上、貝塚茂樹著「論語」を参考にした)


この章の解説:

これも、わたしの解釈、意訳です。この章は、どの解説本を読んでも、これだ、という訳がなく、ピンとこないので、思い切って訳してみました。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

子游がいった。
「子夏の門人の若者たちは、拭き掃除、客の応対、儀式の動作をやらせるとよくできる。しかし、これらは末梢的なことで、根本的なことはまったくゼロだ。これはどんなものかな」。
子夏がこれを伝え聞いていった。
「なんだ子游め、とんでもないまちがいだな。君子のなすべき道はなにを先に教え、なにを後に教えるか(を見わけることだ)。そのやり方は、たとえば草木の種類によって育て方がまちまちのようなものだ。君子の道もどうしてすべての人に同じ教え方をおしつけようか。はじめからおしまいまでまったく同じやり方ができるのは、君子ではだめで、まず聖人以外にはないのだ」。
子游・子夏両学派の対立から生まれる相互の批判がここにあらわれている。子游は、子夏の門人が末梢的な礼の作法は心得ているが、本質的なことに無知だとそしった。そのことばはわかりやすいが、子夏の反論のほうはかなり難解で、いろいろの説があるが定説はない。ここにあげた私の訳も、一説にとどまる。

呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。

子夏が孔子より若いこと四十四歳。対するに子游は孔子より若いこと四十五歳。子游と子夏は一つしかちがわない。ともに、孔子晩年の弟子だ。…子游も子夏も同じような生真面目な秀才である。孔門の高弟十人を列挙した先進篇第三章では、「典籍に詳しいのは子游と子夏である」と評されている。よく書を読み、礼楽に関する故実(こじつ)に詳しかったのだろう。
このことが二人にライバル意識を起こさせたのかもしれない。子張篇第十二章には、孔子没後それぞれが一派を成した時のことだろう、次のような話が記されている。
子游がこんなことを言った。「子夏の弟子たちは、掃除や客の応接や立ち居ふるまいについてはまずまずだ。しかし、そんなことは末節である。根本となると何もない。これではどんなものかねぇ」。
これが耳に入った子夏は言った。
「ああ、子游はまちがっている。君子の道はどれを先に伝えるとかどれを後まわしにして放っておくとかいうものではない。草木を種類に応じて育てるように、弟子の力に応じて順序よく教えるべきだ。力のちがいを無視したごまかしの教育をしていいはずがなかろう。末節も根本も同時に習得できるなんていうのは、聖人ぐらいのものだよ」。

五十嵐晃著「論語の訳注と考究」では、次のように訳しています。

子游曰く、子夏の門下の若者たちは、拭き掃除や、客の受け答えや、儀礼の動作をやらせれば、(たしかに)結構だ。しかしながら、末のことだ。本は何もない。(こんなことでは)いかがなものであろう。子夏がこれを聞いて曰く、ああ子游の失言だ。修養の方法については(何を先にし、何を後回しにするかと決まったものではない。つまり)本を先にして、末を後にすると決まったものでもない。ちょうど、草木も種類によって(育て方を)区別するようなものだ。修養の方法を間違って発言してはいけない。(始め有り卒り有る者、つまり子游のいう所の)本末が備わっている者は聖人なのだ。(一般の人にはその末すらも身についてはいない)(だから、私はそういうことから手をつけているのさ)

なるほど、五十嵐先生の解釈には、首肯できます。


十三.「子張第十九、第十三章」

子夏曰、仕而優則学、学而優則仕。

子夏曰く、仕えて優なれば則ち学び、学んで優なれば則ち仕う。


これを普通に訳すと、次のようになります。(とはいっても、意訳ですが…)
子夏が言った。
「(就職してからは、)ひたすら、仕事に取り組むべきである。それでもゆとりがあるのなら、さらに学問をするがよい。(より一層良い仕事ができるようになるであろう)また、(就職する前の修養期間は、)ひらすら、学問に取り組むべきである。学問が成就して一定の段階に達したら、就職するがよい(。学んだことを仕事に活かせるであろう)」。

わたしは、次のように、言葉を入れ替えて考えた方が、よりわかりやすいと思います。
子夏曰く、学んで優なれば則ち仕え。仕えて優なれば則ち学ぶ。
すると、次のように訳すことができます。(これもまた、意訳ですが…)
子夏が言った。
「(就職する前は、就職することなど考えずに、)ひたすら学問に励むべきである。(やがて学問が一定の段階に達するであろう。)その段階になったら、就職を考えるがよい」。
「(就職してからは、与えられた仕事を全うするために、)ひたすら仕事に取り組むべきである。(やがて仕事に慣れてきたら、時間的な余裕ができるであろう。)その段階になったら、学問にも取り組むがよい。(仕事のレベルがさらに上がるだろう)」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

優なれば:余力があればの意(貝塚茂樹著「論語」)。


この章の解説:

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

子夏がいった。
「役人となって余力があれば学問し、学問して余力があれば役人となる」
子夏の語の前半は、孔子の「行いて余力あれば、則ち以て文を学べ」(学而篇第六章)ということばにもとづいている。後半は的確にこれと趣旨が一致する孔子のことばはない。子夏が前半の孔子のことばに裏返しの表現をつけ加えたとみられる。孔子のことばが弟子たちによって拡張され敷衍されてゆく過程がわかる。


十四.「子張第十九、第十四章」

子游曰、喪致乎哀而止。

子游曰く、喪は哀を致(きわ)めて止(や)む。


子游が言った。
「喪には、ただひたすらに哀しみを尽くせばいいのです(。その他のことを考える必要などありません。儀礼の形式よりも、心のあり方が大切なのです)」。


この章の解説:

呉智英著「現代人の論語」には次のように書いてあります。

喪は、細かな儀礼を守ることよりも、哀しみを表すことにつきる。というのだ。同じように生真面目な秀才でも、子夏に形式主義の傾向があり、子游に実質主義の傾向がある、ということになろうか。もっとも、子游の実質主義も、形式主義に流れがちなことへの自戒という一面も考えられないではない。

なるほど、と思わせる、指摘です。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

親戚の喪にあたったときは、悲哀の情を尽くせばそれでいい。古注によると、悲しみのあまりまったく絶食して、自分の生命まで危なくするのは行きすぎとする。新注では、悲哀の情がたいせつで無用の装飾を加える必要はないという。子游学派も礼を重んずるので、やはり細節にこだわる傾向がある。それを戒めたことばと見てよいであろう。

五十嵐晃著「論語の訳注と考察」には、次のように書いてあります。

子游曰く、喪(において)は悲しみをつくすだけだ。
参考言句:喪は其の易(おさ)めんよりは寧ろ戚(いた)め《八佾第三の四》、喪に臨んで哀まずんば、吾何を以て之を観んや《八佾第三の二十六》


十五.「子張第十九、第十五章」

子游曰、吾友張也、為難能也。然而未仁。

子游曰く、吾が友張(ちょう)や、能くし難きを為す。然れども未だ仁ならず。


子游が言った。
「わたくしの友人の張くん(子張)は、なかなか真似の出来ないことが出来る立派な人物だが、しかし、(誠意が乏しく、人情に篤くないから)仁の道に十分に達している(礼を通して実践を重ね、徳を発している)とは言い難い」。


この章の解説:

諸橋轍次「論語の講義」には、「これは、子游が同門の子張を批評した言葉であるが、決して競争心から生じた非難ではなく、及ばざるところを率直に指摘して、互いに反省し切磋し合って行く態度の現れたものである」と書いてあります。宇野哲人「論語新釈」には、 「この章は子游が子張を評したのである。次章で曾子も子張の仁を為すことを認めていない」と書いてあります。
諸橋先生は、「決して競争心から生じた非難ではなく…」としておられますが、実際には、曽子も含めて、子游、子張、そして子夏とは、後継者の地位をめぐって、ライバル関係にあったのではなかろうかと想像できます。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

人のできないことをやり遂げることが、仁つまり最高の徳ではないという考え方がおもしろい。だれでもできそうでできない、その平凡にして非凡なのがつまりほんとうの人間らしさであるからだ。


十六.「子張第十九、第十六章」

曽子曰、堂堂乎張也、難与並為仁矣。

曽子曰く、堂堂たるかな張や、与(とも)に並びて仁を為し難し。


曽子が(皮肉って)言った。
「いつも胸を張って堂々としており、大したものだねぇ、張くんは。(傲岸不遜な)彼と一緒に行動していると、仁の人であることは難しいと、つくづく思うんだよ…」。


この章の解説:

かなり大胆に訳しましたが、曽子の言葉にはこのような皮肉が含まれていると思います。子張は孔子晩年の弟子で子貢の弟子でもあります。子張は「先進第十一、第十四章」において、子貢を通じて孔子から次のように戒められています。
子貢問う、「師(子張)と商(子夏)とは孰(いず)れか賢(まさ)れる」。子曰く、「師は過ぎたり。商は及ばず」。曰く、「然らば則ち師愈(まさ)るか」。子曰く、「過ぎたるは猶お及ばざるが如し」。
「師は過ぎたり」。子張には出過ぎた言動があり、孔子の鼻に付くところがあったのでしょう。それに対して「商は及ばず」。子夏は控え目であったようです。一説によると、「過ぎたるは猶お及ばざるが如し」というのは、「過ぎているのは及ばないのと同じようなもの」という意味の奥に、「過ぎているよりは及ばない方がましである」という意味があるそうです。孔子の教えに忠実な曽子にとっては、子張のそういうところが許せなかったのでしょう。

呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてあります。

子張は年齢の近い同年代の兄弟弟子たちからも疎んじられていたようだ。
子張篇では、子夏と並ぶ生真面目な秀才子游がこう言っている。
「吾が友張や、よくし難きを成す。然れども未だ仁ならず」(子張篇十九の十五)
友人の子張は、なかなかできないことをやる。だが、あれではまだまだ仁ではない。
続く第十六章では、これまた生真面目な秀才曾子がこう言っている。
「堂々たるかな張や、与に並んで仁を為し難し」(子張篇十九の十六)
堂々たるものだな、子張は、しかし、一緒に仁を行うことは難しい。
同輩からこうまで言われているのは子張だけである。

一方で、次のような指摘もあります。(貝塚茂樹著「論語」から)

子張はよほど容貌が美しく、押し出しがいい人物であったらしい。あまり容貌態度がりっぱなので、友人たちはいっしょに並んで仕事をするのを敬遠した。仁を行う段になっても、並んでいっしょに行いにくいというのが曽子の批評である。容貌はりっぱだが、内容がともなわない、仁のほうはどうかという注もあるが、それは考えすぎであろう。


十七.「子張第十九、第十七章」

曽子曰、吾聞諸夫子、人未有自致者也。必也親喪乎。

曽子曰く、吾諸(これ)を夫子に聞く、人未だ自ら致す者あらず。必ずや親の喪か。


「わたしは孔先生から次のように学んだ」。
「人間というのは、なかなか真心を尽くせないものである。もし、尽くすことがあるとすれば、両親の喪に服する時であろうか」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

自ら致す:自力で窮極までゆく(貝塚茂樹著「論語」から)。


この章の解説:

諸橋徹次「論語の講義」によると、この章は「親子の情愛は人間の自然に発した最高のもの」であり、「孝を以て百行(すべての行い)の本となすのは、そのためであろう」とあります。なるほど、孝の人、曽子ならではの言葉でしょう。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

曽先生がいわれた。
「わたしは先生からうけたまわった。『人間はなかなか自分を出しきることはできない。しいていえば親の喪のときかな』と」
今までの子游・子夏・子張らは孔子のことばをそのまま引用せず、自分の解釈をつけて自分のことばとして語っている。それにたいして曽子は、孔子のことばを直接引用している。若い曽子が、魯国において孔子の死後結局教団を相続したので、常に孔子を背景として発言することになったのであろう。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

曽子が、夫子すなわち孔子から、聞いた言葉としていう。人間の行為のうち、自力だけで究極まで行けるものはない。必ず学問なり教養の助けを借りて、はじめて究極まで行ける。「致」はやはり究極の意。
しかしこの原則にはずれるものがある。ほかでもない、親の喪における態度である。自己の内心から湧き起こる悲哀、それのみによって究極の完全な態度に到達できる。

五十嵐晃著「論語の訳注と考究」では、次のように訳しています。

曽子曰く、私は先生からこういうことを聞いた。「人が自分の真情の限りを出すというのはなかなかないことだ。あるとすれば親の喪の時ぐらいだろうよ」。

宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。

曾子曰く、私は先生に聞いたことがある。人間はなかなか自分の全力を出し尽くすということの出来ぬものだ。もしありとすれば、自分の親の葬式の場合だろう、と。

以上、各先生方の解釈を引用しました。約一月前(三月五日)に父を亡くしたわたしは、この章の言葉を、体験的に理解することができます。正直なところ、それまではピンと来ませんでしたが、自分が体験することによって、なるほど、たしかに、そのとおりだ、と実感できるのです。論語の魅力とは、自分が体験を重ねることによって、ああ、なるほど。孔子はそうことを言っていたのか、と気づくことにあります。孔子は本当に人間というものを知り尽くしていたのです。


十八.「子張第十九、第十八章」

曽子曰、吾聞諸夫子、孟荘子之孝也、其他可能也、其不改父之臣与父之政、是難能也。

曽子曰く、吾諸(これ)を夫子に聞く、孟荘子の孝や、其の他は能くすべし、其の父の臣と父の政とを改めざる、是れ能くし難し。


曽子が言った。
「わたしは孔先生から次のように学んだ」。
「(魯国の大夫の)孟荘殿の行った親孝行は、一つのことを除くと、誰でもできることである。しかし、孟荘殿の父親が亡くなった後で、その父親の家来を引き続き任用して、政治のやり方をも、そのまま受け継いだことは、なかなかできることではない」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

孟荘子:仲孫(孟孫)氏、名は速、諡は荘。父孟献子を継いでから間もなく死んだ。前五五四年から五五〇年まで大夫の職にあった(貝塚茂樹著「論語」から)。


この章の解説:

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

曽先生がいわれた。
「私は先生からうけたまわった。『孟荘子どのの孝行ぶりは、たいていは他人もまねできるけれども、亡くなった父上の家来と政治のしくみを変えなかったこと、これだけはだれもできにくいことである』と」。
孔子には、「三年父の道を改むるなきを、孝と謂うべし」(学而篇第十一章・里仁篇第二十章)ということばがある。孟荘子はこれを実行した。彼の在政期間は短いから、在喪の期間だけでなく彼が死ぬまでつづいたので、こんなにほめられているのかもしれない。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

やはり曽子が孔子から聞いた言葉。孟荘子とは、魯の家老仲孫速(ちゅうそんそく)。父孟献子の地位を世襲した。「左伝」では襄公十六年、十九年、つまり孔子が襄公二十二年に生まれるより先に、家老として行動が記されている。孔子がその人物を批評して、孟荘子の孝行は、その他の点はだれでもできる。ただ父の代からの家来と、父の代からの家政のやり方とを、変えなかった点は、だれでも出来ることではない。

宮崎市定著「現代語訳 論語」では、次のように訳しています。

曾子曰く、私は先生から聞いたことがある。孟荘子の孝行は有名だが、大ていのことは真似ができる。ただ父の使ってきた側近と、父のやってきた方針を改めることがなかったのは、真似のできぬ点だ。


十九.「子張第十九、第十九章」

孟氏使陽膚為士師。問於曽子。曽子曰、上失其道、民散久矣。如得其情、則哀矜而勿喜。

孟氏、陽膚(ようふ)をして士師たらしむ。曽子に問う。曽子曰く、上(かみ)其の道を失い、民散ずること久し。如し其の情を得ば、則ち哀矜(あいきょう)して喜ぶこと勿れ。


(魯国の大夫の)孟孫氏が、(曽子の門人の)陽膚(ようふ)を士師(裁判官兼検事)に任用しようとした時、陽膚が師である曽子にたずねた。
(弟子の質問に対して、)曽子は、次のように答えた。
「(今の魯国においては、)人の長たる為政者が、天地の法則である『道理』に外れた行いを続けたので、人民の心がすっかり離れてしまった。(であるからして、そういう事情を心得れば、)人民が罪を犯したとしても、その責任の大半は人に長たる為政者にあるものと心得えて、罪人を取り調べる時には、有罪とする証拠が明らかになったとしても、それを士師(裁判官兼検事)としての手柄だと喜ぶことなく、その罪人に対する哀しみと憐れみの心を注ぐようにしなさい」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

陽膚、士師、民散ず、哀矜

陽膚:曽子の弟子らしいが不詳
士師:裁判官の長官
民散ず:離散し、法を犯す者があらわれること
哀矜:「哀」「矜」ともにあわれむ意
(以上、貝塚茂樹著「論語」から)


この章の解説:

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

「孟氏」とは、家老孟孫子の当主であるにちがいなく、…(中略)…陽膚は曽子の弟子。士師は「典獄の官」、つまり司法の長官。
孟氏の意志で司法長官の地位についた陽膚は、この役目についての心得を、先生の曽子にたずねた。
曽子はいった。為政者たちが政治の道徳を見失ったため、人民の心理も中心を失ってしまってから、ずいぶんになる。「散」の字は、そうした意味であろう。つまり人民たちが、なかなか本音を吐かず、取り調べに困難を感ずるのは、為政者が其の道を失ったことに、原因がある。あるいは犯罪そのものの発生も、為政者の責任でないといえない。
「如し其の情を得れば」、「情」は「実」と訓ずる。もし取り調べの結果、真実がわかったならば、まずかわいそうだと思って、同情しなければならない。うまく事実がつかめたといって、ゆめ得意になってはならぬ。

五十嵐晃著「論語の訳注と考究」には、次のように書いてあります。

魯の大夫の孟氏(の当主)が(曽子の弟子の)陽膚を司法官にした。陽膚が曽子に(その心得を)尋ねた。曽子曰く、上に立つ者が正しい道を失って、民が放逸に堕してから久しい。もし犯罪の実情がつかめたら、不憫に思って、決して得意になったりしてはいけない。
■考究【民散】普通は次のように解釈している。
@人民の心理が中心を失う《吉川幸次郎》。A人民がゆるむ《金谷治》。B人民は…流浪し離散する《吉田賢抗》。C民心がバラバラになる《木村英一》。D民心が離れ去る《宮崎市定》。E民心離散し、道義退廃せる《穂積重遠》。F人民が離散し、法を犯す《貝塚茂樹》。
しかし、これでは次句の「如し其の情を得れば、則ち哀矜して喜ぶこと勿れ」との結びつきがよくない。そのためか、「散」字に離散の他に「道義退廃」とか「法を犯す」とかの意を持たせるという無理をして敢てしたりしている。私は「散」字には「ほしいまま」「ゆるやかに」という意があることに注目して、「民散ず」は「民が放逸に堕す」という意味にとった。


二十.「子張第十九、第二十章」

子貢曰、紂之不善、不如是之甚也。是以君子悪居下流。天下之悪皆帰焉。

子貢曰く、紂の不善は是(かく)の如く甚だしからざるなり。是(ここ)を以て君子は下流に居るを悪む。天下の悪皆焉(これ)に帰す。


子貢が言った。
「(殷の最後の王で、酒池肉林に耽り、賢人の胸を割いて心にあるといわれた七つの穴を検するなど、ありとあらゆる罪を重ね、悪逆無道の王の標本とされている)紂(は、多くの不善を重ねているであろうが、そ)の不善の程度は、世間で言われているほどには、ひどくなかったであろう。(それなのに、悪逆無道の王の標本とされているのは、平素不善をしていたので、他の罪まで被ることになったためであろう。)そういうことだから、君子は川の下流にいるように、悪い評価が増幅されていくことを嫌うのである。(川の下流にいるように、一度悪い評価を下されると、)天下の悪がみなそこに集まってくる(ように、悪い評価が固まってしまう)からである」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

紂:殷王朝三十代目の、最後の君主。暴君で天下の人民を苦しめ、ついに周の武王の軍と戦って敗れ、滅亡した(貝塚茂樹著「論語」)。と言われているが、本当は暴君ではなかったという説もある。この章では、子貢も、紂は世間で言われているほど、悪くなかったであろう。しかし、悪いという烙印を押されてしまうと、してもいないことまで、したことにされてしまうのであろう、と語っているのである。


この章の解説:

呉智英著「現代人の論語」では、次のように解説しています。

殷の紂王は、殷朝最後の帝である。政治を省みず、寵姫(ちょうき…君主の愛妾、引用者注)妲己(だっき)に溺れ、酒で池を作り乾し肉を林のようにし(酒池肉林)、日夜淫楽にふけった。民心は離反し、国は乱れ、遂にBC一〇二七年、周の武王によって滅ぼされた。孔子の時代より五百年前のことである。
さて、この紂王について、子貢がこのように言った。
「紂王の善(よろ)しからざる悪逆ぶりは、いろいろなものが伝えられてはいるが、実はそのように甚だしいものではない。だからこそ、君士たるものは下等な位置にいることを嫌悪するのだ。なぜなら、その社会のすべての悪の責任が、自分のものであろうとなかろうと、ことごとく自分に帰せられるからである」。
古来、悪王と言えば、夏の桀(けつ)王と殷の紂王、この二人を並べて「桀紂」と称する。注意しなければならないのは、桀王も夏王朝最後の帝であったことだ。王朝最後の帝が、名君だとは言いがたいことも確かだが、同時に、不当に暗愚暴戻(ぼうれい)な帝とされがちなことも確かである。歴史は、古い王朝を滅ぼし新しい王朝を打ち立てた者の立場で書かれる。当然、旧王朝の最後の帝は、滅ぼされてもしかたがないような悪逆非道な人間として描かれるはずだ。イデオロギーを排し、歴史を冷静に眺めようとするならば、旧王朝最後の帝に関する「不善」の伝承や記録については懐疑の眼差しを忘れてはならない。「是(かく)の如く甚だしからざるなり」と。
事実、孔子の時代から四百年下った史記では、紂王について、酒池肉林に象徴される悪行とともに、衆に抜きん出た能力についても公平に記している。「弁舌の資質があり、行動は敏捷ですばやく、情報には鋭敏であり、こうした才能だけでなく腕力も並外れ、素手で猛獣を撃ち倒す」と。決して無能な暗君ではなかった。だが、勝者の歴史が紂王を較べるもののないほどの悪王に変えたのである。歴史は注意深く読まなければならない。
現代では常識となっている(かどうかは心許ないが)こういう歴史認識が、孔子とどの弟子たちの時代に常識であったとは思えない。歴史と神話すら未分化だった時代だからである。しかし、怜悧なる子貢は、歴史を客観的に見る目を持ち、しかも歴史から学ぶことも知っていた。
なるほど、頭脳明晰な子貢の面目躍如というところでしょうか。前掲書では、子貢のことを次のように評しています。
論語の中の弟子たちの言葉は多く師との対話として記録されている。孔子に質問し、答えを得る、という形だ。質問は、問われた師の知性を試すだけではない。問う弟子の知性をも試す。弟子たちの質問の大半が、ただ自分の理解できないことを問うているのに対し、子貢の質問は、師の思想をさらに明らかに照らし出す働きをすることもしばしばである。(中略)それはまた、対話ではなく、子貢一人の言葉を記録した章にも顕著である。

子貢一人の言葉によるこの章がそうだ、ということです。前掲書の著者である呉智英氏もまた、頭脳明晰な人なのでしょう。そのことは前掲書を読めばわかります。これに対して、下村湖人氏は、「論語物語」で知に寄りかかり過ぎる子貢が孔子に戒められて茫然自失とする場面を描いています。人物評というのは、それを評価する人の価値観に左右されるのです。わたしとしては、子貢が頭脳明晰であるから素晴らしいとは、まったく思えません。愚鈍であろうと、人間としてどう考え、どう生きるかが大切だと考えるからです。しかし、だからといって子貢を低く評価しているのではありません。子貢の本当の素晴らしさは、その怜悧な頭脳にあるのではなく、師である孔子のことを心の底から敬愛して、孔子の思想を自分のものにしようと努めているところにあると考えるからです。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

子貢がいった。
「紂王の悪事もそれほどひどいものではなかったのだ。だから君子は川の下流に住むことをいやがる。汚水の流れこむように、天下の悪事がその身にあつまるからである」
天下の悪人が下流にいる紂王のところへ流れこんできたから、悪逆がひどくなったという説もある。しかし、暴君として有名になったため、他人のやった悪事もすっかり彼にくっつけられたのだ。悪事に関する伝説が集中してきて、悪逆が誇張されて伝承されるようになった過程を、近代の古代史家顧頡剛(こけつごう)は実証している。子貢のことばもそんなふうに解していいであろう。秀才で政治家・資本家でもあった子貢は、人間の評判や世論がどうして形成されてゆくかをよく知っていた。悪人という名がたったら、その人のすることはみな悪いこととされる、子貢はそんなありさまをさんざん経験したにちがいない。

陳舜臣著「論語抄」には、次のように書いてあります。

『論語』の時代でさえ、紂はそんなに悪くはなかっただろうと言われていました。そうすると、紂を討った周をもちあげている学者は困るのです。子貢はそう言っているが、紂はやはり罪があったのだと、朱子はこのくだりで発言しています。
一八九九年におびただしい甲骨片(こうこつへん)が出土して、殷の歴史がよくわかるようになりました。古代にあっては神の意をむかえるために、人間をいけにえにしたものです。紂の父の帝乙(ていいつ)や祖父の太丁(たいてい)や曾祖父の武乙(ぶいつ)の時代はそれがきわめて多いのに、紂の治世六十四年にはほとんどありません。まだ出土していないのかもしれませんが、しきりに東方に出兵している記録はあります。奴隷や捕虜を殺すのが惜しかったという見方がありますが、私はやはり(紂の治世に、引用者注)人間を尊重する気風があらわれたとみたいのです。そうみるほうが、周の聖王と時代的にもつながりやすいと思います。


二十一.「子張第十九、第二十一章」

子貢曰、君子之過也、如日月之食焉。過也人皆見之。更也人皆仰之。

子貢曰く、「君子の過ちや、日月(じつげつ)の食の如し。過つや人皆之を見る。更(あらた)むるや人皆之を仰ぐ」。


子貢が言った。
「(仁を実践する、すなわち、天地の道理に照らして義を立てて、義に基づいて身近な事から改めてこれを習慣にするまでやり続け、徳を体現しようと試みる人、すなわち君子たる者は滅多に過ちを犯さないものであるが、時に、過ちを犯すこともある。)君子の過ちは、(それは滅多にないことであるから、まるで)日蝕や月蝕のようなものである。(君士たる者は過ちを犯しても、それを隠したり飾ったりしないので、)その過ちは、誰もが目にするのである。(しかし、日蝕や月蝕が、またもとに戻り光り輝くように、君子が、過ちを)改めると、誰もが仰ぎ見るのである」。


この章の解説:

この章は見事に孔子が理想とした人間像を表現しています。それにしても子貢の表現力はすばらしい。「君子の過ちや、日月の食の如し」と謎をかけ、「過つや人皆之を見る」と日蝕・月蝕の際に人間が月や太陽を観察することに例え、また、「更むるや人皆之を仰ぐ」と日蝕・月蝕が終わると人間はほっとして月や太陽を畏敬して仰ぎ見ることに例えているのです。まさに孔子がそういう人だったのでしょう。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

この条の背景として、日月食に対してむけられた古代人の意識をいえば、日食は早くから注意された。最古のクロノロジー(年代学:歴史上の事実の年代を追求する学問、引用者注)である「春秋」には、日食の起こった日附けが、きちんと記されている。またその発生の時期を予測する方法も、子貢のころには、すでに知られていた。しかしなお、天地の異変の一つとされ、その際に行う儀礼が、「礼」のあちこちに見える。月食の方は、まれに記載され、この章もそのまれなものの一つである。

貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてあります。

子貢が君子を日食月食にたとえた比喩は、さすがに巧妙である。その巧妙さはむしろ師の孔子をしのぐかもしれない。


二十二.「子張第十九、第二十二章」

衛公孫朝、問於子貢曰、仲尼焉学。子貢曰、文武之道。未墜於地。在人。賢者識其大者。不賢者識其小者。莫不有文武之道焉。夫子焉不学。而亦何常師之有。

衛の公孫朝(こうそんちょう)、子貢に問うて曰く、「仲尼は焉(いずく)にか学べる」。子貢曰く、「文武の道未だ地に墜ちずして人に在り。賢者は其の大なる者を識(しる)し、不賢者は其の小なる者を識す。文武の道あらざる莫し。夫子焉にか学ばざらん。而して亦た何の常の師か之れあらん」。


衛の(大夫である)公孫朝(こうそんちょう)が子貢にたずねた。
「仲尼(ちゅうじ:孔子の字〔あざな…通称〕)は、誰に学んだのかね」。
子貢が答えた。
「(周の)文王・武王の(礼楽の)道は、(衰えたりといえども)まだ地に墜ちて滅んだわけではなく、心ある人の中には生きております。(それは、礼楽として連綿と継承されておるのです。ですから、)賢人はその(礼楽の)道の重要(本質的)なところを学び取り継承しますが、普通の人は、細々としたところ(枝葉末節)しか学び取ることができません。(繰り返しますが、周の)文王・武王の(礼楽)の道は滅んだわけではありません(。心ある人の中には生きております)ので、孔先生ほどの人物になりますと、どこにいても、(文王・武王の礼楽の道)を学ぶことができるのです。したがって、特定の師というものは(孔先生の場合には、)必要がなかったのです」。


この章に出てくる重要な言葉(概念):

衛の公孫朝、仲尼

衛の公孫朝:公孫朝という人は『左伝』に四人あらわれる。それほど多い名であったから、衛の公孫朝と呼んだのである。しかし、その伝記はあきらかでない。姓名から衛の君主の一族と推定されるだけである。
仲尼:孔丘。字は仲尼。仲尼というのは、他人が孔子を呼ぶときの名で、夫子・子というのは、弟子たちの師にたいする尊称である。
(以上、貝塚茂樹著「論語」から)


この章の解説:

紀元前一一〇〇年ごろ、中国には殷という国があり、そのことは甲骨(こうこつ)文字として記録されています。殷の時代は神があらゆるものの最上位に位置しており、人間はすべてを神に委ねていました。殷の首都の「商」には宗廟が建立され、そこに神を祀り、神官が神の意志を受けて国を統治していたのです。そして、その神官が殷の王だったのです。いわば殷王朝の王は神の意志を受けた天子として地上の世界を統治していたのです。やがて、殷の王は神の僕(しもべ)から離れて世俗的な独裁者と化しました。その象徴が殷王朝最後の王となった紂(ちゅう)王なのです。紂王は、絶対的な権力と財力を手に毒婦といわれる妲己(だっき)とともに栄華を貪っていましたが、その悪徳非道な政治は、殷の西の国「周」によって滅ぼされます。殷を滅ぼした周の君主が武王であり、武王の父が文王なのです。殷滅亡の原因は、殷王朝の王が神の意思を受けた天子としての統治から、世俗的な独裁者として政治を行うようになり、人心が離れたことにあり、その象徴が毒婦に溺れた紂王です。その独裁者としての政治は、神の意志を受けた天子として為されたものでありますから、本当の意味で、殷滅亡の原因は「神権政治」という政治のスタイルにあったともいえます。「神権政治」とは人間の存在を考えない政治のスタイルであり、たとえば捕虜を奴隷として酷使することなど、すべて神の意志として為されたのです。そのような政治のスタイルが人心が離れていった根本にあり、殷王朝は滅びるべくして滅びたといってもいいでしょう。殷の滅亡により、「神権政治」の時代が終わり、神から距離をおいた政治がはじまりました。それを担ったのが殷を滅ぼした周であり、当時の君主である武王とその父文王であったのです。その政治は絶対的に神を仰いだ神権政治に比べて、人間の存在を大切にした政治であり、礼楽とは、神と人間をつなぐ、政治の仕組みといえるものだったのです。
孔子は、その(周の)文王・武王の(礼楽の)道をさらに進化させた、(周の)成王(武王の子)の叔父(武王の弟)である周公旦の礼楽制度をさらに発展させようとしていたのです。子貢はそのことを知り抜いていたので、公孫朝(こうそんちょう)の「仲尼(ちゅうじ)は焉(いずく)にか学べる」という問いに対して、「文武の道未だ地に墜ちずして人に在り。賢者は其の大なる者を識(しる)し、不賢者は其の小なる者を識す。文武の道あらざる莫(な)し。夫子焉(いずく)にか学ばざらん。而して亦た何の常の師か之れあらん」と答えたのです。さすが子貢、といったところでしょうか。

陳舜臣著「論語抄」には、次のように書いてあります。

子貢は大富豪であり、人柄もよく、みなから慕われていました。彼は衛の人で、姓は端木(たんぼく)、名は賜、字が子貢です。孔子の一番弟子は、その早死にが惜しまれた顔回でした。子貢は顔回にたいして、けっしてライバル意識をもっていません。孔子から顔回のことをきかれて、
‥‥‥回は一を聞いて十を知りますが、私は一を聞いてせいぜい二を知るていどです。
と、答えています。
そのころ世間では、子貢は孔子よりもえらいのだ、という噂が立っていました。たしかに、商才にすぐれているといった面からみると、子貢のほうが上であるかもしれません。孔子は弟子たちを連れて母国の魯をはなれ、諸国を流浪しましたが、その費用は子貢が負担したにちがいないのです。いつのまにか、子貢のほうが孔子よりすぐれているという話が巷間(こうかん)に流れるようになりました。「そんなことはありません」と、子貢はけんめいにうち消します。とくにこの子張第十九にはそんな文章がならんでいるのです。
ここでいう「文武の道」とは、ふつう「文武ともにすぐれている」の用例にみられるのとはちがいます。周の文王と武王の道、すなわち聖人の道ということです。
衛の大臣の公孫朝が、子貢にたずねました。「仲尼(孔子)はどなたについて学んだのですか?」。子貢は答えました。「聖人すなわち文王、武王の道は地上から消え失せたのではなく、民間に伝わっています。賢者はその重要なものを理解し、あまり賢くない人はその小さなものを記憶しているのです。そうしたちがいはあっても、どこにも聖人の道でないものはありません。夫子(孔子)がどこでも学ばれなかったところはないのです。そしてまた、きまった先生とていませんでした」。
一般の人は孔子のことを仲尼と呼びます。本名は丘です。孔子の母親が尼丘山という山に登って祈り、子を授かったので、本名(諱:いみな)を丘とし、字を仲尼としたと伝えられています。むかしの中国人は、諱は親とか目上の人が呼ぶもので、一般には字で呼ばれました。だから孔子は「尼」と呼ばれ、その上に兄弟の順序を表わす、伯・仲・叔・李をつけます。仲は正確には二番目ですが、これもおよそです。李は一ばん末っ子ですが、李とつけたのにつぎの子が生まれると困ります。だから固定したものではありません。
余談ですが、親の名の一字を子に伝えることは中国ではタブーです。日本ではよくあります。たとえば詩人の西脇順三郎の長男は順一ですが、こんなことは中国ではありえません。子供が生まれると、六代前までの先祖の名を調べて、それを「忌避の字」として、それ以外の字で命名するのです。子供ですから大人や仲間たちは呼びすてにするでしょう。それが父や祖父の名であっては具合がわるいのです。

吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてあります。

公孫朝は、古注の馬融(ばゆう)に、「衛の大夫」。そのころ同名の人物があちこちにいたので、「衛」の字を加えて区別した…。事蹟は不明であるが、「公孫」といえば、衛の公室の同族であったにちがいない。その人物が子貢にたずねた。
仲尼、すなわち孔子の字であるが、あなたの先生は、どこで、だれについて勉強されたのですか。
子貢はこたえた。文明の創始者である周の文王、武王の方法は、まだこの地上に墜落し消え失せてしまってはいません。脈脈として人間の間に存在しています。すぐれた人間は、その重大な部分を知り、すぐれない人間も、その小さなものを知っています。どこへ行っても、文王、武王の方法が、存在しないということはないのです。すると先生は、どこでも勉強をされなかったというところはない。「常師」、一定の先生が、どうしたかたちで存在したでしょうか。すべての場所が、先生の勉強の場所であり、すべての人が、先生の師であった。
人類のある限り、文明の伝統は不滅である。そうした確信が、子貢の言葉の前提としてあること、いうまでもない。子罕第九(第五章、引用者注)で、孔子が、「天の未だ斯の文を喪さざるや」云云という信念は、弟子にも強く継承されていた。

佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳しています。

弟子の子貢が衛の国の家老の公孫朝殿に、「あなたの先生は誰に学問を学んだのですか」と問われたので、こう答えてくれたそうだ。
「周の文王様や武王様の築かれた文化や学問は朽ち果ててしまったわけでなく、今日まで伝承されております。奥義は賢者に伝わっておりますし、並の者でも一般的な慣習を知っております。両王様の文化はいたる所にあるのです。ですから、先生は誰にでも学ばれましたし、特定の先生につくことはありませんでした」と。


二十三.「子張第十九、第二十三章」

叔孫武叔語大夫於朝曰、子貢賢於仲尼。子服景伯以告子貢。子貢曰、譬之宮牆、賜之牆也及肩。窺見室家之好。夫子之牆数仞。不得其門而入、不見宗廟之美百官之富。得其門者或寡矣。夫子之云、不亦宜乎。

叔孫武叔(しゅくそんぶしゅく)、大夫に朝に告げて曰く、「子貢は仲尼に賢(まさ)れり」。子服景伯以て子貢に告ぐ。子貢曰く、「之を宮牆(きゅうしょう)に譬うれば、賜の牆(しょう)は肩に及ぶ。室家(しつか)の好(こう)を窺い見る。夫子の牆は数仞(すうじん)なり。其の門を得て入(い)らざれば、宗廟の美(び)百官(ひゃくかん)の富を見ず。その門を得る者或いは寡(すく)なし。夫子の云う、亦た宜(むべ)ならずや」。


(魯の大夫の)叔孫武叔が朝廷で同僚の大夫に向かって(仲尼〔ちゅうじ:孔子〕のことを非難して)、次のように言った。
「(人は仲尼を聖人だとか君子だとか言っておるが、その弟子である)子貢の方が仲尼よりも賢(まさ)っておる」。
(これを聞いた大夫の一人であり、孔子のことを尊敬している)子服景伯が、(この讒言を不服に